August 26, 2019

引越・転学

先日、英語ではご報告していたのですが、来月よりプリンストンに引っ越す予定です。あくまで「予定」なのは、あと1週間で9月になるのに、まだ正式なレターが届いていないからなのですが(汗)、先週に転学先の学部の大学院ディレクター(DGS)から、大学院から入学許可が届いたという連絡をもらったので、数日以内にレターはくると思います。

移籍の経緯は前回の記事で簡単に書いたのでそちらをご参照ください。この記事では、今回の移動が、日本の方からみると、ともすると「当然」のように思われているかもしれないと思い、もうそうだとすれば私の動機を正確に反映したものではないため、日本語で書くことにします。

事実としては指導教員の移籍に伴う転学となります。アメリカの大学では教員がよく異動するのですが、その際に指導学生も一緒に採用することがよくあります。基本的には指導関係が確定している3-4年生の移動が多いと聞きますが、私は今の指導教員と研究がしたくてウィスコンシンに来たので、そういった事情も考慮されたのかもしれません。転学先の大学では、2年生として編入することになります(ただ、プリンストンでは教員の移籍に伴う学生の転学を原則として認めていないため、今回の移動は例外的だと聞いています。何が起こったのかはわかりません)。

社会学・人口学が専門ではない方や、あるいは社会学の中でもアメリカの事情に必ずしも詳しくない方からすれば、今回の転学は「ステップアップ」に見えるかもしれません。確かに、ファンディングはプリンストンの方が圧倒的によく、5年目までのTA/RAとは結びつかない形でフェローシップが確約されており、スタイペンドの額もマディソンよりも高いです。学内の研究助成も充実しているでしょう。NYとフィリーから同じ距離にある立地の良さもあり、東海岸の研究者とネットワークを築きやすいでしょう。何より、「プリンストン」という名前のせいで、今回の移動が悩む余地のない、当たり前の選択に見えるかもしれません。

今回の転学に「おめでとう」といってくださる方には感謝したいのですが、その一方で、一つだけ声を大にして明確にしておきたいことがあります。今回の移動は、オファーが来た時点で即断できるものではありませんでした。なぜかというと、プリンストンと同じくらい、あるいはある面ではそれ以上に、ウィスコンシン大学マディソン校の研究環境は優れていて、私はその環境に満足していたからです。社会学では様々な事情で伝統的に州立大学の評価が高く、ウィスコンシンもその例にもれませんでした。10年ちょっと前は全米一の評価を受けていたくらいです。特に、ウィスコンシン大学マディソン校の強さは、社会階層論と人口学の教授陣の充実に挙げられると思います。私も、特に後者を学びたくて、ウィスコンシンの門を叩きました。

したがって、残るにしても、移るにしても、選択は間違っていなかったと思っています。今回、移動することにしたのは、指導教員の移籍も大きな理由としてはありますが、それ以上に、私がアメリカに来て学びたかった社会階層研究における人口学的なアプローチ「以外」の部分を考慮しました。それは例えば、アメリカで共にトップスクールに位置付けられる二つの研究機関に早い時期から身を置くことで、両者の教育や研究環境を比較し今後のキャリアに生かしたい、中西部と東海岸二つの大学に在籍することでより広いネットワークを築きたい、東海岸に多く在籍しているアメリカの日本・東アジア研究者との連携を深めたい、などです。すでに今の環境でも満足だったのですが今回はこれら「プラスワン」を重視しました。マディソンに残るメリットも多くある中で、以上の点を考慮して移動を決めたという点だけ、強調させていただきたいです。

9月からはまた新しい人生のスタートです。これまで以上に研究に邁進したいと思います。

August 24, 2019

Moving

From this fall, I will be moving to Princeton University. My initial plan was to work remotely with my advisor, who is joining the Department of Sociology at Princeton from this fall, while completing a PhD at UW-Madison. It turns out, however, that the other option was approved by the graduate school recently. Although this was a tough choice, I have decided to continue closely working with him while pursuing a PhD in Sociology at Princeton.

This decision was not easy, because I have met with wonderful friends, colleagues, and mentors in Madison. Cohort friends were always supportive and it was fortunate that our diverse backgrounds provided me with ways to improve our understanding of social issues from a different perspective. Although still incomplete, I am aiming to incorporate their broader perspectives into population approach and demographic methods, which I studied intensively in my first year.

In particular, I really appreciate that graduate students affiliated with CDE often provided critical comments on the presentations at Demsem and the two graduate seminars in population and society. I believe that this intellectual experience shapes my research questions over the academic career.

Also, I would like to thank departmental and student organizations - SGSA (and its sub-committees), Solidarity, TAA, BGPSA - for their continuous efforts to make our community better and more inclusive. There is no doubt that students' active involvement with these institutional forces is the tradition of the UW-Madison Sociology and I am proud of being a part of them last year.

Although sad to leave Madison and miss friends there, I'm pretty sure I'll be back several times every year (except for the winter). At the same time, I'm excited for this opportunity and happy to meet with my new and old colleagues in the East Coast.

August 9, 2019

自分の学歴同類婚研究の途中経過のざっくりとしたまとめ

投稿したのはもうだいぶ前になるのですが、公募特集の機会をいただき、『社会学評論』に論文が掲載されました。

打越文弥,2019.「夫婦の離婚からみる学歴結合の帰結:NFRJ-S01・SSM2015を用いたイベントヒストリー分析」『社会学評論』70(1) 10-26.

学歴同類婚や人口学に関心のある方はぜひご笑覧(この言葉を見るたび笑うのですが)ください。ただJ-stageに公開されるのはだいぶ先なので、読みたくても簡単には読めないんですけどね、笑うしかないですね。そもそも今回の雑誌は日本の実家に届いているので私も読めません(笑)

さて、これまで出版されてる論文で5本ほど学歴同類婚を検討してきたのですが、査読で最低限質保障がされていると考え、データや手法の違いを棚に上げて少し大げさにいうと、

・同類婚のオッズは減少(Fujihara and Uchikoshi 2019, 他の研究でも指摘されており、かなり頑健)
・未婚化も進んでいるが、両者は共変関係で因果ではない(打越 2018a
・妻下降婚の夫婦は離婚しやすさは最近は確認されない(打越 2019)

これらから学歴で結婚をみる意義が減っていることが示唆される一方
・高学歴カップルの収入は高い傾向(ただし妻がフルタイムの場合)(打越 2018b
・親が同類婚していると子どもも同類婚しやすい(打越 2016

ということで、階層的な格差に注目すると、まだ学歴でみたカップルの組み合わせという視点は有力な気がしています。

同類婚のパターンやその後の離婚といった家族人口学的な変数と絡めると、そもそも結婚や離婚の意味合いが変わってきていることもあり、解釈しにくい部分もあります。

学歴同類婚がその後の格差に与える影響・プロセスについてはまだわかっていないことも多いので、引き続き研究していく予定です。

同類婚が格差に与える影響(実際はそこまで単純に語れるものではないのですが、研究群としては存在します)というのは、なかなか介入しにくいので、その点について自分で考えることはたまにあります。つまり、もし高学歴同類婚カップルが他のカップルに比べて子どもに教育投資をする傾向があったとすれば(実際にあるのですが)、子どもの教育機会に格差が生じることになるので、こういった機会の格差は縮小した方がいいと考える人が多いと思います。しかし、夫婦の結婚や出生といった事象は建前としては個人の自由選択のもとに生じているので、介入しにくいわけです。介入できないものから生じる格差をなぜ研究するのかと聞かれると、少し困ることがあります。確かにその指摘は一理あり、介入できないものを検討したところで、その知見はどれだけ格差の縮小に生かされるのか、というものです。

私は最近少し開き直って、介入できないから研究する意義があると考えるようにしています。そこまで単純に考える人はいないと思うのですが、介入できるものに全て介入すれば(例えばひとり親の子どもの教育的な不利が確認されるとして、ひとり親家庭に対してそういった不利を縮小させるようなプログラムを実施するとか)格差は縮小しそうですが、格差が全て消えて無くなるということはないのかなと考えています。個人は自分の意思で(それもどうか怪しい部分はありますが)配偶者を選び、何人子どもを産むかを考えて、子どもにどれだけの学歴をつけてほしいかを考えて(時には考えずに)教育投資をしたりするので、やはりそういう部分の格差は動かしにくい気がします。私の関心の一つを言語化すると、介入できないものが介入できるものに比べてどれだけ重要なのかを数量化して議論すること、といえるかもしれません。もちろん、間接的な介入(出生で言えば、女性の就業継続を支援することで、出生率をあげる一連のpronatalist policy)もあるとおもうので、その可能性を考えることも必要かもしれません。

August 5, 2019

学歴からみる「死の格差」

社会学における社会階層論では、ある人口において社会経済的地位(socio-economic status, SES)によって資源へのアクセスが不均等に分配されていると考え、この規定要因や帰結について問います。SESの代表的な指標には学歴や職業などがあり、これ以外にも人種やジェンダーによる格差も研究対象とします。非常にざっくりとした説明になりますが、人口学的な関心に立つと、ある人口(population)レベルで見たときに、関心のある変数の分布や、下位集団による違い、その時間的な変遷に注目します。社会階層論ではSES同士の関連や、集団間の違いなどに関心があるため、社会階層論的な人口学(あるいは人口学的な社会階層論)では、ある集団をSESなどでサブグループに分けたときに、注目するアウトカムにどれだけ差があり、それがどのように規定されているのかに関心があると言えるでしょう。強調すべきは個人のアウトカム自体に関心があるのではなく、あくまで人口単位で見たときのアウトカムの分布に関心がある点ですが、これは本題からそれるので省略します。population perspectiveは、具体的にはどのような政策を取っていくかと考えるときには、非常に重要な視点です。

さて、簡単に言ってしまえば格差の帰結を問う社会階層論ですが、人生の終着地点である死にも社会階層による寿命や死亡年齢の分散(後述)といった格差があります。死は、これまでSESの違いによって蓄積してきた格差が最も如実に出ると言ってよいでしょう。アメリカにおける社会階層的な視点に立った死亡研究の嚆矢はエヴェリン・キタガワとフィリップ・ハウザーによるDifferential Mortality in the United Statesです。これ以降、社会階層と死亡の関連が、アメリカでは社会学、人口学、疫学、経済学など様々な分野の研究者によって進められています(注1)。

私は死亡研究の素人ですが、プレリムの一環で死亡研究の論文をこれでもか、これでもかと読む中で、2015年に一つのブレークスルーがあったと理解するに足りました。ノーベル経済学賞を受賞したAngus Deaton氏がAnne Case氏との共著で書いたRising morbidity and mortality in midlife among white non-Hispanic Americans in the 21st centuryでは、アメリカにおける非大卒・非ヒスパニック系白人の中年層の死亡率が上昇していることを指摘しています。

この論文は一言で言うと「バズ」りました。その後に出てきた死亡格差研究のほぼ全てがこの論文を引用しているといっても大げさではないでしょう。何がこの論文をそこまで引用させているかと言うと、「一部のアメリカ人の死亡率が上昇している」という非常にショッキングな事実です。

アメリカの平均余命(時点ごとにみた1人の人間が一生に生きる期待年数)は他の高所得国に比べると低いですが、それでも上昇し続けてきました。例えば、1900年時点の平均余命は全人口で47.3歳でしたが、1980年では73.7、2000年で76.8、2015年で78.8歳となっています。平均余命の伸びは20世紀前半は急激でしたが、後半になると緩やかになります。これは、死亡の構成要因が変化したことが背景にあります。平均余命は乳児や幼い子どもの死亡率が減少すると一気に伸びる特徴を持っているのですが、20世紀前半で減少した死因は子どもが感染しやすい感染症でした。これに対して、20世紀後半の死因の多くは慢性疾患(chronic disease)、つまり脳卒中やガンといった、発症までに生活習慣が関わる病気になり、これらは人生の後半において生じる病気のため、これらの死因が改善したとしても余命の伸びは緩やかになります。

このように、先行研究の多くは平均余命に注目して社会階層の格差を検討してきたのですが、Case and Deaton(2015)の一つのイノベーションは、年齢別死亡率に注目する、というものでした。平均余命自体は年齢別の死亡率から算出されるので、どの研究も必ず計算するわけですが、先行研究では死因別・年齢別の死亡率を、下位集団に着目してみるアプローチは取られていなかったのだろうと思います。具体的にどの死因が増加しているかと言うと、ドラッグやアルコール中国、あるいは自殺、アルコール摂取に起因する肝臓の病といったもので、Case and Deatonでは絶望死(death of despair)と名付けています。特に、アメリカではオピオイド(アヘン)の医療目的での使用が2000年代から広がり、この過剰摂取による中毒死が激増しています。この「絶望死」による死亡率の上昇は中年の非ヒスパニック系白人、特に非大卒層に特徴的にみられています。年齢別死亡率が上昇しても、それ以外の年齢の死亡率が減少すれば平均余命は伸びるわけですが。2016年にアメリカでは統計を取り始めてから「初めて」平均余命が減少したことが、大きなニュースになりました。アメリカでは人種による平均余命の格差が大きく、特に黒人層の平均余命は短いのですが、白人層の余命が縮んだ結果、両者の格差が減少するという事態になっています。高所得国において余命が縮小するという現象は異常です。

なぜ非ヒスパニック系白人、特に非大卒層における死亡率が上昇しているのか。多くの研究がその要因を検討しているのが現段階です。Case and Deatonは経済格差の拡大を指摘しています。精神的なストレスの増大に原因を求める研究もあります(Goldman et al. 2018)が、Crimmins and Zhang(2019)のレビュー論文によれば、まだこの研究は発展途上ということです。

こうした文脈の中で、人口学のトップジャーナルであるDemographyにSassonという人口学者がある論文を掲載しました(Sasson 2016)。この論文では、性別、学歴別、人種別の平均余命の変化を検討しているのですが、以上3つの指標でわけた16の集団でみると、ほぼ全てのグループで平均余命は1990年から2010年の間に拡大しているのですが、ある2つの集団だけが平均余命が減少していました。それは、Case and Deatonの論文とも似ていますが、非ヒスパニック系白人で教育年数12年以下(高校中退)の男性と女性です。特に、女性においては25歳まで生きた場合の平均余命が20年の間に3年ほど縮小しているという、衝撃的な結果です。

この論文もCase and Deatonほどではないにしても「バズ」っているのですが、批判が集まっています。2017年に人口学の若手スターであるHendiがこの論文における1つの決定的な弱点と、1つの方法的な課題を指摘しました(Hendi 2017)。

前者については、この論文はDual Data-Source Biasを抱えているというものです(なんかかっこいい名前)。このバイアスは何かというと、分子と分母の間で異なる二つのデータを使用することによって生じるバイアスのことを指します。アメリカではvital statisticsで学歴を聞いているため、Sassonの論文では分子(死亡)にはvital statsを使い、分母(曝露人口)にセンサスデータを使っているのですが、Hendiの批判は二つの調査では学歴の定義にズレがあるというものでした。センサスでは、self-reportで学歴が聞かれるのですが、vital statisticsの死亡統計では、死人が自分の学歴を答えることはできないので(死人に口無し)、知人や家族といった自分ではない誰かが死んだ人の学歴を記入します。Hendiによると、両者の間で学歴のミスマッチが生じ、これが小さくない値(学歴によって異なりますが、およそ20-40%で、さらに時点によってもミスマッチ率が異なる)であることが指摘されています。そのため、学歴別の死亡率が一体何を示しているのかわからないのです。本人が間違った学歴を答えているかもしれないし(例えば高校を卒業していないのに卒業していると答えるとか)、周りの知人が本人の学歴について誤解している可能性もあります。バイアス自体が悪いわけではなく、ここではあくまで学歴間の差に関心があるため分母と分子で聞き方が統一されていればいいのですが、その聞き方が異なるデータを使ってしまうと、出てきた値が信頼できるものではなくなってしまうと、Hendiは指摘するわけです。学歴は性別や人種に比べるとこうしたミスレポートが生じやすいため、学歴格差を前面に押し出したSassonの論文は批判されてしまいました。

これに対して、Hendiは死亡がリンクしているサーベイデータ(the National Health Interview Survey, NHIS)を使って(そのため分子と分母の学歴の定義が一緒)Sassonの分析のreplication(25歳時点の平均余命の学歴、人種、性別差)を試みているのですが、結論としてはSassonは余命の学歴差の拡大を過剰に見積もっていて、結果的に人種間の格差が縮小しているという点も、誤っていると指摘しました。

これに対して、Sassonも後日リプライを用意します(Sasson 2017)。このリプライでは、Hendiの使っているデータの方が信用できないという、これもまたエグい批判をしています。Sassonの批判はNHISは二つのエラーを抱えているというものです。

一つがsystematic errorです。NHISはnon-institutionalized citizensを対象としています。日本でいうと、施設に入っていない市民ということになりますが、具体的にはケア施設や、収監されていない人が対象になっています。そのため、人口全体に比べると相対的に「健康」な人しか含まれていないので、余命が高めに算出されます。これでも学歴差は求まるといえば求まるわけですが、どういう人が収監されやすいかと考えると、学歴にランダムに収監は生じないので、やはりバイアスはあるわけです。収監されていない低学歴層は、収監されている人も含めた低学歴層に比べると特に「健康」であると考えられるので、学歴差が過少に見積もられるということでしょう。

もう一つが、ランダムエラーです。要するに、NHISはサンプルサイズがそこまで(といってもセンサスに比べると)大きくないため、信頼区間が大きく出てしまい、集団間の差が統計的に有意なものか判断できないとします。さらに、SassonはできるだけmisreportによるDual Data-Source Biasが生じないようにいくつかの学歴をマージしていると主張しています。

Sassonのリプライを持って一応論争は幕を閉じたのですが、これがつい2年前の出来事です。on-goingで日々新しい研究が出てきているので、この記事も数年後には古いものになるでしょう。

少し寄り道してしまいましたが、Hendiの二つ目の批判を述べていませんでした。個人的には、こちらの批判の方がより根本的で、社会階層研究の人も興味を持つのではないかと思います。その批判とは、学歴分布の変化に伴うselectivityの変化というものです。

平均余命は、periodレベルで求めます。これは合計特殊出生率の算出とも似ているのですが、例えば2010年の平均余命というのは、2010年の年齢別の人口を取ってきた上で(1年間の間にも人は死ぬので、2010年のちょうど真ん中の時点の人口、mid-year populationを取ってくるのが理想です)、年齢別の死亡率(age specific mortality rate)を算出します。例えば、2010年時点で40-44歳だった人が100人いるとして、このうち2人が死ぬと、死亡確率は2/100になります(死亡率rateと死亡確率probabilityは異なり、前者から後者に変換するのですが、両者の違いに興味がある人は形式人口学の世界に入ってください)。このように求めていくと、年齢別の死亡確率が求まるのですが、ここで、2010年時点の人口を、ある年に生まれたコーホートがこの確率に従うと考えるのを、synthetic cohortといいます。2010年に生きている人は、同じ年には生まれていないわけですが、仮に同じ年に生まれていたとしたら、と考えるわけです。その上で0歳の時の人口を仮想的に設定して(通常100,000)、この10万の人たちが最終的に全員死ぬまでの変遷を作るのが生命表(life table)という手法です。

生命表の話が長くなりましたが、この「平均余命はsynthetic cohortによって求まるperiod estimatesである」という点は重要です。特に学歴間の死亡格差という文脈では超重要になります。なぜなら、2010年時点で70歳の人の「高卒未満」と2010年時点で30歳の人における「高卒未満」の意味合いは、多くの社会では全く異なるからです。ここにHendiが強調するcompositional shiftによるselectivityの変化があります。

ちょっとおかしく聞こえるかもしれませんが、学校教育を終える頃に死ぬ人はあまりいません。大多数がもっと後に死にます。そのため、2010年時点の「高卒未満」の平均余命というのは、相対的にネガティブなセレクションがなかった高齢者と、現在のように強いネガティブ・セレクションが働いている若年・中年層によって構成されているのです。さらに、1990年における「高卒未満」の方が、全体としてこのネガティブ・セレクションは弱かったと言えるでしょう(前者の時点で死亡がよく起こるような年齢の人が20歳前後の時は、まだ高校修了率が高くなかった)。そのため、1990年における「高卒未満」と2010年における「高卒未満」の平均余命を比較して、高卒未満の余命が減少しているといっても、それは同じ集団を比べているのか?という問題が生じるのです。

こうした問題は学歴分布の下位20%といった相対的な学歴を考慮すれば生じないのですが、名目的な学歴分類に従って時点ごとの余命などを比較したりすると、もしその間に教育拡大を経験した集団が入ると、全体としてみれば余命は改善しているのに、セレクティビティのことなる年齢集団が混ざった学歴の余命が縮まっているように見えることがあります(Dowd and Hamoudi 2014)。これをLagged Selection Biasといいます。そのため、そもそもの問題として学歴間の余命の格差は拡大しているのか、していないのかは、こうしたbiasも含んだ上での推定になっているということです。

ちなみに、日本ではvital statisticsで学歴が尋ねられていないので、学歴別の死亡率や余命を出すことはできません。ただ、いくつかの仮定をおけば、学歴の死亡格差を見ることができます。例えば、今月の雑誌「統計」では、非国際移動・非学歴上昇・誤差なしを仮定して、国勢調査が10年おきに聞く学歴から、10年生存確率を出していました。これによると、2000年の男性70-74歳の10年後(2010年)生存確率は、高卒で75.6%、大卒以上で86.8%ということです。この年齢層で国際移動、学歴上昇は少ないと考えられるので、日本でも学歴による差があるのだろうと思われます。

教育社会学や社会階層の研究者は、教育拡大の帰結などを問うことが多いのですが、学歴からみる「死の格差」においても、分布の変化(教育拡大)は重要なインプリケーションを持っているのです。

注1:余談ですが、私は最近までエヴェリン・キタガワは日系アメリカ人だと思っていたのですが、これは誤りでした。彼女はポルトガル系アメリカ人なのですが、シカゴで日本生まれの宗教学者ジョセフ・キタガワ氏と結婚して名字を変えたようです。ちなみに、私は最近のニュースでジャニー・キタガワとエベリン・キタガワの関係性を疑ったことがあるのですが、夫のキタガワ氏の名字は喜多川ではなく北川でした。さらにちなむと、ハウザーは社会階層論の大家ロバート・ハウザー(ウィスコンシン大学名誉教授)の叔父です。

August 3, 2019

近況(2)憂い再び

大学院生の待遇について、先ほど憂てしまったが、最近の日韓対立の激化についても、憂ている。徴用工の問題自体は、様々な立場から意見があると思うので、私にはどうするべきなのか、一概に言うことはできない(そもそも専門的な知識にも乏しいと言わざる得ない)。ただ、この記事を含め色々とニュースをみながら、日韓政府とも本来望んでいなかった方向性に進んでいるような気がしてならない。熱いお湯に浸かって先に出た方が負けという賭け事をして、我慢比べでどちらものぼせてしまわないか、心配である。

この20年で日韓関係は最悪だと思うが、改善する気配も見られない。あるとすれば、どちらかの政権が変わることかもしれないが、それが起こるかもわからない。アメリカも(そして最近はイギリスも)日本や韓国に比べるとより多くの人がその社会の将来を憂いていると思うが、アメリカに関しては、来年の選挙が終わればこの憂いが解消されるのではないか、というか解消しなくてはいけないという意識は強い。民主党が勝つかもしれないし、再びトランプかもしれない。しかし日本は、政権が変わることはしばらくないだろうという予想が立つし、これは現政権を支持しようが支持しまいが、多くの人が感じていることだろう。

そんな中、ここ数日でまた一つ騒動があった。経過が早すぎで私も追いきれていないのだが、脅迫によって展覧会が中止に追い込まれてしまったのは、非常に残念だと思う。いくつかのタイミングの問題が重なったことも、今回の中止の背景にはあるのかもしれない。開催時点でこれだけ日韓の関係が悪化していることを、主催者関係者は予想できたのかは分からないが、結果としては最も緊迫感のある時に入ってきたニュースになってしまった。さらに中止の原因になった「ガソリン」という言葉は、数週間前にあった悲惨な事件の後に発すると形容しがたいリアリティを帯びてしまう。中止の判断を選択せざる得なかったことは、想像に難くない。さらに、開催場所の市長が右派的かつメディアに度々登場する人物だったことも、情報が想像以上に波及してしまったことの要因の一つかもしれない。また、主催者の政治的なスタンスと「表現の自由」という内容の一般性のミスマッチを指摘する声もあり、それには首肯した。ただ、「表現の自由」を訴える時に、政治的なバランスに配慮しなくてはいけない訳ではないとも思う。

こうした状況下で中止の判断に至ったのは理解できる。これに対して、脅迫からの抑圧事例としないよう、再開を望む声もあり、自治体や国が本来は率先して環境の整備に尽力すべきことだと思うが、(1)政治的な環境からいえばそうした可能性を期待することは難しい(2)再開しようとしても、今度は安全を憂う声が出てきて再開も批判されそうなので、現実的ではない気がする。(a)政治的なスタンスで支持できない内容だが、(b)表現の自由を守るために環境を整備する、という選択肢を突きつけられた時に、現政権というか自民党に所属する議員というか、彼らが(b)に賛同したとしても(a)が理由で整備を渋るとすれば、それは悲しいことだが、彼らは選挙に当選することが第一の利益なので、理解はできる。そうした政治家を非難すべきなのか、そうした政治家・政党を当選させてしまった人を非難すべきなのか、またはそのどちらかなのかは、わからない。

最後に残るのは後味の悪さで、民主主義を成り立たせるため価値の一つが揺らぎかねないという不安である。研究に従事する者としてできることは、政治学や社会学のバックグランドを持つ人が、表現の自由がどうして重要で、これが保証されないとどのような社会になるのか、何が表現の自由として許容されて、何がヘイトスピートして許容されないのか、これらの点について、パブリックにアウトリーチすることだろう(本来は、中等教育で学ぶべきことかもしれない)。私はこの分野は専門ではないが、研究者に求められている役割の一つだと思う。

近況(1)日本で大学院生をすることについて最近思ったこと

近況報告

この1ヶ月研究から離れ、ひたすら論文を読んでいたので、近況と言うほどの近況もないのだが、時間ができたのでこの数ヶ月考えていることを書いてみる(と思ったのですが、最初の内容でだいぶ書いてしまったので、他の内容についてはまた日を改めて)。

- 日本のこと

    日本で夏休みを1ヶ月くらい過ごして、こちらに戻ってきて同じくらいの期間を過ごしていて、やはりマディソンの方が日々の生活ストレスが圧倒的に小さい。実家にいるときはいいのだが、東京はやはり人混みが激しく、忙しそうにしているし、行き交う人々が不寛容になってしまうような構造がある気がする。不文律としてのルールがたくさんあり、それを守っていない人に対して、白い目が投げかけられる、誰もサポートしようとしない、抽象的に言うと、そういう感じだろうか。そのルールも合理的かというと、そうではないものも結構あり、小さいストレスが蓄積する感じが強く印象に残っている。

    日々のニュースを見ていると、日本にいることで生じる生きづらさみたいなのが、大きくなっているのかもしれないと、不安にかられることもある。例えば、文科省が新たに発表した「高等教育段階の教育費負担」は、大学院生が対象に含まれていないことに対して、当事者たる大学院生を中心に批判が集まっている。これに関しては、いくつかの観点から思うところがあり、結論としては、日本は大学院生が研究する場所として、ますます適切ではない場所になっていくような気がしている。

    この新制度に対する批判として、大きく取り上げられているのが、Q&Aにおいて、なぜ大学院生が対象となっていないかに関する、文科省側の答えである。

    大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)

(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/hutankeigen/1409388.htm)

    邪推になるが、おそらく財務省との交渉で大学院生分の予算を取ってこれなかったのだろうと思う。もちろん、実際のところは分からないのだが、この文章は建前としてもややお粗末な印象を拭えない。まず、20歳以上で就労している者とのバランス、という文章が理解に苦しむ。この文章が示唆している内容は、20歳以上になると通常は働いているのだから、大学院生には支援をしません、ということになる。後日、文科省はメディアからの質問に対して、他の高等教育課程(ないしそれに準ずる専門学校)がユニバーサル段階にあるのに比べ、大学院への進学はまだ1割にも満たされていないから、支援はしないと補足している。こちらの説明の方が説得力がある。大学や短大、高専といった教育段階は高卒と同じように全員が経験しうるものとなっており、もし家庭の経済的な理由で進学が断念された場合には格差の固定化につながるので、支援をするという訳だ。これに対して、大学院はまだ多くの人が進学するものではないので支援をしないという論理である。

 この背景には、義務教育以上の教育を原則として個人の投資の対象とみなす考えがあるだろう。この考えに従えば、高等教育は個人の投資の対象なので、原則として国が負担することに合理性はないが、国民の多くが進学する段階になると、その教育を享受できないことで機会の格差が結果の格差につながる可能性がある。そのために、一定の所得以下の世帯の学生に対して支援をする、という論理である。これに対して、大学院はまだ国民の多くが享受するほど普及している消費財ではなく、大学院生に対して支援をすると、進学していない(支援を受けられない)層との間で、公的負担の整合性がとれなくなってしまうので、対象外とする論理には、一定の説得力がある。

    もちろん、こういった教育を私的投資の対象とみる見方は、国が主導してきた大学院重点化とは、相容れない側面があることも事実だろう。当時国際的に見て規模の小さかった修士・博士学位取得者の需要が今後拡大することが見込まれたために、高度な専門知識を持った人材を供給していこうとしたのが、重点化政策の要点の一つだろう(本当にそうした需要の拡大があったのかは置いておく)。国主導の大学院拡大政策は、高等教育学歴が個人の投資の対象であるという考えだけでは正当化されない。高度な知識を持った人口が増えることで、イノベーションが促進され、国の競争力も維持されるという、教育の正の外部性を期待しなければ、このような政策は正当性がない(これも本当なのかはわからない)。重点化との整合性を取るならば、大学院生に対する支援を別途設けるべきだろう。それが卓越大学院やリーディング大学院制度なのかもしれないが、これは所得ベースの支援ではなく、メリットベースの支援になる。

    このように、大学院生を除外している今回の文科省の新制度は非難が集まる理由もわかるが、文科省が大学院卒を個人の教育投資の一つとしてみなしているのならば、公的負担との整合性の関連で、この除外は理解できる。一方で、大学院教育を公共財としてみなしてきたと言える一連の大学院重点化政策との非整合性を指摘することもできるだろう。ただし、今回の制度はあくまで所得ベースの支援なので、別途文科省が大学院教育改革の一環で、博士課程学生への支援を作ることはあるかもしれない(そこまでの交渉力があるかは別として)

    この文科省の説明もお粗末だったが、ツイッターなどで見かけた批判にも、首肯しかねるものがあった。まず、この政策では大学院生は除外されていた訳だが、もし既存の授業料免除制度に加えてこの制度が実施されるのであれば、大学の裁量で行ってきた制度で授業料が免除されてきた大学生が減るので、大学院生の授業料免除枠も拡大するのではないかと考えた。そのため、お粗末な説明は置いておくとしても、公的負担との兼ね合いを考えれば(支持できるかは置いておくとして)制度自体は理解できるものだった。しかし、そういった指摘を見つけることはできず、多くは文科省は大学院生を軽視しているとか、大学院生が研究しているという側面を無視しているとか(確かに重点化との整合性は微妙だが)、文科省の説明には書かれていないことで、結局この一連の騒動で私の印象に残ったのは、日本では大学院生の地位が低いという言説が再生産されていることだった。

 もちろん、この政策のしわ寄せで交付金が削減されたりしたら、結果的に大学院生への支援も少なくなる可能性もあるかもしれないが、それはわからない。将来に対して悲観的でいることは大切だが(そしてそれは恐らく正しいと思うが)、私が残念だったのは、文科省の件が取り上げられた時に、出てきた言説が大学院生の地位が低いというものばかりで、建設的な提案などはあまり見られなかったことだった。

    加えて、そもそも博士課程の学生が授業料を自分で払う仕組み自体がおかしいと指摘する声も見つけられなかった。私は修士課程は別として、博士の学生にはすでに専門的な知識やスキルがあるのだから、大学側が学生をTAとして雇用して、その分の費用は学部生の授業料を値上げすることで対応してもいいのではないかと考えているし、究極的には、大学側には博士課程の学生を採用する段階で、修業年限までの生活を保障することが必要だと思っている。しかし、そうした根本的な提案を見つけることはできなかった。

    つまるところ、文科省を批判する側も、提言ができずに既存の大学院生の地位の低さを憂うばかりでは、大学院に進学したいと考えている層に向けてネガティブなメッセージを伝えてしまう悪循環に陥っているのではないだろうか。今回の件を炎上というのであれば、この炎上によってわかったのは、日本では大学院生が研究することが難しくなっている(制度的にも、社会の言説的にも)ことだった。

    私は、安易に日本とアメリカの大学院教育を比較して、どうしろということは避けたいとは思っているのだが、やはり今回の件を見るにつけ、そこまで憂うのであれば、日本ではなくアメリカなどの大学院で博士号を取るのが、個人の戦略としては適っているのだろうと考えた。一般化することはできないが、私は東大で3年半所属した時に学んだ内容と、こちらの1年間のコースワークを比べると、後者の方が実りが大きかった(これに加え、先日済ませたプレリムで、こちらのコースワーク1年分以上の収穫があった)。日本の教育にも良さはあるが、効率性や包括性という意味では、アメリカの研究大学の博士プログラムの方が優れている。さらに、社会学というそこまで財政的に豊かではない分野でも、アメリカの研究大学に進学すれば、フェローシップ、TA/RAといった形で生活は5年間保証される場合が多い。もし今回の件も含めて、日本での大学院進学に不安を覚える人がいれば、アメリカの研究大学への留学を強く勧めたい。もちろん、そもそも一緒に研究したい人がいるところで研究することが望ましいわけなので、教育・研究環境や経済支援以外の理由で進学先を選ぶことも大切だ。しかし、そういった研究本位の理由で日本に残ることが、ますます難しくなっているのかなと、今回の一件を見て思った。

 最初の生きづらさの話に戻ると、社会を憂うことも大切なのだが、憂うばかりでどのようにすべきかを見失ってしまうと、その社会で生活するモチベーションも無くなってしまうのではないかと思う。失われた10年、20年、そしてそろそろ30年に差し掛かっているが、生まれた時点で成長がほとんど止まってしまったような社会でずっと生きていると、私自身、将来に対して積極的な展望を持てないこともある。別に中身なく将来は豊かになると思っていればいい、といっているわけではない。将来に対して悲観的でいることは大切だと思う。しかし、それと合わせて、どのような将来にすべきなのか、その考えを持っていないと、憂う社会が再生産されていくだけなのかもしれない。

プレリム

終わった。英語で言うと、I did it, I did it!という気分で、何を終えたかといえばプレリムである。アメリカの博士課程プログラムでは、いくつかの名前のバリエーションはあるが、進級するための試験が課されている。経済学や疫学は多くの人が同じ試験を受けるみたいだが、社会学ではサブ分野の多様性を反映して、試験科目も多い。例えば、ウィスコンシン大学マディソン校の社会学部には、26個の科目がある。博士候補になるためには、このうち2つの試験を受けて、パスしなくてはいけない(注1)。うち10科目がgroup 1で、残り16科目がgroup 2になっている。2つの科目のうち、最低一つはgroup 1から選ばなくてはいけない。このgroupの違いはやや恣意的だが(最近の「ホワイト国」みたいに)、前者の方が家族や組織、社会階層といった比較的「メジャー」な分野だと言われている。

私は人口学研究所にも所属していて、トレーニングの一環として人口学の試験を受けることが勧められるため、これに従った。実際のところ、この1年履修していた科目のほぼ全ては人口学関連だったので、この科目以外に選択する余地はなかった。

日本では、人口学というと社会学とは別の分野であり、研究者間のオーバーラップも少ない印象を受ける(一部の社会人口学者は社会学会にもコミットしている)。一方で、アメリカでは諸々の歴史的背景や、研究ファンディングの構造で、人口学と社会学の距離は非常に近い。そのため、社会学部の中で人口学を専攻する、という形で教育を受ける人は、実に多い。

さて、何を勉強したかであるが、一言で言えば大量だった。たくさんの論文を読まなければいけないことは知っていたが、想像以上だった。試験直前に作ったリーディングリストでは、343本の論文・および本の章が入っている(一部重複あり)。この数だけ聞けば、果たしてこいつは全部読んでいるのか?と疑問に思われる方もいるかもしれない。お答えとしては全部しっかり読んでいるわけではない。だいたいがスキムだ。大学院セミナーの演習で読んだ文献はかなり深くまで読み込んだものはあるが、全体の半分もないだろう。あくまで、343の論文全てを詳細に暗記することではなく、これらの文献を駆使して、研究トピックごとのレビューができることが重要なのである。

参考:Demography and Ecology Preliminary Exam Reading List

試験では、これらのリーディングをもとに、4つのエッセイを書くことになる。人口学のサブ分野の分類も流派があるかもしれないが、最もざっくりした「大分類」だと、死亡、出生、移動、方法の4つになる。これは、ある集団の人口の変化を求めたい時に(Δ=P(t1)-P(t2))、その要素が死亡、出生、移動の三つに起因するとみることもできるし、単に人口を構成する要素を抽象化するとこの三つになるから、と考えることもできる。これらの要素に関連する現象(出生であれば結婚)を含めると、試験は以下の四つのセクションからなり、各セクションに2つ問題が課され、うち1つを選択することになる。
  1. Mortality, Health, and Aging
  2. Fertility and Family Formation
  3. Migration and Population Distribution
  4. Demographic Methods
なぜこのように文献の数が多くなるのかと言うと、試験のためのリーディングリスト自体は指定されていないからだ。他のプログラムでは、事前にアドバイザーの先生にリストを提出して、そのリストから問題が作られる場合もあると聞いたが、ウィスコンシンではそういう形をとっていない。したがって、読んだ文献が全く活かされないこともあるし、後述のように、そもそもカバーしきれていない問題が出ることもある。とはいっても、過去の問題は公開されているし、先輩たちが作ってきたアウトラインやハンドブックも共有されているので、コアな部分では何を読めばいいのかは、おおよそ共有されている。それでも、プレリムの問題は出題者によって異なるので、例えばシニアの教員が引退して若手の教員が入ると、問題の傾向はかなり変わる。また、近年までプレリムは午前3時間、午後3時間の6時間の試験形式だったが(英語が母語ではない人は午前午後とも30分追加)、人口学では率先して3日間のテイクホーム形式に変わっている。そのため、問われる問題も暗記を前提にしたものよりも、ある論文から出発して、どういった議論が展開しているのか、といった大きなものになっている。

先学期の時点では、プレリムの準備にだいたい1ヶ月かければいいだろうと考えていた。短いと思われる方もいるかもしれないが、文献の一部は大学院セミナーでカバーしてきたので、間に合うだろうと考えていた節がある。7月初旬にアメリカに戻ってきて、そこからはずっとプレリムの勉強に費やした。文字通り、ずっとである。特に最後の数日間はメールもろくに返さず(まだ返していないものもある)、SNSのアカウントも停止して、試験に集中した。プレリムでしか経験できないことはいくつもあるが、そのうちの一つは「論文しか読まなくていい時間」に正当性が与えられることだろう。研究者は新しい研究をしなくてはいけないので、通常は論文を書きながら関連する論文を読み、その合間に関心に基づく別の研究をフォローすることが多い。そのため、アウトプットしながらインプットをしている。これに対してプレリムの期間は、インプットすることしか求められない。その代わり、自分の専門ではない分野についても、一定の知識が求められる。343の論文の多さは、ある分野を深くフォローするというよりも、人口学という大きな傘の下にある分野を網羅的に理解するために、それだけの数になっている。

そういう意味で、プレリムはかなり貴重な体験である。強制的に論文しか読めない時間を作られる。学部生の頃は、論文を読む時間は十分あったが、最低限必要な知識がなかったので非効率だったし、全体像を掴むこともできなかった。逆に、これからキャリアを積み重ねると、サバティカルの期間を除けば、ここまでインプットに集中できる時間はないと思う。時間もあり、レビューを始めるための最低限の知識も持っているという意味で、大学院生の時期はインプットの最適なのだろう。毎日、論文を読んで、同じ試験を受ける同期と勉強会で議論し、知らなかったことを新たに知るプロセスは知的刺激に満ちていた。

ここまで、大層なことを書いてきた。これだけ論文を読んだのだから、試験も簡単にパスできるだろうと思われる方もいるかもしれない。実際、私も似たような問題が出るのだろうと思っていた。悲しいかな、実際の試験で課された問題の中には、ほとんどカバーしていなかったものが含まれていた(試験のエッセイで引用した論文はこちら)。具体的には、女性の労働と出生に関する問題で、低出生に関するレビュー論文で確かに触れていたが、あくまで低出生の規定要因の一つくらいにしか考えていなかったので、アウトラインも作っていなかった。問題も独特で、マクロレベルで見たときには高所得国における女性の労働参加と出生率の関係は1980年代を境に負から正の関係に転じているのだが(図参照)、ミクロレベルで見ると必ずしもこの関係は支持されないことがある。確かに言われてみるとそうなのだが、このレベルによる結果の違いをそこまで問題視したことはなかった(注2)。試験問題では、この違いに対して先行研究はどのように応答してきたのか、あるいはそれらの研究の欠点は何かというもので、この問題に関しては、試験中に新しく論文を読んで、考える他なかった。一応それなりのエッセイは書けたが、完全に予想外の問題だったので、もっと時間をかけて論文を読みたかったのが正直なところである。

というわけで、上に挙げたようなハプニングもあったが、3日間の試験を終えた。火曜日の9時前に問題がメールで送られてきて、そこからきっかり72時間。同期の中には最終日に徹夜をした人もいたみたいで、これには驚いた。自分はもう徹夜ができる年齢ではないので、最終日も寝た。とはいっても、最後まで確認していたら3時になり、提出してから寝たが、まだテンションが高かったみたいでほとんど眠れず、朝の7時に起きてしまい、そこから少しいじって再提出した。それから昼の打ち上げに参加して帰宅。眠くて仕方なかったので3時間くらい寝てしまった。プレリムは得難い経験の連続だが、やはり試験自体はもう受けたい類のものではない。3日目は目処が立ったので少しだれたが、最初の2日目の集中力と強度はセンター試験を思い出した。

ともあれ、大きなイベントが終わったので、週末はゆっくりすることにする。これから本当の夏休み、と言いたいところだが、再来週に学会があるので、月曜日からまたオフィスに行く予定。今月は学会以外にも私用で他の街に行く予定なので、それが夏休み代わりになることを期待している。




注1:ちなみに、試験自体は落ちても受け直すことができる。他のプラグラムでは何回落ちてしまったら強制退学、という仕組みになっているところもあるみたいだが、少なくともうちは試験に落ちることと退学はリンクされていない。失敗できる回数については諸説あるが、同じ科目を2回続けて失敗すると違う科目を受けることを勧められるとか、3回までは失敗してもいいとか、学生の間でもよくわかっていないことの一つ。ただ、在学年限が決まっているので、無限に落ちることはできないのは確かだろう。


注2:回答を作る過程で、自分でもマクロレベルで見たときの女性の労働参加と出生率の関係の変化を示したグラフを作ろうと思い立ち(そんな必要はないのだが)、OECDやILOのウェブサイトからデータを探していたのだが、この過程で長年疑問だった「トルコ問題」が解決した。この問題は何かというと、OECDの中には(そもそもなぜOECDに限定するのか、という問題もあるが)トルコも含まれるのだが、これまで女性の労働参加と出生率の関係を検討してきた研究では、トルコは除外されていた。トルコは女性の労働参加率が低く出生が高いので、近年の労働参加が進んでいるほど出生率が高いという(その関係性の変化についてはジェンダー革命理論などが説明している)トレンドでは外れ値になる。実際、トルコを含めると関係性が正にならないことが多々あり、これは東大の赤川先生が「子どもが減って何が悪いか!」で鋭く指摘されたことでもある。私はなぜトルコがいつも除外されているのか、疑問に思っていたのだが、OECDのデータを見ていると、1970年代のトルコの女性の労働参加率のデータは存在していなかった。そのため、1970年代から2000年代における関係性の変化を示したいときには、トルコを含めることはできないのだった。もちろん、トルコの統計データベースなどに当たれば、生産年齢人口に占める女性の労働参加率は出せるのかもしれない。ただし、これまでの研究では、トルコは単にデータを得るのが面倒なので除外されてきたのか、外れ値だから除外されたのかはわからない。ちなみに、私はこうした1時点の複数の国を並べて趨勢的なことをいう(人口学の理論にありがちな)考えには否定的なのだが、一方で「大きな物語」をつくるためには、国レベルのデータを使わざる得ないところもあり、難しい。自分ではこうした理論は作りたいとは思わないが、ジェンダー革命理論なども含めて、こうした理論をもっと経験的に頑健な方法で確かめていきたいとは考えている。人口学を学び始めた当初は、人口学には理論がないような気がしていたのだが、実際には理論だらけである。また、そうした理論の多くはPopulation Councilが発行しているPopulation and Development Reviewで展開している。プレリムの勉強を始めるまでPDRの論文は最低限しか読んでこなかったが、実際にはこの雑誌が人口学の理論的な潮流を作っている唯一の雑誌であるといってもよいので、人口学に関心のある方はフォローしてみることをお勧めする。