February 26, 2019

松尾文夫(1933 - 2019)

すでに報道されていますが、ジャーナリストの松尾文夫さんが、滞在先のニューヨーク州のホテルでお亡くなりになられました。

松尾先生には、上京して右も左もわからない大学1年の頃からお世話になりました。私にとっては、松尾先生は人生の大先輩であり、東京における祖父のような存在であり、また一番身近な戦争体験者でした。共同通信記者時代の松尾先生を突き動かしたのは日本が戦争に負けたアメリカを理解したいという思いであり、ジャーナリストに復帰されてからの先生の心の中に一貫してあったのは、日米を中心とした平和外交の追求だったと思います。

先生のアシスタントとしての仕事は数年前に終わりましたが、それ以降も時折食事に誘っていただいて、80歳を超えてもなお精力的にご活躍されている姿には感銘を覚えました。昨年末に帰国した時に近況をご報告できたのが、最後の思い出です。

本当にお世話になりました。これから先生のご遺志を少しでも継いでいきたいと思います。ご冥福をお祈りします。

February 25, 2019

2月25日

最近は課題に追われてとにかく忙しい。毎週のリーディング(大学院セミナー2つ)と統計と人口学のpsetに加えて、今週は月曜に人口学セミナーのファシリテーター、水曜に人口学セミナーのレスポンスシートの締め切り、木曜から金曜にかけて学会報告の締め切り。この週末はスライドの準備に追われていた。人口学セミナーでは、スライドなしでファシリテートをすることもできるが、いつもコメントしてくれる先生がゲストの先生の授業を持つことになったのでいないこともあって、あまりリスキーな選択は取りたくなかった。ゲストの先生はよく知っている人だけど、セミナーで一緒になるのは初めてだったので、不確定要素が大きかったというところ。

リーディングでは先週と打って変わって、家族社会学、人口学の古典ということで、Goode, Becker, OppenheiemrそしてRugglesのPAA会長講演を読んだ。ゲストの先生(クリスティン)の話も聞きながら、思ったことをいくつか。

私の博論では、日米比較をしたいと考えていたのだが、人口学のセミナーに出ていると、アメリカの中でもsubpopulationの人口学的行動は多様なので、一括りに「アメリカ」特来ることが難しいと感じる。昔よりも難しくなっているような気がするのは以下の二つの理由からである。一つは、例えば家族形成をとってみれば実際に事態はより複雑化している。もう一つは、昔はアメリカを一つで括ることを許容していた規範のようなものが崩れている。例えば、今日の議論ではアメリカにおける核家族規範はracializedされたものであるという話があり、要するに都市部にいる白人の家庭が一種の理想になっていた。この命題自体は理解できるが、こうした考えが研究者レベルでも大まかにいえば信じられていた時代は、例えば核家族のパターンについて日米で比較することは少なくとも容易だったのではないだろうか。研究者自体も規範から逃れられないことは事実だが、そうした規範が相対化されている時代においては、アメリカを一つで語ることは難しくなっている。

これとは全く関係ないが、もう一つ頭に残ったのは、クリスティンが意外とGoodeの命題の影響力を重視していた点だった。Goodeは単純に産業化社会において核家族が適合的だとする機能主義的な命題を出して、世界が夫婦制家族のもとに収斂するみたいな単純なこといっておらず(そう読めるところもあるが)、イデオロギーの存在がなければここまで核家族は広まらなかっただろうと主張している。この部分をもってきて、クリスティンはGoodeの理論は後のSDTの枠組みにも影響を与えたと考えていて、なるほどなと思った。彼女の論文は非常に人口学的なのだが、発想というか、やはり理論的なトレーニングは社会学なのだなと思った。この、手法的には人口学しか用いないが、理論的なバックには社会学があるという社会学者とも人口学者ともいえない独特な研究者がかなりの数いることは、アメリカの社会学における非常にユニークな点だと考えている。

2週間後に春休みなので、それを目指して頑張る。早く家族に会いたい。

February 24, 2019

2月23日

月曜日の人口学セミナーの準備をしなくてはいけない。今回は一学期に一度あるファシリテーターの回なのだが、現時点で二つ問題がある。

1. 先生がこない。

意味がわからないかもしれないが、本当に来ない。先学期に引き続きのセミナーで先生も同じ人だが、今学期は人口学研究所の研究テーマに合わせたリーディング選定になっていて、先生が必ずしも専門ではない分野もある。その場合、先生は社会学部から違う先生を引っ張ってきて、ゲスト講師をお願いしているのだが、今回呼ぶ先生は、同じ時間帯に統計の授業を教えているらしい。

その問題を解決するために、先生がとった方策が、代わりに統計の授業を教えるというもの(苦笑)。したがって、今回のセミナーはいつもの先生がいないことになる。意味がわからない。どうやって私のファシリテーションの採点をするのか。。。

2.コメントがこない。

このセミナーでは、毎回事前に学生が議論のための質問を2つほど投げることが課題になっている。締め切りは日曜なので、現時点で質問が出揃っていないのは全く問題ないのだが、普通だったら土曜日の時点で半分くらいの学生は質問を投げてくれる。

しかし、今回に限ってはまだ一人しか質問を投げていない。参加者は10人である。。質問が来ないと、ファシリテーションのためのスライドを作れない。明日根を詰めればいいのだが、根をつめる理由が自分ではコントロールできない要因なのが悲しいところである。

February 16, 2019

分岐する運命仮説の経済学的説明

Shelly Lundberg Robert A. Pollak Jenna Stearns. Family Inequality: Diverging Patterns in Marriage, Cohabitation, and Childbearing. JOURNAL OF ECONOMIC PERSPECTIVES.

人口学セミナーのリーディングの一つ。社会学や家族人口学では分岐する運命(Diverging destinies)と呼ばれる仮説が流行している。この仮説はすなわち、アメリカを中心とする西洋諸国において、かつて非典型的とされた同棲、非婚出生、離婚などが増加しており、これは低学歴層に集中しているため、階層差を伴う形で進行する家族形成の変化が世代間の不平等を増加させているのではないかというものである。この仮説は、主に社会学のバックグラウンドを持った人口学者によって提唱されてきたが、この論文の著者たちは、分岐する運命仮説を経済学的に説明しようとしている。

要約
1950年では、家族形成に学歴差はほぼなかった。男女とも多くの人が結婚していたし、その割合は低学歴層の方が多かった(高学歴層は結婚のタイミングが遅い)。しかし、2010年になるとこの学歴と結婚の関係が変わる。全体として結婚する人は減少している。これに加えて、今では高学歴層の人の方が結婚している傾向にある。結婚していない女性が子供を持つことは稀だったが、結婚率が減少する中で、非婚出生が増えている。かつてから婚外出生には学歴差があり、低学歴層の方がその傾向が強かったが、近年では学歴間の格差が拡大している。

結婚率の減少の中で懸念込みで語られてきたのが「結婚からの退避(retreat from marriage)」だった。これらの議論は非婚出生と離婚率の上昇に注目してきたが、重要な視点が抜けている。同棲の増加である(経済学では、同棲に対する軽視がより大きかったらしい)。今では「シングル」のアメリカ人の多くが、パートナーを持ち、子どもを持っている。実際、結婚からの退避は、おおよそ同棲の増加によって説明できると考えられている。なぜならば、若いカップルが最初に世帯を形成する年齢自体には大きな変化がないからだ。つまり、昔は結婚によって世帯を形成していたが、同棲がその一部を切り崩す形で増大した。

しかし、こうした家族形成の変化には社会経済的地位による分断がある。具体的には大卒・非大卒の間に分断がある。大卒者に比べて、その他の低学歴層では同棲に入るタイミングが早く、同棲期間中により子どもを持つ傾向にある。さらに離婚率も高い。また、同棲の意味も学歴間によって異なる。大卒者にとっては、同棲期間中に子どもを持つことは少ない。子どもが生まれると結婚に移行する傾向にある。これに対して、他の学歴では同棲とは結婚の代替として選択されている。

何故このような学歴による家族形成上の格差拡大が生じたのか。二つ説明がある。第一に、低学歴男性の経済的な見込みが減少したことが指摘される。女性の相対賃金の増加は分業へのリターンを減少させている。社会学ではこれに加えて低所得層における「結婚可能な」男性の供給量の不足がこうした格差の拡大の主要因であるとする向きもある。しかし、この命題が正しいとしても、なお中間層にいる男性が世帯に寄与しないことは考えにくい。この理論が結婚率の減少をより広範に説明するためには、ジェンダー役割への言及、すなわちかつて支配的だったジェンダー規範が崩れることに伴う結婚の利益の減少が、こうした中間の所得を持つ男性を「結婚不可能」にしたと考えるべきだろう。

第二の説明は、結婚のコミットに対する要求の学歴差が拡大していることに着目する。結婚が伝統的な分業モデルに基づいていた頃は、そのコミットメントは妻が家庭にとどまり、子どもを育て、結果的に市場にレリバントな人的資本を蓄積することを妨げることに関する利害を守ってきた。しかし、技術革新によって分業の利得が減少する。同棲は結婚よりも退出コストが低いと考えられるため、コミットメントが少なくてすむ同棲の利得が増す。この論文では、さらに大卒の親が結婚をコミットメントの装置として使う場合に、子どもへの共同の投資を円滑に進めるために活用していることを主張する。低学歴・低所得のカップルではこうした投資は理想的とは考えられず、実行に移すことも難しいため、コミットメントに対する価値は同棲に比べると低い。

感想
結婚への退避に対しては、結婚タイミングの遅延だけではなく、離婚率の上昇による退避も含意されているとは、あまり考えていなかった。一つの疑問としては、この論文では社会規範が変わり、非典型的だった家族形成行動が許容されるに伴って、筆者は女性が結婚を拒否する自由を増していったとしている(women have increased freedom to reject marriage)。つまりこの論文は、結婚が減少して同棲が増加する傾向が低学歴層で顕著であることの説明を、経済学的に「結婚のメリットがなくなったから」あるいは離婚コストなどのデメリットが同棲よりも高いから、という個人の合理性(利得計算)に求めている。

これに対して分岐する運命という言葉を発明したMcLanahan(2004)では、のちにJMFに掲載されるGibson-Davisらとの共著論文を引用して、社会経済的に不利な集団においては、結婚しない理由として「結婚と結びつくようなライフスタイルを獲得するまで結婚せずに待っている」という点が挙げられている。ただ、McLanahan(2004)でも、なぜ分岐する運命が生じているのかの説明で、特に高階層においてはフェミニズムの影響があり、ジェンダー分業的なモデルを否定する行動を促進したとしており、これはLundbergの説明と近い。

いわゆる結婚からの退避に関して言及する文献は、結婚からの退避が何故生じているのかに対して、(主に高階層において当てはまる)女性の自立が促進されて結婚を積極的に拒否する人が増えたという説明と、反対に結婚への価値は置きつつも、経済状況の悪化によって「結婚できない」人が増えたという説明の二つについて、あまり明確に議論してこなかったという気がしている。結婚からの退避というのは、女性側の意図的な行為による拒否の結果なのか、それとも結婚自体に対する価値は高いままで、結婚したくても結婚に移行「できない」のか、いずれなのか、それともそのどちらもが正しく、階層差を伴っているのか。

McLanahanはジェンダー規範の変化による女性の経済的自立は高階層に特に当てはまるとしているが、Lundbergは規範の変化は低階層の女性にとっても当てはまり、これによって中間層の男性が結婚しにくくなったことが示唆されている。さらに、Lundbergは低階層のカップルでは結婚が子どもへの投資をする制度として評価されないために、結婚が選択されないと説明している。むしろ、低階層のカップルにおいて親になるための動機とは安定や生存を意味するものであると指摘もしている。この説明でも、Lundbergは低階層のカップルは「結婚する必要がなくなった」という説明に重きを置く。社会調査やエスノグラフィの結果を読めば、実際にはまだ人々の多くは結婚に対して肯定的な意味を見出し、意識の上では結婚したいと考えている人が多いわけだが、Lundbergの説明は階層にかかわらず、結婚のメリットが減ったことによって結婚が減少したという合理的な、個人が積極的に選択している側面を強調しているように読める。

February 14, 2019

ファンディング

来週の政治学の文献が論文7本で狂気を感じる。来週は他に人口学セミナーも5本、統計の課題、形式人口学の課題、人口学セミナーの学期に2回あるレスポンスレーパーの初回。

学部とのファンディングの交渉のため、他のプログラムに受かった人はレターを送ってと言われて、昨年のレターをみてみた。声がかかったのは5校、面接落ち1つ、最終的にレターがきたのが3つ。5つとも人口学研究センターのある公立旗艦校。

博士課程のファンディングメカニズムが今はよく理解できるので、違って見える。レターが来た3校のうち、オースティンは5年間の身分保障がなかった。最初の2年は外部奨学金で賄い、3年目にTA/RAの審査をするよというオファーだった。メリーランドが唯一外部奨学金を考慮せずRAでの5年契約だった。

ウィスコンシンは5年間の身分保障がついていたけど、当座のファンディングメカニズムは外部奨学金だった。最初は奨学金が切れたあとが不安だったけど、オースティンに比べるとRAをやるための審査はなく、今は多分大丈夫だろうと思っている。

なので、メリーランドが条件的には一番よかったことになる。しかし、メリーランドの週20時間のRAの給料が物価の安いマディソンに比べても明らかに低く、あとでバイトしている人もいるという噂を聞いた。ただ、自分は外部奨学金があるのでしばらくはダブルインカムで今よりも生活は楽だった気がする。

February 12, 2019

反省性

政治学の授業で実証主義と解釈主義の立場の違いに関する記述があり、何もそこまで真っ二つに分けなくてもと思っていたが、人口学セミナーでの議論に参加していると、計量的なアプローチで研究する際にも、解釈主義的な視点を持ち込むことはあって、バランスが難しい。

例えば経済学者の論文でTeen pregnancyをアウトカムにした研究は、明らかに10代での妊娠が「悪い」という前提で書いていると思うけど、それはvalue ladenの要素が強い。ある種の価値から自由にはなれないが、あからさまに価値を付与することから多少距離を置くような分析はどういうのがあるのだろうか。

社会科学なので分析しないといけないわけで、その時に概念を元に操作化するけど、操作化した概念がどこにでも通じる、客観的なものであれば話は早いが、実際には概念は文脈に大きく依存している。そうした文脈にどれだけセンシティブになって研究できるか、という視点が自分には足りないなと思った。

データを使って分析をするので、ある種の構築性を認めつつも、現実を確かに反映したものである、という筆致で書かなくてはいけないし、対象に対する反省性が必要。この変数はどう理解されて、何を測定しているのか、測定していないのか。測定者の意図は何か、みたいな。研究って難しい。

例えば、一つの問いの立て方として、teenage pregnancyが本当に「悪い」結果をもたらすのかは、いろんな角度で再分析してみてもいい気がする。

February 9, 2019

2月9日

今日は主に統計の授業のpsetを片付けていた。問題文が長いので億劫だったが、実際にはそこまで難しくない。4時からはその勉強会で、傾向スコアには一言あるのでほぼレクチャー。帰りに中華スーパーに寄って8時過ぎに帰宅。確定申告を済ませる(ストレスが溜まる)。psetを改善して、終わり。土日の予定を考える。

February 7, 2019

初めての病院

アメリカは医療費が高い、という言明はよく聞くかもしれないが、実際には保険に入っているかどうかによって医療費が全然変わってくる。国民皆保険の日本からすれば、保険は入っていて当然かもしれないが、民間の医療保険が中心のアメリカでは、病院によって提携している保険とそうでない場合があるので、ある保険に入っていれば、どこでも医療を受けられるわけではない。

大学院生は、学生として見なされる場合と、TA/RAとして働いていると見なされる場合とで入れる保険は異なる。前者の場合は大学保険局が用意しているSHIPという保険に入る必要がある(といっても、留学生は20万ほど1年で払う必要がある)。私も、お金払いたくないという気持ちはあったが、もしものことがあると破産するので入った(奨学金は医療保険はカバーしてくれないものなので自腹)。

というわけで、入ったはいいものの、保険を適用したからといって医療費がとてつもなく安くなるわけでもないので、できればお世話になりたくないと思っていた、が、今日初めて病院の世話になった。朝、授業が始まる1時間前のバスに乗って、余裕を持って登校しようとしていたが、路面の凍結で滑る、滑る。一度滑って後に立ち上がろうとしてまた滑り、前のめりになっていたため顔から転んでしまった。メガネが割れ、額から血が出てしまい、いよいよマディソンの地で死ぬ運命だったかとこれまでの人生がよぎろうとしていた瞬間、近くにいた初老のおっちゃんに声をかけられた。要するに、縫えば治るから病院に行こうという。なるほど、割れたメガネの破片がまぶたに刺さっていたのだった。おっちゃんがすぐそばの店のオーナーらしく、そこでティッシュなどを貸してもらった。店にいた女性が指導教員にメールし、SHIPが適用される病院に行く必要がある旨を伝えたら、大学病院のクリニックを紹介してくれた。おっちゃんがすぐそこだからと車で連れてってくれた。本当、あのおっちゃんがいなければ、血だらけのまま道で倒れていたかもしれない。

おっちゃんとは病院の入り口で別れ、まぶたが血だらけのままクリニックへ。切ってみて初めて分かるが、まぶたからの出血は止まらないのだ。urgent careに通され、よくわからないが同意のためのサインを2回する。学生保険のカードを見せる(財布に入れて持ち歩いていてよかった)。パスポートはいらなかった。最初にナースの人がきて、傷口の部分などを拭いてくれた後、多分グルー(のり?)で大丈夫だよと言われて、縫わなくてもいいのかなと思ったが、10分後に来た医師の人は縫合する気満々だった。なんとかのワクチン取ったことあると聞いて、聞き返してもなんのワクチンかわからない、ググってみると、破傷風だった。破傷風ワクチン、そんな記憶もなかったのでとりあえず打ってもらった。日本だと混合三種というやつで小学生の頃に日本では打つらしいが、10年で効果は切れるらしい。結果的に、破傷風のワクチンも打っておいてよかった。

麻酔を打って外側を7針縫った。不幸中の幸いか、傷口部分は右の眉毛の部分とおおよそ被っていたので、遠目には傷があるようには見えない。縫合前はぱっくり開いていたまぶたも綺麗に接合されていた。といっても、出血が完全には止まることはないので、それこそグルーのようなものを塗られて終わった。支払いは?と尋ねたが、請求書はあとで保険会社が計算して自宅に届くらしい。怖い。いくら学生保険がカバーしてくれる病院といったって、ここはアメリカである。日本よりも1桁多い医療費を覚悟して病院を出た。

その後も雨が強く非常に気分は悪かったが、なんとか大学へ。自宅で休んでもよかったのだが、午後の授業まではキャンセルしたくなかったのと(午前の人口学はメールした上で欠席した)、家に一人でいるよりも、オフィルのみんなのもとに行った方が、安心する気がしたので行くことにした。事前に一人の友人には目を切ったので授業を休むと伝えていたので、話は通じていた。意外とかっこいい傷になるかもよみたいに冗談を言ってくれて、少し元気になった。改めて、オフィスにいるみんなが大好きでたまらなくなった。

授業を取ったあと、やはり気分的に疲れはあったので、すぐ帰ることにした。特に吐き気や熱もなく、多分異常はないので、月曜日に縫合を解きにまた病院に行く必要があるのがネックだが、ひとまず最低限のロスですんだ気がする。改めて、不幸中の幸いは、すぐ近くに気づいてくれる人がいたこと、メガネの破片が刺さったのが目ではなくまぶたで、まゆと被っていたこと、すぐに他の人に連絡できるように携帯を持っていたこと、学生保険のカードも持っていたことなど、特に最初の二つは本当にラッキーだったと思う。

今回の経験を通じて、もし事故や怪我をした場合にどのような対応をすればいいのか、なんとなくわかったので、二度とこのような経験はしたくないのはもちろんだが、もしその時が来たり、周りの人が似たような状況に陥った時には迅速に行動できるようにしたい。そのための、予行訓練だったと思えば、決して安くはないが、今回の請求はその授業料だったと思うことにする。それでも、後日10万とか請求されたらメンタルは折れるだろう。ここはアメリカである。

外的妥当性

今学期は政治学の授業を取っているが、文献は方法論と、その方法論をベースにした具体的な論文の二種類に分かれている。具体例は何言ってるのかわからないのが多く、正直つまらないが、方法論の方は勉強になる。最初に驚いたのが、人口学や私が知ってる社会学では外的妥当性というのはサンプリングをした母集団への一般化を指す(ので因果推論は外的妥当性を満たしていないと批判される)が、比較政治では他の国への一般化を指すらしい。

一方で内的妥当性は、1カ国内における因果的言明の妥当性を問うているようだ。したがって、一見すると、人口学の外的妥当性に近い印象を受ける。人口学や社会学でも、複数の社会を比較することはあるけれども、比較を通じて仮説がサポートされたからといって、それが外的妥当性を広げたとは考えられないと思う。理論の適用可能性が広がるとか、比較可能性が担保されるのように考える気がする。そもそも、アメリカ発の理論は他の社会に当てはまるかを志向してない。日本発の理論も同様である。

比較政治は分析の単位が国?なので仕方ない気はするが、個人的には文脈も制度も違う国にある命題が当てはまるかを検討するのは、とても野心的とも言えるけど、見方を変えると文脈を無視した過度な一般化と批判されないのだろうかと思った。

比較政治は以上のような考えらしいが、例えばアメポリの場合には外的・内的妥当性は何を指すのかは気になる。もしかすると、アメポリでは人口学のような母集団(選挙権を持ってる人たち?)への一般化を志向している傾向が強いので計量の分析が多いのだろうか。という質問を考えたが、質的研究法の授業でしてもシラケそうなのでやめておく。比較政治が基本的に国を単位としたケーススタディをする傾向が強くて、計量の側から、君たちの研究の外的妥当性は何なんだい?と言われながら方法論が発展していったのだろうか。なんか、奇妙といえば奇妙である。

社会学で、たとえばn=30のインタビュー調査に対して外的妥当性を満たしてないみたいに単純にいうのは絶対アホだと思うが(そういう批判はあるが)、ある国の事例に関して提示した因果的な主張が他の国にアプライされてないから外的妥当性がないというのも、似たような違和感を覚えた。別に妥当性がなくても、よくないだろうか。まあ、比較政治なので、比較しないとアイデンティティを失うのかもしれない。

あとは、スモールNの研究では決定論的な世界観が持たれている気がするが、それに対して外野あるいは自分たちから確率論的な世界観のロジックを取り込んで行こうとするのは奇妙といえば奇妙。人口学で家族社会学の質的な研究を引用することは多いけど、確率論・決定論的な分断は感じない。それも奇妙といえば奇妙だが、少なくとも計量の側は、調査を設計したり、仮説をたてる時に、質的研究のインプリを生かそうとする。そこでは、質的研究がサンプルを代表しているのではなく、ある種のコンセプトをelucidateしているのだろうと思う。

2月6日

今日は人口学トレーニングセミナーと政治学の質的調査法の授業。今日の人口学トレーニングセミナーは就活についてで、色々と勉強になった。一番勉強になったのは就活のどのタイミングでパートナーの仕事について相談するかというもの、ただし今のところ自分には直接は関係ない。

基本的に雇う側が候補者に関心を持ち出してからじゃないといけないので最初の応募書類とかに書く必要はない。面接の時はプライベートなことは聞いてはいけないので言えない。ベストなタイミングは学部のチェアが「君を雇うために何ができるか?」と言ってかららしい。めっちゃstrategicだと思った。

でも、この手のアメリカ社会学におけるアカデミア就活のアドバイスの話を聞くたびに、結局ケースバイケースなんだなと思う。教歴はそこまで重要じゃないけど、リベラルアーツ系に就職したい場合は学生からの評価も見られるっていうし、単著とコラボのバランスも分野によってノルムが違う。

February 6, 2019

2月5日

火曜は午前に人口学、午後に統計の1日。サリバン・メソッドを習った人口学の授業でKosuke ImaiのDFLE論文が紹介され、その次の因果推論の授業でもImai, King, Stuart (2008)のPATEと SATEを推定するときのバイアスについてまとめた表が紹介されていた。

ところで、予習の中でPrestonの教科書を読んでいたら、アメリカのPhDでは一人当たりの在籍年数が長期化しているのが問題視されているが、それは進捗が遅れているのではなく、主に入学者が減少しているからだと書いてあってなるほどと思った。平均在籍年数を平均余命(T0/l0)と考えると、l0が小さくなると余命が延びる。

帰宅して来週にある人口学セミナーの文献を読んでいた。Chan & Goldthorpeがアサインされていて、あのクラススキーマに強烈な懐かしさを感じてしまう。アメリカの論文では全くと言っていいほど見ない階級分類で、今まで読んだ文献が記憶から呼び起こされ、自分にとってはこっちの方が親しみがあるんだろう。

政治学の質的調査法の論文もなんとか読んでいる。今回のテーマは概念(concept)で、残余とされたカテゴリを検討することで既存のタイポロジーを実証的にreconstructする論文と、既存研究の概念定義自体がそもそも狭くて再定義する必要があることをelucidateする論文などを読む。

February 5, 2019

2月4日

金曜日はホームパーティ、土曜日は友人の誕生日パーティ、日曜日はスーパーボウルのパーティで三日連続飲酒してしまった。どれも、帰りは車を持っている友人に送ってもらって、その車中の会話は車の中だからこそできるプライベートさを持っている。どうやら、都会に比べるとuberの需要がないようで、割と高いらしい。そういう理由もあって、まだマディソンでは友達の車に乗せてもらう習慣が強いのかもしれないと思った。

さて、月曜日である。まずまず計画的に進めることができた。最近は、仕事が進まないことによってストレスを溜めるのは馬鹿らしく思えてきたので、忙しい日は予定を前日に決めて、最低限決めたことだけをこなすようにしたいと思っている。午前7に起き、シャワーを浴びて朝食と弁当を作る。日本から帰ってきてから、外食らしい外食は大学の食堂でサラダと食べたくらいで、ほぼ自炊生活になってしまった。7時50分のバスに乗って大学へ。最近はこの時間帯の車が多く、予定より10分遅れる。9時半から人口学の大学院セミナー。今回は格差・社会移動の第2回。その中で自分の専門である同類婚と格差の関係について検討した論文も読んだ。

アメリカでは近年、夫婦同士の所得の相関(economic homogamy)が高まっており、従来の定説では結婚市場のソーティングが変わった説(所得の高い人を選好するようになった)が有力だった。しかし、最近出た論文では(今回アサインされた論文)、夫婦所得の相関の上昇の大部分は結婚後の分業の変化、要するに女性が出産後も働くようになっているからと主張している。

この結果は従来の社会学・人口学の定説に異議を唱えるものでショッキングだったと思う。ただ、同類婚が増えて格差拡大かというとそうでもなく、ある研究者(というか論文の著者)が先日、マディソンのセミナーに来ていて(というか、卒業生)、言っていたのは、両方フルタイムで働くと子どもを保育園に通わせないといけないので、その費用を働いて払える人だけ働くのではないかというもの。アメリカでは、地域にもよるが保育費用は馬鹿にならない。

それ以外にも、今回はピケティとかチェティの論文なども読んで、特にピケティは明らかに不平等を緩和することが重要という論調で、多少社会学や人口学の研究がどのように政策と関わっていくべきなのかという話もした。一応社会学部なので、価値中立とかの話は前提である。社会学でも階層論の人は格差の研究をしない印象がある。いわゆる「科学的な」研究を志向している傾向が強い(もちろんそういう研究だってvalue addedである)。したがって、あまり政策の話はしないが、うちの学部にはフェミニズムのバックグラウンドを持って、良い意味でラディカルに考える人がいる。そういう人がセミナーにいると、政策に近い論文を読む人口学セミナーではどうやって不平等を削減していくのかについて議論することが多い。いろんな視点があると議論も深まる。ただ、自分の考えについてはまだ浮遊しているのが正直なところである。

そのあと、統計の授業。建前ではカテゴリカルデータの分析なのだが、先生が因果推論の人なので、ロジットなどは後回しにしてRCTの話や傾向スコアの問題から入っている。この授業、一応学部生も問題なく取れることになっていて、なかなか学部からこのレベルの授業を社会学で受けられるところは少ないだろう。日本だと傾向スコアはまだappliedかもしれないが、こっちでは(多分)みんな当たり前のように(使おうと思えば)使えるのだろうと思う(実際に理解しているのかは怪しいかもしれない)。メソッドについては、大学院でさっさとベースラインをマスターするのが手っ取り早いと思う。大学院を出てから学ぶのは大多数にとっては明らかに効率が悪い。もちろん、コースワークがどれだけ充実しているかに依存するので難しいところはあるが、大学院の時に学べなかった人は、資金を集めればICPSRなどもあるし、在外研究の機会があれば所属している大学院の授業をとりまくったほうがいいと思う。コースワークがしっかりしているアメリカの大学院は教育負担のない研究者にとっては宝の山のように見えるのではないか。

帰宅して、ハンバーガーを作って食べたら一気に眠くなった。最後に、修論免除のための論文を提出する必要があり、締め切りが迫ってきたので重い腰を上げて取り組み始めた。審査がどれくらい厳しいのか分からないのと、あまり論文に対して良い思い出がないので、できればあまり手をかけたくないが我慢するほかない。

February 2, 2019

2月1日

大寒波で授業が休校になったりで、授業2周目が終わったのだが、全く疲労感がない。休みになった日を研究に使って、その分は多少疲れた気はするが、まだコースワーク気分に浸りきれていないのが勿体無い気分。

午前は学生自治会のミーティングがあった。テーマが決まっている学会発表やセミナーに比べるとアジェンダごとにアイデアを出し合う自治会のミーティングにはまだ上手く入っていけていない。例えば相手がある提案をしたときに、その提案に賛成することもあれば、代案を出すこともあるし、その代案に対して、でもこうなんじゃない?みたいに再返答が来ることは会議であると思うのだが、どの場面でどういう発言をしていけばいいのか、観察していると自分が発言する隙がなくなっている。特に、発言に対して疑問を提示するときにmicroaggressionにならないかには注意する必要があり、たとえ非ネイティブといえども、場をわきまえていない発言はそう認識される可能性があるかもしれないので、言葉のデリバリーには最大限配慮する必要がある。権力関係はそういうのが一見すると何もないように見えるところでも状況次第で発生することがあるのでセンシティブになる必要がある。同様に中立的に思える発言でも状況次第で価値判断の濃いものに取られる可能性は常にある。

どうも水曜日に深夜まで論文を書いていたのが響いているようで、調子が良くない。あまりやる気がしないし、オフィスにいても来週の形式人口学の課題で質問が来ることもあり、なかなか集中できなかった。悪循環というか、寝ていないで作業が進まないとイライラするし、そこに声をかけられると余計作業が進まなくなることにまごついてしまう。よく寝ているときは自分の作業も、質問にも、バランスよく対応できるのに、寝ていないとそれが難しい。当たり前だが、生活リズムを崩してはいけない。

昼からはfamily inequality meeting。偶然にも世代間関係に関する報告が二つだった。研究会の前に、ある学生がこの研究会があまりconfortableではないという趣旨の発言をしていて、その理由を聞いていると、納得することも多かった。言葉にするのは難しいが、どうやって複数の人間が集まって考えを共有して深めあう場を、インクルーシブにしていけるのかという点なのかなと思う。例えば、頭ごなしに相手の報告を否定することは言語道断だが、なぜこの分析手法にしているのか意味がわからないという趣旨の発言を多少オブラートに包むことは散見されるし、それが本人が求めているコメントならいいのだが、本人としては現在ある研究のjudgmentをされるのではなく、もっとimproveするためにはどういった方向性が考えられるのかというアドバイスを求めていることもある。相手が何を求めていて、その求めに対してどういう風に自分の考えをnavigateしていくのかという判断をしながら報告を聞かなくてはいけないので、なかなか頭を使うところである。

その後また作業をして、研究会メンバーでディナー。今回は先生が家に前いてくれた。研究会には家族人口学の他の先生もいるので、小さなホリデーパーティーの模様を呈していた。いくまでは招いてくれてありがたいなという気持ちだったのだが、行く最中と帰るときの車で、わざわざ家に招いてもらって手料理を振舞われたらいたたまれないという話があり、そこまでは考えていなかった。確かに15人も家に来ると、誰が料理を作るのだろう、先生、先生の奥さん?答えはケータリングだったので、安心していた。アメリカというと、ホームパーティーが盛んという印象があるが、懸念としてあったのはもし先生の奥さんがディナーを作る場合は、会ってもいない人に作るのでそれは申し訳ないだろうということだった。色々と腑に落ちた。別にアメリカに限らないだろうが、信頼の置ける既知の友人には手厚く振る舞い、振舞われたら恩返しをするというカルチャーなのかなと思った。

パーティー自体はとても楽しかった(猫が可愛かった)。最中で、久しぶりにあった先輩の院生と話していて、パブの話になった。私はすでに二つパブがあるからプレッシャーはないよねみたいなことをいわれて、確かにそうかもしれないが、別の一面ではトップジャーナルを狙うように勧められているので、次からはトップジャーナルを狙えるような論文に時間を割いていかなければいけないという別のプレッシャーがあるという話をした。まあ私の場合は、本当にアメリカの生活に適応できるのかという別の不安があり、もっと自分のスタイルを変えなければいけないなと思っているこの頃なので、研究以外の部分も頑張らないといけない気がする。

何か悪いことをしたわけではないが、まだまだ頑張らねばいけないなと思った1日であり、1週間だった。多分、傍観者としてできるだけ人との関わりを絶って、日本の研究を指導教員としていても、論文はある程度掲載できると思うし、博士号も取れると思うが、果たしてそれがアメリカに来た理由なのかと考えると、それは違う。もっと研究の話をしたいし、するべきなのだ。スモールトークも多少は必要だけど、相手が何を考えていて、それに対して自分がどういう考えを持っているのかを表明しないことには透明人間のまま過ごしてしまうという淡い危機感を覚えた。

February 1, 2019

PAA2019

Session 12
Gender Inequality and Fertility
Thursday, April 11
8:30 - 10:00

Poster 4
Thu 2:30

Session 119
Marriage, Assortative Mating and Inequality
Thursday, April 11
17:00 - 18:30

Session 150
Understanding the Determinants of Low Fertility
Friday, April 12
10:15 - 11:45

Poster 8
Fri 12:30

Poster 9
Fri 2:30