Rank | School name | Score |
1
| Harvard University |
4.7
|
1
| Princeton University |
4.7
|
1
| University of California-Berkeley |
4.7
|
1
| University of Michigan-Ann Arbor |
4.7
|
5
| Stanford University |
4.6
|
6
| University of North Carolina-Chapel Hill |
4.5
|
6
| University of Wisconsin-Madison |
4.5
|
8
| University of California-Los Angeles |
4.4
|
8
| University of Chicago |
4.4
|
10
| Northwestern University |
4.3
|
11
| Columbia University |
4.2
|
11
| New York University |
4.2
|
11
| University of Texas-Austin |
4.2
|
15
| Duke University |
4.1
|
15
| Indiana University-Bloomington |
4.1
|
17
| Cornell University |
4.0
|
17
| Ohio State University |
4.0
|
17
| Pennsylvania State University-University Park |
4.0
|
17
| University of Minnesota-Twin City |
4.0
|
17
| University of Washington |
4.0
|
22
| Yale University |
3.9
|
23
| University of California-Irvine |
3.8
|
24
| Brown University |
3.7
|
24
| University of Arizona |
3.7
|
24
| University of Maryland-College Park |
3.7
|
27
| Johns Hopkins University |
3.6
|
28
| CUNY Graduate School and University Center |
3.5
|
28
| Rutgers, The State University of New Jersey-New Brunswick |
3.5
|
30
| University of California-Davis |
3.4
|
30
| University of Massachusetts-Amherst |
3.4
|
March 31, 2018
US News大学院ランキング(社会学)2017年版
アメリカ社会学PhD出願記録(5)「反実仮想」の留学プラン
アメリカ社会学PhD出願記録の最後の記事として、「こうすればよかったなあ」という誰得な反実仮想を垂れ流しています。
すでに、一昨年来の出願について、いくつかの論点に分けて述べてきました。お分かりいただけるように、私は2017年から2018年にかけて、大学院浪人のようなことをしていました。英語の試験の成績も奮わない方だったので、正直、アメリカの社会学PhDに出願される方に(そういう考えを持つ、日本の方がそもそもどれだけいるのか、という問題はありますが)、何か積極的な、助言めいたものを示すことはできません。
ただし、今振り返ると「こういう選択もあったのではないか(そうすれば、今よりも「苦労」せずに留学できるようになったのではないか)」という考えはあります。私自身を、一種の反面教師に見立てて、「反実仮想」的な留学プランを考えると、何点か思い浮かぶことがあります。
仮想的な話の前に、断っておきますと、私自身は、若干遠回りはしていると思いますが、現在までの進路の軌跡(trajectory)を悲観的に見ているわけでは全くありません。
学部から直接海外の大学院に進学しようと考えたこともありましたが、日本で2年間、修士課程に在籍したことで、得られたものは少なくありませんでした(同時に、失った機会があることも事実ですが、それ自体が既に反実仮想の世界の話です)。あるいは、何もストレートに進学するばかりが、ベストな選択では無いと考えています。
とはいえ、繰り返しになりますが「こういう道もあったのではないかなあ」と考えることも稀ではなく、今回の記事は自分の進路を回顧的に振り返ってみたときの、反省に基づくものです。
(1)学部時代にアメリカの研究大学に交換留学する。
私は、大学に来るまで海外に行ったこともなく、地方出身で、親も高卒同士だったものですから、学部入学時点で留学しようという気持ちは微塵もなかったです。しかしながら、幼い頃から英語教育をインテンシブに受けてきた人が、偶然、語学の同じクラス(文三ドイツ語16組)だったことや、友人の紹介で入った「意識の高い」とされる駒場のゼミ、あるいは負けず劣らず「意識の高い」とされる学生団体に、様々な縁で入る機会に恵まれ、自然と海外で学ぶ、英語圏に留学することが現実的な選択肢として浮上してきました。
結果的に、私は学部4年時(2013年)にイギリスのマンチェスター大学に文学部の協定で交換留学するわけですが、当初はアメリカの学部に交換留学をしに行きたいと考えていました。
具体的には、ミシガン大学アナーバー校という、計量社会学のメッカみたいなところに行きたかったのです。しかし、ミシガン大学に留学するためには、当時は学部後期課程の進学先として教養学部を進学した上で駒場の留学制度(Abroad in Komaba, AIKOM)を利用する必要がありました。残念ながら、私は進振りの点数が足りなかったので、第一希望の相関社会科学専攻に進学できず、文学部の社会学専修に進学することになったのです(*1)。
マンチェスター大学は、ネットワーク分析や文化社会学、あるいは階級分析で有名な先生がおられ、私自身勉強になることも多かったですし、そこで思いついた研究テーマが、今でも研究関心の基礎にあります。したがって、イギリスを選択したことを後悔していることは全くありません。
その一方で、ミシガン大学に交換留学して、当時社会学部に在籍していたユー・シー教授(現在はプリンストン大学に在籍)のRAなんかができていれば、ストレートにアメリカ社会学PhDに進学できたのではないだろうか。そう考えることはまだ、あります。
なぜ、このような妄想と仮想の区別が難しいようなことを思うかというと、若干の根拠があります。というのも、アメリカの大学院入試では、推薦状が重要とされることがあり、できればその分野の、著名な先生から、優秀な学生だと認められれば、トップスクールに合格する見込みが上がるとされているからです。
それ以外にも、アメリカのPhDに進むのであれば、アメリカの学部に交換留学する方が、様々な意味で「素直な」選択だったと思います。私はその一方で、どうせアメリカに行くのであれば、学部ではヨーロッパを見ておきたいと思い、マンチェスターを選択することになりました。
(*1)なお現在、AIKOMの制度は全額の交換留学に吸収されることになっており、その前後でミシガン大学への交換留学も無くなっています。昔は、AIKOMのページをみて留学を考えたことが何度もありましたが、そのページも無くなっているようで、寂しいです。
(2)修士課程はアメリカの大学院に進学する。
この点に関しては、修士課程に進学して以降、特に修論を書き上げる前後に、出願を始めた時期から考え始めました。
すでに述べたように、学部生の時には、学部から直接、アメリカのPhDに出願しようと考えていたこともあったのですが、周りの先生方の勧めや、今の自分では実力不足だろうという(それはそれで根拠のない)判断から、修士は日本で、というか東大で取ろうと決めたのでした。
しかし、徐々に、同じ修士号でも、日本よりも、アメリカ、あるいは英語圏でとった修士号の方が、アメリカ社会学PhDの進学のためには有用なのではないかと考えることが出てきました。これも、先の理由と似ていますが、近年では、コロンビア大学のQMSSやニューヨーク大学のAQRで、1年で計量社会(科)学の修士号を取ることのできるプログラムができています。そして、その卒業生の一部は、アメリカ社会学のPhDに進学しています。
また伝統的には、シカゴ大学のMAPSS(MA Program in Social Sciences)や、LSEの修士からアメリカのPhDに進学する人というのは、少なくありませんでした。あるいは、中国人の学生の中には、英語圏として香港大や香港科技大(*2)のマスターをとってからアメリカ社会学PhDに進学する人もいます。人口学が学べるMPAやMPPの学位を取る人もいます(例えば、プリンストン大学のMPAプログラムでは、人口学研究所(OPR)との連携でCertificate in Demographyを取得することができます)。
いずれの大学も、アメリカでPhDをとり、現役の社会学部のファカルティ、あるいは近年までファカルティにいた人が指導してくれるので、日本にいるよりも、比較的、推薦状は強いのではないかと思います。英語の業績もつけることができるかもしれません。
詳しい統計は知りませんが、留学生のステータスでアメリカ社会学のPhDに進学する人の中で、北京大学や中国人民大学で非常に優れた成績をとってストレートで進む人もいますが、少なくない人は英語圏の大学院で修士号をとってから、アメリカPhDに進学しており、そのルートは確立していると思います。それに比べると、国内の学部・修士を経ることの、メリットは一体なんだろうか、、、と考えることはありました。
もちろん、この手の話は「隣の家の芝は青い」ということわざ(?)を引っ張ってくるまでもなく、自分が享受できていない環境を羨望しているものです。私なりに、東大で修士号をとった、積極的な点を考えてみると、二つあります。
一つは、学部以来、お世話になっている先生の指導のもと、研究ができたり、あるいは科研のプロジェクトに関わらせてもらったりしたことがあると思います。
もう一つは、私は英語の成績が低く、その不利を奨学金(フルブライト)への選抜で挽回できたのではないかと考えることがあるため、国内の教育機関に在籍しているからこそ得られる奨学金へのアクセス可能性は、実は日本に残ることのメリットなのではないかと考えることはあります。
このように「たられば」は尽きないわけですが、私から一つだけ、あげることができるとすれば、学部を日本で出た後に(*3)、日本で修士を取るのか、英語圏で修士を取るのか、あるいはストレートでPhDに進学するのか、それらの(実力的、財源的な)実現可能性と、得られるメリット、あるいはデメリットを真剣に考えた上で、後悔しない選択をすることだと思います(といっても、多くの人は後悔するのかもしれませんが)。
比較をしなかった後の後悔と、比較をした上でとった選択肢の後悔だと、どっちが納得できるものでしょうか。みみっちい話かもしれませんが、ひとの悩みというのは、そういうもので尽きないのではないかと思うこともあります(反省と言いつつ、やはり後悔しているような気がしてきました)。
(*2)香港科技大(HKUST)のウェブページを見ると、MPhil in Social Scienceを終えた学生のPhDの進路(PhD Obtained From / Currently Underway At)と、現在のポジション(Current Position and Organization)がわかります。後者は、Placementということでアメリカの社会学部のページにも書かれてたりしますが、前者の「どこのPhDに進んだのか」というのは、HKUSTの修士号が海外PhD進学のための踏み石(stepping stone)として機能していることを示唆しているでしょう。
(*3)私は、日本の学部教育の水準は、コスパ的にはよいと思いますし、そもそも駒場の教養教育を根幹とする学風がなければ、留学をしようとは考えていなかったと思います。
(3)国際学会で報告する。
最後はごく簡単に、日本でも、海外にいても、できることです。ずばり、国際学会で報告しましょう。メリットはいくつもある一方、デメリットはほとんどないので、積極的に報告するべきです。
同じ社会科学でも、経済学、あるいは心理学は比較的ボーダーレスなのではないかと思うのですが、他の社会科学、こと社会学においては「誰に発表するか」が「何を発表するか」に強く影響すると思います。日本の学会は、基本的に日本の社会を研究されている人の集まりです。そうでなくても、基本的に日本の大学でトレーニングを受け、教育研究をしている人の集まりなので、日本の学術コミュニティで暗黙裡のうちに前提とされているプロトコルのようなものがあります。
それ自体は、研究を円滑にする意味では、よいのですが、社会学の面白さは、当該社会の常識を、常識とせずに考えていくところにあります。海外で日本の事例を報告すると、「なんで日本はそうなの」と、そもそもの前提が共有されないことが、ままあります。
そのギャップ自体が研究の出発点になることはありますし、そのギャップを多少なりとも説明できないと、海外の研究者にとって、日本の事例を研究する意義を理解してもらえません。
文脈の違い、と言ってしまえば簡単ですが、これを日常的に意識しながら研究することは、容易ではありません。自分が日本人(あるいは主に日本で育った経験を持つから)であり、オーディエンスは日本人であることが仮定されているからです。
試しに、国際学会に行ってみましょう。オーディエンスが誰なのか、想定できません。逆にいうと、誰がオーディエンスであっても、わかってくれるような報告に仕立てるインセンティブが働きます。私は、この点を非常にポジティブに捉えています。自分の研究を相対的に捉え直すチャンスだからです。
国際学会で報告することは、「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本人ではないオーディエンスに向けて、報告をする必要があるのか」を否応無く考えさせてくれる、格好の機会です。そしてこれらは、ほぼそのまま海外の大学院に出願する際に書くステートメントにおいて重要になる論点(「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本ではない国で研究するのか」)も応用できます。
以上より私は、海外の、特にアメリカのPhDに出願される方には、少なくとも一回、できれば二回以上、当該分野で知名度のある学会(階層論であればISA RC28、人口学でいえばPAA, IUSSP)やアメリカで開催される社会学会で報告することを強く勧めたいと思います。海外の学会は、ほぼフルペーパーが要求されることが常なので、ライティングサンプルを書くためのステップにもなると考えられます。また、海外の学会に報告がアクセプトされること自体が、ある程度の選抜を経ているので、自分の実力をCVに書き込めるチャンスでもあります。
唯一、ネックになるのは、国際学会に行くための費用かもしれません。これについては、報告予定の学会でトラベルグラントを用意している場合もありますし、私は所属している日本人口学会が加盟するコンソーシアム的組織から渡航補助をいただけました。海外学会での報告に助成を出している学会は、ないようで実は割とあるので、チェックしてみてください。
私の実質的に初めての国際学会参加といえるものが、2017年に南アフリカで開催されたIUSSP(国際人口学会)でした。その時の所感は別のブログにまとめています。
***後悔、先に立たず?***
すでに、一昨年来の出願について、いくつかの論点に分けて述べてきました。お分かりいただけるように、私は2017年から2018年にかけて、大学院浪人のようなことをしていました。英語の試験の成績も奮わない方だったので、正直、アメリカの社会学PhDに出願される方に(そういう考えを持つ、日本の方がそもそもどれだけいるのか、という問題はありますが)、何か積極的な、助言めいたものを示すことはできません。
ただし、今振り返ると「こういう選択もあったのではないか(そうすれば、今よりも「苦労」せずに留学できるようになったのではないか)」という考えはあります。私自身を、一種の反面教師に見立てて、「反実仮想」的な留学プランを考えると、何点か思い浮かぶことがあります。
***後悔ではなく、反省!***
学部から直接海外の大学院に進学しようと考えたこともありましたが、日本で2年間、修士課程に在籍したことで、得られたものは少なくありませんでした(同時に、失った機会があることも事実ですが、それ自体が既に反実仮想の世界の話です)。あるいは、何もストレートに進学するばかりが、ベストな選択では無いと考えています。
とはいえ、繰り返しになりますが「こういう道もあったのではないかなあ」と考えることも稀ではなく、今回の記事は自分の進路を回顧的に振り返ってみたときの、反省に基づくものです。
(1)学部時代にアメリカの研究大学に交換留学する。
私は、大学に来るまで海外に行ったこともなく、地方出身で、親も高卒同士だったものですから、学部入学時点で留学しようという気持ちは微塵もなかったです。しかしながら、幼い頃から英語教育をインテンシブに受けてきた人が、偶然、語学の同じクラス(文三ドイツ語16組)だったことや、友人の紹介で入った「意識の高い」とされる駒場のゼミ、あるいは負けず劣らず「意識の高い」とされる学生団体に、様々な縁で入る機会に恵まれ、自然と海外で学ぶ、英語圏に留学することが現実的な選択肢として浮上してきました。
結果的に、私は学部4年時(2013年)にイギリスのマンチェスター大学に文学部の協定で交換留学するわけですが、当初はアメリカの学部に交換留学をしに行きたいと考えていました。
具体的には、ミシガン大学アナーバー校という、計量社会学のメッカみたいなところに行きたかったのです。しかし、ミシガン大学に留学するためには、当時は学部後期課程の進学先として教養学部を進学した上で駒場の留学制度(Abroad in Komaba, AIKOM)を利用する必要がありました。残念ながら、私は進振りの点数が足りなかったので、第一希望の相関社会科学専攻に進学できず、文学部の社会学専修に進学することになったのです(*1)。
マンチェスター大学は、ネットワーク分析や文化社会学、あるいは階級分析で有名な先生がおられ、私自身勉強になることも多かったですし、そこで思いついた研究テーマが、今でも研究関心の基礎にあります。したがって、イギリスを選択したことを後悔していることは全くありません。
その一方で、ミシガン大学に交換留学して、当時社会学部に在籍していたユー・シー教授(現在はプリンストン大学に在籍)のRAなんかができていれば、ストレートにアメリカ社会学PhDに進学できたのではないだろうか。そう考えることはまだ、あります。
なぜ、このような妄想と仮想の区別が難しいようなことを思うかというと、若干の根拠があります。というのも、アメリカの大学院入試では、推薦状が重要とされることがあり、できればその分野の、著名な先生から、優秀な学生だと認められれば、トップスクールに合格する見込みが上がるとされているからです。
それ以外にも、アメリカのPhDに進むのであれば、アメリカの学部に交換留学する方が、様々な意味で「素直な」選択だったと思います。私はその一方で、どうせアメリカに行くのであれば、学部ではヨーロッパを見ておきたいと思い、マンチェスターを選択することになりました。
(*1)なお現在、AIKOMの制度は全額の交換留学に吸収されることになっており、その前後でミシガン大学への交換留学も無くなっています。昔は、AIKOMのページをみて留学を考えたことが何度もありましたが、そのページも無くなっているようで、寂しいです。
(2)修士課程はアメリカの大学院に進学する。
この点に関しては、修士課程に進学して以降、特に修論を書き上げる前後に、出願を始めた時期から考え始めました。
すでに述べたように、学部生の時には、学部から直接、アメリカのPhDに出願しようと考えていたこともあったのですが、周りの先生方の勧めや、今の自分では実力不足だろうという(それはそれで根拠のない)判断から、修士は日本で、というか東大で取ろうと決めたのでした。
しかし、徐々に、同じ修士号でも、日本よりも、アメリカ、あるいは英語圏でとった修士号の方が、アメリカ社会学PhDの進学のためには有用なのではないかと考えることが出てきました。これも、先の理由と似ていますが、近年では、コロンビア大学のQMSSやニューヨーク大学のAQRで、1年で計量社会(科)学の修士号を取ることのできるプログラムができています。そして、その卒業生の一部は、アメリカ社会学のPhDに進学しています。
また伝統的には、シカゴ大学のMAPSS(MA Program in Social Sciences)や、LSEの修士からアメリカのPhDに進学する人というのは、少なくありませんでした。あるいは、中国人の学生の中には、英語圏として香港大や香港科技大(*2)のマスターをとってからアメリカ社会学PhDに進学する人もいます。人口学が学べるMPAやMPPの学位を取る人もいます(例えば、プリンストン大学のMPAプログラムでは、人口学研究所(OPR)との連携でCertificate in Demographyを取得することができます)。
いずれの大学も、アメリカでPhDをとり、現役の社会学部のファカルティ、あるいは近年までファカルティにいた人が指導してくれるので、日本にいるよりも、比較的、推薦状は強いのではないかと思います。英語の業績もつけることができるかもしれません。
詳しい統計は知りませんが、留学生のステータスでアメリカ社会学のPhDに進学する人の中で、北京大学や中国人民大学で非常に優れた成績をとってストレートで進む人もいますが、少なくない人は英語圏の大学院で修士号をとってから、アメリカPhDに進学しており、そのルートは確立していると思います。それに比べると、国内の学部・修士を経ることの、メリットは一体なんだろうか、、、と考えることはありました。
もちろん、この手の話は「隣の家の芝は青い」ということわざ(?)を引っ張ってくるまでもなく、自分が享受できていない環境を羨望しているものです。私なりに、東大で修士号をとった、積極的な点を考えてみると、二つあります。
一つは、学部以来、お世話になっている先生の指導のもと、研究ができたり、あるいは科研のプロジェクトに関わらせてもらったりしたことがあると思います。
もう一つは、私は英語の成績が低く、その不利を奨学金(フルブライト)への選抜で挽回できたのではないかと考えることがあるため、国内の教育機関に在籍しているからこそ得られる奨学金へのアクセス可能性は、実は日本に残ることのメリットなのではないかと考えることはあります。
このように「たられば」は尽きないわけですが、私から一つだけ、あげることができるとすれば、学部を日本で出た後に(*3)、日本で修士を取るのか、英語圏で修士を取るのか、あるいはストレートでPhDに進学するのか、それらの(実力的、財源的な)実現可能性と、得られるメリット、あるいはデメリットを真剣に考えた上で、後悔しない選択をすることだと思います(といっても、多くの人は後悔するのかもしれませんが)。
比較をしなかった後の後悔と、比較をした上でとった選択肢の後悔だと、どっちが納得できるものでしょうか。みみっちい話かもしれませんが、ひとの悩みというのは、そういうもので尽きないのではないかと思うこともあります(反省と言いつつ、やはり後悔しているような気がしてきました)。
(*2)香港科技大(HKUST)のウェブページを見ると、MPhil in Social Scienceを終えた学生のPhDの進路(PhD Obtained From / Currently Underway At)と、現在のポジション(Current Position and Organization)がわかります。後者は、Placementということでアメリカの社会学部のページにも書かれてたりしますが、前者の「どこのPhDに進んだのか」というのは、HKUSTの修士号が海外PhD進学のための踏み石(stepping stone)として機能していることを示唆しているでしょう。
(*3)私は、日本の学部教育の水準は、コスパ的にはよいと思いますし、そもそも駒場の教養教育を根幹とする学風がなければ、留学をしようとは考えていなかったと思います。
(3)国際学会で報告する。
最後はごく簡単に、日本でも、海外にいても、できることです。ずばり、国際学会で報告しましょう。メリットはいくつもある一方、デメリットはほとんどないので、積極的に報告するべきです。
同じ社会科学でも、経済学、あるいは心理学は比較的ボーダーレスなのではないかと思うのですが、他の社会科学、こと社会学においては「誰に発表するか」が「何を発表するか」に強く影響すると思います。日本の学会は、基本的に日本の社会を研究されている人の集まりです。そうでなくても、基本的に日本の大学でトレーニングを受け、教育研究をしている人の集まりなので、日本の学術コミュニティで暗黙裡のうちに前提とされているプロトコルのようなものがあります。
それ自体は、研究を円滑にする意味では、よいのですが、社会学の面白さは、当該社会の常識を、常識とせずに考えていくところにあります。海外で日本の事例を報告すると、「なんで日本はそうなの」と、そもそもの前提が共有されないことが、ままあります。
そのギャップ自体が研究の出発点になることはありますし、そのギャップを多少なりとも説明できないと、海外の研究者にとって、日本の事例を研究する意義を理解してもらえません。
文脈の違い、と言ってしまえば簡単ですが、これを日常的に意識しながら研究することは、容易ではありません。自分が日本人(あるいは主に日本で育った経験を持つから)であり、オーディエンスは日本人であることが仮定されているからです。
試しに、国際学会に行ってみましょう。オーディエンスが誰なのか、想定できません。逆にいうと、誰がオーディエンスであっても、わかってくれるような報告に仕立てるインセンティブが働きます。私は、この点を非常にポジティブに捉えています。自分の研究を相対的に捉え直すチャンスだからです。
国際学会で報告することは、「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本人ではないオーディエンスに向けて、報告をする必要があるのか」を否応無く考えさせてくれる、格好の機会です。そしてこれらは、ほぼそのまま海外の大学院に出願する際に書くステートメントにおいて重要になる論点(「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本ではない国で研究するのか」)も応用できます。
以上より私は、海外の、特にアメリカのPhDに出願される方には、少なくとも一回、できれば二回以上、当該分野で知名度のある学会(階層論であればISA RC28、人口学でいえばPAA, IUSSP)やアメリカで開催される社会学会で報告することを強く勧めたいと思います。海外の学会は、ほぼフルペーパーが要求されることが常なので、ライティングサンプルを書くためのステップにもなると考えられます。また、海外の学会に報告がアクセプトされること自体が、ある程度の選抜を経ているので、自分の実力をCVに書き込めるチャンスでもあります。
唯一、ネックになるのは、国際学会に行くための費用かもしれません。これについては、報告予定の学会でトラベルグラントを用意している場合もありますし、私は所属している日本人口学会が加盟するコンソーシアム的組織から渡航補助をいただけました。海外学会での報告に助成を出している学会は、ないようで実は割とあるので、チェックしてみてください。
私の実質的に初めての国際学会参加といえるものが、2017年に南アフリカで開催されたIUSSP(国際人口学会)でした。その時の所感は別のブログにまとめています。
アメリカ社会学PhD出願記録(4)TOEFL/IELTSとGREのスコア
アメリカ社会学PhD出願記録の4回目は、英語の試験(GRE/TOEFL/IELTS)についてこの一年の対策(反省?)を記しておきたいと思います。
これらの試験は、高いに越したことはありません。GREの場合、トップスクールにもなると、GREのVとQの合計点が320点が平均というところもあり(参考:https://www.coloradocollege.edu/dotAsset/be00c34c-5b8c-4097-97b9-4855574b8a3b.pdf)、足切りに合う場合も稀ではないと聞きます。
TOEFL/IELTSの場合、ウィスコンシン大学マディソン校のようにiBT105点以下の学生を採用することはめったにないことを明言しているプログラムもあれば、UCアーバインのように、財政的な支援を受ける(実質的にはTAをするための最低水準だと思われます)ためには、iBTのスピーキングで26点以上を取ることが義務付けられている場合もあります。
このように、英語のスコアは高いに越したことはありません。しかし、日本ではこれらの試験に特化した予備校が少ない一方で、中国や韓国の学生たちは、予備校や無料のウェブサイトを活用してネイティブ並みのスコアを獲得していきます。
このような状況になると、英語のスコアで相対的に苦労する日本人には不利です。現に私も、TOEFLを何度受けても、第一志望のウィスコンシン大学が要求する105点には達しませんでした。
こうなってくると、そもそも出願資料が読まれない可能性があり、出願自体が無意味になってしまいます。私がとった苦肉の策は決して褒められるものでもありませんが、研究との二足のわらじを履いており、英語の勉強に時間を投資できなかった状況では、出来る限りの事をしたつもりです。
(1)IELTSのスコアを提出する
TOEFLのスコアが足りないおそれのある大学、そしてIELTSを受け入れている大学については、思い切ってIELTSの成績も送付しました。これを思いついたのが、11月の初めで、申し込んだのが11月11日、試験日が12月2・3日。
この時点で、1日締め切りのUT-Austinなどには間に合わなかったのですが、試験の結果が筆記テストの13日後、すなわち12月15日に出るので、日本とアメリカの時差を利用して、15日に出た成績をすぐアプリケーションに反映して、英検に証明書送付を申請してシュゥゥゥーッ!!と送りました。
ただ、合格をもらった3校+補欠1校のうち、IELTSのスコアを送ったのはウィスコンシン大学マディソン校のみだったので、IELTSスコアが鍵になって合格したのかについては、正直よくわかりません。
(2)あえて合計点の低いGREのスコアを提出する。
何を言ってるのかわかりませんよね。私は、GREのverbalがとにかく苦手で、一応単語集やMagooshを利用していたのですが、それでもverbalのスコアは初回に受けたのが最高点でした。しかし、初回はquantのスコアが低かったので、合計点で見れば3回目に受けたものが高かったのですが、その回のverbalは150点を下回っていました。
verbalが150点を下回っていると、その時点で足切りを喰らうかもしれないという友人のアドバイスに従い、今年は合計点が低いけれどverbalが150点を上回っている初回のスコアを送付しました。ライティングのスコアも初回は低かったのですが、もうこれでダメならどうにでもなれという気分で、提出したのを覚えています。
以上の対策?は、そもそも英語の試験で高いスコアを取れていれば取る必要のないものなので、これから受験される方は、早い時期から対策をして、高得点を取ってください。
***英語に自信がある方には関係ありません***
これらの試験は、高いに越したことはありません。GREの場合、トップスクールにもなると、GREのVとQの合計点が320点が平均というところもあり(参考:https://www.coloradocollege.edu/dotAsset/be00c34c-5b8c-4097-97b9-4855574b8a3b.pdf)、足切りに合う場合も稀ではないと聞きます。
TOEFL/IELTSの場合、ウィスコンシン大学マディソン校のようにiBT105点以下の学生を採用することはめったにないことを明言しているプログラムもあれば、UCアーバインのように、財政的な支援を受ける(実質的にはTAをするための最低水準だと思われます)ためには、iBTのスピーキングで26点以上を取ることが義務付けられている場合もあります。
***英語ができるに越したことはない、けど...***
このような状況になると、英語のスコアで相対的に苦労する日本人には不利です。現に私も、TOEFLを何度受けても、第一志望のウィスコンシン大学が要求する105点には達しませんでした。
こうなってくると、そもそも出願資料が読まれない可能性があり、出願自体が無意味になってしまいます。私がとった苦肉の策は決して褒められるものでもありませんが、研究との二足のわらじを履いており、英語の勉強に時間を投資できなかった状況では、出来る限りの事をしたつもりです。
***私がとった苦肉の策***
(1)IELTSのスコアを提出する
TOEFLのスコアが足りないおそれのある大学、そしてIELTSを受け入れている大学については、思い切ってIELTSの成績も送付しました。これを思いついたのが、11月の初めで、申し込んだのが11月11日、試験日が12月2・3日。
この時点で、1日締め切りのUT-Austinなどには間に合わなかったのですが、試験の結果が筆記テストの13日後、すなわち12月15日に出るので、日本とアメリカの時差を利用して、15日に出た成績をすぐアプリケーションに反映して、英検に証明書送付を申請してシュゥゥゥーッ!!と送りました。
ただ、合格をもらった3校+補欠1校のうち、IELTSのスコアを送ったのはウィスコンシン大学マディソン校のみだったので、IELTSスコアが鍵になって合格したのかについては、正直よくわかりません。
(2)あえて合計点の低いGREのスコアを提出する。
何を言ってるのかわかりませんよね。私は、GREのverbalがとにかく苦手で、一応単語集やMagooshを利用していたのですが、それでもverbalのスコアは初回に受けたのが最高点でした。しかし、初回はquantのスコアが低かったので、合計点で見れば3回目に受けたものが高かったのですが、その回のverbalは150点を下回っていました。
verbalが150点を下回っていると、その時点で足切りを喰らうかもしれないという友人のアドバイスに従い、今年は合計点が低いけれどverbalが150点を上回っている初回のスコアを送付しました。ライティングのスコアも初回は低かったのですが、もうこれでダメならどうにでもなれという気分で、提出したのを覚えています。
以上の対策?は、そもそも英語の試験で高いスコアを取れていれば取る必要のないものなので、これから受験される方は、早い時期から対策をして、高得点を取ってください。
アメリカ社会学PhD出願記録(3)ライティングサンプル
アメリカ社会学PhD出願記録の3回目は、ライティングサンプルについて書きます。
アメリカの社会学PhD出願では、出願時点で研究が進んでいることは、必ずしも前提とはされず、イギリスの大学院に比べても研究計画は「緩い」もので構わないと考えられます。
一度、日本の大学院入試を受けられた方はわかると思いますが、研究計画をA4用紙2〜3枚程度に、ぎっしり書いたのではないでしょうか。使用するデータや、細かいリサーチクエスチョン、先行研究の詳細なレビューをされた方もいるかもしれません。アメリカでも、シカゴ大学などはこうした詳細な研究計画を要求してくることがあるのですが、多くの大学院では、Statement of Purposeのところに「こういうことを検討したい」程度で済ませることができます。分析に用いるデータが本当にあるのかどうかは、その時点ではあまり重要ではありません。
日本やイギリスに比べて、アメリカの大学院の研究計画が「緩い」のは、現時点の計画性よりも、個人のポテンシャルを評価する傾向にあるからだと考えています。まだ社会学を学んだことのない学生も出願してくるため、社会学の既存研究に対する知識を前提とした詳細な研究計画よりも、その個人がもっているアイデア自体に焦点を当てているのでしょう。
ただし、その人の研究能力が全く見られていないかというとそうではありません。アメリカの社会学PhDでは、ほぼ例外なくライティングサンプルを要求されます。このライティングサンプルは、直接、PhDで検討する問いに関連している必要はなく、社会学の論文である必要もありません(もちろん、社会学的な論文で、自身の関心に近いものがより望ましいでしょう)。
私は、ライティングサンプルも、昨年度とは大幅に変更しています。昨年度は、日本語の査読付き論文を英語に直したものを提出しました。個人的には、最初に掲載した査読付き論文ということもあり、多少は自信はあったのですが、今振り返ると、以下の点が弱点だったと考えています。
・分析がわかりづらい
内容は、夫婦の地位が同じ同類婚(homogamy)が世代間で連鎖するかを検討したものでしたが、こうした問いを提起する研究自体がそれほど多くありません。また、用いている手法も、ログリニアモデルという、社会学では比較的使用されるものですが、一般的な回帰系の分析とは手続きが違うため、用いたことのある人ではないとわかりにくいと考えられます。
・日本語から英語に直した
すでに出版された日本語の論文を英語に直していたため、論理展開などがフォローしにくかったのではないかと思います。
・研究の意義がアメリカの先生に伝わりにくい
あくまで日本の事例を、日本の読者向けに書いたものだったために、この論文が、どのような普遍的な意義があるのか、主張しにくかったと思います。社会学では、国際比較ではない場合、基本的に当該社会の事例のみである程度の普遍性を持つことが仮定されているように思います。したがって、北米の先生向けに、北米の議論を提示すること自体は、特に疑問を持たれないのですが、日本の事例を検討する際には「なぜ日本を(わざわざアメリカではなく)見る必要があるのか」という疑問を持たれることがあるのではないかと考えています。
以上の点を踏まえ、今年は、全く新しい論文を、英語で一から書き始めました。工夫した点は、(1)問いをシンプルにした(手法もシンプルにした)、(2)英語で書き始めた、(3)日本的な文脈を踏まえて、日本でも人口学で言われている命題が当てはまるかに焦点を当てた。(3)についてですが、要約すると、日本ではその制度的な文脈のために、欧米で提唱されている命題が当てはまらないと考えられてきたのですが、欧米とは違う側面に着目すれば、その命題は多少当てはまるのではないかということを主張したものです。
***なぜアメリカの大学院のSoPは「緩い」のか***
一度、日本の大学院入試を受けられた方はわかると思いますが、研究計画をA4用紙2〜3枚程度に、ぎっしり書いたのではないでしょうか。使用するデータや、細かいリサーチクエスチョン、先行研究の詳細なレビューをされた方もいるかもしれません。アメリカでも、シカゴ大学などはこうした詳細な研究計画を要求してくることがあるのですが、多くの大学院では、Statement of Purposeのところに「こういうことを検討したい」程度で済ませることができます。分析に用いるデータが本当にあるのかどうかは、その時点ではあまり重要ではありません。
日本やイギリスに比べて、アメリカの大学院の研究計画が「緩い」のは、現時点の計画性よりも、個人のポテンシャルを評価する傾向にあるからだと考えています。まだ社会学を学んだことのない学生も出願してくるため、社会学の既存研究に対する知識を前提とした詳細な研究計画よりも、その個人がもっているアイデア自体に焦点を当てているのでしょう。
***ライティングサンプル=研究能力を示す資料***
ただし、その人の研究能力が全く見られていないかというとそうではありません。アメリカの社会学PhDでは、ほぼ例外なくライティングサンプルを要求されます。このライティングサンプルは、直接、PhDで検討する問いに関連している必要はなく、社会学の論文である必要もありません(もちろん、社会学的な論文で、自身の関心に近いものがより望ましいでしょう)。
私は、ライティングサンプルも、昨年度とは大幅に変更しています。昨年度は、日本語の査読付き論文を英語に直したものを提出しました。個人的には、最初に掲載した査読付き論文ということもあり、多少は自信はあったのですが、今振り返ると、以下の点が弱点だったと考えています。
・分析がわかりづらい
内容は、夫婦の地位が同じ同類婚(homogamy)が世代間で連鎖するかを検討したものでしたが、こうした問いを提起する研究自体がそれほど多くありません。また、用いている手法も、ログリニアモデルという、社会学では比較的使用されるものですが、一般的な回帰系の分析とは手続きが違うため、用いたことのある人ではないとわかりにくいと考えられます。
・日本語から英語に直した
すでに出版された日本語の論文を英語に直していたため、論理展開などがフォローしにくかったのではないかと思います。
・研究の意義がアメリカの先生に伝わりにくい
あくまで日本の事例を、日本の読者向けに書いたものだったために、この論文が、どのような普遍的な意義があるのか、主張しにくかったと思います。社会学では、国際比較ではない場合、基本的に当該社会の事例のみである程度の普遍性を持つことが仮定されているように思います。したがって、北米の先生向けに、北米の議論を提示すること自体は、特に疑問を持たれないのですが、日本の事例を検討する際には「なぜ日本を(わざわざアメリカではなく)見る必要があるのか」という疑問を持たれることがあるのではないかと考えています。
以上の点を踏まえ、今年は、全く新しい論文を、英語で一から書き始めました。工夫した点は、(1)問いをシンプルにした(手法もシンプルにした)、(2)英語で書き始めた、(3)日本的な文脈を踏まえて、日本でも人口学で言われている命題が当てはまるかに焦点を当てた。(3)についてですが、要約すると、日本ではその制度的な文脈のために、欧米で提唱されている命題が当てはまらないと考えられてきたのですが、欧米とは違う側面に着目すれば、その命題は多少当てはまるのではないかということを主張したものです。
アメリカ社会学PhD出願記録(2)Statement of Purpose
アメリカ社会学PhD出願記録の2回目は、出願書類の中でもっとも大切だと考えられるStatement of Purposeについて書きます。
Statement of Purpose、略してSoPなどと言ったりしますが、これの書き方は、北米の大学院独特だと思います。大学によってバリエーションはありますが、大まかには、(1)自分が博士課程で明らかにしたい問いは何か、それがなぜ重要か、(2)その問いを検討するために、出願校がどれだけ適しているのか、(3)なぜその問いを思いついたのか、という博士課程で検討する大きなリサーチクエスチョンと、それに絡めて、ファカルティにいる先生、あるいは研究環境全体とのフィットを述べることが必要です。これに加えて、(4)これまでの研究業績、(5)受賞している奨学金など、自分が相対的に優れた学生であることを述べることもできます。あるいは(6)TOEFL/GRE、成績の点数が低い場合に、その事情(言い訳)を述べることもできます。
北米のStatementの特徴の一つは、パーソナル・ヒストリーに類する部分を述べることが認められる点です。これは(3)なぜその問いを思いついたのかと絡めることができます。例えば、私は親の離婚を経験しており、そこから家族形成が不平等を生み出す過程に関心を持ったのですが、そうしたことを述べるわけです。アメリカでは、マイノリティを積極的に採用しようとする考えもあるため、こうしたパーソナルな部分が重要になるのだと思います。
ただし、あくまで重要なのは、大学院で検討する問いが、いかに検討に値するものであるかを説明することです。私の昨年のSoPは、パーソナルな部分から書き始めてしまい、最初に「この学生はこれがやりたいんだ」というのが伝わりにくかったと反省しています。また、アメリカでは親の離婚は普通であり、離婚それ自体が格差を生むわけではないという点を、アメリカで社会学PhDをとった知人に言われ、日米の文脈の違いに配慮した書き方を試みる必要を感じました。
また、私は日本社会を検討しているのですが、なぜ日本社会を検討しているのかを述べることも必要です。具体的には、日本社会を検討することが、どうして、どのように理論的に重要なのかということになります。
やはり出願先はアメリカになるので、アメリカではなくなぜ日本かを説明することは重要になると思います。こうした、どの社会(文脈)を選択するかという視点は、社会学や人類学では重要になるかもしれませんし、政治学(比較政治?)も、各国の政治を検討するには考慮する必要があると思われます。
先述の知人からのアドバイスを受け、私はSoPを大幅に変更しました。比較のため、2016-2017年に出願したSoPの冒頭と、2017-2018年に出願したSoPの冒頭の両方を抜粋します。
<2016-2017年>では、最初に「大学第一世代」であることと「家族形成上の不安定」を経験したと書き始め、最初から自分が相対的に不利な出身背景であったことを強調しています。[2]-[3]では、なぜ社会学に関心を持ったかを、これも大学入学時のパーソナルな部分に結びつけています。ようやく[4]に入って、何を検討したいかを書き始めるという構成になっています。
出願資料をレビューした経験のある方にお話を伺ったことがあるのですが、その時に言われたことで印象的だったのは、「担当者は一人で100枚近くのSoPを読むことになっていて、そこまで真剣に、隈なく読んでいるわけではない」ということでした。最初の数段落を読んで、ピンと来なければ、その後を読むこともないのかもしれません。私の昨年のSoPの弱点は、採点者の目に止まるような、言い換えれば「大学院で何を明らかにしたいのか」が最初に書かれていなかったことだったと、思います。
これに対して、2017-2018年のSoPでは、第2段落以降を大幅に変えました。[2]では、研究関心の発端が、社会学における既存研究のギャップにあることを述べています(My proposed research stems from my general interest in a gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change)。具体的には、社会学(人口学)では階層によって家族形成の安定性が二極化している、という命題めいたものが提唱されているのですが、それが主としてアメリカのみの知見に由来することを述べています。その上で、この命題の適用可能性を広げるために、他の社会を検討する必要を述べています。
さらに、[3]で具体的に「強い家族」レジーム、すなわち結婚と出生の関連が強かったり、福祉が私的に提供されている国における一連の制度のことを指すのですが、それらの文脈を検討したいと述べます。なぜ「強い家族」レジームの社会を検討することが必要なのか。それは、レジームによって、階層間の安定性の違いが異なって生じてくる可能性があるからです(These institutional contexts are expected to show a different dimension of a diverging pattern of family behaviors.)。
そして[4]では、こうした家族形成行動の違いが、格差を縮小するのか(reduce)あるいは再生産するのか(reproduce)を問いかけた上で、既存研究は、格差をはかる指標として、特定のイベントに着目していたが、本研究では、複数の家族イベントの軌跡(trajectory)に着目するというライフコース・アプローチに従って検討すると述べることで、既存研究との差異化を図りました。パーソナルな部分は[5]-[6]と中盤に移しました。
両者を比較すると、今年のSoPの方が「こいつは何を明らかにしたいのか」が端的にわかると思います。この点に気をつけてSoPを書いたのが、多少は評価につながったのではないかと考えています(あくまで自己評価ですが)。
<2016-2017年>
[1] As an individual who is a first-generation college student and experienced family instability, my academic goal is to be a sociologist who studies the impact of family formation on the creation of intergenerational inequality. At the same time, as a person who was born and educated in Japan, which suffers from chronic population decline and demographic transition, I aim to focus on the effects of these demographic changes in marital sorting in contemporary Japan through a quantitative analysis of survey data on social stratification.
[2] My interest in sociology dates back to my years studying in college. When I started to study at the University of Tokyo, I realized that my classmates are mostly from advantageous families. Although we passed highly competitive examinations regardless of whether or not we are from wealthy or intellectual backgrounds, it was considerably difficult to find friends who are first-generation college students and experienced parental divorce similar to myself.
[3] As a result, these experiences changed my views on education as a source of upward social mobility and I realized it was critical to learn social sciences to understand the issues on inequality. Therefore, I have decided to pursue sociology because of its focus on providing critical perspectives on the social problems through theoretical attempts and empirical tools, which resonate with my deep academic passion.
[4] This realization induced me to ask how privileged families maintain or strengthen their advantages over time. In particular, I would like to research…(以下続く)
<2017-2018年>
[1] Sociology provides us with analytical perspectives, through the use of theoretical and empirical tools, that allow us to address social problems so that we can understand the different ways in which people react to social change, depending on the social context. My academic goal is to be a sociologist who studies diverging family behaviors and their impact on the creation of social inequality. I aim to focus on the role of family, and the effects of demographic change throughout one's life, using quantitative analysis of survey data from Japan and the United States.
[2] My proposed research stems from my general interest in a gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change. Sociologists understand that family formation is increasingly stable among highly-educated couples, and that the opposite is the case among the less educated -- `diverging destinies', as coined by McLanahan (2004). However, the evidence for the argument is mainly from the United States. A study of an individual case makes it difficult to discuss the generalizability of the thesis. This suggests the following question: how, and why, might the impact of diverging family behaviors, between the lesser- and higher-educated, appear differently, depending on social context?
[3] I am particularly interested -- shaped by my upbringing in Japan -- in diverging trends of family behavior in so-called `strong family' countries, such as Japan and South Korea (East Asia), and Italy and Spain (Southern Europe), where welfare is privately provided by family members, and the male breadwinner model is the norm, in both the public and private spheres. These institutional contexts are expected to show a different dimension of a diverging pattern of family behaviors. For example, rather than forming unstable unions, as observed in the United States, lesser-educated men are the least likely to find a partner in the marriage market in Japan. In addition, intergenerational relationships often function to support the financially-disadvantage single mother after divorce in Japan, where joint custody is uncommon, unlike in the United States.
[4] Do these different patterns in family behaviors observed in Japan reduce, or reproduce, patterns of social inequality? Although McLanahan and Jacobsen (2015) attempted to update the evidence, and extend the argument to other developed countries, whilst Raymo and Iwasawa (2017) examined the Japanese case, past studies of education and union formation, including those mentioned, examined only single events such as marriage or divorce, rather than modeling how education is associated with life course trajectories. Alternatively, by adopting a `life course approach', I aim to empirically show whether certain partnership patterns are more likely to be consistently associated with education than others, and if these family behaviors shape subsequent inequality throughout the course of a life. Specifically, I will examine: (1) the probability of union formation, and spouse pairing patterns in the marriage market; (2) whether non-normative childbearing both in Japan and the U.S. is comparable; (3) the impact of these demographic behaviors on family dissolution; and attempt to show (4) whether these life course trajectories have an impact on the children's development.
[5] I started to think about the role of family in the creation of inequality when I entered one of the most selective and prestigious universities in Japan, the University of Tokyo. On one hand, it did not take long for me to realize that my classmates mostly came from advantaged families, and it was difficult to find friends who were first-generation college students who had also experienced parental divorce, as I had growing up. On the other hand, however, it was also the case that I grew up in a household with a mother who got divorced in her late twenties, but who had instrumental and emotional support, provided by my grandmother and other relatives who lived near our home.
[6] The experience in my own upbringing changed my views on education as a source of upward social mobility. Also, today I understand that this intergenerational support that my family received is actually not a common way to react to socio-economic hardship after divorce. Rather, this is often characterized as evidence of the presence of familialism in East Asian nations. In order to understand how and why institutional contexts affect familial adaptation to social change differently, it is critical to examine the thesis from a comparative perspective.
***SoP=研究計画書+α***
Statement of Purpose、略してSoPなどと言ったりしますが、これの書き方は、北米の大学院独特だと思います。大学によってバリエーションはありますが、大まかには、(1)自分が博士課程で明らかにしたい問いは何か、それがなぜ重要か、(2)その問いを検討するために、出願校がどれだけ適しているのか、(3)なぜその問いを思いついたのか、という博士課程で検討する大きなリサーチクエスチョンと、それに絡めて、ファカルティにいる先生、あるいは研究環境全体とのフィットを述べることが必要です。これに加えて、(4)これまでの研究業績、(5)受賞している奨学金など、自分が相対的に優れた学生であることを述べることもできます。あるいは(6)TOEFL/GRE、成績の点数が低い場合に、その事情(言い訳)を述べることもできます。
北米のStatementの特徴の一つは、パーソナル・ヒストリーに類する部分を述べることが認められる点です。これは(3)なぜその問いを思いついたのかと絡めることができます。例えば、私は親の離婚を経験しており、そこから家族形成が不平等を生み出す過程に関心を持ったのですが、そうしたことを述べるわけです。アメリカでは、マイノリティを積極的に採用しようとする考えもあるため、こうしたパーソナルな部分が重要になるのだと思います。
ただし、あくまで重要なのは、大学院で検討する問いが、いかに検討に値するものであるかを説明することです。私の昨年のSoPは、パーソナルな部分から書き始めてしまい、最初に「この学生はこれがやりたいんだ」というのが伝わりにくかったと反省しています。また、アメリカでは親の離婚は普通であり、離婚それ自体が格差を生むわけではないという点を、アメリカで社会学PhDをとった知人に言われ、日米の文脈の違いに配慮した書き方を試みる必要を感じました。
***社会学のアプリケーションにおける留意点?***
また、私は日本社会を検討しているのですが、なぜ日本社会を検討しているのかを述べることも必要です。具体的には、日本社会を検討することが、どうして、どのように理論的に重要なのかということになります。
やはり出願先はアメリカになるので、アメリカではなくなぜ日本かを説明することは重要になると思います。こうした、どの社会(文脈)を選択するかという視点は、社会学や人類学では重要になるかもしれませんし、政治学(比較政治?)も、各国の政治を検討するには考慮する必要があると思われます。
***百聞は一読にしかず、ということで***
先述の知人からのアドバイスを受け、私はSoPを大幅に変更しました。比較のため、2016-2017年に出願したSoPの冒頭と、2017-2018年に出願したSoPの冒頭の両方を抜粋します。
<2016-2017年>では、最初に「大学第一世代」であることと「家族形成上の不安定」を経験したと書き始め、最初から自分が相対的に不利な出身背景であったことを強調しています。[2]-[3]では、なぜ社会学に関心を持ったかを、これも大学入学時のパーソナルな部分に結びつけています。ようやく[4]に入って、何を検討したいかを書き始めるという構成になっています。
出願資料をレビューした経験のある方にお話を伺ったことがあるのですが、その時に言われたことで印象的だったのは、「担当者は一人で100枚近くのSoPを読むことになっていて、そこまで真剣に、隈なく読んでいるわけではない」ということでした。最初の数段落を読んで、ピンと来なければ、その後を読むこともないのかもしれません。私の昨年のSoPの弱点は、採点者の目に止まるような、言い換えれば「大学院で何を明らかにしたいのか」が最初に書かれていなかったことだったと、思います。
これに対して、2017-2018年のSoPでは、第2段落以降を大幅に変えました。[2]では、研究関心の発端が、社会学における既存研究のギャップにあることを述べています(My proposed research stems from my general interest in a gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change)。具体的には、社会学(人口学)では階層によって家族形成の安定性が二極化している、という命題めいたものが提唱されているのですが、それが主としてアメリカのみの知見に由来することを述べています。その上で、この命題の適用可能性を広げるために、他の社会を検討する必要を述べています。
さらに、[3]で具体的に「強い家族」レジーム、すなわち結婚と出生の関連が強かったり、福祉が私的に提供されている国における一連の制度のことを指すのですが、それらの文脈を検討したいと述べます。なぜ「強い家族」レジームの社会を検討することが必要なのか。それは、レジームによって、階層間の安定性の違いが異なって生じてくる可能性があるからです(These institutional contexts are expected to show a different dimension of a diverging pattern of family behaviors.)。
そして[4]では、こうした家族形成行動の違いが、格差を縮小するのか(reduce)あるいは再生産するのか(reproduce)を問いかけた上で、既存研究は、格差をはかる指標として、特定のイベントに着目していたが、本研究では、複数の家族イベントの軌跡(trajectory)に着目するというライフコース・アプローチに従って検討すると述べることで、既存研究との差異化を図りました。パーソナルな部分は[5]-[6]と中盤に移しました。
両者を比較すると、今年のSoPの方が「こいつは何を明らかにしたいのか」が端的にわかると思います。この点に気をつけてSoPを書いたのが、多少は評価につながったのではないかと考えています(あくまで自己評価ですが)。
<2016-2017年>
[1] As an individual who is a first-generation college student and experienced family instability, my academic goal is to be a sociologist who studies the impact of family formation on the creation of intergenerational inequality. At the same time, as a person who was born and educated in Japan, which suffers from chronic population decline and demographic transition, I aim to focus on the effects of these demographic changes in marital sorting in contemporary Japan through a quantitative analysis of survey data on social stratification.
[2] My interest in sociology dates back to my years studying in college. When I started to study at the University of Tokyo, I realized that my classmates are mostly from advantageous families. Although we passed highly competitive examinations regardless of whether or not we are from wealthy or intellectual backgrounds, it was considerably difficult to find friends who are first-generation college students and experienced parental divorce similar to myself.
[3] As a result, these experiences changed my views on education as a source of upward social mobility and I realized it was critical to learn social sciences to understand the issues on inequality. Therefore, I have decided to pursue sociology because of its focus on providing critical perspectives on the social problems through theoretical attempts and empirical tools, which resonate with my deep academic passion.
[4] This realization induced me to ask how privileged families maintain or strengthen their advantages over time. In particular, I would like to research…(以下続く)
[1] Sociology provides us with analytical perspectives, through the use of theoretical and empirical tools, that allow us to address social problems so that we can understand the different ways in which people react to social change, depending on the social context. My academic goal is to be a sociologist who studies diverging family behaviors and their impact on the creation of social inequality. I aim to focus on the role of family, and the effects of demographic change throughout one's life, using quantitative analysis of survey data from Japan and the United States.
[2] My proposed research stems from my general interest in a gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change. Sociologists understand that family formation is increasingly stable among highly-educated couples, and that the opposite is the case among the less educated -- `diverging destinies', as coined by McLanahan (2004). However, the evidence for the argument is mainly from the United States. A study of an individual case makes it difficult to discuss the generalizability of the thesis. This suggests the following question: how, and why, might the impact of diverging family behaviors, between the lesser- and higher-educated, appear differently, depending on social context?
[3] I am particularly interested -- shaped by my upbringing in Japan -- in diverging trends of family behavior in so-called `strong family' countries, such as Japan and South Korea (East Asia), and Italy and Spain (Southern Europe), where welfare is privately provided by family members, and the male breadwinner model is the norm, in both the public and private spheres. These institutional contexts are expected to show a different dimension of a diverging pattern of family behaviors. For example, rather than forming unstable unions, as observed in the United States, lesser-educated men are the least likely to find a partner in the marriage market in Japan. In addition, intergenerational relationships often function to support the financially-disadvantage single mother after divorce in Japan, where joint custody is uncommon, unlike in the United States.
[4] Do these different patterns in family behaviors observed in Japan reduce, or reproduce, patterns of social inequality? Although McLanahan and Jacobsen (2015) attempted to update the evidence, and extend the argument to other developed countries, whilst Raymo and Iwasawa (2017) examined the Japanese case, past studies of education and union formation, including those mentioned, examined only single events such as marriage or divorce, rather than modeling how education is associated with life course trajectories. Alternatively, by adopting a `life course approach', I aim to empirically show whether certain partnership patterns are more likely to be consistently associated with education than others, and if these family behaviors shape subsequent inequality throughout the course of a life. Specifically, I will examine: (1) the probability of union formation, and spouse pairing patterns in the marriage market; (2) whether non-normative childbearing both in Japan and the U.S. is comparable; (3) the impact of these demographic behaviors on family dissolution; and attempt to show (4) whether these life course trajectories have an impact on the children's development.
[5] I started to think about the role of family in the creation of inequality when I entered one of the most selective and prestigious universities in Japan, the University of Tokyo. On one hand, it did not take long for me to realize that my classmates mostly came from advantaged families, and it was difficult to find friends who were first-generation college students who had also experienced parental divorce, as I had growing up. On the other hand, however, it was also the case that I grew up in a household with a mother who got divorced in her late twenties, but who had instrumental and emotional support, provided by my grandmother and other relatives who lived near our home.
[6] The experience in my own upbringing changed my views on education as a source of upward social mobility. Also, today I understand that this intergenerational support that my family received is actually not a common way to react to socio-economic hardship after divorce. Rather, this is often characterized as evidence of the presence of familialism in East Asian nations. In order to understand how and why institutional contexts affect familial adaptation to social change differently, it is critical to examine the thesis from a comparative perspective.
アメリカ社会学PhD出願記録(1)外部奨学金
アメリカ社会学PhD出願記録の最初として、奨学金について記したいと思います。
昨年出願した時には、外部奨学金には応募していませんでした。なぜかというと、アメリカの社会学PhDは基本Fellowship、あるいはRA/TA業務を通じて、授業料や医療費が免除されると聞いており、奨学金を持っていることが、合格に直結するわけではないと考えていたからです。実際、今年合格した大学とのやりとりで、奨学金を持っているかと、合格に値するかを判断するのは独立という説明を受けました。
私は、現在も外部奨学金を持っている、つまり授業料を払う能力があることが、合格に繋がるとは考えていません。しかしながら、外部奨学金に受かっていることが、一つのシグナルとして機能することはありうると思っています。
シグナルというのは、「奨学金を獲得している学生は一定の選抜を経てきている(ため、そこそこ優秀だろう)」という予想を裏付ける証拠のようなものです。外部奨学金をもっているということは、すでに選抜を経てきているため、仮にアプリケーションの他の部分が弱くても、多少はその不利をカバーできるのではないかと考えています。
ただし、どのような奨学金でもシグナルに希望するかは、わかりません。どちらかというと、アメリカの大学の先生たちに知られていない奨学金に受かっていたとしても、特に反応はないのではないかと予想しています。どれだけの選抜を経てきたのか、予測が立てられないからです。
では、具体的に、日本人学生がアクセス可能な奨学金のうち、シグナルとして機能するものは何でしょうか。私は、フルブライト奨学金だと考えています。なぜなら、大学のアプリケーションのページに、「Award and Fellowships」のような項目があり、該当する賞を受賞している場合、チェックすることがあります。そのような項目があれば、必ずフルブライト奨学金はMcNair scholarと同じように、リストにあります。
私は昨年度、幸いなことに、日米教育委員会を通じてフルブライト奨学金に推薦いただいたのですが、奨学金に出願した時には、正直そこまで影響があるとは考えていませんでした。しかし、出願後に、大学とのやりとりをしていると、「フルブライト奨学金に受かっているようだが、具体的に期間と額を教えて欲しい」というメールを複数の大学からもらいました(もう一つ内定していた奨学金については、そのようなことは聞かれませんでした)。もしかすると、フルブライターを採用することで、金銭以外の何らかのメリットが大学にあるのかもしれませんが、詳しくはわかりません。少なくとも日本人が考えているよりも、アメリカの大学院の先生にはフルブライトは認知されており、それが注目に値するものであることは確かなようです。
***奨学金の額ではなく選抜を経た事実が大切***
昨年出願した時には、外部奨学金には応募していませんでした。なぜかというと、アメリカの社会学PhDは基本Fellowship、あるいはRA/TA業務を通じて、授業料や医療費が免除されると聞いており、奨学金を持っていることが、合格に直結するわけではないと考えていたからです。実際、今年合格した大学とのやりとりで、奨学金を持っているかと、合格に値するかを判断するのは独立という説明を受けました。
私は、現在も外部奨学金を持っている、つまり授業料を払う能力があることが、合格に繋がるとは考えていません。しかしながら、外部奨学金に受かっていることが、一つのシグナルとして機能することはありうると思っています。
シグナルというのは、「奨学金を獲得している学生は一定の選抜を経てきている(ため、そこそこ優秀だろう)」という予想を裏付ける証拠のようなものです。外部奨学金をもっているということは、すでに選抜を経てきているため、仮にアプリケーションの他の部分が弱くても、多少はその不利をカバーできるのではないかと考えています。
ただし、どのような奨学金でもシグナルに希望するかは、わかりません。どちらかというと、アメリカの大学の先生たちに知られていない奨学金に受かっていたとしても、特に反応はないのではないかと予想しています。どれだけの選抜を経てきたのか、予測が立てられないからです。
***フルブライト奨学金に出してみましょう***
では、具体的に、日本人学生がアクセス可能な奨学金のうち、シグナルとして機能するものは何でしょうか。私は、フルブライト奨学金だと考えています。なぜなら、大学のアプリケーションのページに、「Award and Fellowships」のような項目があり、該当する賞を受賞している場合、チェックすることがあります。そのような項目があれば、必ずフルブライト奨学金はMcNair scholarと同じように、リストにあります。
私は昨年度、幸いなことに、日米教育委員会を通じてフルブライト奨学金に推薦いただいたのですが、奨学金に出願した時には、正直そこまで影響があるとは考えていませんでした。しかし、出願後に、大学とのやりとりをしていると、「フルブライト奨学金に受かっているようだが、具体的に期間と額を教えて欲しい」というメールを複数の大学からもらいました(もう一つ内定していた奨学金については、そのようなことは聞かれませんでした)。もしかすると、フルブライターを採用することで、金銭以外の何らかのメリットが大学にあるのかもしれませんが、詳しくはわかりません。少なくとも日本人が考えているよりも、アメリカの大学院の先生にはフルブライトは認知されており、それが注目に値するものであることは確かなようです。
アメリカ社会学PhD出願記録
執筆時点(平成30年4月)で私は東京大学大学院の博士課程に在籍しながら、日本学術振興会の特別研究員(DC2)として研究をすることになっておりますが、昨年度はアメリカの社会学博士課程にも出願していました。
前回(2016年)は9校出願して全てリジェクトされたのですが、今回(2017年)は現在までに、11校のうち3校からオファーをいただくことができました。出願したのは14校でしたが、大方、結果がわかったところで、3校については結果がわかる前に辞退させていただきました(*1)。
進学先は、かねてから第一志望だったUniversity of Wisconsin-Madisonになります。
以前から、留学の準備は進めていましたが、もし日本で博士号を取ることになった場合には、学振(研究費)があるかないかでだいぶ研究の方向性が変わってきます。そのため、昨年度は、大学院出願と並行して学振の準備も進めていました。
学振から内定をいただいた際には、まだ出願の結果は分かっておらず、オファーをいただいたのは、年が明けた1月末でした。
私なりに考えた結果、アメリカの博士課程に合格した場合でも、留学開始までにいただける研究費を使いながら、日本でできる研究を受け入れ教員の指導のもとで進めたいと考えました。したがって、4月から8月までは学振のフェローシップをいただき、その研究費で研究をする予定ですが、9月からはDC2を中途辞退して、所属を移す予定です。
さて、昨年、全落ちだった私が今年は3校からオファーをいただけたのはどうしてでしょうか。もちろん、昨年と出願者のプールが変わっているので、厳密な推論をすることはできません。あるいは、昨年出願した大学院はどれもトップ20以内の難関校だった一方(*2)(*3)、今年はランク30位以内の大学にも出願しており、今年になって出したプログラムに複数合格しています。
しかしながら、私の本年度の出願に出した書類のうち、変わったものもあれば、そうでないものもあります。あくまで、不確かな推論に基づきますが、私なりに「もしかしたら今年これを工夫したのがよかったのではないか」という主観的な考えを、ここに記しておきます。
昨年と主に変わった点は、(1)外部奨学金をとったこと、(2)Statement of Purposeを大幅に書き直したこと、(3)ライティングサンプルを書き直したことの三つです。及び、(4)TOEFL/IELTSとGREのスコアについても、多少工夫をしました。最後に、「こうする道もあったのではないだろうか」という一種、反実仮想的な進路についても、記事にしています。
それぞれについて、別途記事にまとめていますので、興味がある方はご参照ください。残念ながら、アメリカの社会学を学べる大学院に進学される日本の方は非常に少ないと思います。それは、他の国(主として韓国・中国)に比べて少ないという意味でもそうですし、日本の隣接分野(主として経済学・政治学)に比べても少ないでしょう。私自身、留学を志した時、周りに相談できるのが実質的に駒場の同じクラスで一足先にアメリカに留学していた友人しかいなかったため、何をどうすればいいのか、もう少し情報が欲しかったというのが正直なところです。
そもそもの問題として、アメリカの大学院に進学したい日本の社会学系の学部生・院生がどれだけいるのか、甚だ疑問なところではあります。それでも、毎年一定程度、日本からアメリカの社会学系博士課程プログラムに進学する流れができればよいと思いますし、何より、将来的に留学したいと考えている方に、これらの記事が少しでも役に立つことができれば、これに勝る喜びはありません。
私の強みは、多少の研究経験があるだけで、特に英語の試験の成績などについては、社会学で出願した学生の中でも、間違いなく平均以下、合格者の中では底辺に近い位置にいることは確かだろうと思います。したがって、出願まで余裕がある方は、きちんと計画的に出願を進められた、私からすると「優秀」な友人のブログを参照されるとよいだろうと思います。海外大学院出願といっても、その内実は分野ごとに異なりますが、彼らの立てた「戦略」は、どの分野の人にとっても有益なものだと思います。
(*1)合格した3校はUniversity of Wisconsin-Madison, University of Texas at Austin, University of Marylandです。University of California-Los Angelesについては補欠、Pennsylvania State Universityには呼ばれましたが不合格となりました。
(*2)このランキングは、US Newsが算出しているアメリカの大学院ランキングの社会学版のものです。このランキングは、更新されるごとに前回のものが公開されなくなるので、30位までのプログラムについては別の記事に残しておきます。ちなみに、このランキングは2017年に発表されたものであり、2013年のランキングでは、UW-Madisonのスコアは4.7、ランキングも1位になっているように、年によって順位は変動します。UW-Madisonは、この10年のプレースメント(PhD修了学生の就職)があまりふるわなかったとされており、この点がスコアの減少に影響したのではないかと考えています。また、UW-Madisonの学生に聞いたところ、2013年と2017年の調査の間に、社会学部におられた階層論の大家Rob Hauser先生が退職されたことが背景にあるのではないかという指摘ももらいました。
(*3)スコアの算出方法については、社会科学・人文学ではピアレビューに基づいています。
参考URL:
https://www.usnews.com/education/best-graduate-schools/articles/social-sciences-and-humanities-schools-methodology?int=a85c09
前回(2016年)は9校出願して全てリジェクトされたのですが、今回(2017年)は現在までに、11校のうち3校からオファーをいただくことができました。出願したのは14校でしたが、大方、結果がわかったところで、3校については結果がわかる前に辞退させていただきました(*1)。
進学先は、かねてから第一志望だったUniversity of Wisconsin-Madisonになります。
***学振との関係について***
学振から内定をいただいた際には、まだ出願の結果は分かっておらず、オファーをいただいたのは、年が明けた1月末でした。
私なりに考えた結果、アメリカの博士課程に合格した場合でも、留学開始までにいただける研究費を使いながら、日本でできる研究を受け入れ教員の指導のもとで進めたいと考えました。したがって、4月から8月までは学振のフェローシップをいただき、その研究費で研究をする予定ですが、9月からはDC2を中途辞退して、所属を移す予定です。
***何かのお役に立てばと思い、体験記を残します***
しかしながら、私の本年度の出願に出した書類のうち、変わったものもあれば、そうでないものもあります。あくまで、不確かな推論に基づきますが、私なりに「もしかしたら今年これを工夫したのがよかったのではないか」という主観的な考えを、ここに記しておきます。
昨年と主に変わった点は、(1)外部奨学金をとったこと、(2)Statement of Purposeを大幅に書き直したこと、(3)ライティングサンプルを書き直したことの三つです。及び、(4)TOEFL/IELTSとGREのスコアについても、多少工夫をしました。最後に、「こうする道もあったのではないだろうか」という一種、反実仮想的な進路についても、記事にしています。
それぞれについて、別途記事にまとめていますので、興味がある方はご参照ください。残念ながら、アメリカの社会学を学べる大学院に進学される日本の方は非常に少ないと思います。それは、他の国(主として韓国・中国)に比べて少ないという意味でもそうですし、日本の隣接分野(主として経済学・政治学)に比べても少ないでしょう。私自身、留学を志した時、周りに相談できるのが実質的に駒場の同じクラスで一足先にアメリカに留学していた友人しかいなかったため、何をどうすればいいのか、もう少し情報が欲しかったというのが正直なところです。
そもそもの問題として、アメリカの大学院に進学したい日本の社会学系の学部生・院生がどれだけいるのか、甚だ疑問なところではあります。それでも、毎年一定程度、日本からアメリカの社会学系博士課程プログラムに進学する流れができればよいと思いますし、何より、将来的に留学したいと考えている方に、これらの記事が少しでも役に立つことができれば、これに勝る喜びはありません。
***反面教師ではない「優秀な」人たち***
私の強みは、多少の研究経験があるだけで、特に英語の試験の成績などについては、社会学で出願した学生の中でも、間違いなく平均以下、合格者の中では底辺に近い位置にいることは確かだろうと思います。したがって、出願まで余裕がある方は、きちんと計画的に出願を進められた、私からすると「優秀」な友人のブログを参照されるとよいだろうと思います。海外大学院出願といっても、その内実は分野ごとに異なりますが、彼らの立てた「戦略」は、どの分野の人にとっても有益なものだと思います。
木原盾さん(ブラウン大学社会学部博士課程)のブログ
向山直佑さん(オックスフォード大学国際関係学部博士課程)のブログ
改装後の東京大学総合図書館(留学とは特に関連なし) |
(*1)合格した3校はUniversity of Wisconsin-Madison, University of Texas at Austin, University of Marylandです。University of California-Los Angelesについては補欠、Pennsylvania State Universityには呼ばれましたが不合格となりました。
(*2)このランキングは、US Newsが算出しているアメリカの大学院ランキングの社会学版のものです。このランキングは、更新されるごとに前回のものが公開されなくなるので、30位までのプログラムについては別の記事に残しておきます。ちなみに、このランキングは2017年に発表されたものであり、2013年のランキングでは、UW-Madisonのスコアは4.7、ランキングも1位になっているように、年によって順位は変動します。UW-Madisonは、この10年のプレースメント(PhD修了学生の就職)があまりふるわなかったとされており、この点がスコアの減少に影響したのではないかと考えています。また、UW-Madisonの学生に聞いたところ、2013年と2017年の調査の間に、社会学部におられた階層論の大家Rob Hauser先生が退職されたことが背景にあるのではないかという指摘ももらいました。
(*3)スコアの算出方法については、社会科学・人文学ではピアレビューに基づいています。
参考URL:
https://www.usnews.com/education/best-graduate-schools/articles/social-sciences-and-humanities-schools-methodology?int=a85c09
March 29, 2018
(専門)社会調査士の資格取得にまつわるQ&A
以前TAとして教えた授業の学生さんが、「大学院進学を考えているのだが、調査実習を履修する必要はあるのか」と尋ねてこられたので、少し書いておきます。
社会学系の学部や研究室で学んでいると、「社会調査」が必修だったり、「社会調査実習」を履修することが推奨される場合が多いです。
社会学では、理論的な研究と同様、社会の実態を把握するための「社会調査」という分野が重要視されています。そして、大学で開講される近年の「社会調査」にまつわる科目は、多くの場合「社会調査士」という資格を取得するための要件として課されることが増えてきました。
この「社会調査士」を取ることと、社会学関係の大学院に進学することや研究職につくことの間の関係は独立です。ただし、現状、社会学関係の教職につかれる方の多くが社会調査士の資格を持っています。
そのため、社会調査を履修しないと院進できないのか、であったり、社会調査士の資格を持っていないと教職に就けないのかという点が混同されながら、研究者志望の学生が社会調査系の科目をなんとなく履修している現状があるかもしれません。
多少なりともその「なんとなく」を解消できればよいと考え、この記事では社会調査系科目と、大学院の進学、及び大学での研究職の関係について書いています。
というわけで、この記事では、そもそも社会調査の意義とは何なのか、あるいは民間就職にとっていかほど必要なものか、あるいは社会調査士制度自体の評価などは、範囲外となりますので、あらかじめご了承ください。社会調査士の資格取得にまつわるQ&Aのようなものとして読んでください。
社会調査士・専門社会調査士の概要と取得要件(具体的にどのような科目を履修すればよいのか)などの基本的な情報については、社会調査協会のページをご参照ください。
・社会調査(実習)を履修してないと大学院に進学できないの?
→できます。ただし、社会調査系の科目を履修されている場合、院試に受かる可能性は高くなると思います。
社会学系の大学院の院試では、社会調査にまつわる問題が出されるからです。それは、例えばある変数の分散やクロス表のカイ2乗値を求めろ、という問題かもしれませんし、ある調査を企画する際に、どのようなサンプリングをするべきか、といった問題かもしれません。
こういった問題は、社会調査系の授業を履修したり実習に参加していれば、比較的容易に回答できると思います。ただし、院試はあくまで試験ですから、社会調査の授業を受けたことがなくとも、自習でカバーすることも十分に可能だろうと思います。
・社会調査士をもっていないと研究職に就けないのか?
→そんなことはありません。ただ、持っていた方が便利です。なぜかというと、社会調査系の科目を教える際には、院レベルの授業を履修することで取ることのできる専門社会調査士資格を持つことを求める場合があるからです。
具体的にいうと、JREC-INなどの教員公募をみると、資格要件に「一般社団法人社会調査協会による専門社会調査士の資格を取得している者」などの記述が書かれている場合があります。あるいは、非常勤講師の公募についても、教える科目が社会調査系の場合、常勤教員の公募と同様、専門社会調査士の資格を持っていることが要件として求められます。というわけで、資格を持っていると非常勤講師の職も見つけやすくなるとは思います。
・専門社会調査士を取りたいが、学部の時に社会調査士用の科目を取るのを忘れてしまった!
社会調査士資格は、専門社会調査士と一緒に取得すると申請料が割引されるため、専門社会調査士を取ろうとする人の多くは、二つを同時に申請する傾向にあります。
しかし、いざ専門社会調査士の申請をしようとすると、社会調査士資格取得のために必要な科目を取り忘れていた!というのは、比較的よく目にする事態です。
この対応策は二つあります。一つは学部の授業を履修する方法、もう一つは調査協会が開催する講習会に参加する方法です。
(1)学部の授業を履修する。
大学院生が学部の授業を履修して単位を取得することはできます。個々の運用は大学によって異なるかもしれませんが、弊学研究科・文学部では、大学院生でも学部開講科目を履修し、単位を修得することが可能です。ただし、この単位が修士あるいは博士の修了単位として認定されることはないので、注意が必要です。
(2)社会調査協会が開く講習会に参加する。
これはS科目と呼ばれ、社会調査士科目のA、B、Cに対応しているS1科目とD、Eに対応しているS2科目があります。何を隠そう、執筆者の私も学部の時にE/F科目を履修していませんでした。そのため、社会調査協会のS2科目を履修することで、学部の時にとり忘れたE科目を回収しました(E/F科目はどちらか一つを選択すればよい)。
なお、S科目講習会にはいくつかの注意点があります。まず、S科目講習会は専門社会調査士をとりたい院生・社会人のための講座なので、社会調査士のみの申請には使用できません。同様の理由で、学部生は応募することができません。最後に、S1、S2科目の講習会は隔年開講となっているため、タイミングが合わないと2年近く待つ必要があります。
学部の授業を履修する場合と比べた時のS科目の利点として、集中講義のような形で短期間に科目を履修できる点があげられます。その一方で、S科目のデメリットは講習会参加のために2-3万円の受講料が必要になる点です。調査士資格取得までの道のりは、少なからず課金ゲーの側面があります(個人的見解)。
参考URL:http://jasr.or.jp/task/seminar.html
・どうやって取得要件を満たしているか調べるの?
→調べましょう。ただ、若干めんどくさいので覚悟してください。社会調査士・専門社会調査士でページが別になっているので、該当する方に進み、「認定科目一覧を見る」を選択してください。
参考URL:社会調査士資格制度参加校(地域別)、専門社会調査士資格制度参加校(地域別)
社会学系の学部や研究室で学んでいると、「社会調査」が必修だったり、「社会調査実習」を履修することが推奨される場合が多いです。
社会学では、理論的な研究と同様、社会の実態を把握するための「社会調査」という分野が重要視されています。そして、大学で開講される近年の「社会調査」にまつわる科目は、多くの場合「社会調査士」という資格を取得するための要件として課されることが増えてきました。
この「社会調査士」を取ることと、社会学関係の大学院に進学することや研究職につくことの間の関係は独立です。ただし、現状、社会学関係の教職につかれる方の多くが社会調査士の資格を持っています。
そのため、社会調査を履修しないと院進できないのか、であったり、社会調査士の資格を持っていないと教職に就けないのかという点が混同されながら、研究者志望の学生が社会調査系の科目をなんとなく履修している現状があるかもしれません。
多少なりともその「なんとなく」を解消できればよいと考え、この記事では社会調査系科目と、大学院の進学、及び大学での研究職の関係について書いています。
というわけで、この記事では、そもそも社会調査の意義とは何なのか、あるいは民間就職にとっていかほど必要なものか、あるいは社会調査士制度自体の評価などは、範囲外となりますので、あらかじめご了承ください。社会調査士の資格取得にまつわるQ&Aのようなものとして読んでください。
社会調査士・専門社会調査士の概要と取得要件(具体的にどのような科目を履修すればよいのか)などの基本的な情報については、社会調査協会のページをご参照ください。
・社会調査(実習)を履修してないと大学院に進学できないの?
→できます。ただし、社会調査系の科目を履修されている場合、院試に受かる可能性は高くなると思います。
社会学系の大学院の院試では、社会調査にまつわる問題が出されるからです。それは、例えばある変数の分散やクロス表のカイ2乗値を求めろ、という問題かもしれませんし、ある調査を企画する際に、どのようなサンプリングをするべきか、といった問題かもしれません。
こういった問題は、社会調査系の授業を履修したり実習に参加していれば、比較的容易に回答できると思います。ただし、院試はあくまで試験ですから、社会調査の授業を受けたことがなくとも、自習でカバーすることも十分に可能だろうと思います。
・社会調査士をもっていないと研究職に就けないのか?
→そんなことはありません。ただ、持っていた方が便利です。なぜかというと、社会調査系の科目を教える際には、院レベルの授業を履修することで取ることのできる専門社会調査士資格を持つことを求める場合があるからです。
具体的にいうと、JREC-INなどの教員公募をみると、資格要件に「一般社団法人社会調査協会による専門社会調査士の資格を取得している者」などの記述が書かれている場合があります。あるいは、非常勤講師の公募についても、教える科目が社会調査系の場合、常勤教員の公募と同様、専門社会調査士の資格を持っていることが要件として求められます。というわけで、資格を持っていると非常勤講師の職も見つけやすくなるとは思います。
・専門社会調査士を取りたいが、学部の時に社会調査士用の科目を取るのを忘れてしまった!
社会調査士資格は、専門社会調査士と一緒に取得すると申請料が割引されるため、専門社会調査士を取ろうとする人の多くは、二つを同時に申請する傾向にあります。
しかし、いざ専門社会調査士の申請をしようとすると、社会調査士資格取得のために必要な科目を取り忘れていた!というのは、比較的よく目にする事態です。
この対応策は二つあります。一つは学部の授業を履修する方法、もう一つは調査協会が開催する講習会に参加する方法です。
(1)学部の授業を履修する。
大学院生が学部の授業を履修して単位を取得することはできます。個々の運用は大学によって異なるかもしれませんが、弊学研究科・文学部では、大学院生でも学部開講科目を履修し、単位を修得することが可能です。ただし、この単位が修士あるいは博士の修了単位として認定されることはないので、注意が必要です。
(2)社会調査協会が開く講習会に参加する。
これはS科目と呼ばれ、社会調査士科目のA、B、Cに対応しているS1科目とD、Eに対応しているS2科目があります。何を隠そう、執筆者の私も学部の時にE/F科目を履修していませんでした。そのため、社会調査協会のS2科目を履修することで、学部の時にとり忘れたE科目を回収しました(E/F科目はどちらか一つを選択すればよい)。
なお、S科目講習会にはいくつかの注意点があります。まず、S科目講習会は専門社会調査士をとりたい院生・社会人のための講座なので、社会調査士のみの申請には使用できません。同様の理由で、学部生は応募することができません。最後に、S1、S2科目の講習会は隔年開講となっているため、タイミングが合わないと2年近く待つ必要があります。
学部の授業を履修する場合と比べた時のS科目の利点として、集中講義のような形で短期間に科目を履修できる点があげられます。その一方で、S科目のデメリットは講習会参加のために2-3万円の受講料が必要になる点です。調査士資格取得までの道のりは、少なからず課金ゲーの側面があります(個人的見解)。
参考URL:http://jasr.or.jp/task/seminar.html
・どうやって取得要件を満たしているか調べるの?
→調べましょう。ただ、若干めんどくさいので覚悟してください。社会調査士・専門社会調査士でページが別になっているので、該当する方に進み、「認定科目一覧を見る」を選択してください。
参考URL:社会調査士資格制度参加校(地域別)、専門社会調査士資格制度参加校(地域別)
所定の手続きを経て、社会調査士・専門社会調査士になるともらえる手帳(実用性には乏しい) |
March 24, 2018
日本人口学会企画セッション「少子化とセクシュアリティ」
ここ数日で桜が一気に満開になり、今週末が見頃と聞きます。
そんな花見日和の中、本日は社人研にて開催された日本人口学会の研究会に参加しました。
東日本地域部会の企画セッションとして開催された今回の研究会のタイトルは「少子化とセクシュアリティ」。ここでの「セクシュアリティ」とは、やや広めに捉えられており、出生と関連するような生物学的、心理学的、あるいは社会文化的な背景として考えられています。従来の少子化研究が、女性の社会進出、あるいは若年層の雇用環境の変化といった経済的な側面に偏っていたことに対して、今回は社会科学的な視点からは抜け落ちがちな、出生を性行動の結果として捉える視点、あるいは生殖活動を規定する妊孕力(fecundability、自然出生力)に影響するような生物学的な要因などが検討されました。
ちなみに、このセッションが開催された経緯としては、企画者の林玲子先生が国際人口学会(IUSSP)にて、佐藤龍三郎先生と松浦先生と話しながら、こういう研究が必要だよねという話になって、その後に開催が決まったらしい。IUSSPが開催されたのは11月冒頭なので、林先生の企画までのテンポの速さに驚くとともに、私もケープタウンで開催されたIUSSPには参加していたので、ディナーの場で3人が話しているのはお見かけしていました。あの場でそんな「悪だくみ」がされているとは思わず、企画の内容を知った時には驚いたものです。
さて、内容に入りたいと思います。学会ホームページにもほぼ同じものが載っていますが、当日の資料から題目を改めると、演者の先生方と報告タイトルは以下の通りです。
このような、少子化をセクシュアリティの視点から検討する研究会は、今までほぼ例がなく(例外としては、会場にもいらした小西祥子先生が日本人口学会で何度か企画されてきた「出生の生物人口学」がありますが)、様々な分野の先生方が報告されることもあり、各先生が用いられている調査の紹介や、先行研究のまとめが中心で、やや記述的な研究、あるいは概要的なものが多かった印象です。
最初の守泉先生のご報告は、タイトルのように、社人研が実施している出生動向基本調査の結果をもとに、日本における性行動をめぐる変化が紹介したものでした。近年ほど、交際相手を持たない未婚者の割合が増加しているほか、性交経験率が近年の若年層で低下していること、夫婦における追加出生意図と避妊の実行率の関係が変化していることが指摘されました。
特に最後の点については、近年ほど、追加出生意図がないにもかかわらず避妊を実行していると答える人が減っているということで、「次子ができても構わない」と考える夫婦が増加している可能性や、自由回答や回答不詳との関係から、セックスレスのカップルが増加していることが背景にあるのではないかという解釈がありました。
2番目のご報告は岩本先生による男性生殖機能に関するものでした。欧米では、1930年からの50年間で、健常男性の精子数が減少したことが指摘されており、背景としては環境ホルモン(内分秘かく乱物質)の影響があるとされています。精子数の減少が火付け役となり、2000年ごろからSkakkebeakらによって環境ホルモンと生殖機能の低下を関連づけるTDS仮説が提唱され始めたことが紹介されました。
報告では、1カ国における男性の生殖機能のトレンドだけではなく、日本を含めた各国の比較、あるいは一つの国における地域間比較の研究例が紹介されました。例えばアメリカの4都市における男性の精子濃度を比較した研究では、もっとも質が低下していたのはミズーリであり、一方で最も低下していない、言い換えれば精子濃度が高い都市はニューヨークだったということです。この背景には、ミズーリのような土地は農地利用が多く、飲料水などを通じて、農地で使用された農薬が生殖機能に影響している可能性があるとされています。
3番目のご報告は吉永先生による内分秘かく乱物質と妊孕力の関係で、岩本先生が男性の生殖機能に焦点を当てていたのに対して、吉永先生は女性(あるいは女性が曝露する傾向にある物質)への言及が多かったように思われます。吉永先生の説明では、環境ホルモンという言葉に対して批判的な意見もあるとのことでしたが、今回はより一般的な環境ホルモンという言葉で事例が紹介されました。
環境ホルモンとは要するに、環境中に存在する化学物質のことだと考えられ、これらの物質が直接・間接に人間に曝露されることによって、人間の生殖機能に(主として悪い)影響を与えることが判明してきました。吉永先生の説明によると、まず環境ホルモンに曝されるのは実験室などで研究をする人々の場合であるとし、その次に、職業の特徴としてそうした物質に曝されてしまう職業曝露があるといいます。おそらく、前者の場合、化学物質それ自体を扱っており、リスクについても認識されているのだろうと思ったのですがが、後者の場合には、職業的な活動を行う結果として、意図せずに曝露してしまう可能性が高いということなのでしょうか。職業曝露の代表的な例としては農薬や鉛が挙げられており、これらを摂取することは、無精子症や不妊といった、明らかな生殖機能への悪影響が指摘されているようです。
実験室、職業ときて、より一般的な曝露の過程は、化学物質を含む製品を利用する場合ということです。具体的な例としては、魚の摂取(魚の体内には化学物質が蓄積されやすいとされる)、フタル酸エステル(スーパーなどで刺身や肉が包装されている、あの手のプラスチック製品に含まれる可塑剤)、及びパラベン(化粧品や日焼け止めに含まれる防腐剤)が挙げられた。フタル酸エステルはプラスチックを柔軟にする可塑剤なので、我々が生活している環境で触れない日はないらしく、例えば壁紙なんかにもたくさん含まれているらしいです。
これらの物質が、生殖機能に対してプラスの影響を与える効果はないわけですが、妊孕力などに悪影響があるかというと、研究によってまちまちの場合もあるということです。先生自身は、パブリケーションバイアスの可能性も踏まえながら、これらの物資の効果に対して慎重に検討されており、好感を持てました。
北村先生による4番目の報告では、日本家族計画協会が実施する「男女の生活と意識に関する調査」が紹介されました。調査事項としては、一部、社人研の出生動向とも重複していますが、報告では近年のカップルにおけるセックスレス化の議論に重きが置かれていました。貴重な調査を実施していただいているので、ぜひ、調査のローデータを社研のデータアーカイブに寄託していただきたいと、強く思った次第でございます。
休憩を挟んで、今回のセッションの立役者の一人である、松浦先生によるセックス・テクノロジーの進歩が公衆衛生や人口問題に与える影響についての報告がありました。ここでいう「セックス・テクノロジー」とは、具体的にはインターネット・ポルノグラフィーとVRなどを利用した新しいサービスのことで、これに対して報告において対置されたのは、人間の性行動の特殊性から生まれたと考えられる売春(prostitution)です。分析のモデルは、売春サービスと(インターネット)ポルノの消費が、代替的な関係にあるのか、それとも補完的な関係にあるのかというものです。要するに、ポルノが普及すれば、売春は減るのか、それとも関連は特にないのか(あるいは、ポルノをみて売春に興味を持つ?こともありそう)、いうことでしょう。
分析に用いたのは、アメリカの州レベルのパネルデータ(2008年〜2016年)で、この辺りの分析の手続きには、手堅さを感じました。ポルノ、売春とも、google trends dataを用いた検索数が変数化されていましたが、前者はアクセス数の多いポルノサイトの名前で、後者はprostitution/prostitutesの検索数でした。従属変数として、人口学的な変数(出生率や離婚率など)、犯罪、及び公衆衛生(売春など)が設定されました。分析結果から、ポルノサイトの検索数と有意な関連を持つのはこれらの変数のうち、売春の検索数のみであり、具体的にはポルノサイトの検索数が1%増加すると、売春に関連する検索数が0.56〜0.90%減少することがわかりました。及び、州レベルで性教育が実施されているかどうかは、これらの従属変数に対してどれも影響していないことも、ファインディングスとして付け加えられました。
6番目の報告者である森木先生は、文化人類学的な観点から日本のセックスレスについて考察する、研究プロジェクトの構想についてお話しいただきました。すでに北村先生の報告でも言及されていましたが、メディア、特に海外メディアにとって日本のカップルのセックスレスは、非常にセンセーショナルに報道された時期があります(画像はBBCのドキュメンタリーから)。
森木先生の問題関心としては、カップル間の性交渉が生じにくいとされる日本の文化的な土壌を文化人類学的に考察するというもので、具体的には西欧社会におけるカップル文化に示されるような生殖家族における親密性と、親子のタテの関係が重視される日本のようなていい家族としての親密性が比較されました。
以前、人口学会で森木先生の報告を聞いた時に非常に面白かったのは、日米における就寝文化の違いです。子どもが自分から嫌というまで、日本では親は一緒に寝る傾向にありますが(川の字就寝、あるいは同室就寝)、アメリカでは、どの調査でも親と寝る割合は数%程度で、大多数の子どもは幼い頃から一人で寝ることがわかっています。
森木先生の主張としては、「スキンシップ」という言葉が和製英語(というか日本語?)であることに示されるように、親子間の身体的な接触を通じたコミュニケーション(一緒にお風呂に入るなど)は非常に盛んであるといいます。これに加えて、キリスト教圏では自慰行為が倫理的に悪とされてきたのに対して、日本では単独の(solitary)な行為としての自慰行為に対する敷居が低かったことも指摘されました。
7番目の報告は、サイラス先生による日本における性交渉未経験者数の推移に関するものでした。社人研や日本家族計画協会の調査では、独身者に過去の性交渉経験について尋ねています。一方で、夫婦に対しては、現在のパートナーとの性交渉を尋ねているため、両者は似ているようで、異なることを聞いています。言い換えると、これらの調査だけでは、日本の人口に占める性交渉を過去に経験した人の割合はわからないのです。
この点を踏まえて、サイラス先生のご報告では、国勢調査と出生動向基本調査を合わせて用いることにより、人口に占める性交渉未経験者数の推移を明らかにしました。具体的には、独身者に限定すると、性交未経験率は(おそらく最新年調査では)男性で42%、女性で44.2%になるのですが、補正した数値は男性で24.3%、女性で23.7%となります。
その上で、補正前後のデータを用いて、アメリカとイギリスの性交経験率との比較を行なっています。その結果、日本の性交経験率は低い傾向にあるが、それは特に若年層において顕著で、壮年・中年にさしかかってくるにつれ、経験率のギャップは減少していくということがわかりました。また、独身者の比較よりも、人口全体に占める性交経験率の方が、米英との差が小さいこともわかりました。
佐藤先生の討論(というかコメント?)の後に、質疑応答がありました。私が印象に残ったのは、外生的なショックが出生行動に与える影響、及び生殖機能の差を生物学的に捉えるのか、あるいは地域や社会といった単位で捉えるかという点。前者については、地震といった災害の後は、妊娠も増えるが中絶も増えるという指摘がありました。あるいは、9.11の後に近隣に居住していた人のストレスレベルが上昇したという指摘もあります。歴史人口学の先生からは、そうした外生的なショックが出生児の性比に影響する可能性はあるのかという質問がありましたが、おそらく背景には、発言にもあった江戸時代の飢饉が出生行動に何らかの影響がある場合、どのような経路を想定できるのかという趣旨の中での質問だったのかなと思いました。人口学でも、自然災害が出生力や人の移動に対して与える影響を検討する研究が増えていると思うので、そういったことも背景にあるのかなと思いました。
次に、森木先生のようなご研究は、やはり日本(東アジア)と西欧(特に北西ヨーロッパや北米)では文化的な土壌が異なるという話が想定としてはあると思ったのですが、はたしてこれらが生物学的な生殖機能にまで、関連しているのでしょうか。この点については、質疑でも議論があったように思いますが、必ずしも生殖機能に関する地域間や都市間比較の研究は、そうした背景を踏まえて実施されているわけではないようです。報告でもあったように、農薬の利用の違いなどが要因として指摘されるにとどまっていたのは、リサーチギャップというか、単なる文化でもなく、あるいは単なる土地利用でもなく、制度的な背景があった上で、何らかの化学物質に人々が曝露されやすいことが、出生力に対して影響している、といった説明もあっていいような気がしました。
最後に感想になりますが、やはり環境ホルモンが生殖機能に与える影響については、知らないことが多かったので単純に勉強になりました。加えて、ある現象が、例えば今回の関心である出生なり、あるいは子どもの発達に影響する際に、社会学や人口学でよく検討される変数、例えばSESの変化や人々の価値観といった側面だけではなく、化学物質への曝露といった経路(パス)も想定できるのだということがわかったのが、収穫でした。結局のところ、私の中では複数のメカニズムを想定する際に必要な理論については、社会学的な先行研究に頼るばかりである必要はないという立場なので、あるアウトカム(少子化)に関心を持つ研究者が、分野の垣根を超えて議論できる、今回の研究会のような機会が、今後益々増えていけば良いなと思いました。
最後になりますが、中身の濃い企画を用意してくださった、企画された先生方、報告者の先生方に御礼申し上げます。
そんな花見日和の中、本日は社人研にて開催された日本人口学会の研究会に参加しました。
東日本地域部会の企画セッションとして開催された今回の研究会のタイトルは「少子化とセクシュアリティ」。ここでの「セクシュアリティ」とは、やや広めに捉えられており、出生と関連するような生物学的、心理学的、あるいは社会文化的な背景として考えられています。従来の少子化研究が、女性の社会進出、あるいは若年層の雇用環境の変化といった経済的な側面に偏っていたことに対して、今回は社会科学的な視点からは抜け落ちがちな、出生を性行動の結果として捉える視点、あるいは生殖活動を規定する妊孕力(fecundability、自然出生力)に影響するような生物学的な要因などが検討されました。
ちなみに、このセッションが開催された経緯としては、企画者の林玲子先生が国際人口学会(IUSSP)にて、佐藤龍三郎先生と松浦先生と話しながら、こういう研究が必要だよねという話になって、その後に開催が決まったらしい。IUSSPが開催されたのは11月冒頭なので、林先生の企画までのテンポの速さに驚くとともに、私もケープタウンで開催されたIUSSPには参加していたので、ディナーの場で3人が話しているのはお見かけしていました。あの場でそんな「悪だくみ」がされているとは思わず、企画の内容を知った時には驚いたものです。
さて、内容に入りたいと思います。学会ホームページにもほぼ同じものが載っていますが、当日の資料から題目を改めると、演者の先生方と報告タイトルは以下の通りです。
- 守泉理恵(国立社会保障・人口問題研究所)「日本における性行動をめぐる変化:出生動向基本調査の結果から」
- 岩本晃明(国際医療福祉大学/山王病院)「若者の精子の質低下を危惧する」
- 吉永淳(東洋大学)「内分泌かく乱物質等と妊孕力」
- 北村邦夫((一社)日本家族計画協会)「セックス嫌いな若者たち - その真相を探る:「第8回男女の生活と意識に関する調査」結果から」
- 松浦広明(松蔭大学)「セックス・テクノロジーの進歩の公衆衛生・人口問題への影響について」
- 森木美恵(国際基督教大学)「定位家族と生殖家族における親密性のあり方:北米、日本、東南アジアの比較を念頭に」
- ガズナヴィ・サイラス(東京大学医学系研究科国際保健政策学教室)「日本の性交渉経験無人数の推移:国内分析、国際比較」
このような、少子化をセクシュアリティの視点から検討する研究会は、今までほぼ例がなく(例外としては、会場にもいらした小西祥子先生が日本人口学会で何度か企画されてきた「出生の生物人口学」がありますが)、様々な分野の先生方が報告されることもあり、各先生が用いられている調査の紹介や、先行研究のまとめが中心で、やや記述的な研究、あるいは概要的なものが多かった印象です。
最初の守泉先生のご報告は、タイトルのように、社人研が実施している出生動向基本調査の結果をもとに、日本における性行動をめぐる変化が紹介したものでした。近年ほど、交際相手を持たない未婚者の割合が増加しているほか、性交経験率が近年の若年層で低下していること、夫婦における追加出生意図と避妊の実行率の関係が変化していることが指摘されました。
特に最後の点については、近年ほど、追加出生意図がないにもかかわらず避妊を実行していると答える人が減っているということで、「次子ができても構わない」と考える夫婦が増加している可能性や、自由回答や回答不詳との関係から、セックスレスのカップルが増加していることが背景にあるのではないかという解釈がありました。
2番目のご報告は岩本先生による男性生殖機能に関するものでした。欧米では、1930年からの50年間で、健常男性の精子数が減少したことが指摘されており、背景としては環境ホルモン(内分秘かく乱物質)の影響があるとされています。精子数の減少が火付け役となり、2000年ごろからSkakkebeakらによって環境ホルモンと生殖機能の低下を関連づけるTDS仮説が提唱され始めたことが紹介されました。
報告では、1カ国における男性の生殖機能のトレンドだけではなく、日本を含めた各国の比較、あるいは一つの国における地域間比較の研究例が紹介されました。例えばアメリカの4都市における男性の精子濃度を比較した研究では、もっとも質が低下していたのはミズーリであり、一方で最も低下していない、言い換えれば精子濃度が高い都市はニューヨークだったということです。この背景には、ミズーリのような土地は農地利用が多く、飲料水などを通じて、農地で使用された農薬が生殖機能に影響している可能性があるとされています。
3番目のご報告は吉永先生による内分秘かく乱物質と妊孕力の関係で、岩本先生が男性の生殖機能に焦点を当てていたのに対して、吉永先生は女性(あるいは女性が曝露する傾向にある物質)への言及が多かったように思われます。吉永先生の説明では、環境ホルモンという言葉に対して批判的な意見もあるとのことでしたが、今回はより一般的な環境ホルモンという言葉で事例が紹介されました。
環境ホルモンとは要するに、環境中に存在する化学物質のことだと考えられ、これらの物質が直接・間接に人間に曝露されることによって、人間の生殖機能に(主として悪い)影響を与えることが判明してきました。吉永先生の説明によると、まず環境ホルモンに曝されるのは実験室などで研究をする人々の場合であるとし、その次に、職業の特徴としてそうした物質に曝されてしまう職業曝露があるといいます。おそらく、前者の場合、化学物質それ自体を扱っており、リスクについても認識されているのだろうと思ったのですがが、後者の場合には、職業的な活動を行う結果として、意図せずに曝露してしまう可能性が高いということなのでしょうか。職業曝露の代表的な例としては農薬や鉛が挙げられており、これらを摂取することは、無精子症や不妊といった、明らかな生殖機能への悪影響が指摘されているようです。
実験室、職業ときて、より一般的な曝露の過程は、化学物質を含む製品を利用する場合ということです。具体的な例としては、魚の摂取(魚の体内には化学物質が蓄積されやすいとされる)、フタル酸エステル(スーパーなどで刺身や肉が包装されている、あの手のプラスチック製品に含まれる可塑剤)、及びパラベン(化粧品や日焼け止めに含まれる防腐剤)が挙げられた。フタル酸エステルはプラスチックを柔軟にする可塑剤なので、我々が生活している環境で触れない日はないらしく、例えば壁紙なんかにもたくさん含まれているらしいです。
これらの物質が、生殖機能に対してプラスの影響を与える効果はないわけですが、妊孕力などに悪影響があるかというと、研究によってまちまちの場合もあるということです。先生自身は、パブリケーションバイアスの可能性も踏まえながら、これらの物資の効果に対して慎重に検討されており、好感を持てました。
北村先生による4番目の報告では、日本家族計画協会が実施する「男女の生活と意識に関する調査」が紹介されました。調査事項としては、一部、社人研の出生動向とも重複していますが、報告では近年のカップルにおけるセックスレス化の議論に重きが置かれていました。貴重な調査を実施していただいているので、ぜひ、調査のローデータを社研のデータアーカイブに寄託していただきたいと、強く思った次第でございます。
休憩を挟んで、今回のセッションの立役者の一人である、松浦先生によるセックス・テクノロジーの進歩が公衆衛生や人口問題に与える影響についての報告がありました。ここでいう「セックス・テクノロジー」とは、具体的にはインターネット・ポルノグラフィーとVRなどを利用した新しいサービスのことで、これに対して報告において対置されたのは、人間の性行動の特殊性から生まれたと考えられる売春(prostitution)です。分析のモデルは、売春サービスと(インターネット)ポルノの消費が、代替的な関係にあるのか、それとも補完的な関係にあるのかというものです。要するに、ポルノが普及すれば、売春は減るのか、それとも関連は特にないのか(あるいは、ポルノをみて売春に興味を持つ?こともありそう)、いうことでしょう。
分析に用いたのは、アメリカの州レベルのパネルデータ(2008年〜2016年)で、この辺りの分析の手続きには、手堅さを感じました。ポルノ、売春とも、google trends dataを用いた検索数が変数化されていましたが、前者はアクセス数の多いポルノサイトの名前で、後者はprostitution/prostitutesの検索数でした。従属変数として、人口学的な変数(出生率や離婚率など)、犯罪、及び公衆衛生(売春など)が設定されました。分析結果から、ポルノサイトの検索数と有意な関連を持つのはこれらの変数のうち、売春の検索数のみであり、具体的にはポルノサイトの検索数が1%増加すると、売春に関連する検索数が0.56〜0.90%減少することがわかりました。及び、州レベルで性教育が実施されているかどうかは、これらの従属変数に対してどれも影響していないことも、ファインディングスとして付け加えられました。
6番目の報告者である森木先生は、文化人類学的な観点から日本のセックスレスについて考察する、研究プロジェクトの構想についてお話しいただきました。すでに北村先生の報告でも言及されていましたが、メディア、特に海外メディアにとって日本のカップルのセックスレスは、非常にセンセーショナルに報道された時期があります(画像はBBCのドキュメンタリーから)。
森木先生の問題関心としては、カップル間の性交渉が生じにくいとされる日本の文化的な土壌を文化人類学的に考察するというもので、具体的には西欧社会におけるカップル文化に示されるような生殖家族における親密性と、親子のタテの関係が重視される日本のようなていい家族としての親密性が比較されました。
以前、人口学会で森木先生の報告を聞いた時に非常に面白かったのは、日米における就寝文化の違いです。子どもが自分から嫌というまで、日本では親は一緒に寝る傾向にありますが(川の字就寝、あるいは同室就寝)、アメリカでは、どの調査でも親と寝る割合は数%程度で、大多数の子どもは幼い頃から一人で寝ることがわかっています。
森木先生の主張としては、「スキンシップ」という言葉が和製英語(というか日本語?)であることに示されるように、親子間の身体的な接触を通じたコミュニケーション(一緒にお風呂に入るなど)は非常に盛んであるといいます。これに加えて、キリスト教圏では自慰行為が倫理的に悪とされてきたのに対して、日本では単独の(solitary)な行為としての自慰行為に対する敷居が低かったことも指摘されました。
7番目の報告は、サイラス先生による日本における性交渉未経験者数の推移に関するものでした。社人研や日本家族計画協会の調査では、独身者に過去の性交渉経験について尋ねています。一方で、夫婦に対しては、現在のパートナーとの性交渉を尋ねているため、両者は似ているようで、異なることを聞いています。言い換えると、これらの調査だけでは、日本の人口に占める性交渉を過去に経験した人の割合はわからないのです。
この点を踏まえて、サイラス先生のご報告では、国勢調査と出生動向基本調査を合わせて用いることにより、人口に占める性交渉未経験者数の推移を明らかにしました。具体的には、独身者に限定すると、性交未経験率は(おそらく最新年調査では)男性で42%、女性で44.2%になるのですが、補正した数値は男性で24.3%、女性で23.7%となります。
その上で、補正前後のデータを用いて、アメリカとイギリスの性交経験率との比較を行なっています。その結果、日本の性交経験率は低い傾向にあるが、それは特に若年層において顕著で、壮年・中年にさしかかってくるにつれ、経験率のギャップは減少していくということがわかりました。また、独身者の比較よりも、人口全体に占める性交経験率の方が、米英との差が小さいこともわかりました。
佐藤先生の討論(というかコメント?)の後に、質疑応答がありました。私が印象に残ったのは、外生的なショックが出生行動に与える影響、及び生殖機能の差を生物学的に捉えるのか、あるいは地域や社会といった単位で捉えるかという点。前者については、地震といった災害の後は、妊娠も増えるが中絶も増えるという指摘がありました。あるいは、9.11の後に近隣に居住していた人のストレスレベルが上昇したという指摘もあります。歴史人口学の先生からは、そうした外生的なショックが出生児の性比に影響する可能性はあるのかという質問がありましたが、おそらく背景には、発言にもあった江戸時代の飢饉が出生行動に何らかの影響がある場合、どのような経路を想定できるのかという趣旨の中での質問だったのかなと思いました。人口学でも、自然災害が出生力や人の移動に対して与える影響を検討する研究が増えていると思うので、そういったことも背景にあるのかなと思いました。
次に、森木先生のようなご研究は、やはり日本(東アジア)と西欧(特に北西ヨーロッパや北米)では文化的な土壌が異なるという話が想定としてはあると思ったのですが、はたしてこれらが生物学的な生殖機能にまで、関連しているのでしょうか。この点については、質疑でも議論があったように思いますが、必ずしも生殖機能に関する地域間や都市間比較の研究は、そうした背景を踏まえて実施されているわけではないようです。報告でもあったように、農薬の利用の違いなどが要因として指摘されるにとどまっていたのは、リサーチギャップというか、単なる文化でもなく、あるいは単なる土地利用でもなく、制度的な背景があった上で、何らかの化学物質に人々が曝露されやすいことが、出生力に対して影響している、といった説明もあっていいような気がしました。
最後に感想になりますが、やはり環境ホルモンが生殖機能に与える影響については、知らないことが多かったので単純に勉強になりました。加えて、ある現象が、例えば今回の関心である出生なり、あるいは子どもの発達に影響する際に、社会学や人口学でよく検討される変数、例えばSESの変化や人々の価値観といった側面だけではなく、化学物質への曝露といった経路(パス)も想定できるのだということがわかったのが、収穫でした。結局のところ、私の中では複数のメカニズムを想定する際に必要な理論については、社会学的な先行研究に頼るばかりである必要はないという立場なので、あるアウトカム(少子化)に関心を持つ研究者が、分野の垣根を超えて議論できる、今回の研究会のような機会が、今後益々増えていけば良いなと思いました。
最後になりますが、中身の濃い企画を用意してくださった、企画された先生方、報告者の先生方に御礼申し上げます。
March 17, 2018
計量分析を用いた論文も社会的な構築物なのか?:経済学と政治学の再現性ポリシーの違い
*2018年10月31日追記
再現性ポリシーの概要と動向をまとめた論文が東大社研のリサーチペーパーとして出ました。詳細の議論を知りたい方はご覧ください。
打越文弥・三輪哲, 2018, 社会科学分野における再現性ポリシーの概要と今後の課題----経済学・政治学・社会学を中心としたレビュー, SSJ Data Archive Research Paper Series 66.
社会科学にも再現性(replication)の波がきています。経済学ではトップジャーナルの多くが、掲載の際にデータとプログラムの共有を求めるようになっていますし(How to Make Replication the Norm, Nature)、政治学でも2015年に46誌の共同声明の形で再現性ポリシーを持つことが宣言されています(Data Access and Research Transparency, DA-RT)。
再現性ポリシー(replication policy)とも呼ばれることもある、研究論文の分析結果の再現を目指すこの運動、定義はいくつかありますが、今回はさしあたり「分析に用いたデータとプログラムを公開することで、分析結果が再現される可能性を担保すること」としておきましょう。
ただし、この定義だとある重要な点、すなわち実際に分析結果を再現できるかをチェックする作業が抜け落ちています。これを検証(verification)と呼ぶことにしましょう。
データとプログラムを公開するだけでは、分析結果が再現できるかわからないではないか。その通りです。ただし、実際のところ、掲載までに分析結果が再現できるかをチェックする雑誌は多くありません。検証まで行うことで有名なのは、政治学のトップジャーナルAmerican Journal of Political Science(AJPS)ですが、この雑誌が再現性チェックを依頼しているノースカロライナ大学チャペルヒル校のオーダム社会科学研究所(the Odum Institute for Research in Social Science)では、AJPSの他にState Politics and Policy Quarterly、合計すると二つしか再現性のチェックを請け負っていません.経済学では、ほとんどの雑誌が再現性ポリシーを掲げていても、検証までは必須としていないのが現状です。
掲載の際に再現性チェックを行わないと、何が起こるのか。結局、分析結果が再現できない論文が掲載されてしまうことになります。若干ショッキングな数字かもしれませんが、先のNatureの記事では、出版時に再現性チェックを行わない経済学において、データとプログラムが提供されたとしても分析結果を完全に再現できたものが、わずか14%程度にとどまるとしています。
なぜ再現率がここまで低いのか。思いつく理由はいくつかありますが、それで全てを説明できる自信はありません。ただ、大きな理由の一つとして、経済学の雑誌においては掲載時に検証をせず、データとプログラムの提供だけで済ませてしまうことがあるのは、間違いないと考えられます。少なくとも、全ての雑誌がAJPSのように掲載時に再現性チェックを行えば、多少は再現率は上昇する気がしますよね。
なぜ掲載時に再現性チェックを行わないのか。この点は、私もまだよくわかっていないところがあります。社会学者のアンドリュー・アボット氏は再現性ポリシーに強硬に反対している論者の一人ですが、彼によれば、この数十年でソフトウェアの発展や早いキャリアからの論文投稿を推奨する流れが強まったことで、彼が長年編集長を務めてきたAmerican Journal of Sociologyへの投稿論文数が大きく増加したらしいです。そのような状況で、再現性ポリシーを導入すると、査読者の仕事がさらに増えることになり、結果的に査読自体の質が落ちる可能性を彼は危惧しています(Abbott 2007)。
ただ、再現性チェックを査読者が行う必要は、必ずしもありません。AJPSのように外部委託すれば良いのです。とすると、再現性ポリシーを掲げる雑誌が増えても、再現性チェックを行う雑誌が必ずしも増えていないのは、単にチェックを行うためにかかる費用が大きいからなのでしょうか。
もちろん、そういう金銭的、あるいは時間的な理由(AJPSのレポートによれば、再現性チェックに平均46.32日を要することが報告されています)で、再現性チェックが広がらないのかもしれませんが、今回は別の理由を考えてみたいと思います。
先ほど確認したように、再現用データやプログラムを共有したとしても分析結果を再現することは、非常に難しいです。この点を踏まえ、再現性ポリシーの意義を分析結果の厳密な検証(verification)という意味での再現(replicate)ではなく、異なるデータから似た結果を得ることを追求する意味での再現(reproduce)に見出しているのがMirowski and Sklivas(1991)であると考えられます。
Mirowski and Sklivas(1991)はDewald et al.(1986)の論文を引用しながら、論文の出版は、社会的なプロセスによって生み出されることを主張します。Dewald et al.(1986)は再現性ポリシーの古典的な論文の一つで、雑誌に掲載された論文の再現性が必ずしも高くなかった(というか、低かった)ことを指摘した、最初期の研究です。要約すると、1982年にJournal of Money, Credit and Banking(JMCB)誌が、直近のJMCBに掲載された論文の著者にデータとプログラムを提供してもらい、結果を再現できるか確かめるプロジェクトを開始しました。このプロジェクトの一環として,Dewald et al.(1986)はデータが提供された論文の分析結果の再現性を検討したのですが、データセットに誤りや情報の不足がなかったものは、わずか15%にとどまることが分かりました。この結果を受けて,論文が掲載されたAmerican Economic Reviewの同じ号において、編集委員会の方針が発表され、再現性に関する条件が著者に求められるようになるなど、この論文が経済学、広く言えば社会科学の再現性にもたらした影響は、小さくありません。
文献
再現性ポリシーの概要と動向をまとめた論文が東大社研のリサーチペーパーとして出ました。詳細の議論を知りたい方はご覧ください。
打越文弥・三輪哲, 2018, 社会科学分野における再現性ポリシーの概要と今後の課題----経済学・政治学・社会学を中心としたレビュー, SSJ Data Archive Research Paper Series 66.
社会科学にも再現性(replication)の波がきています。経済学ではトップジャーナルの多くが、掲載の際にデータとプログラムの共有を求めるようになっていますし(How to Make Replication the Norm, Nature)、政治学でも2015年に46誌の共同声明の形で再現性ポリシーを持つことが宣言されています(Data Access and Research Transparency, DA-RT)。
再現性ポリシー(replication policy)とも呼ばれることもある、研究論文の分析結果の再現を目指すこの運動、定義はいくつかありますが、今回はさしあたり「分析に用いたデータとプログラムを公開することで、分析結果が再現される可能性を担保すること」としておきましょう。
ただし、この定義だとある重要な点、すなわち実際に分析結果を再現できるかをチェックする作業が抜け落ちています。これを検証(verification)と呼ぶことにしましょう。
データとプログラムを公開するだけでは、分析結果が再現できるかわからないではないか。その通りです。ただし、実際のところ、掲載までに分析結果が再現できるかをチェックする雑誌は多くありません。検証まで行うことで有名なのは、政治学のトップジャーナルAmerican Journal of Political Science(AJPS)ですが、この雑誌が再現性チェックを依頼しているノースカロライナ大学チャペルヒル校のオーダム社会科学研究所(the Odum Institute for Research in Social Science)では、AJPSの他にState Politics and Policy Quarterly、合計すると二つしか再現性のチェックを請け負っていません.経済学では、ほとんどの雑誌が再現性ポリシーを掲げていても、検証までは必須としていないのが現状です。
掲載の際に再現性チェックを行わないと、何が起こるのか。結局、分析結果が再現できない論文が掲載されてしまうことになります。若干ショッキングな数字かもしれませんが、先のNatureの記事では、出版時に再現性チェックを行わない経済学において、データとプログラムが提供されたとしても分析結果を完全に再現できたものが、わずか14%程度にとどまるとしています。
なぜ再現率がここまで低いのか。思いつく理由はいくつかありますが、それで全てを説明できる自信はありません。ただ、大きな理由の一つとして、経済学の雑誌においては掲載時に検証をせず、データとプログラムの提供だけで済ませてしまうことがあるのは、間違いないと考えられます。少なくとも、全ての雑誌がAJPSのように掲載時に再現性チェックを行えば、多少は再現率は上昇する気がしますよね。
なぜ掲載時に再現性チェックを行わないのか。この点は、私もまだよくわかっていないところがあります。社会学者のアンドリュー・アボット氏は再現性ポリシーに強硬に反対している論者の一人ですが、彼によれば、この数十年でソフトウェアの発展や早いキャリアからの論文投稿を推奨する流れが強まったことで、彼が長年編集長を務めてきたAmerican Journal of Sociologyへの投稿論文数が大きく増加したらしいです。そのような状況で、再現性ポリシーを導入すると、査読者の仕事がさらに増えることになり、結果的に査読自体の質が落ちる可能性を彼は危惧しています(Abbott 2007)。
ただ、再現性チェックを査読者が行う必要は、必ずしもありません。AJPSのように外部委託すれば良いのです。とすると、再現性ポリシーを掲げる雑誌が増えても、再現性チェックを行う雑誌が必ずしも増えていないのは、単にチェックを行うためにかかる費用が大きいからなのでしょうか。
もちろん、そういう金銭的、あるいは時間的な理由(AJPSのレポートによれば、再現性チェックに平均46.32日を要することが報告されています)で、再現性チェックが広がらないのかもしれませんが、今回は別の理由を考えてみたいと思います。
先ほど確認したように、再現用データやプログラムを共有したとしても分析結果を再現することは、非常に難しいです。この点を踏まえ、再現性ポリシーの意義を分析結果の厳密な検証(verification)という意味での再現(replicate)ではなく、異なるデータから似た結果を得ることを追求する意味での再現(reproduce)に見出しているのがMirowski and Sklivas(1991)であると考えられます。
Mirowski and Sklivas(1991)はDewald et al.(1986)の論文を引用しながら、論文の出版は、社会的なプロセスによって生み出されることを主張します。Dewald et al.(1986)は再現性ポリシーの古典的な論文の一つで、雑誌に掲載された論文の再現性が必ずしも高くなかった(というか、低かった)ことを指摘した、最初期の研究です。要約すると、1982年にJournal of Money, Credit and Banking(JMCB)誌が、直近のJMCBに掲載された論文の著者にデータとプログラムを提供してもらい、結果を再現できるか確かめるプロジェクトを開始しました。このプロジェクトの一環として,Dewald et al.(1986)はデータが提供された論文の分析結果の再現性を検討したのですが、データセットに誤りや情報の不足がなかったものは、わずか15%にとどまることが分かりました。この結果を受けて,論文が掲載されたAmerican Economic Reviewの同じ号において、編集委員会の方針が発表され、再現性に関する条件が著者に求められるようになるなど、この論文が経済学、広く言えば社会科学の再現性にもたらした影響は、小さくありません。
というわけで、Dewald et al.(1986)のもたらした知見のインパクトはすごかったのですが、Mirowski and Sklivas(1991)は、このプロジェクトから、論文の出版過程が社会的な要因に左右されていることがわかると指摘します。例えば、Dewald et al.(1986)では、分析結果の再現の過程で、再現者が原著者にコンタクトをとる他、データセットの訂正や、推定に用いたアルゴリズムにおける丸め(rounding)の違いなどが再現性チェックの過程でみられたと報告されています。
Mirowski and Sklivas(1991)によれば、これらの事実は、論文として提出された分析結果が時間的に不変で、場所や人に依存しない客観的なものではなく、むしろ多分に社会的・主観的な要素を含んだものであることを示唆するというのです。要するに、分析結果を再現しようとしても、人と人の相互作用によって結果が異なって提示されたり、あるいは用いているソフトウェアやアルゴリズムといった環境的な要因によっても、結果が変わってしまう可能性があり、とても客観的な事実であるとは言えないということですね。
以上より、Mirowski and Sklivas(1991)は、これまで蓄積されてきた研究を客観的に検証できない以上、それらの知見を認めた上で、異なる対象に対しても知見が確認できるかを、さらなる経験的な研究から確かめることの方が重要であると主張します.
さて、この立場を敷衍すると以下のようなことが考えられはしないでしょうか。一方で、出版時に再現性チェックをするAJPSのような政治学のジャーナルは分析結果が完全に再現できるという検証主義的な立場をとっているように見えます。他方で、提供を求めるだけの経済学のジャーナルは、完全な再現は難しいと考える構築主義的な視点に立っているのではないかと。
このように考えると、一見似たような再現性ポリシーを掲げながらも、実際のところ、両者は全く異なる科学観に立脚している可能性があります。
以上の議論は、一口に再現性といっても、いくつかのヴァリエーションがあることを示唆するわけですが(なので、冒頭で再現性の定義をあらかじめ緩くしておきました)、最後に、このような変種をどう分類できるかを確認しておきたいと思います。
この点については、Freese and Peterson(2017)のannual reviewで紹介された四象限図式が便利です(図参照)。この論文では、計量社会科学における再現性の形態が、(a)用いるデータが同じかどうか、及び(b)用いる手法が同じかどうかによって4つに分けられるとしています。
この二軸で考えると、(1)同じデータを同じ手法で検証することは「検証可能性」(Verifiability)となり(2)同じデータを異なる手法を用いて同じ結果が得られるかを検証することは「頑健性」(Robustness)となります。
これに対して、(3)異なるデータを同じ手法を用いて検証することは「反復可能性」(Repeatability)とされ、最後に(4)異なるデータを異なる手法を用いて同じ結果が得られれば「一般化」(Generalization)となります。
AJPS、あるいは政治学における再現性ポリシーを主導したギャリー・キング氏らの再現性ポリシーは、検証可能性に重きを置いたものであると言えそうです。これに対して、Mirowski and Sklivas(1991)、あるいは(これは私の解釈が強いですが)データとプログラムの提供のみが義務付けられる傾向にある経済学における再現性は、頑健性、あるいは反復可能性を重視することで、知見をより一貫して、広い対象に適用することに重きを置いている可能性があります。科学における「再現」(replicate)とは,厳密には同じ母集団から異なるサンプルを抽出して、同じ結果が確認されるかを指すものであるため(Herrnson 1995)、経済学的な「再現」の考え方の方が、replicateの元来の意味に近いのかもしれません。
図:計量社会科学における再現性の諸形態 |
文献
Abbott, A., 2007. ‘‘Notes on Replication.’’ Sociological Methods and Research 36:210-19.
Herrnson, P. S. 1995. ‘‘Replication, Verification, Secondary Analysis, and Data Collection in Political Science.’’ PS: Political Science and Politics 28(3):452-55.
Mirowski, P. and S. Sklivas. 1991. “Why Econometricians Don't Replicate (Although They Do Reproduce),” Review of Political Economy, 3(2): 146-163.
Dewald, W. G., Thursby, J. G., and Anderson, R. G. 1986. “Replication in Empirical Economics: The Journal of Money, Credit and Banking Project.” The American Economic Review, 587-603.
Freese, J. and D. Peterson. 2017. “Replication in Social Science,” Annual Review of Sociology. 43:147–65.
March 16, 2018
松本三和夫先生最終講義
「自分の研究はこれしか進んでないのに、周りにこんなに人がいるのに気づいた」
本日の退職記念パーティーの最後に、松本先生が仰った言葉です。今日の最終講義を通じて、先生の研究者としての姿勢と、研究活動を通じて先生が築いたネットワークの広さの二つを言い表す言葉だなと思いました。
本日16時より、弊研究室の松本三和夫先生の退職を記念した最終講義がありました(*1)。天気は小雨気味でしたが、花粉の飛来が激しいこの季節、個人的にはこれくらいの天気での方が何も苦労なく外に出ることができるのでよかったです。
16時をわずかに回った頃、法文2号館の一番大教室に入りましたが、その時には既に教室は人でいっぱいでした。やや仕方ない気持ちで(?)前方に座ると、いつも大きく見える松本先生が、教壇に立っているのでさらに大きく見えます。
座り始めて、気づきました。先生の講義を受けたことがなかったのです。先生が冒頭に紹介された、科学技術社会学の視点からみた技術発展の歴史の話についても、知りません。福島原発事故の話を経た構造災の話は少し本で読みましたが、最後の戦前の軍学連携の話も、初めて聞きました。考えてみると、私は先生の専門について、ほとんど知らないまま今日を迎えたのでした。
それではなぜ、私は先生の最終講義に、義務感からではなく自発的に、来たのでしょうか。それは、先生のゼミで学んだ「理論観」というようなものが、今の私の研究にも、小さくない影響を与えているからだと思います。
学部時代は、松本先生の授業を受けることはなかったのですが、卒論を書き終えて、自分の研究が、結局のところ変数と変数の関連を見つけ出す一種のゲームに思えてしまうことがありました。それは、やや過激な言い方では、昨日のシンポジウムでも出た変数(主義)社会学と呼ばれるものに等しいです。さらにいえば、少なくない先行研究において、結果の解釈がアドホックにみえることがありました。具体的には、出て来た結果を解釈して、それをもとにして、問いと仮説を作っていくような姿勢を感じたのでした。こういう結果の解釈の仕方は、今日の最終講義でいえば後知恵で考える、ということに近いだろうと思います。
その当時、私なりに理論と経験的な研究の関係はどのようなものなのだろうか、あるいは仮説はどのようにすれば検証したことになるのだろうか、といった問題について、特に解もなく、悶々と不満めいたものを抱えていました。その話を偶然、先生にする機会があったのですが、先生の返事は「であればゼミに来るといい」という一言でした。それは、修士課程になる春のことです。ちなみに、先の結果から解釈することの問題点は、先生に言わせれば「絶対に勝てるゲーム」みたいなものに等しい、ということでした。結果を見た後で、結果に適合的な仮説を考えれば、絶対に仮説は検証できてしまうことになるからです。
というわけで、一年間、先生のゼミに出て、以上の不満を解消するための勉強が始まりました。結論としては、その前後で関心を持ち始めていた分析社会学の考え方に、腑に落ちるところがあり、夏に書評論文を書き始め、年末に掲載される頃には、自分なりにどうやって定量的なデータを分析し、解釈していくべきかについての立場のようなものが、でき始めてきたと記憶しています。先生のゼミでDissecting the socialを輪読したことも、理解の一助になりました。
というわけで、私は松本先生の専門には詳しくないし、著書も通読したことはないのですが、それでも先生に学恩を感じてるのは、ゼミで難しい理論の論文を輪読して、色々勉強になったからです。今日の最終講義で、改めて社会学の良さは、個々の専門が異なっていても、理論と方法論では一緒に議論しあえる、寛容さにあると思いました。
松本先生の研究対象は、私が対象とする家族や階層に比べても、研究者と対象の距離が近くなりすぎることがあるのだと思います。今日の講義でも質問があったように、科学技術に対しては、サイエンスコミュニケーションなり、アウトリーチなり、いろんな言葉はありますが、研究者にも専門知とローカル知の媒介を担うことが期待される可能性が高まっていくのではないかと思いました。先生も、そうした仲介者の存在は今後ますます重要になってくると考えていると思いましたが、自身がそうした役割を担うことには、「やり残した仕事がある」とやんわり答えていましたが、本音のところでは研究者は研究に徹するべきであると考えているようにも見えました。
実践を求められやすい分野を研究しているにもかかわらず、あるいはであるがゆえに、先生は研究者に徹しようとしている。それが元来からある研究者「肌」なのか、それともそう努めようとしているのかはわかりませんが、そういう姿勢が冒頭で紹介した「自分の研究はこれしか進んでない」という、控えめな表現につながるのかなと、思いました。
ただ、松本先生は研究に徹するだけではなく、先生自身で率先されて科学・技術・社会の会や科学社会学会を創設し、できる限り多様なの利害をもつ人との議論を興そうと試みてきたことも事実だと思います。その結果として、「周りにこんなに人がいる」という言葉に表されるように、本日の最終講義に社会学者だけではなく、工学系をはじめとする多くの分野からなる研究者、あるいは研究者に限定されない幅広いバックグラウンドの人が集まったのだと思いました。
ということで、先生の研究、そして自分の研究についても、想起することのできた、よい1日でした。先生の今後益々のご活躍を祈念しております。
(*1)非常に細かいことですが、「退官」ではなく「退職」が正確です。国立大学法人の「教員」は、文部省の「教官」ではないからです。
本日の退職記念パーティーの最後に、松本先生が仰った言葉です。今日の最終講義を通じて、先生の研究者としての姿勢と、研究活動を通じて先生が築いたネットワークの広さの二つを言い表す言葉だなと思いました。
本日16時より、弊研究室の松本三和夫先生の退職を記念した最終講義がありました(*1)。天気は小雨気味でしたが、花粉の飛来が激しいこの季節、個人的にはこれくらいの天気での方が何も苦労なく外に出ることができるのでよかったです。
16時をわずかに回った頃、法文2号館の一番大教室に入りましたが、その時には既に教室は人でいっぱいでした。やや仕方ない気持ちで(?)前方に座ると、いつも大きく見える松本先生が、教壇に立っているのでさらに大きく見えます。
座り始めて、気づきました。先生の講義を受けたことがなかったのです。先生が冒頭に紹介された、科学技術社会学の視点からみた技術発展の歴史の話についても、知りません。福島原発事故の話を経た構造災の話は少し本で読みましたが、最後の戦前の軍学連携の話も、初めて聞きました。考えてみると、私は先生の専門について、ほとんど知らないまま今日を迎えたのでした。
それではなぜ、私は先生の最終講義に、義務感からではなく自発的に、来たのでしょうか。それは、先生のゼミで学んだ「理論観」というようなものが、今の私の研究にも、小さくない影響を与えているからだと思います。
学部時代は、松本先生の授業を受けることはなかったのですが、卒論を書き終えて、自分の研究が、結局のところ変数と変数の関連を見つけ出す一種のゲームに思えてしまうことがありました。それは、やや過激な言い方では、昨日のシンポジウムでも出た変数(主義)社会学と呼ばれるものに等しいです。さらにいえば、少なくない先行研究において、結果の解釈がアドホックにみえることがありました。具体的には、出て来た結果を解釈して、それをもとにして、問いと仮説を作っていくような姿勢を感じたのでした。こういう結果の解釈の仕方は、今日の最終講義でいえば後知恵で考える、ということに近いだろうと思います。
その当時、私なりに理論と経験的な研究の関係はどのようなものなのだろうか、あるいは仮説はどのようにすれば検証したことになるのだろうか、といった問題について、特に解もなく、悶々と不満めいたものを抱えていました。その話を偶然、先生にする機会があったのですが、先生の返事は「であればゼミに来るといい」という一言でした。それは、修士課程になる春のことです。ちなみに、先の結果から解釈することの問題点は、先生に言わせれば「絶対に勝てるゲーム」みたいなものに等しい、ということでした。結果を見た後で、結果に適合的な仮説を考えれば、絶対に仮説は検証できてしまうことになるからです。
というわけで、一年間、先生のゼミに出て、以上の不満を解消するための勉強が始まりました。結論としては、その前後で関心を持ち始めていた分析社会学の考え方に、腑に落ちるところがあり、夏に書評論文を書き始め、年末に掲載される頃には、自分なりにどうやって定量的なデータを分析し、解釈していくべきかについての立場のようなものが、でき始めてきたと記憶しています。先生のゼミでDissecting the socialを輪読したことも、理解の一助になりました。
というわけで、私は松本先生の専門には詳しくないし、著書も通読したことはないのですが、それでも先生に学恩を感じてるのは、ゼミで難しい理論の論文を輪読して、色々勉強になったからです。今日の最終講義で、改めて社会学の良さは、個々の専門が異なっていても、理論と方法論では一緒に議論しあえる、寛容さにあると思いました。
松本先生の研究対象は、私が対象とする家族や階層に比べても、研究者と対象の距離が近くなりすぎることがあるのだと思います。今日の講義でも質問があったように、科学技術に対しては、サイエンスコミュニケーションなり、アウトリーチなり、いろんな言葉はありますが、研究者にも専門知とローカル知の媒介を担うことが期待される可能性が高まっていくのではないかと思いました。先生も、そうした仲介者の存在は今後ますます重要になってくると考えていると思いましたが、自身がそうした役割を担うことには、「やり残した仕事がある」とやんわり答えていましたが、本音のところでは研究者は研究に徹するべきであると考えているようにも見えました。
実践を求められやすい分野を研究しているにもかかわらず、あるいはであるがゆえに、先生は研究者に徹しようとしている。それが元来からある研究者「肌」なのか、それともそう努めようとしているのかはわかりませんが、そういう姿勢が冒頭で紹介した「自分の研究はこれしか進んでない」という、控えめな表現につながるのかなと、思いました。
ただ、松本先生は研究に徹するだけではなく、先生自身で率先されて科学・技術・社会の会や科学社会学会を創設し、できる限り多様なの利害をもつ人との議論を興そうと試みてきたことも事実だと思います。その結果として、「周りにこんなに人がいる」という言葉に表されるように、本日の最終講義に社会学者だけではなく、工学系をはじめとする多くの分野からなる研究者、あるいは研究者に限定されない幅広いバックグラウンドの人が集まったのだと思いました。
ということで、先生の研究、そして自分の研究についても、想起することのできた、よい1日でした。先生の今後益々のご活躍を祈念しております。
(*1)非常に細かいことですが、「退官」ではなく「退職」が正確です。国立大学法人の「教員」は、文部省の「教官」ではないからです。
March 15, 2018
第65回日本数理社会学会に参加して
3月13-15日で成蹊大学で開催された日本数理社会学会に参加してきました。12日にアメリカから帰国して、13日は報告の用意をしていたので、13日のワンステップアップセミナーには出ずに14日から参加。
今回は口頭報告一つ、ポスター報告一つ、それと開催校シンポジウムの討論者を務めました。口頭は、国勢調査の公開データを用いた性別職域分離の数理に関する報告、ポスターは再現性ポリシーに関するものでした。両報告について、先生方から貴重なコメントをいただけましたので、論文に反映できればと思います。
ポスターについては、比較的、ベテランの先生から多くコメントをいただけたのが印象的でした。言い換えると、普段話しているような院生の方は、あまりきてくれませんでいた。もしかすると、雑誌の査読・編集や、日頃の教育の場面で分析結果の再現性について考える機会が多いのかもしれません。
ポスター報告でいただいたコメントから、さらに考えなくてはいけない、あるいは強調しなくてはいけないなと思ったこととして、以下の点が挙げられると思いました。
まず、再現性ポリシーの要点は、分析結果が再現される可能性を担保するということです。AJSの編集長を長く務め、再現性ポリシーに反対する社会学者のAndrew Abbottは、再現性ポリシーが査読者の負担を増やすことにつながると批判します。しかし、他の分野では、掲載が決まった論文のデータとコードを公開し、再現するのは論文に関心のある一般研究者というモデルがあり、そのモデルでは全ての論文が再現性チェックをされるわけではありません。ただし、再現される可能性には晒されている点は、どの論文も共通です。Abbottらは「誰がチェックをするのか」に関して批判をするわけですが、「いつかチェックされるかもしれない」ことの方が重要であると強調できれば、再現性ポリシーに対する反論も少なくなるような気がしました。
次に、社会学において再現性ポリシーが発展しない可能性として、質的研究が多いからではないかという指摘をいただきました。もちろん、この点自体は経験的に検証できるものではありません。しかし、このコメントを受けて、政治学や経済学のシステムの丸輸入ではなく、質的研究も少なくない社会学なりの再現性ポリシーを構想する必要性を感じました。
最後が、既存のデータアーカイブとの関係です。dataverseには必ずしも調査に用いた質問紙までレポジトリに格納する必要はありませんが(論文の結果が再現できるかが問題なので)、広く分析結果の再現性を考える際に、他のデータで結果が再現できない場合、その理由の一つに調査で用いた質問の聞き方が異なる可能性もあります。こういった調査の具体的な点については、readmeファイルに書くこともできると思いますが、データのアーカイブ自体はICPSRなどが今度もになっていくことが必要だろうと考えました。また、dataverseにもharvested ICPSRのようにICPSRに保存されているデータのリンクもあるので、両者の協働関係についても、論文中で書く必要を感じました。
続いて、分析社会学について。シンポジウムに参加して、あるいは懇親会でいただいた質問を踏まえて、以下のようなことを考えました。
私は変数社会学批判から分析社会学に関心を持ったクチなので、正直、分析社会学とは何か(=合理的選択と何が違うのか)という話にあまり価値を置いていません。シンポジウムなどで「何が違うのか」という質問をいただいたことにより、定義論争よりは、ツールとしての側面に、分析社会学の良さがあると改めて思いました。ツールというのは、具体的には理論と実証の関係について一連の手続きを提供している点です。
これを踏まえて、分析社会学をかじっておくと、どのようなメリットがあるのか。認識的なメリットとしては、分析社会学的な視点(に賛同するかは別として)を知っておけば、一見すると似たような計量分析をしている論文も、どういったメカニズムを想定しつつ分析をしているかに関して、多少のグラデーションがあるように見えてきます。具体的には、変数間の関連を説明する何らかのメカニズムを(複数)考えながら検証しようとしているというものと、説明変数AはアウトカムBに何らかの影響はあるだろうと考えるのとでは、理論的なベースの厚さが異なります。さしあたりの利得は、こういう点にあると思いました。
もう一つの利得は、計量分析から得られたパラメータをもとに生成的なモデルをたててメカニズムを検証するという手続きを提供している点にあると思いますが、これはまだ自分ができていない点です。ひとまずの課題として、人口学研究におけるABMについて勉強したいと思います。
2日間、学会を十分楽しめました。JAMSの良さは、修士の頃から積極的に報告することをよしとする寛容さになると思います。今回も、東京だけではなく大阪や仙台から多くの院生が参加しており、彼らから刺激を受けることも多かったです。今後も、JAMSにコミットしていければと思いました。最後に、大会実行委員長の渡邉大輔先生をはじめ、大会の運営に携われた全ての方に感謝申し上げます。
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以下は、追記で分析社会学シンポジウムにおいて私が述べたコメントの要旨(メモ)です。
3人の先生方の発表資料をいただきながらコメントを考えました。今回は、瀧川先生の報告から出発して、他のお二人の先生の報告にも開く形で、コメントさせていただきたいと思います。
瀧川先生の報告は「因果推論と分析社会学は協働することができる」という趣旨だったと思います。その主張の根拠となる先生が提示された「連続モデル」という考え方は、私には非常に興味深かったです。というのも、私はどちらかというと「分離モデル」に近い考えに立っていたからでした。
しかしながら、報告を聞いた上でも、なお私は「分離モデル」の立場に立つべきだろうと考えます。因果推論の実践と分析社会学的な考えの間は断絶があるためです。
この断絶について理解するために、「STUVAの仮定」を紹介させていただきたいと思います。この仮定とは、要するに、因果推論をする際に必要な処置(treatment)の効果が時間的な条件や、空間的に独立であることです。言い換えると、処置を受ける人の分布や過程に関わらずに、処置の効果が一定であるというものです。この仮定が満たされるものとして、よく頭痛薬の例が用いられます。Aさんが頭痛薬を処置として服用すれば、アウトカムとして症状の改善が期待できますが、これはBさんが頭痛薬を飲むか飲まないかに関わらないと考えられます。
社会科学において関心を持たれる処置効果の場合、この仮定が満たされないことがあります。例として、飯田先生の報告で説明があった、物質Xの使用を制限する制度の効果について考えてみましょう。飯田先生のご報告では、制度の効果のメカニズムを考える際に、「多くの人が使用を控えているために自分の控えたほうがいいのではないか」という信念形成の側面が指摘されました。したがって、個人の周囲でどれぐらいの人が使用を控えているかによって、制度の効果は異なってくると考えられます。
さて、因果推論においては、STUVAの仮定が守られることが重要なのですが、私の主張は、この仮定を置かないところに分析社会学の特徴があるというものです。STUVAの仮定とは、言い換えると、いつ、どこでも、誰が処置を受けても、処置の効果が一定であることといえるでしょう。しかしながら、永吉先生の報告にもあったように、分析社会学の主眼はあくまで「実際に起こった現象を説明する」ことにあります。そのため、STUVAの仮定のような社会文化的なコンテクストのない議論と、分析社会学の想定には、距離があると考えられます。
以上の議論を踏まえると、分析社会学における「理論」の役割は、実際に生じた現象の説明をする際の手がかりを与えるものであると考えられます。そのため、飯田先生の報告で言及された理論と予測の関係ですが、現象の説明を重視する分析社会学にとって、理論は予測の正確さで評価されるものではないと考えています。
瀧川先生のご報告は、因果推論との比較で、結果的に改めて分析社会学の特徴を浮き彫りにするものでした。他のお二人の先生方の報告も、分析社会学的な考えに立った時の、「説明」や「理論」の役割に関する指摘でした。以上が、報告を受けた上での私のコメントになります。
今回は口頭報告一つ、ポスター報告一つ、それと開催校シンポジウムの討論者を務めました。口頭は、国勢調査の公開データを用いた性別職域分離の数理に関する報告、ポスターは再現性ポリシーに関するものでした。両報告について、先生方から貴重なコメントをいただけましたので、論文に反映できればと思います。
ポスターについては、比較的、ベテランの先生から多くコメントをいただけたのが印象的でした。言い換えると、普段話しているような院生の方は、あまりきてくれませんでいた。もしかすると、雑誌の査読・編集や、日頃の教育の場面で分析結果の再現性について考える機会が多いのかもしれません。
ポスター報告でいただいたコメントから、さらに考えなくてはいけない、あるいは強調しなくてはいけないなと思ったこととして、以下の点が挙げられると思いました。
まず、再現性ポリシーの要点は、分析結果が再現される可能性を担保するということです。AJSの編集長を長く務め、再現性ポリシーに反対する社会学者のAndrew Abbottは、再現性ポリシーが査読者の負担を増やすことにつながると批判します。しかし、他の分野では、掲載が決まった論文のデータとコードを公開し、再現するのは論文に関心のある一般研究者というモデルがあり、そのモデルでは全ての論文が再現性チェックをされるわけではありません。ただし、再現される可能性には晒されている点は、どの論文も共通です。Abbottらは「誰がチェックをするのか」に関して批判をするわけですが、「いつかチェックされるかもしれない」ことの方が重要であると強調できれば、再現性ポリシーに対する反論も少なくなるような気がしました。
次に、社会学において再現性ポリシーが発展しない可能性として、質的研究が多いからではないかという指摘をいただきました。もちろん、この点自体は経験的に検証できるものではありません。しかし、このコメントを受けて、政治学や経済学のシステムの丸輸入ではなく、質的研究も少なくない社会学なりの再現性ポリシーを構想する必要性を感じました。
最後が、既存のデータアーカイブとの関係です。dataverseには必ずしも調査に用いた質問紙までレポジトリに格納する必要はありませんが(論文の結果が再現できるかが問題なので)、広く分析結果の再現性を考える際に、他のデータで結果が再現できない場合、その理由の一つに調査で用いた質問の聞き方が異なる可能性もあります。こういった調査の具体的な点については、readmeファイルに書くこともできると思いますが、データのアーカイブ自体はICPSRなどが今度もになっていくことが必要だろうと考えました。また、dataverseにもharvested ICPSRのようにICPSRに保存されているデータのリンクもあるので、両者の協働関係についても、論文中で書く必要を感じました。
続いて、分析社会学について。シンポジウムに参加して、あるいは懇親会でいただいた質問を踏まえて、以下のようなことを考えました。
私は変数社会学批判から分析社会学に関心を持ったクチなので、正直、分析社会学とは何か(=合理的選択と何が違うのか)という話にあまり価値を置いていません。シンポジウムなどで「何が違うのか」という質問をいただいたことにより、定義論争よりは、ツールとしての側面に、分析社会学の良さがあると改めて思いました。ツールというのは、具体的には理論と実証の関係について一連の手続きを提供している点です。
これを踏まえて、分析社会学をかじっておくと、どのようなメリットがあるのか。認識的なメリットとしては、分析社会学的な視点(に賛同するかは別として)を知っておけば、一見すると似たような計量分析をしている論文も、どういったメカニズムを想定しつつ分析をしているかに関して、多少のグラデーションがあるように見えてきます。具体的には、変数間の関連を説明する何らかのメカニズムを(複数)考えながら検証しようとしているというものと、説明変数AはアウトカムBに何らかの影響はあるだろうと考えるのとでは、理論的なベースの厚さが異なります。さしあたりの利得は、こういう点にあると思いました。
もう一つの利得は、計量分析から得られたパラメータをもとに生成的なモデルをたててメカニズムを検証するという手続きを提供している点にあると思いますが、これはまだ自分ができていない点です。ひとまずの課題として、人口学研究におけるABMについて勉強したいと思います。
2日間、学会を十分楽しめました。JAMSの良さは、修士の頃から積極的に報告することをよしとする寛容さになると思います。今回も、東京だけではなく大阪や仙台から多くの院生が参加しており、彼らから刺激を受けることも多かったです。今後も、JAMSにコミットしていければと思いました。最後に、大会実行委員長の渡邉大輔先生をはじめ、大会の運営に携われた全ての方に感謝申し上げます。
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以下は、追記で分析社会学シンポジウムにおいて私が述べたコメントの要旨(メモ)です。
3人の先生方の発表資料をいただきながらコメントを考えました。今回は、瀧川先生の報告から出発して、他のお二人の先生の報告にも開く形で、コメントさせていただきたいと思います。
瀧川先生の報告は「因果推論と分析社会学は協働することができる」という趣旨だったと思います。その主張の根拠となる先生が提示された「連続モデル」という考え方は、私には非常に興味深かったです。というのも、私はどちらかというと「分離モデル」に近い考えに立っていたからでした。
しかしながら、報告を聞いた上でも、なお私は「分離モデル」の立場に立つべきだろうと考えます。因果推論の実践と分析社会学的な考えの間は断絶があるためです。
この断絶について理解するために、「STUVAの仮定」を紹介させていただきたいと思います。この仮定とは、要するに、因果推論をする際に必要な処置(treatment)の効果が時間的な条件や、空間的に独立であることです。言い換えると、処置を受ける人の分布や過程に関わらずに、処置の効果が一定であるというものです。この仮定が満たされるものとして、よく頭痛薬の例が用いられます。Aさんが頭痛薬を処置として服用すれば、アウトカムとして症状の改善が期待できますが、これはBさんが頭痛薬を飲むか飲まないかに関わらないと考えられます。
社会科学において関心を持たれる処置効果の場合、この仮定が満たされないことがあります。例として、飯田先生の報告で説明があった、物質Xの使用を制限する制度の効果について考えてみましょう。飯田先生のご報告では、制度の効果のメカニズムを考える際に、「多くの人が使用を控えているために自分の控えたほうがいいのではないか」という信念形成の側面が指摘されました。したがって、個人の周囲でどれぐらいの人が使用を控えているかによって、制度の効果は異なってくると考えられます。
さて、因果推論においては、STUVAの仮定が守られることが重要なのですが、私の主張は、この仮定を置かないところに分析社会学の特徴があるというものです。STUVAの仮定とは、言い換えると、いつ、どこでも、誰が処置を受けても、処置の効果が一定であることといえるでしょう。しかしながら、永吉先生の報告にもあったように、分析社会学の主眼はあくまで「実際に起こった現象を説明する」ことにあります。そのため、STUVAの仮定のような社会文化的なコンテクストのない議論と、分析社会学の想定には、距離があると考えられます。
以上の議論を踏まえると、分析社会学における「理論」の役割は、実際に生じた現象の説明をする際の手がかりを与えるものであると考えられます。そのため、飯田先生の報告で言及された理論と予測の関係ですが、現象の説明を重視する分析社会学にとって、理論は予測の正確さで評価されるものではないと考えています。
瀧川先生のご報告は、因果推論との比較で、結果的に改めて分析社会学の特徴を浮き彫りにするものでした。他のお二人の先生方の報告も、分析社会学的な考えに立った時の、「説明」や「理論」の役割に関する指摘でした。以上が、報告を受けた上での私のコメントになります。
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衝撃のSAGEどらやき(おいしかったです) |
March 12, 2018
マディソン旅行記6日目
6日目は二つのイベントに参加。一つ目はMRRCという組織が開いているランチ。MRRCというのはMinority Recruitment and Retention Committee の略で、UW-Madisonの社会学部にいるマイノリティ教員、スタッフ、学生の組織である。ここでいうマイノリティとは、'Historically Underrepresented Groups (in the United States)'のことで、略してHUGSと呼ばれたりすることもあるらしい。友人によるとHUGSにアジア系、具体的にはアメリカで差別を受けて来た日系や中華系を含めるかについては、議論があるらしい。
MRRCのメンバーには韓国系アメリカ人や中韓の留学生も多く所属しているので、あまりこの点は問題になっていないのかもしれない。ゆるく非白人系コミュニティと捉えるのが良さそうである。MRRCからトラベルグラントなども出ているようで、メリットは色々とありそうだが、一学期に7回ミーティングがあるということで、学業とのバランスが難しそうかもしれないという印象を持った。
大学から10分ほど車で走ったところにある郊外型のレストランのいちスペースを貸し切って、昼食と簡単なミーティングがあった。集まりにはファカルティの先生も2名いて、ざっくばらんに、この後あるハウジングツアーの話や、研究関心について話した。
終了後、社会科学部棟に移動して、prospective studentsと一緒に現役の学生の案内のもと、ハウジングツアーに出かけた。住居を選ぶ際の基準としては、大学が運営しているものか民間の個人なり企業が提供しているものか、及び大学から近くにあるか、郊外にあるかの2つがあると考えるのがよさそうである(更にいえば、郊外も東はアメリカ白人系が多いが西がアジア系の留学生が多い、という特徴もあるらしい)。私は最初、大学が提供するキャンパス内にあるHallを考えていたのだが、どうやらHallのほとんどは学部生が住むようで、研究に集中したい院生にはあまり勧められないということだった。マンチェスターにいた時も、食事付きのHallに住んでいたが、確かに夜中に騒ぎ出す学生もいたり、その点は似ているなと思った。
というわけで、大学が提供してくれる住居としてはHallではなくApartmentを選択する院生が多いようである。Hallと比べてApartmentの特徴は、郊外にあること、食事付きではないこと、Hallのような学生同士のイベントがないことにあると思う。院生の意見としては、静かに研究したいということであればApartmentに住む方がよいという印象を持った。Apartmentにも、シングルか、部屋を2-3人でシェアするかによって家賃も変わってくるので、考えなくてはいけない。
Apartmentは3種類しかないが、今回案内されたのは、(留学生の)院生が住む際に最もポピュラーというEagle Heightsだった。google mapによれば待ち時間含めバスでおよそ20分、徒歩で40分という距離。部屋を見せてくれた院生によればバスで30分、徒歩で50分だった。電気代や光熱水費が全て家賃に含まれているのはよいなと思ったが、シングルでは家賃をみると775ドル、来年度からは814ドルに値上がりするということで、物価が安いと聞いていたマディソンの価格としては驚いた。2人でシェアするタイプの部屋の場合には、家賃は1,059ドルなので、折半すれば5万円とちょっとである。
その次に、いくつか民間が提供している部屋を見せてもらった(部屋を見せてくれるのも、全員学部の院生である)。3つ案内された部屋の内訳としては(1)夫婦で住んでいて東部の郊外に家を買った、(2)パートナーと一緒に大学近くのアパートを賃貸、(3)Coopの3種類だった。また、今回ホストをしてもらった院生の家は、東部のバスで20分くらいいったところにある住宅地の一軒家だった(仕事をしている人や他の院生とシェアしているらしい)。
仕事を持っている配偶者がいれば、家を買うことも選択肢に入るだろうが、私にとって現実的なのは、大学のアパートか、あるいは一軒家のシェアだろう。ミシガンにいた時には1ヶ月間Coopに住むことを選択したが、長期で住む場合にはCoopのもつ食材の共同購入や調理器具のシェアといったメリットはやや減じるし、なによりCoopでは色々と役職が回ってくる。ただし家賃は圧倒的に安かった。
何かオススメがあれば、教えてください。
MRRCのメンバーには韓国系アメリカ人や中韓の留学生も多く所属しているので、あまりこの点は問題になっていないのかもしれない。ゆるく非白人系コミュニティと捉えるのが良さそうである。MRRCからトラベルグラントなども出ているようで、メリットは色々とありそうだが、一学期に7回ミーティングがあるということで、学業とのバランスが難しそうかもしれないという印象を持った。
大学から10分ほど車で走ったところにある郊外型のレストランのいちスペースを貸し切って、昼食と簡単なミーティングがあった。集まりにはファカルティの先生も2名いて、ざっくばらんに、この後あるハウジングツアーの話や、研究関心について話した。
終了後、社会科学部棟に移動して、prospective studentsと一緒に現役の学生の案内のもと、ハウジングツアーに出かけた。住居を選ぶ際の基準としては、大学が運営しているものか民間の個人なり企業が提供しているものか、及び大学から近くにあるか、郊外にあるかの2つがあると考えるのがよさそうである(更にいえば、郊外も東はアメリカ白人系が多いが西がアジア系の留学生が多い、という特徴もあるらしい)。私は最初、大学が提供するキャンパス内にあるHallを考えていたのだが、どうやらHallのほとんどは学部生が住むようで、研究に集中したい院生にはあまり勧められないということだった。マンチェスターにいた時も、食事付きのHallに住んでいたが、確かに夜中に騒ぎ出す学生もいたり、その点は似ているなと思った。
というわけで、大学が提供してくれる住居としてはHallではなくApartmentを選択する院生が多いようである。Hallと比べてApartmentの特徴は、郊外にあること、食事付きではないこと、Hallのような学生同士のイベントがないことにあると思う。院生の意見としては、静かに研究したいということであればApartmentに住む方がよいという印象を持った。Apartmentにも、シングルか、部屋を2-3人でシェアするかによって家賃も変わってくるので、考えなくてはいけない。
Apartmentは3種類しかないが、今回案内されたのは、(留学生の)院生が住む際に最もポピュラーというEagle Heightsだった。google mapによれば待ち時間含めバスでおよそ20分、徒歩で40分という距離。部屋を見せてくれた院生によればバスで30分、徒歩で50分だった。電気代や光熱水費が全て家賃に含まれているのはよいなと思ったが、シングルでは家賃をみると775ドル、来年度からは814ドルに値上がりするということで、物価が安いと聞いていたマディソンの価格としては驚いた。2人でシェアするタイプの部屋の場合には、家賃は1,059ドルなので、折半すれば5万円とちょっとである。
その次に、いくつか民間が提供している部屋を見せてもらった(部屋を見せてくれるのも、全員学部の院生である)。3つ案内された部屋の内訳としては(1)夫婦で住んでいて東部の郊外に家を買った、(2)パートナーと一緒に大学近くのアパートを賃貸、(3)Coopの3種類だった。また、今回ホストをしてもらった院生の家は、東部のバスで20分くらいいったところにある住宅地の一軒家だった(仕事をしている人や他の院生とシェアしているらしい)。
仕事を持っている配偶者がいれば、家を買うことも選択肢に入るだろうが、私にとって現実的なのは、大学のアパートか、あるいは一軒家のシェアだろう。ミシガンにいた時には1ヶ月間Coopに住むことを選択したが、長期で住む場合にはCoopのもつ食材の共同購入や調理器具のシェアといったメリットはやや減じるし、なによりCoopでは色々と役職が回ってくる。ただし家賃は圧倒的に安かった。
何かオススメがあれば、教えてください。
Coopに飾ってあった昔のマディソンの写真。手前が西・奥が東になっている。いつの時代に撮られたものであるかは不明らしい。 |
March 10, 2018
マディソン旅行記5日目
今日はいわゆるオープンハウスでした(マディソンではvisit dayと呼ばれます)。
朝からイベント尽くしで、オプショナルなもので興味のなかったものには、参加しなかったのですが、まずSewell Social Science Buildingのセミナー室(8417)で朝食、次に会場を同じくしてDGSやChairからの挨拶やプログラムに関する簡単な説明、学生自治会のような組織からの説明云々が連続でありました。
その後のCommunity & Environmental Sociologyのツアーには参加せず(*1)、買い物を済ませた後、昼食に参加しました。
昼食後、今日のメインである、シュバルツ先生との面談がありました。彼女が、同類婚研究のトップランナーであることに疑いはなく、私は学部の卒論の頃から、彼女の論文はほぼ読んできたので、面談の前はかなり緊張して、人と話す気分ではなかったくらいでした。
面談で車、まず私の研究関心を伝えました。階層結合に着目して、日本社会においてdiverging destiniesのような現象が見られるのか。もう一つは、グローバルに進行する女性の高学歴化の帰結(=妻下降婚カップル増加の帰結)。ざっくりいうと、こういうところです。
その話の流れで、私の修論について、少し宣伝めいたものをしました。非婚化が進む中で階層結合パターンはどう変化しているのかを動学的に検討したのが私の修論(の一部)で、結婚タイミングの研究と階層結合の研究を繋げようと方法的に新しいこと(多分結婚の文脈では初めて)を試みたのが、せいぜいの貢献です。結婚している人がどんどんセレクティブになってきているという問題意識から、動学的なモデルを考えたことについては、理解してくれたと思います(私の英語がアレでしたが)。
結婚に至るまでのプロセスが複雑化しているので、この方法は今後日本以外の社会でも、使いようがあると個人的には思っています。競合リスクだとIIAの仮定で予測確率が合計で1にならないみたいな話は私の英語力不足で、十分できなかったですが、とりあえず2ステップは競合リスクとは異なる手法であることは強調しました。後で、理論と方法に載る論文の英訳サマリーを送ることになりました。どうでもいいですが、シュバルツさんはUCLAのPhDにいたころ、指導教員のメア先生と一緒に共著論文を書いており、そのうちの一つが理論と方法に掲載されているので、縁めいたものを感じます。
その後、CDEのオープンハウスに参加しました。ここで、Carlsonさんとも話せたので、良かったです。やはり、人口学に関心があるので、CDEメンバーとの会話が一番楽しいというのが現状です。ただ、先生にはCDEを選択するかどうかで完全に量と質(あるいはCDE以外の量)が分離されることはないと言われました。最後に、院生自治会の設けたQ&Aセッションに参加。
全てのイベントが終わったと思いきや、ディナーがあるのを忘れていました。なんと、E.O.ライト先生のご自宅でファカルティの他の先生も交えて夕食。ASAの「リアル・ユートピア」のポスターがかけてあって(写真参照)、結構感動ものです。ライト先生とは、4年前のISAでボランティアをしていた時に初めてお会いしたのですが、まさか再会が先生のご自宅になるとは、思いませんでした。
断れない性格で、もうだいぶ眠かったのですが、学生の皆さんの流れに任せて二次会のスポーツバーへ。長い1日でした。長い1日だったぶん、色々な人と、色々な話をする機会に恵まれました。マディソンに来てからしばらく、人口学まわりの研究しか興味が出ないかと思ったのですが、シカゴMAPSSでスモールさんと一緒に研究してた人の方法論の話や、オランダのユトレヒトでマスターをとったドイツの人は分析社会学に詳しくて、楽しかったです。マディソンは階層論と人口学が頭2つぶんくらい抜けて強い印象ですが、いろんな関心の人がいて、かつ自分の関心ともリンクさせることができる環境にきたという感触を得ることができました。
教員や院生同士の垣根が低く、研究について直裁に語り合っているのも印象的でした。日頃はこんなにソーシャルなイベントがあるわけではないと思いますが、昼食やCDEのオープンハウスの時間には、多くの教員の方がいらっしゃって、院生の研究について積極的に話していました。また、教員同士も研究について話し合うこともあり、院生の関心を媒介に一緒に論文書いてみようか、といった会話もありました(まあ、それは半分冗談かもしれませんし、現在完成させなくてはならないペーパーがたくさんあるので、実際に新しいプロジェクトをそんなに簡単に始められるわけはないと思いますが)。日本の大学や学会と比較して、ということになりますが、学生と教員の水平的な関係が見られたのは、良かったなと思います。
(1*) マディソンの社会学は、College of Arts and Sciencesの社会学部と、College of Agricultural and Life Sciencesの環境社会学(農村社会学)のjoint programなのです
朝からイベント尽くしで、オプショナルなもので興味のなかったものには、参加しなかったのですが、まずSewell Social Science Buildingのセミナー室(8417)で朝食、次に会場を同じくしてDGSやChairからの挨拶やプログラムに関する簡単な説明、学生自治会のような組織からの説明云々が連続でありました。
その後のCommunity & Environmental Sociologyのツアーには参加せず(*1)、買い物を済ませた後、昼食に参加しました。
昼食後、今日のメインである、シュバルツ先生との面談がありました。彼女が、同類婚研究のトップランナーであることに疑いはなく、私は学部の卒論の頃から、彼女の論文はほぼ読んできたので、面談の前はかなり緊張して、人と話す気分ではなかったくらいでした。
面談で車、まず私の研究関心を伝えました。階層結合に着目して、日本社会においてdiverging destiniesのような現象が見られるのか。もう一つは、グローバルに進行する女性の高学歴化の帰結(=妻下降婚カップル増加の帰結)。ざっくりいうと、こういうところです。
その話の流れで、私の修論について、少し宣伝めいたものをしました。非婚化が進む中で階層結合パターンはどう変化しているのかを動学的に検討したのが私の修論(の一部)で、結婚タイミングの研究と階層結合の研究を繋げようと方法的に新しいこと(多分結婚の文脈では初めて)を試みたのが、せいぜいの貢献です。結婚している人がどんどんセレクティブになってきているという問題意識から、動学的なモデルを考えたことについては、理解してくれたと思います(私の英語がアレでしたが)。
結婚に至るまでのプロセスが複雑化しているので、この方法は今後日本以外の社会でも、使いようがあると個人的には思っています。競合リスクだとIIAの仮定で予測確率が合計で1にならないみたいな話は私の英語力不足で、十分できなかったですが、とりあえず2ステップは競合リスクとは異なる手法であることは強調しました。後で、理論と方法に載る論文の英訳サマリーを送ることになりました。どうでもいいですが、シュバルツさんはUCLAのPhDにいたころ、指導教員のメア先生と一緒に共著論文を書いており、そのうちの一つが理論と方法に掲載されているので、縁めいたものを感じます。
その後、CDEのオープンハウスに参加しました。ここで、Carlsonさんとも話せたので、良かったです。やはり、人口学に関心があるので、CDEメンバーとの会話が一番楽しいというのが現状です。ただ、先生にはCDEを選択するかどうかで完全に量と質(あるいはCDE以外の量)が分離されることはないと言われました。最後に、院生自治会の設けたQ&Aセッションに参加。
全てのイベントが終わったと思いきや、ディナーがあるのを忘れていました。なんと、E.O.ライト先生のご自宅でファカルティの他の先生も交えて夕食。ASAの「リアル・ユートピア」のポスターがかけてあって(写真参照)、結構感動ものです。ライト先生とは、4年前のISAでボランティアをしていた時に初めてお会いしたのですが、まさか再会が先生のご自宅になるとは、思いませんでした。
断れない性格で、もうだいぶ眠かったのですが、学生の皆さんの流れに任せて二次会のスポーツバーへ。長い1日でした。長い1日だったぶん、色々な人と、色々な話をする機会に恵まれました。マディソンに来てからしばらく、人口学まわりの研究しか興味が出ないかと思ったのですが、シカゴMAPSSでスモールさんと一緒に研究してた人の方法論の話や、オランダのユトレヒトでマスターをとったドイツの人は分析社会学に詳しくて、楽しかったです。マディソンは階層論と人口学が頭2つぶんくらい抜けて強い印象ですが、いろんな関心の人がいて、かつ自分の関心ともリンクさせることができる環境にきたという感触を得ることができました。
教員や院生同士の垣根が低く、研究について直裁に語り合っているのも印象的でした。日頃はこんなにソーシャルなイベントがあるわけではないと思いますが、昼食やCDEのオープンハウスの時間には、多くの教員の方がいらっしゃって、院生の研究について積極的に話していました。また、教員同士も研究について話し合うこともあり、院生の関心を媒介に一緒に論文書いてみようか、といった会話もありました(まあ、それは半分冗談かもしれませんし、現在完成させなくてはならないペーパーがたくさんあるので、実際に新しいプロジェクトをそんなに簡単に始められるわけはないと思いますが)。日本の大学や学会と比較して、ということになりますが、学生と教員の水平的な関係が見られたのは、良かったなと思います。
(1*) マディソンの社会学は、College of Arts and Sciencesの社会学部と、College of Agricultural and Life Sciencesの環境社会学(農村社会学)のjoint programなのです
Real Utopias |
March 9, 2018
マディソン旅行記4日目
滞在中は、疲れて9時ごろには寝てしまい、代わりに4時ごろに起きてしまいます。午前1時に起きちゃうんですが。
6時半にホテルの朝食を済ませ、数理のスライドなどを作成していました。チェックアウトをして、Sewell buildingへ。今日は貧困研究所(IRP)のセミナーで、社会学部にいるCarlsonさんが報告。開始間際に入って驚いたのですが、学生、教員と50人はいるんじゃないかという数でした。公共政策やソーシャルワークの人もいるとは思いますが、人口学者の報告に50人集まるとは驚きます。通常のセミナーシリーズの一つのはずなのですが。
報告内容は、私の関心に近いものだったので非常に面白かったです。アメリカでは、家族形成パターンの格差が階層間で拡大しているという、分岐する運命(diverging destinies)と呼ばれる、ある種の命題が流行っています。イントロで、アメリカを含めて、先進国で家族形成が変化していること(結婚年齢の上昇や、非婚出生の増加、離婚の増加など)、及びその家族形成が階層間の格差を伴っているものであることが、一応の事実として、確認されます。
その上で、分岐する運命の話を挟み、彼女の関心である父なり(fatherhood)の話に入ってきました。父なりというよりは、父親としてどのように子どもや家庭に関与するか、というところでしょうか。回帰表が一切ない、国際比較とアメリカの時系列比較に基づいたものでしたが(であるがゆえに)、議論は白熱しました。
報告全体が、日本ではなかなか見ないタイプのもの、自分がやりたいものに近かったので、少し感動すら覚えました。
あまりうまく言葉にすることができないのですが、例えばアメリカでは父親が子どもに関与する頻度や質の格差が広がっているという話がありました。低学歴の親は子どもに関与しなくなっている一方で、高学歴層の父親はそこまで変わらないという話ですね。
その時に、Smeeding先生が「それは学歴の低い男性の所得や雇用が不安定化しているからだ(子どもの面倒を見ている余裕はないのだ)」といえば、別の先生らしき人が「それは配偶者の属性が変化しているからだ(アメリカで私の研究関心である学歴の同質性が強まっているという指摘があります)」と言います。
あるいは、また別の先生が「低学歴の男性と結婚する女性が高学歴の場合、家族形成が不安定になるのが問題なのではないか」と言ったりします。そこで、Carlsonさんは、同僚のSchwartzさんの論文に言及しながら、低学歴の男性と高学歴の女性の妻下降婚は解消しやすかったが、現在ではその不利は低減しているとリプライします(ASRに何年か前に載った論文ですね)。
こういった議論は、すでにいくつかの先行研究が蓄積された上で展開されているわけですが、参加している人の中では、家族形成が変化しており、その背景として社会階層でみた格差が関係しているのではないか、という問題意識が共有されています。
そして、個々の経験的研究が有機的に結びついています。人口と不平等の問題について、問題意識が共有されながら分業が進んでいる、という感じでしょうか。このセミナーに参加して、あらためて、なぜ階層結合が重要なのかが、再確認できて安心しました。
マディソンのCDE/CDHA/IRPや社会学、人口学者からなるコミュニティが大木だとすれば、個々の論文になるような研究は枝葉に例えられるとしましょう。自分の研究がどのような研究の流れの中で派生してきたものなのかを、はっきりと示してくれる環境が、自分が求めていたものかもしれないなあ、と報告と議論を聴きながら思いました。
日本だと、私のような研究は、枝から落ちる葉っぱのように浮遊している印象を受けるのですが、マディソンでは問題意識を共有してくれる人がこんなにいて、互いに研究をアップデートしあえるのだなと思いました。
私も、留学を考え始めた時期は、アメリカのPhDが一番競争的で最強(とまでは思ってないですが)に類する考えに、シンパシーを感じていた節は否めないところがあります。まあそれはそれで、出願までに必要な関門を突破するためには、有用なイデオロギーだったりします。
ただ、今の私の基本的な考えとしては、留学せずに学位を取ることができ、かつ就職できるのであれば、それでいいんじゃないかと思っています。お隣の韓国のように、アメリカの学位がないとそもそも就職することすら難しいという世界は、研究者を自分の国で再生産することができていないという意味で、機能不全に陥っているのではないかと思うからです。
人の移動が激しくなっている現代ではありますが、自分が国籍を持っている国で、望んだキャリアに到達できる資源が提供されているのであれば、それは良いことだろうと思います(そもそも、米国PhDがないと就職できないという信念めいたものが、本当かどうかわかりません。ただし、ある意味では預言として信じられていること自体が重要です。その信念が、人の行動を左右するわけですから)。
しかしながら、学びたい環境が十分に提供されていない、あるいはより自分の関心にフィットする環境があるならば、その道は開かれているべきだとも思います。その意味で、自分にとって理想的な環境かもしれないマディソンは、留学という言葉に形容される必要は全くなく、私がこれから向かうべきところなのだと思いました。
さて、夜にはメモリアルユニオンにて、大学院生主催の歓迎会のような催しがありました。詳しくは聞かなかったですが、普通にPhDの途中で移ってくる人がちらほらいました。さすがに旅費がかさむのか、ほとんど参加している新しいコーホートの人はアメリカ在住。イギリスの交換留学で散々経験したのですが、飲み会らしきイベントの後に静かな環境に戻ると、英語が非常に明瞭に聞こえるのは不思議です。やたら2nd yearの学生が多いと思ったら、その年の入学者は33人だそうで驚きました。いろいろ配慮してもらって、助かります。
語彙力が不足しているというのは、日常会話でもそうなのですが、例えばprospectiveの人と挨拶して、相手が市民社会論だったり、歴史社会学に興味があると言われても、んー、そうなんだ、と私には聞くことしかできません。
その一方で、人口学や教育の話であれば、こちらもどんなデータを使うのかだったり、研究のことを聞けるのですが。昨日確認した、CDEのメンバーになるのか、ならないのかで、進路がだいぶ変わってくる仮説が立証されつつあります。
ひとしきり話した後、ホストの学生と一緒に移動。明日は早いので、寝たいのですが、ご自宅に大型犬がいて、ちょっとこわい思いをしたので、ぐっすり眠れるか、若干の不安です。
6時半にホテルの朝食を済ませ、数理のスライドなどを作成していました。チェックアウトをして、Sewell buildingへ。今日は貧困研究所(IRP)のセミナーで、社会学部にいるCarlsonさんが報告。開始間際に入って驚いたのですが、学生、教員と50人はいるんじゃないかという数でした。公共政策やソーシャルワークの人もいるとは思いますが、人口学者の報告に50人集まるとは驚きます。通常のセミナーシリーズの一つのはずなのですが。
報告内容は、私の関心に近いものだったので非常に面白かったです。アメリカでは、家族形成パターンの格差が階層間で拡大しているという、分岐する運命(diverging destinies)と呼ばれる、ある種の命題が流行っています。イントロで、アメリカを含めて、先進国で家族形成が変化していること(結婚年齢の上昇や、非婚出生の増加、離婚の増加など)、及びその家族形成が階層間の格差を伴っているものであることが、一応の事実として、確認されます。
その上で、分岐する運命の話を挟み、彼女の関心である父なり(fatherhood)の話に入ってきました。父なりというよりは、父親としてどのように子どもや家庭に関与するか、というところでしょうか。回帰表が一切ない、国際比較とアメリカの時系列比較に基づいたものでしたが(であるがゆえに)、議論は白熱しました。
報告全体が、日本ではなかなか見ないタイプのもの、自分がやりたいものに近かったので、少し感動すら覚えました。
あまりうまく言葉にすることができないのですが、例えばアメリカでは父親が子どもに関与する頻度や質の格差が広がっているという話がありました。低学歴の親は子どもに関与しなくなっている一方で、高学歴層の父親はそこまで変わらないという話ですね。
その時に、Smeeding先生が「それは学歴の低い男性の所得や雇用が不安定化しているからだ(子どもの面倒を見ている余裕はないのだ)」といえば、別の先生らしき人が「それは配偶者の属性が変化しているからだ(アメリカで私の研究関心である学歴の同質性が強まっているという指摘があります)」と言います。
あるいは、また別の先生が「低学歴の男性と結婚する女性が高学歴の場合、家族形成が不安定になるのが問題なのではないか」と言ったりします。そこで、Carlsonさんは、同僚のSchwartzさんの論文に言及しながら、低学歴の男性と高学歴の女性の妻下降婚は解消しやすかったが、現在ではその不利は低減しているとリプライします(ASRに何年か前に載った論文ですね)。
こういった議論は、すでにいくつかの先行研究が蓄積された上で展開されているわけですが、参加している人の中では、家族形成が変化しており、その背景として社会階層でみた格差が関係しているのではないか、という問題意識が共有されています。
そして、個々の経験的研究が有機的に結びついています。人口と不平等の問題について、問題意識が共有されながら分業が進んでいる、という感じでしょうか。このセミナーに参加して、あらためて、なぜ階層結合が重要なのかが、再確認できて安心しました。
マディソンのCDE/CDHA/IRPや社会学、人口学者からなるコミュニティが大木だとすれば、個々の論文になるような研究は枝葉に例えられるとしましょう。自分の研究がどのような研究の流れの中で派生してきたものなのかを、はっきりと示してくれる環境が、自分が求めていたものかもしれないなあ、と報告と議論を聴きながら思いました。
日本だと、私のような研究は、枝から落ちる葉っぱのように浮遊している印象を受けるのですが、マディソンでは問題意識を共有してくれる人がこんなにいて、互いに研究をアップデートしあえるのだなと思いました。
私も、留学を考え始めた時期は、アメリカのPhDが一番競争的で最強(とまでは思ってないですが)に類する考えに、シンパシーを感じていた節は否めないところがあります。まあそれはそれで、出願までに必要な関門を突破するためには、有用なイデオロギーだったりします。
ただ、今の私の基本的な考えとしては、留学せずに学位を取ることができ、かつ就職できるのであれば、それでいいんじゃないかと思っています。お隣の韓国のように、アメリカの学位がないとそもそも就職することすら難しいという世界は、研究者を自分の国で再生産することができていないという意味で、機能不全に陥っているのではないかと思うからです。
人の移動が激しくなっている現代ではありますが、自分が国籍を持っている国で、望んだキャリアに到達できる資源が提供されているのであれば、それは良いことだろうと思います(そもそも、米国PhDがないと就職できないという信念めいたものが、本当かどうかわかりません。ただし、ある意味では預言として信じられていること自体が重要です。その信念が、人の行動を左右するわけですから)。
しかしながら、学びたい環境が十分に提供されていない、あるいはより自分の関心にフィットする環境があるならば、その道は開かれているべきだとも思います。その意味で、自分にとって理想的な環境かもしれないマディソンは、留学という言葉に形容される必要は全くなく、私がこれから向かうべきところなのだと思いました。
さて、夜にはメモリアルユニオンにて、大学院生主催の歓迎会のような催しがありました。詳しくは聞かなかったですが、普通にPhDの途中で移ってくる人がちらほらいました。さすがに旅費がかさむのか、ほとんど参加している新しいコーホートの人はアメリカ在住。イギリスの交換留学で散々経験したのですが、飲み会らしきイベントの後に静かな環境に戻ると、英語が非常に明瞭に聞こえるのは不思議です。やたら2nd yearの学生が多いと思ったら、その年の入学者は33人だそうで驚きました。いろいろ配慮してもらって、助かります。
語彙力が不足しているというのは、日常会話でもそうなのですが、例えばprospectiveの人と挨拶して、相手が市民社会論だったり、歴史社会学に興味があると言われても、んー、そうなんだ、と私には聞くことしかできません。
その一方で、人口学や教育の話であれば、こちらもどんなデータを使うのかだったり、研究のことを聞けるのですが。昨日確認した、CDEのメンバーになるのか、ならないのかで、進路がだいぶ変わってくる仮説が立証されつつあります。
ひとしきり話した後、ホストの学生と一緒に移動。明日は早いので、寝たいのですが、ご自宅に大型犬がいて、ちょっとこわい思いをしたので、ぐっすり眠れるか、若干の不安です。
ぎりぎりのラインを狙っていきます |
March 8, 2018
マディソン旅行記3日目
快晴でしたが、冷え込みが激しく、この3日で一番寒い1日でした。
今日は教員や院生の方と個別にあって話をした後、セミナーに二つ参加しました。
まず、午前11時過ぎから学振的には受け入れ教員として書いたジム・レイモ先生に面談の時間を作っていただきました。ジムは日本の配偶者選択や離婚、出生力、女性の就労といったテーマを研究しており、私の関心とフィットしています。面談では、彼が現在進めているいくつかのプロジェクトについて教えてもらったほか、ざっくばらんにマディソンの話や、アメリカのジョブマの話も伺いました。
ジムとの面談後、学部から紹介してもらった、彼のRAをしている中国出身の留学生と会い、ランチを食べながら、こちらもマディソンの話などについて伺いました。まだ2年目ということもあるかもしれませんが、話から全体的に伝わってきたのは、マディソンの社会学は、まず人口学を選択するかどうかで道が分かれるというものでした。
すでに別のところで述べましたが、マディソンには人口学の研究センターが二つ(CDE/CDHA)あります。まずPhDの学生は、人口学を専攻することを希望している場合、CDEの研究所のフェローとして在籍しながら、教員の研究を手伝うRAをすることで、生活の糧を得ています。これらのセンターは、マディソンの人口学教育も担っており、例えばCDEに在籍している学生は、学位取得の要件として、人口学の必修授業に加えてCDHAが実施するトレーニングセミナーや、CDEが主催するDemSemに参加することが求められています。
これらの要件は、人口学を専攻しない(=CDEに在籍しない)ことで免除されるため、CDEのメンバーになるかどうかで、進路がだいぶ変わってくるということでした。マディソンでは都市社会学や会話分析の研究も盛んなのですが、今回あった学生さんの話から察すると、CDEに在籍していない人との交流は、必ずしも多くないようです。
午後は、そのCHDAが実施するセミナー(Demography Traning Seminar)に参加してきました。セミナーの目的は、端的に言えば人口学者の育成です。最初の数回は統計モデルのレクチャーもありますが、中盤から後半にかけては、キャリア・デベロップメントや、PAA(アメリカ人口学会)などの学会で報告する際のコツがレクチャーされます。最後のあたりは、PAAの口頭報告にアクセプトされた人たちのリハーサルの機会が用意されています。
今回のテーマは"Giving a Good Talk"でした。学会報告と、ジョブトークのような1時間程度の尺があるトークの二つに関して、どのような構成にしてどういうところに気をつければいいかを教授してくれます。
日本だと、この手の「教育的な」授業はあまりないので新鮮でした。私個人の話をすると、学会報告に慣れていない時期は、他の人のスライドを真似るということをしていました。日本の学会で使うスライドと、国際学会用のスライドも構成が若干異なるので、国際学会や英語のセミナーで報告する際にも、他の人のスライドを真似ていました。
そういう身からすると、今日のようなトレーニングは一種の「リカレント教育」のように思えてきます。なんとなく体に染み込んだ知識のようなものと照らし合わせながら、こういう気の配り方もあるんだとか、あまり学術的ではありませんが、研究をしていると必ず必要になってくるプレゼンテーションの技法について知ることができる機会があるのはいいなと思います。
ただ、こういうのがなくても、おおよそ、人の真似をすればできてしまうことも事実です(という発想自体が個人任せのポリシーに毒されているのかもしれませんが)。こういったトレーニングは、プログラムの学生の最低限の質を均質にするという意味では、非常に合理的だと思いました。
その後、社会科学棟から離れてDiscovery buildingのGornickさんのセミナーに参加しました(その時の記録はこちらを参照ください)。帰り際に、同類婚の研究のトップランナーであるシュバルツさんに挨拶できたので、おおよそ旅の目的は消化しつつあります。
今日は教員や院生の方と個別にあって話をした後、セミナーに二つ参加しました。
まず、午前11時過ぎから学振的には受け入れ教員として書いたジム・レイモ先生に面談の時間を作っていただきました。ジムは日本の配偶者選択や離婚、出生力、女性の就労といったテーマを研究しており、私の関心とフィットしています。面談では、彼が現在進めているいくつかのプロジェクトについて教えてもらったほか、ざっくばらんにマディソンの話や、アメリカのジョブマの話も伺いました。
ジムとの面談後、学部から紹介してもらった、彼のRAをしている中国出身の留学生と会い、ランチを食べながら、こちらもマディソンの話などについて伺いました。まだ2年目ということもあるかもしれませんが、話から全体的に伝わってきたのは、マディソンの社会学は、まず人口学を選択するかどうかで道が分かれるというものでした。
すでに別のところで述べましたが、マディソンには人口学の研究センターが二つ(CDE/CDHA)あります。まずPhDの学生は、人口学を専攻することを希望している場合、CDEの研究所のフェローとして在籍しながら、教員の研究を手伝うRAをすることで、生活の糧を得ています。これらのセンターは、マディソンの人口学教育も担っており、例えばCDEに在籍している学生は、学位取得の要件として、人口学の必修授業に加えてCDHAが実施するトレーニングセミナーや、CDEが主催するDemSemに参加することが求められています。
これらの要件は、人口学を専攻しない(=CDEに在籍しない)ことで免除されるため、CDEのメンバーになるかどうかで、進路がだいぶ変わってくるということでした。マディソンでは都市社会学や会話分析の研究も盛んなのですが、今回あった学生さんの話から察すると、CDEに在籍していない人との交流は、必ずしも多くないようです。
午後は、そのCHDAが実施するセミナー(Demography Traning Seminar)に参加してきました。セミナーの目的は、端的に言えば人口学者の育成です。最初の数回は統計モデルのレクチャーもありますが、中盤から後半にかけては、キャリア・デベロップメントや、PAA(アメリカ人口学会)などの学会で報告する際のコツがレクチャーされます。最後のあたりは、PAAの口頭報告にアクセプトされた人たちのリハーサルの機会が用意されています。
今回のテーマは"Giving a Good Talk"でした。学会報告と、ジョブトークのような1時間程度の尺があるトークの二つに関して、どのような構成にしてどういうところに気をつければいいかを教授してくれます。
日本だと、この手の「教育的な」授業はあまりないので新鮮でした。私個人の話をすると、学会報告に慣れていない時期は、他の人のスライドを真似るということをしていました。日本の学会で使うスライドと、国際学会用のスライドも構成が若干異なるので、国際学会や英語のセミナーで報告する際にも、他の人のスライドを真似ていました。
そういう身からすると、今日のようなトレーニングは一種の「リカレント教育」のように思えてきます。なんとなく体に染み込んだ知識のようなものと照らし合わせながら、こういう気の配り方もあるんだとか、あまり学術的ではありませんが、研究をしていると必ず必要になってくるプレゼンテーションの技法について知ることができる機会があるのはいいなと思います。
ただ、こういうのがなくても、おおよそ、人の真似をすればできてしまうことも事実です(という発想自体が個人任せのポリシーに毒されているのかもしれませんが)。こういったトレーニングは、プログラムの学生の最低限の質を均質にするという意味では、非常に合理的だと思いました。
その後、社会科学棟から離れてDiscovery buildingのGornickさんのセミナーに参加しました(その時の記録はこちらを参照ください)。帰り際に、同類婚の研究のトップランナーであるシュバルツさんに挨拶できたので、おおよそ旅の目的は消化しつつあります。
DemSem: Janet C. Gornick (March 7, 2018)
DemSemは基本的に毎週一回しか開かれませんが、今回は若干特別らしく、前日に引き続いてセミナーが開かれました。報告者はCUNYのJanet C. Gornickさん。先進国の公共政策をジェンダー平等の関連から分類し、それが女性の就労や収入の不平等にどう関連しているのかに関する国際比較で知られています。
ただし、いつものDemSemと異なるのは、水曜日に開催されていること、及びCDE以外の機関もセミナーを後援していることでした。具体的には、La Follette School of Public Affairs, Institute for Research on Poverty, そしてCenter for European Studiesです。女性の就労やジェンダー格差といった話だけではなく、公共政策、所得格差、そしてLISデータを用いてEU諸国を含めた国際比較に特徴付けられる彼女の研究が、いかに分野横断的であるかを示していると思いました(もちろん、大物なのでCDEの予算だけでは...という話もあるんでしょうけど笑)。
報告内容ですが、最初に述べた各国の政策をジェンダー平等の観点から再評価し、それらが女性の就労や出生などとどう関連しているかという一連の研究のレビューと、その後に受けた批判などに対するリプライが主な報告内容でした。
こういった政策の国際比較となると、エスピン=アンデルセンの福祉レジーム論が思い起こされますが、Gornickさんの研究では、福祉だけではなく教育政策や、育児休業のような福祉とも労働とも言い切れない領域に特に注目しているため、基本的には公共政策(public policy)で用語が統一されています。また、企業や州の政策をみているわけではありません。あくまで、各国間の国レベルの政策の研究です。
彼女の研究の特徴は、これら一連の政策を総合的に評価していること(policy packageというアイデアを出しています)、加えて政策の質(育児休業の場合には、どれくらいの期間、どれくらいの手当がもらえるのか)だけではなく、それがジェンダー平等的なのかを検討していることです。例えば、育児休業の場合、その期間や手当額といった側面が充実していても、それが女性に偏っている場合には、ジェンダー不平等となります。逆に、アメリカのように全く育児休業制度が国レベルで整備されていなくても、それはそれでジェンダー平等と言えるので、このスコアは高くなるというわけです。
報告では、育児休業や労働時間の調整を労働者の裁量で変更できる権利がどれだけあるのか、あるいはフルタイムとパートタイム間の時間あたり賃金が平等なのかどうかなどに着目して、各国の政策を評価、分類しています。その結果、LISデータが対象とする(北米+ヨーロッパの)国々の中では、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、そしてフランスがもっとも寛容(generous)かつ平等(gender equal)な政策を展開していることが指摘されました。
ただし、これらの一連の研究に対して、いくつか批判が投げかけられます。その中で、もっともクリティカルとされたのが、「ジェンダー平等政策は新しいジェンダー不平等を生み出してしまうのではないか」というものでした。どういうことでしょうか。いくら政策が整備されたとしても、男性よりも女性の方がそうした政策の対象となることが多いため、政策がジェンダー平等になるにつれて、雇い主(企業)は結局男性を選好するだろうということです。
というわけで、ジェンダー平等政策の進展が、例えば企業における統計的差別や賃金格差に繋がっているかどうかが、次の焦点となります。今回の報告では、Gornickさんの研究ではなく、その他の研究からの引用にとどまっていましたが、結果としては、両者の関連は必ずしもみられないというものでした。
最後に、今後の課題として、各国の政策を享受する際に、階級や学歴、スキルレベルといった特徴によって分断線があるのかどうかが、重要になってくるという点を指摘されていました。例えば、トップ1%の富裕層であれば、国ではなく市場のサービスを使ってジェンダー平等を達成できるためアメリカにいるのがベストな選択肢ですが、例えばシングルマザーであったり、貧困層にとってはアメリカは理想の国ではありません。各国の政策の寛容性については検討してありましたが、その寛容性がどの階層にも開かれているのかどうかという点については、検討できず、今後多くのdissertationが出るのを待っている、ということでした。
私がGornickさんの報告が非常に面白いなと思ったのは、Policy packageという補助線を引くことによって、国際比較の意義がより出てくると思ったからでした。国際学会などで、日本を検討する際に、なぜ日本なのかと言われることは多いわけですが、Gornickさんのような国際比較研究の枠組みで言えば、日本のような国は検討する価値のあるケースになると思います。それは、出生力が最低レベルという東アジアの国であるという点もありますが、未婚化によって女性の就労率はアメリカなどの先進国よりも高いからです。
また、おそらく日本の一連の政策は、寛容性も低く、ジェンダー不平等も大きい集団に分類されると思いますが、もしかすると集団間でみた、政策を享受できるかの格差はそこまで大きくないかもしれません。であるとすれば、それはなぜなのか。果たして政策と出生や男女の賃金格差はどれだけ関連しているのか。色々と検討する価値のある問いが出てくる気がします。
Gornickさんの報告は、この15年の研究のまとめということで、新しい研究の話をする時間が限られていたのが残念でしたが、今後の研究の可能性を最後に示してくれたので、聞いている側、特に博論のテーマを考えている学生には、自身の研究に活かせるような展望を提供してくれるものだったのではないかと思います。
ただし、いつものDemSemと異なるのは、水曜日に開催されていること、及びCDE以外の機関もセミナーを後援していることでした。具体的には、La Follette School of Public Affairs, Institute for Research on Poverty, そしてCenter for European Studiesです。女性の就労やジェンダー格差といった話だけではなく、公共政策、所得格差、そしてLISデータを用いてEU諸国を含めた国際比較に特徴付けられる彼女の研究が、いかに分野横断的であるかを示していると思いました(もちろん、大物なのでCDEの予算だけでは...という話もあるんでしょうけど笑)。
報告内容ですが、最初に述べた各国の政策をジェンダー平等の観点から再評価し、それらが女性の就労や出生などとどう関連しているかという一連の研究のレビューと、その後に受けた批判などに対するリプライが主な報告内容でした。
こういった政策の国際比較となると、エスピン=アンデルセンの福祉レジーム論が思い起こされますが、Gornickさんの研究では、福祉だけではなく教育政策や、育児休業のような福祉とも労働とも言い切れない領域に特に注目しているため、基本的には公共政策(public policy)で用語が統一されています。また、企業や州の政策をみているわけではありません。あくまで、各国間の国レベルの政策の研究です。
彼女の研究の特徴は、これら一連の政策を総合的に評価していること(policy packageというアイデアを出しています)、加えて政策の質(育児休業の場合には、どれくらいの期間、どれくらいの手当がもらえるのか)だけではなく、それがジェンダー平等的なのかを検討していることです。例えば、育児休業の場合、その期間や手当額といった側面が充実していても、それが女性に偏っている場合には、ジェンダー不平等となります。逆に、アメリカのように全く育児休業制度が国レベルで整備されていなくても、それはそれでジェンダー平等と言えるので、このスコアは高くなるというわけです。
報告では、育児休業や労働時間の調整を労働者の裁量で変更できる権利がどれだけあるのか、あるいはフルタイムとパートタイム間の時間あたり賃金が平等なのかどうかなどに着目して、各国の政策を評価、分類しています。その結果、LISデータが対象とする(北米+ヨーロッパの)国々の中では、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、そしてフランスがもっとも寛容(generous)かつ平等(gender equal)な政策を展開していることが指摘されました。
ただし、これらの一連の研究に対して、いくつか批判が投げかけられます。その中で、もっともクリティカルとされたのが、「ジェンダー平等政策は新しいジェンダー不平等を生み出してしまうのではないか」というものでした。どういうことでしょうか。いくら政策が整備されたとしても、男性よりも女性の方がそうした政策の対象となることが多いため、政策がジェンダー平等になるにつれて、雇い主(企業)は結局男性を選好するだろうということです。
というわけで、ジェンダー平等政策の進展が、例えば企業における統計的差別や賃金格差に繋がっているかどうかが、次の焦点となります。今回の報告では、Gornickさんの研究ではなく、その他の研究からの引用にとどまっていましたが、結果としては、両者の関連は必ずしもみられないというものでした。
最後に、今後の課題として、各国の政策を享受する際に、階級や学歴、スキルレベルといった特徴によって分断線があるのかどうかが、重要になってくるという点を指摘されていました。例えば、トップ1%の富裕層であれば、国ではなく市場のサービスを使ってジェンダー平等を達成できるためアメリカにいるのがベストな選択肢ですが、例えばシングルマザーであったり、貧困層にとってはアメリカは理想の国ではありません。各国の政策の寛容性については検討してありましたが、その寛容性がどの階層にも開かれているのかどうかという点については、検討できず、今後多くのdissertationが出るのを待っている、ということでした。
私がGornickさんの報告が非常に面白いなと思ったのは、Policy packageという補助線を引くことによって、国際比較の意義がより出てくると思ったからでした。国際学会などで、日本を検討する際に、なぜ日本なのかと言われることは多いわけですが、Gornickさんのような国際比較研究の枠組みで言えば、日本のような国は検討する価値のあるケースになると思います。それは、出生力が最低レベルという東アジアの国であるという点もありますが、未婚化によって女性の就労率はアメリカなどの先進国よりも高いからです。
また、おそらく日本の一連の政策は、寛容性も低く、ジェンダー不平等も大きい集団に分類されると思いますが、もしかすると集団間でみた、政策を享受できるかの格差はそこまで大きくないかもしれません。であるとすれば、それはなぜなのか。果たして政策と出生や男女の賃金格差はどれだけ関連しているのか。色々と検討する価値のある問いが出てくる気がします。
Gornickさんの報告は、この15年の研究のまとめということで、新しい研究の話をする時間が限られていたのが残念でしたが、今後の研究の可能性を最後に示してくれたので、聞いている側、特に博論のテーマを考えている学生には、自身の研究に活かせるような展望を提供してくれるものだったのではないかと思います。
March 6, 2018
マディソン旅行記2日目
今日は、セミナーに参加してきました。朝起きると、昨日積もっていた雪が溶けて...いるわけはなく、しっかり積もっていました。朝ごはんを済ませ、ポスターを作成したり、CDEのセミナーの予習をしていると、さらに雪が降ってしまいお手上げ。仕方ないので、パーカーのフードをかぶって外に出ます。
最初は雪が降っているのでバスで行こうかと思ったのですが、意外と朝早くから大学(マディソン市?)の除雪機や融雪剤を撒いてくれる人がいたおかげで、特に困難なく歩けたので、そのまま10分ほど歩いて会場のあるSewell Social Sciences Buildingに向かいました。自分にとっては、夢にまでみた憧れの場所です。
だいぶ早く着いてしまったので、建物を見学します。入り口が6階でまず驚いたのですが、メインストリートから進んでobsevetory driveに入ると、6階が正面玄関のようです。社会学部の本部は最上階の8階、及び7階や4階、2階にも研究室や施設があり、改めて規模は大きいなと思いました。ミシガンに比べると、多少建物が古く、全体的に年季が入っているという印象を持ちました。
DemSemの会場は8階の一番大きいカンファレンスルームで、大きな窓から湖が一望できるつくりになってて、贅沢だなと思いました。初夏から秋にかけては綺麗なんでしょうね。今回は雪で覆われて、真っ白でした。それはそれで明るいので、好きなんですけどね。
開始時間が近づくにつれ、続々と若い院生っぽい人、先生っぽい人が入ってきて、セミナーが開始、ざっと30人強はいた気がします。セミナーの詳細は別の記事にまとめましたが、アメリカという国は本当に色々なデータを持ってるなと思いました。今日の報告で使用されたデータは、ニューヨーク連邦準備銀行がもっている、クレジットカードかつ社会保障番号を持っている個人を対象とした調査の5%サンプルで、分析にクレジットカードの信用会社がつくった、個人ごとの破産リスクをSESスコアとして用いてたのも驚きました。
終了後、レストランがまとまって入っていると聞いたメモリアルユニオンに向かいました。そこでピザを食べ、カフェでセミナーでとったメモをまとめて、いい時間になったので、次のセミナー会場に向かいました。
夕方のセミナーは貧困研究所(Institute for Research on Poverty)が主催していたものです。社会学部の先生の一部は、この研究所にも所属しているためなのか、何人かDemSemで見かけた人もいました。報告はアメリカの幸福・ウェルビーイングに関する研究でしたが、報告された方は、多分その分野ではかなり偉い先生で、内容もすでに本になったものがもとということもあって、セミナーというよりは、講演会に近かったです(報告中の質疑応答話で、コメンテーターのコメント、及びリプライの後、10分程度の質疑)。
今日参加した二つのセミナーを比べると、やはり、DemSemみたいに、Assistant Professorくらいの人が、現在進行中の研究をセミナーで報告して、途中でもガンガン質問ができるような雰囲気の方が楽しいと思いました。その一方で、報告する側は、いつ質問来るかわからないわけで、慣れるまで大変だろうなあと思います。今はもちろんですが、今日のDemSemのように、例えば5年後にセミナーに呼ばれて、報告をして、最後に質疑応答までつつがなく終えられるかというと、自信は、ありません。もちろん、ただ報告するだけじゃなく、議論できるように、これから頑張らないといけないのですが。
いきなり質問が飛んできても、すらっと返しちゃうんですよね、報告者二人とも。特に、関連する論文はほぼ全て目を通しているわけですが、その論文の知見をまとめ、自分の得た示唆まで即座に出してくる姿を見て、報告するテーマについて、本当に知識があるのだなと,月並みながら思いました。母国語かつオーディエンスが日本人メインならば、効率がいいし、多少なりとも幅広くテーマを設定しても生きていけるのかもしれませんが、今の自分の持ち札で、このようなセミナーで飛び交う英語での議論でも勝負ができそうなのは、現時点の自分には階層結合しかない気がします。
セミナー終了後、軽めの夕食を購入して、ホテルで済ませました。明日もセミナーに出てみようと思いますが、いくつか人と会う予定が入ったので、そちらも楽しみです。
最初は雪が降っているのでバスで行こうかと思ったのですが、意外と朝早くから大学(マディソン市?)の除雪機や融雪剤を撒いてくれる人がいたおかげで、特に困難なく歩けたので、そのまま10分ほど歩いて会場のあるSewell Social Sciences Buildingに向かいました。自分にとっては、夢にまでみた憧れの場所です。
だいぶ早く着いてしまったので、建物を見学します。入り口が6階でまず驚いたのですが、メインストリートから進んでobsevetory driveに入ると、6階が正面玄関のようです。社会学部の本部は最上階の8階、及び7階や4階、2階にも研究室や施設があり、改めて規模は大きいなと思いました。ミシガンに比べると、多少建物が古く、全体的に年季が入っているという印象を持ちました。
DemSemの会場は8階の一番大きいカンファレンスルームで、大きな窓から湖が一望できるつくりになってて、贅沢だなと思いました。初夏から秋にかけては綺麗なんでしょうね。今回は雪で覆われて、真っ白でした。それはそれで明るいので、好きなんですけどね。
開始時間が近づくにつれ、続々と若い院生っぽい人、先生っぽい人が入ってきて、セミナーが開始、ざっと30人強はいた気がします。セミナーの詳細は別の記事にまとめましたが、アメリカという国は本当に色々なデータを持ってるなと思いました。今日の報告で使用されたデータは、ニューヨーク連邦準備銀行がもっている、クレジットカードかつ社会保障番号を持っている個人を対象とした調査の5%サンプルで、分析にクレジットカードの信用会社がつくった、個人ごとの破産リスクをSESスコアとして用いてたのも驚きました。
終了後、レストランがまとまって入っていると聞いたメモリアルユニオンに向かいました。そこでピザを食べ、カフェでセミナーでとったメモをまとめて、いい時間になったので、次のセミナー会場に向かいました。
夕方のセミナーは貧困研究所(Institute for Research on Poverty)が主催していたものです。社会学部の先生の一部は、この研究所にも所属しているためなのか、何人かDemSemで見かけた人もいました。報告はアメリカの幸福・ウェルビーイングに関する研究でしたが、報告された方は、多分その分野ではかなり偉い先生で、内容もすでに本になったものがもとということもあって、セミナーというよりは、講演会に近かったです(報告中の質疑応答話で、コメンテーターのコメント、及びリプライの後、10分程度の質疑)。
今日参加した二つのセミナーを比べると、やはり、DemSemみたいに、Assistant Professorくらいの人が、現在進行中の研究をセミナーで報告して、途中でもガンガン質問ができるような雰囲気の方が楽しいと思いました。その一方で、報告する側は、いつ質問来るかわからないわけで、慣れるまで大変だろうなあと思います。今はもちろんですが、今日のDemSemのように、例えば5年後にセミナーに呼ばれて、報告をして、最後に質疑応答までつつがなく終えられるかというと、自信は、ありません。もちろん、ただ報告するだけじゃなく、議論できるように、これから頑張らないといけないのですが。
いきなり質問が飛んできても、すらっと返しちゃうんですよね、報告者二人とも。特に、関連する論文はほぼ全て目を通しているわけですが、その論文の知見をまとめ、自分の得た示唆まで即座に出してくる姿を見て、報告するテーマについて、本当に知識があるのだなと,月並みながら思いました。母国語かつオーディエンスが日本人メインならば、効率がいいし、多少なりとも幅広くテーマを設定しても生きていけるのかもしれませんが、今の自分の持ち札で、このようなセミナーで飛び交う英語での議論でも勝負ができそうなのは、現時点の自分には階層結合しかない気がします。
セミナー終了後、軽めの夕食を購入して、ホテルで済ませました。明日もセミナーに出てみようと思いますが、いくつか人と会う予定が入ったので、そちらも楽しみです。
写真:ゆきだるま |
DemSem: Jackelyn Hwang (March 6, 2018)
ウィスコンシン大学マディソン校の社会学部は、伝統的に社会階層論と人口学、及び両者を混ぜたような研究が非常に盛んです(*1)。
社会学部のファカルティにいる先生や大学院生は、学部に加えて大学の持つ研究所に所属し、そこで専門的な研究を進めています。人口学が強いマディソンの持つ、他の大学ではあまり見られない特徴の一つとして、人口学系の研究所が二つあることがあげられます。
一つ目がCDE(Center for Demography and Ecology)で、昔からある研究所です。もう一つが1999年と比較的最近にできたCDHA(Center for Demography of Health and Aging)という機関で、両者は姉妹組織とされています。前者はNICHD(National Institute of Child Health and Human Development)から助成を受けている一方、後者はNIA(National Instituted of Aging)から助成を受けています。
助成先は違いますが、社会学部にいる人口学系の研究者の多くが所属している事実は変わりません。社会学部の院生は、どちらかの機関のPA(Project Assistant)になることも多いようです。
前置きが長くなりましたが、CDEは毎週、Demography Seminar、略してDemSemというセミナーを開いています。全米、あるいは世界の他の大学から人口学の最先端の研究をしている研究者を招き、研究報告をしてもらっています。他の社会学プログラムの例に漏れず、院生はこの授業を履修(Soc 997)することで、単位がもらえたりもします。
3月6日の報告者はスタンフォード大学のJackelyn Hwangさんでした。2015年にハーバードでPhDを修了された若手の方です。博論は公開されていますが、指導教員はSampsonさんだったようです。
報告タイトルはUnequal Displacementというもので、ジェントリフィケーションに関する新しいデータを用いて2000年代以降のフィラデルフィアを対象に(1)ジェントリフィケーションが生じる地域に、誰が移動してくるのか(2)ジェントリフィケーションが生じた地域の人は移動しやすいのか、またどのような地域の人が移動しやすいのか、及び(3)移動した人はどのような地域に移動するのか、またどのような地域の人が移動しやすいのかを検討していました。データで攻める系の論文ですね。
いくつか面白かった、気になった点について、ざっくばらんにまとめておきます。
・ジェントリフィケーションの定義
Hwangさんが最初に説明されていたのが、ジェントリフィケーションの定義は多様だということでした。その中でも、彼女の一連の研究における定義はもっとも古典的ということで、所得の低い地域が所得の低い人の流入(及び低所得者の流出)によって平均所得の高い地域になる現象を指すようです。注意点として述べていたのは、彼女の研究では人種の変容、つまり黒人が多く住んでいた地域が白人(非黒人?)が多い地域に変容することをもってジェントリフィケーションとする定義もあるようなのですが,それは除くということでした。人種が絡んでくるのが、アメリカの都市におけるジェントリフィケーションのユニークな点だと思いました。
・ジェントリフィケーションの種類
本報告では、地区の平均収入に着目するという定義をした上で、ジェントリフィケーションの動的なプロセスに着目して二種類のジェントリフィケーションが提示されます。一つがgentrifiableという、ジェントリフィケーションが可能になる地域、すなわち時点tにおいてフィラデルフィア全体の収入中央値よりも、自身の収入中央値が低い地区です。もう一つが、gentrifyingという、t-1時点でgentrifiableな場合にt時点に平均収入を上昇させている地区です。ジェントリフィケーションという概念自体が、時間的な視点を含んでいることがわかります。
・SESのプロキシ
使用しているデータ(ニューヨーク連邦準備銀行(Federal Reserve Bank of New York)がもっている、クレジットカードかつ社会保障番号(Social Security Number)を持っている個人を対象としたConsumer Credit Panelの5%サンプル)には、人種や通常用いられるSESに使える変数がなかったため、分析ではクレジットカードの信用度スコア(Equifax risk score)を用いています。よくわかりませんが、Equifaxという信用調査会社がクレジットの履歴?などから、その人の信用度を測定しているようです(怖い...)。このスコア自体は破産リスクとして理解されますが、SESと関連、つまりスコアが高い人は所得が高い傾向にあり、低い人は貧困層の人が多いらしく、おおよそプロキシとして機能するということでした。もちろん、本当に貧しい人は、そもそもこのデータにいない(カードを持っていない、番号を持っていない)ことは、データの限界であると述べておられました。
・分析の結果
まず、誰が流入するのか(Move in)の分析は、信用度の低い人(SESの低い人)はNon-gentrifyingのエリアに移動しやすいと言うことで、これは要するに地価が上昇しているような地域には移動しにくいということとして理解できるようです。
次に、誰が流出するのか(Move out)の分析は、SESやOrigin(もといた地域がジェントリフィケーションが進行しているかどうか)と流出には関連がないことがわかりました。
最後に、流出先を区別した分析では、非黒人が多いジェントリフィケーションが進んでいる地域出身の低いSESの人は、他のグループの低いSESの人に比べて有意にNon-gentrifiableな地域(ジェントリフィケーションが進行する条件を満たさないので、貧しい地域ではないということです)、あるいは犯罪率や人口に占める大卒者率が高い、質の高い地域に移動することがわかりました。この辺りになると、なぜ移動元と移動先に関連があるのか、話がややこしくなってきて、詳細まで説明を追うことはできませんでした(反省)。
若干、一つの論文にクエスチョンを詰め込みすぎなのかなあ、と思った節もなくはないのですが、個人の詳細な移動履歴がわかり、かつジェントリフィケーションが拡大した2000年代以降のトレンドを捉えたデータは他にないそうなので、非常に貴重な研究だと思いました。毎週、こうした研究を聴くことができるのはよいですね。
(*1)例として、US Newsが4年ごとに更新する社会学大学院ランキングでは、総合ランキングとは別にサブフィールドごとのランキングも示しています。両方とも、アメリカの社会学部の先生による評価のため、reputationの側面が強いですが、2017年のランキングによると、ウィスコンシン大学マディソン校は社会階層論で1位、人口社会学で2位となっています。
社会学部のファカルティにいる先生や大学院生は、学部に加えて大学の持つ研究所に所属し、そこで専門的な研究を進めています。人口学が強いマディソンの持つ、他の大学ではあまり見られない特徴の一つとして、人口学系の研究所が二つあることがあげられます。
一つ目がCDE(Center for Demography and Ecology)で、昔からある研究所です。もう一つが1999年と比較的最近にできたCDHA(Center for Demography of Health and Aging)という機関で、両者は姉妹組織とされています。前者はNICHD(National Institute of Child Health and Human Development)から助成を受けている一方、後者はNIA(National Instituted of Aging)から助成を受けています。
助成先は違いますが、社会学部にいる人口学系の研究者の多くが所属している事実は変わりません。社会学部の院生は、どちらかの機関のPA(Project Assistant)になることも多いようです。
前置きが長くなりましたが、CDEは毎週、Demography Seminar、略してDemSemというセミナーを開いています。全米、あるいは世界の他の大学から人口学の最先端の研究をしている研究者を招き、研究報告をしてもらっています。他の社会学プログラムの例に漏れず、院生はこの授業を履修(Soc 997)することで、単位がもらえたりもします。
3月6日の報告者はスタンフォード大学のJackelyn Hwangさんでした。2015年にハーバードでPhDを修了された若手の方です。博論は公開されていますが、指導教員はSampsonさんだったようです。
報告タイトルはUnequal Displacementというもので、ジェントリフィケーションに関する新しいデータを用いて2000年代以降のフィラデルフィアを対象に(1)ジェントリフィケーションが生じる地域に、誰が移動してくるのか(2)ジェントリフィケーションが生じた地域の人は移動しやすいのか、またどのような地域の人が移動しやすいのか、及び(3)移動した人はどのような地域に移動するのか、またどのような地域の人が移動しやすいのかを検討していました。データで攻める系の論文ですね。
いくつか面白かった、気になった点について、ざっくばらんにまとめておきます。
・ジェントリフィケーションの定義
Hwangさんが最初に説明されていたのが、ジェントリフィケーションの定義は多様だということでした。その中でも、彼女の一連の研究における定義はもっとも古典的ということで、所得の低い地域が所得の低い人の流入(及び低所得者の流出)によって平均所得の高い地域になる現象を指すようです。注意点として述べていたのは、彼女の研究では人種の変容、つまり黒人が多く住んでいた地域が白人(非黒人?)が多い地域に変容することをもってジェントリフィケーションとする定義もあるようなのですが,それは除くということでした。人種が絡んでくるのが、アメリカの都市におけるジェントリフィケーションのユニークな点だと思いました。
・ジェントリフィケーションの種類
本報告では、地区の平均収入に着目するという定義をした上で、ジェントリフィケーションの動的なプロセスに着目して二種類のジェントリフィケーションが提示されます。一つがgentrifiableという、ジェントリフィケーションが可能になる地域、すなわち時点tにおいてフィラデルフィア全体の収入中央値よりも、自身の収入中央値が低い地区です。もう一つが、gentrifyingという、t-1時点でgentrifiableな場合にt時点に平均収入を上昇させている地区です。ジェントリフィケーションという概念自体が、時間的な視点を含んでいることがわかります。
・SESのプロキシ
使用しているデータ(ニューヨーク連邦準備銀行(Federal Reserve Bank of New York)がもっている、クレジットカードかつ社会保障番号(Social Security Number)を持っている個人を対象としたConsumer Credit Panelの5%サンプル)には、人種や通常用いられるSESに使える変数がなかったため、分析ではクレジットカードの信用度スコア(Equifax risk score)を用いています。よくわかりませんが、Equifaxという信用調査会社がクレジットの履歴?などから、その人の信用度を測定しているようです(怖い...)。このスコア自体は破産リスクとして理解されますが、SESと関連、つまりスコアが高い人は所得が高い傾向にあり、低い人は貧困層の人が多いらしく、おおよそプロキシとして機能するということでした。もちろん、本当に貧しい人は、そもそもこのデータにいない(カードを持っていない、番号を持っていない)ことは、データの限界であると述べておられました。
・分析の結果
まず、誰が流入するのか(Move in)の分析は、信用度の低い人(SESの低い人)はNon-gentrifyingのエリアに移動しやすいと言うことで、これは要するに地価が上昇しているような地域には移動しにくいということとして理解できるようです。
次に、誰が流出するのか(Move out)の分析は、SESやOrigin(もといた地域がジェントリフィケーションが進行しているかどうか)と流出には関連がないことがわかりました。
最後に、流出先を区別した分析では、非黒人が多いジェントリフィケーションが進んでいる地域出身の低いSESの人は、他のグループの低いSESの人に比べて有意にNon-gentrifiableな地域(ジェントリフィケーションが進行する条件を満たさないので、貧しい地域ではないということです)、あるいは犯罪率や人口に占める大卒者率が高い、質の高い地域に移動することがわかりました。この辺りになると、なぜ移動元と移動先に関連があるのか、話がややこしくなってきて、詳細まで説明を追うことはできませんでした(反省)。
若干、一つの論文にクエスチョンを詰め込みすぎなのかなあ、と思った節もなくはないのですが、個人の詳細な移動履歴がわかり、かつジェントリフィケーションが拡大した2000年代以降のトレンドを捉えたデータは他にないそうなので、非常に貴重な研究だと思いました。毎週、こうした研究を聴くことができるのはよいですね。
写真:DemSemが開かれているSewell Social Science Building |
(*1)例として、US Newsが4年ごとに更新する社会学大学院ランキングでは、総合ランキングとは別にサブフィールドごとのランキングも示しています。両方とも、アメリカの社会学部の先生による評価のため、reputationの側面が強いですが、2017年のランキングによると、ウィスコンシン大学マディソン校は社会階層論で1位、人口社会学で2位となっています。
マディソン旅行記1日目
現在、アメリカ・ウィスコンシン州のマディソンにある、ウィスコンシン大学マディソン校に滞在しています。
今回の旅の目的は色々ありますが、内定をいただいている学術振興会特別研究員の申請書で、同校社会学部のジム・レイモ教授に指導委託のお願いをすると書いており、その下見も兼ねています。
前日は、論文を一緒に書いている韓国の友人がシカゴに住んでいるということで、4日に現地到着後、マディソンの前にシカゴ・オヘアから市街に移動して、彼女の家に一泊させてもらいました。ダンナさんは韓国から留学しに来ているシカゴ大社会学部の院生で、3人で色々と社会学の話についてすることができ、楽しかったです。
論文のミーティングの方も、無事終わりました。やはり、メールベースの連絡でできることもありますが、直接会って話さないとわからないこともあります。日本ではこういう時にはこうする、という暗黙の知識みたいなものがあり、同様のものが韓国にもあることがわかりました。それがなぜ暗黙かというと、教科書には書いていないけれど、分析をする際に往々に生じる問題というものがあり、それに対処する方法が、先輩や先生からインフォーマルなかたちで伝わる、というものです。
5日にバスでシカゴからマディソンに移動し、無事大学が用意してくれたホテルに到着しました。道中、ひたすらInterstate 90 (I-90)の東から西に移動していったのですが、窓から見える景色がほとんど変わり映えせず、広大な土地が目の前に広がり続ける3時間半でした。中西部に来たという感じがしてきます。
マディソンに到着してから、徐々に天気が悪くなり、ホテルに着く頃には軽くみぞれ気味の天気になっていました。しかし、ものの数十分の間に吹雪になり、夜には5cm程度積もったのには驚きました。冬のピークは過ぎていますが、やはり中西部の冬は侮れないものだなと感じます。吹雪でしたが、夕食をとっていなかったので、徒歩4分の距離にある店に入り込み手早く夕食を済ませました。
吹雪の中を歩くだけで疲れてしまい、部屋に戻ってからは即就寝。二度寝を経て、午前3時ごろ起床。
予定では、ひとまず6-7日はCDE(Center for Demography and Ecology)やCDHA(Center for Demography of Health and Aging)のセミナーに参加しつつ、社会学部の院生と会ったりしようかと考えています。8-10日は、諸々のイベントに参加し、11日に出国する予定です。セミナーの記録については、旅行記とは別にブログにしたいと思います。
今回の旅の目的は色々ありますが、内定をいただいている学術振興会特別研究員の申請書で、同校社会学部のジム・レイモ教授に指導委託のお願いをすると書いており、その下見も兼ねています。
前日は、論文を一緒に書いている韓国の友人がシカゴに住んでいるということで、4日に現地到着後、マディソンの前にシカゴ・オヘアから市街に移動して、彼女の家に一泊させてもらいました。ダンナさんは韓国から留学しに来ているシカゴ大社会学部の院生で、3人で色々と社会学の話についてすることができ、楽しかったです。
論文のミーティングの方も、無事終わりました。やはり、メールベースの連絡でできることもありますが、直接会って話さないとわからないこともあります。日本ではこういう時にはこうする、という暗黙の知識みたいなものがあり、同様のものが韓国にもあることがわかりました。それがなぜ暗黙かというと、教科書には書いていないけれど、分析をする際に往々に生じる問題というものがあり、それに対処する方法が、先輩や先生からインフォーマルなかたちで伝わる、というものです。
5日にバスでシカゴからマディソンに移動し、無事大学が用意してくれたホテルに到着しました。道中、ひたすらInterstate 90 (I-90)の東から西に移動していったのですが、窓から見える景色がほとんど変わり映えせず、広大な土地が目の前に広がり続ける3時間半でした。中西部に来たという感じがしてきます。
マディソンに到着してから、徐々に天気が悪くなり、ホテルに着く頃には軽くみぞれ気味の天気になっていました。しかし、ものの数十分の間に吹雪になり、夜には5cm程度積もったのには驚きました。冬のピークは過ぎていますが、やはり中西部の冬は侮れないものだなと感じます。吹雪でしたが、夕食をとっていなかったので、徒歩4分の距離にある店に入り込み手早く夕食を済ませました。
吹雪の中を歩くだけで疲れてしまい、部屋に戻ってからは即就寝。二度寝を経て、午前3時ごろ起床。
予定では、ひとまず6-7日はCDE(Center for Demography and Ecology)やCDHA(Center for Demography of Health and Aging)のセミナーに参加しつつ、社会学部の院生と会ったりしようかと考えています。8-10日は、諸々のイベントに参加し、11日に出国する予定です。セミナーの記録については、旅行記とは別にブログにしたいと思います。