October 23, 2022

日曜日:浪人と結婚

 先日の朝日関連のポストは結構読まれていたみたいです、大学院生の戯言にお付き合いくださり、ありがとうございます。記事の方も日が経つともう少し落ち着いたコメントをいただけるようになりました。根も歯もない批判を投げかけてくださった方々も、(恐らく)記事を全て読んでいただいたことだろうと、今になって思います。貴重な時間を使ってくださり、感謝いたします。

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今日は土曜日、といってもこの1週間、ずっと秋休みだったので、一瞬日曜日ではないかと勘違いする(し、なんならこの記事のタイトルも間違っている)。高校調査関連の仕事を少しばかり片付けたあと、久しぶりに関係のない論文をちらほら眺めていた。意外とこういう時間がストレス解消になったりする。ついこの間、休日に研究するかと聞かれて、僕はついイエスと答えてしまったけど、こういう自分の研究に関係ないことに時間を費やすことは、自分にとっては広義には研究であって、狭義には研究ではない。勉強といった方が近いかもしれない。

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一通り論文を読んで、先日来の浪人と結婚の話が気になり、しばらく考えつつ、少しデータをいじってみた。先日みた浪人の変数は大学や短大・高専を含んでいたので、両者を峻別したところ、大学浪人のみが結婚の遅れと関連していた(私はセレクションバイアスという言葉を知っているので、相関といってもいいです)。単純に浪人した1年分、追加で人的資本投資があり、結婚のゲインが減っているとかなら、男女双方にみられるはずが、女性にだけ浪人と結婚の負の関連がある。しかも、同じ浪人でも大学と短大では意味が異なるようで、大学浪人でしか、結婚との負の関連はみられない。

やはり、キャリア意識仮説だろうか。しかし、初職や職業キャリアでみても、現役で大学に入った大卒女性と浪人で入った女性とでは違いがない。大学の選抜度は多少違うが、選抜度自体は結婚タイミングと関係していないので(大卒だと結婚が遅れる、これは既存研究が指摘する通り)、安易にセレクションの話にするのには惜しい。交絡として多少あったのは、15歳時の居住地、要するに浪人するための予備校があるような大都市に住んでいる人は、結婚も遅い。ただしこの変数を統制しても、浪人の係数はごくわずかしか変わらない。

今扱っているデータはクロスセクションで回顧で学校・職歴を尋ねているので、意識については現時点のものしかわからない。パネルデータを使って、未婚女性のうち浪人経験があるかないかで結婚希望などが異なるかは改めてみる必要がある。出会いのきっかけをみると、浪人して結婚した大卒女性は、現役で入った大卒女性に比べて、友人を介した出会いが少ない。浪人して大学に入ると、女性の場合、周りの友人は現役の人が相対的に多いので、友人関係に差が出てくるのかもしれない。しかしやや意外なことに、学校での出会いについては、浪人した女性の方が現役の女性よりも多少、多い傾向にあった。当初は結婚市場のミスマッチのストーリーを考えていたが、少し解釈は難しい。

ざっと調査時点の意識もみたところ、浪人した女性の方が、現役で入った女性よりも、子どもに高い教育を受けさせたかったり、教育の便益については認識している傾向がある。若干ではあるが、性別役割意識にも否定的、また性別による不公平を感じたことがある人も多く、ある程度は浪人するような人は結婚を所与としないようなライフコースを考えているという説は間違いではないだろう、しかしそれで全てが説明できるような気はしない。なぜそう思うのかは明確に答えられないが、人口学者としての勘というか、オッズで見た時の30-40%の差が、意識だけで説明できるというのは、かなり稀な気がする。

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そのあと、久しぶりに走って、夜の予定までカフェで本を読むことにした。歩きながら、オーディブルで村田沙耶香の「無」を聴く。ドライブマイカーの三浦透子さんが朗読をしている。彼女の感情を抑えた、しかしはっきりと意志の感じられる声は、村田さんの時としてグロテスクで、しかし社会の本質をついている文章と、うまく共鳴している。

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カフェでは論文を読んでいた。2015年に出た家族人口学の理論的な論文で、2018年に読んだ時にはいまいち消化不良だったのだが、今回読んで少し理解が深まった気がする。難関大進学のジェンダー差の話をtheorizeするときに、いくつか人口学の理論を借りるつもりで、その用意(というと、研究をしている気分になって、正当化しやすい)。

カフェでは、18時からライブミュージックが始まる。毎週土曜の夜はたまにここにきて、時間を潰している。今日のジャズは、少しピンと来なかった。

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20時から、歩いて20分ほどのところにあるギリシャ料理の店で、友人たちと夕食。帰宅して、母親と電話をする。僕の記事が載った朝日新聞が5部もきたらしい。これは、親戚にでも送れというメッセージでもあるのだろうか。水戸一高の先生も、職員室に記事を掲示したりと、少々大袈裟である。

それでも、私がアメリカで何をしているのか、検討がつかないような周りの人には、今回の記事のようなものが、自分は頑張って生きてますよという分かりやすいメッセージになるような気がして、そう思ってもらえるのであれば何をされても悪い気はしない。

なにより些細なことでも、大きく扱ってくれる地方にありがちな雰囲気の中に、自分もいるのだろう。松尾先生が生きていたら、喜んでくれたかもしれない。お世話になった先生に、自分の元気な姿を見せることができないのは、寂しい限りである。

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