今学期受けたコースワークの振り返りの最後は質的調査法である。今回取った授業は政治学部の大学院セミナーとして開講されているもので、社会学部のそれではなかった。社会学部の授業でも質的調査法と題するものはあるし、他の学部にも存在するが、政治学の授業を選んだのは(1)スケジュール的に取れそうな唯一の授業だった(2)指導教員が院生のメーリングリストでシェアしてくれた、という非常にいい加減な理由なのだが、政治学の質的調査法の方が過程追跡などの歴史的なアプローチを重視していると考えており、自分の関心分野ではこうしたアプローチが取られることもあるので、社会学よりも相性がいい感と考えた,という理由もある。
とはいえ、質的調査法の授業を取る必要はない。なぜかというと、弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが,彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり,スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので,潜在的に量質によって機会に格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み,質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。
量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった意味不明な比較をすることがある。本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに,「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。
さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、アプローチするのは大変だった。
カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが,それでも自分では読まないような論文ばかりだった。
そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。
ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。
しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対するなぜかける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性で」ある。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、特に外的妥当性を重視する人口学者にとっては重要な基準である。
しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallは二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。
強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。なぜならば、統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり,その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。
私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるとした方が良いだろうと考えている。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。
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