May 20, 2019

博士課程1年目春学期の振り返り

奨学金をいただいている財団向けに作成した今学期の振り返りを兼ねた報告書になる予定の文章です。以前書いたものを適宜編集しています。

博士課程1年目の春学期(2学期目)も基本的にはコースワークをこなす日々だった。今学期履修したのは社会学部で開講されている統計学、人口学の大学院セミナーと形式人口学、および人口学研究所が開いているセミナー二つ、そして政治科学部の質的調査法だった。以下、この順にコースワークの振り返りから始め、最後に研究について今考えていること、何をやっているかを簡単に書いている。

コースワーク(1):統計学

まず統計の授業だが、先学期は今学期と違う先生が線形回帰までを教えてくれ、今学期は社会学の因果推論ではよく知られた先生が因果推論をメインに講義を担当してくれた。先学期はSoc361で、今学期がSoc362になる。番号でわかる方にはわかるかもしれないが、この授業は学部生も履修することのできる授業である。ただし、社会学博士課程の必修になっているほか(一定の条件を満たすとwaiveは可能)、隣接領域(社会福祉、教育政策、教育心理など)の院生も多く取っていた。したがって、学部生にとっては恐らく難易度はかなり高い授業だと思われる。私も一学期間とってみて、レベル的には700番台(院生向けの授業の中級?)くらいだなと感じた。

因果推論と一口に言っても奥が深いが、この授業では観察データから因果効果をestimate(推定)する方法(傾向スコアなど)、及び因果効果をidentify(同定?)する方法(RDD, IVなど)の双方がカバーされていて、因果推論の世界は一通りカバーされていた印象である。ただ、時折effect heterogeneityの話を急に深く踏み込んだり、先生の最近の関心であるネットワークにおける因果効果の例が出てくるなど、応用的な話もあり、全体としては中級と上級の間くらいのラインアップだった。

この授業の特筆すべき特徴は、DAGと呼ばれるグラフィカルに因果推論にアプローチする方法がほぼ全ての授業で紹介されている点である。後半の授業になると、例えばDIDの回であれば、最初にエコノメチックな紹介をした後、これをDAGで表現するとどうなるかという、マニアックといえばマニアックな世界に入る構成になっていた。DAGのメリットは多くあるが、理論の中で考える変数間の関係性をcausal, cofounding, colliderの三つに分けることで、どのようなモデルを自分が想定しているのか、またその想定のもと変数を条件づけていくとどこでまずいことが起こるか(具体的にはcolliderを条件づけることによるendogenous selection bias)を、非常に分かりやすく可視化してくれる点にあると考えている。また、DAGのpath modelで表される変数間の関係性はそのまま分析する人が想定する理論(data generating process)へと直結するため、potential outcome modelを想定した上で、理論と実際のモデリングの世界を架橋してくれる道具でもある点が非常に有益である。

私は授業を取る前に、因果推論に対してはエコノメや最近では政治学の人がかなり時間をかけて取り組んでいるテーマで、そういう人たちは(当たり前といえば当たり前だが)、実験的な環境における因果効果を理想とした上で、どう現実を実験の環境に近づけるかという思考で研究をしているという印象を持っていた。そういうこともあり、この授業の先生も、観察データからいかに因果効果を導くかに関心があり、ともすればそれ以外の記述的な研究の価値をあまり評価していないのではないかと思っていた節があった。

この授業を取った嬉しい誤算の一つは、先生がそうした因果推論至上主義(またの名を因果推論警察、私はそんな言葉を使ったりはしませんが)の流れにいる人では必ずしもなかったということだった。どちらかというと、因果推論の力を認めつつも、その短所も同時に指摘することで、従来主流だったアプローチが必ずしも意味をなさないわけではないと示唆することが多かったように思う。

どれだけエコノメの授業で強調されるのかは分からないが(ある程度は強調されるとは思うが)、どの因果推論のアプローチも、外的妥当性の問題を抱えている。例えばIVやRDDを使った推定はlocal average treatment effectになるため、その因果効果がどれだけ一般化できるのかについてはわからないところが多々ある。傾向スコアも、まずは観察される変数でバランスできているのかという問題と、マッチングに関してはマッチされなかった集団を分析から除くことでどれだけ求められる因果効果が集団全体に適用可能なのかも分からない。そもそも実験的なアプローチについても、対象となる集団の代表性については問題とならないため、因果効果を求めても外的妥当性の問題はなお残る。

この授業を取るまでは、固定効果なども含めてエコノメから発展してきたこれらの手法は非常に強力で、やはりどの研究者もこうしたアプローチを分析に取り込むべきなのだろうかと考えていたこともあった。授業をとってみて変わった点は、当たり前に聞こえるかもしれないが、因果推論的なアプローチを取るかは研究上の問いによるというものである。
何かしらの手法を駆使して因果効果を求めることが適切な問いである場合もあるだろうが(特に介入が可能な政策効果などの場合)、外的妥当性が議論のコアになるような問題については、必ずしもこのアプローチを取る必要はないと考えている。なにより、社会学あるいは人口学的な志向を持つ社会学的な研究では、この外的妥当性の考えに、大きな比重を置いているという印象を持っている。

代表性を気にしなければ、依拠するサンプルが何だろうと因果効果を求めて一つの貢献になるのかもしれない。しかし、一旦外的妥当性を気にし始めると、その分析が想定している母集団とは一体何なのかという疑問が解決しない限り、その研究を評価することが難しくなる。少なくとも人口学、あるいは人口学的な志向を持って研究している社会学の人にとっては、想定する母集団がまずあり、その集団において何が起こっているかを理解しようと考える傾向が強い(と私は勝手に感じている)ので、まずは集団の明確な定義が必要になる。また、社会制度や規範の変化に伴って学歴と結婚、年齢と性別役割意識の関係は変わったのか、あるいはそれらの関係は国ごとに異なるのか、という構成的な(constitutive)問いを立てることも多いため、こういう研究の場合でも、対象とする母集団が明確になっていないと、どの集団とどの集団を比較しているのかよくわからなくなってくる。

以上述べたような問いに関心がある場合は、ひとまず因果推論的な考えは棚に上げて記述的にみてみることも大切かなと、改めて考え直している。もちろん、例えば学歴と結婚の関係が1960年代と2000年代で変わった場合、可能性としては(1)学歴の結婚に対する因果効果が本当に変わった、という説と(2)学歴と結婚の間にある交絡要因が変わったという説の少なくとも二つが考えられるが、こういった時点間で因果関係が変わっていることに対して、因果推論の人はどのようにアプローチするのか、私はまだ(どれくらい意義があるかも含めて)よく分かっていない。なぜかというと、これまで授業やそれ以外の機会で読んできた因果推論の文献は、ある特定の集団を対象にした時の因果効果に言及することがほとんどで、その関係が他の集団、あるいは同じ集団でも異なる時点で異なることに関心を向ける研究は知らないからである。

一般に、まずはassociationがあるかを確認して、それが本当にcausalなのかを確かめようというステップで因果推論の利点が紹介されることが多いように感じるのだが、上記のような問いはまさしくassociationalな問いで、数えきれない交絡があると考えられる。そういう現象に対して、どうやってcausalな問いを組みこんでいくか、そもそもそういう問いにどれだけ意味があるのかは、今後考えていく必要があるだろう。少し踏み込んで言えば、今までassociationからcausationへという、両者は架橋できるという意味を含んだ言葉で回収されてきたassociationalな問いの一部は、実はconstitutionalな問いといったほうが適切なのであって、constitutionalな問いとcausalな問いを架橋することは一見すると簡単そうに思えて、実はかなり距離があって難しいのではないかというものだ。先の例を使うと、「学歴と結婚の関係はこの50年間で変わったのか」という問いと、「学歴が結婚に対して与える因果効果はどれくらいか」という問いの二つは、似ているように見えて、実は翻訳が不可能なのではないか、と言うことができる。そういう点について改めて考える機会を与えてくれた今学期の統計の授業だった。

コースワーク(2):人口学
次に人口学である。人口学に関連する授業は多い。先学期の振り返りでも述べたが、私は社会学部の博士課程に在籍するとともに、社会学部と関係の深い人口学研究所にもトレイニーとして所属している。本来、研究所と学部は独立のはずだが、なぜか本学では人口学研究所に所属すると社会学部から要求されるコースワークのrequirementが増える。具体的には学部の指定する授業と、人口学研究所の主催するセミナーに出席することが義務付けられる。

したがって、今学期もそのノルマに従うことになった。月曜日には先学期と引き続きpopulation and societyという名前の文献購読のセミナーに出る。火曜日と木曜日の午前中は形式人口学(人口学方法論)の授業、火曜日はその授業が終わった後に人口学研究所が主催するセミナー(外部のスピーカーを呼んで報告をしてもらう形式)。水曜日にはもう一つの人口学研究所の主催するトレーニングセミナーに出た。

先学期は月曜日の文献購読セミナーが最もついていくのが辛かったことは前回の振り返りで述べたが、今学期は新しく上級生が数人加わった以外は、講師・学生とも同じラインナップで、この授業をいかに負担なくこなせるかが課題だった。結論から言えば、多少の慣れと工夫のおかげで前回よりも負担なく終えることができた。

「慣れ」からいえば、メンバーも前回と同じだったので、緊張感も前回ほどはなく、自分の思ったことをすぐ言える雰囲気にはなっていた。また、わからないときにどう言う表現を使えばいいのか、いい意味での「ごまかし」に関するスキルも他の学生を見ながら会得していけた気がしている。

今学期の文献購読セミナーでは多少の「工夫」もしてみた。まず文献を読み過ぎないことである。もちろん、時間が許す限り文献を丁寧に読み込むことは重要だが、アメリカの博士課程教育で課される文献の数は日本に比べると明らかに多く、後述する政治学の質的調査法もとった今学期は文献購読のセミナーを二つとることになり、先学期よりも読まなくてはいけない文献が倍以上になった。丁寧に読んでいては読み終わらないのだ。ではどうするかというと、論文の要点を素早く掴むスキルを身につける必要がある。さらに、時間をかけすぎると他の課題を済ませる余裕がなくなるので、今学期はこの日までに読み終わり質問をポストする(この文献購読のセミナーでは前日までに文献を読んで浮かんできた疑問点をウェブポータルにポストすることになっていた)、ポストしたら当日までは文献を読み返さないというポリシーを取ることにした。こうすることで、期日までにアサインされた論文を読みきらなくてはいけない動機が生まれるし、終えてからは他の課題に集中できる。

こういった「工夫」は丁寧に文献を購読してこそ研究と考える見方からすると「邪道」に思われるかもしれない。私も、論文を読むときは要点だけではなく細部まで理解する必要があると考えていた。その考えはまだ捨ててはいないが、(どこまで一般化できるかわからないが、少なくとも社会学では)アメリカの大学院での教育では個々の論文の論点よりも、アサインされた論文に共通するテーマや対立する観点、比較してより深く理解できる先行研究における課題などに重点が当てられる。訓詁学的に論文を丁寧に読み込む作業よりも(もちろんそういった作業は自分の論文を執筆するときには必要になるだろうが)全体の流れの中に文献を位置付けて体系的に議論する力の方が優先されるのだろうと現在は考えている。重要なのは、これらは対立するものではなく、場面によって使い分けるべきスキルである点だ。よくアメリカの教育では文献が大量に課され、「スキミング」のスキルが必要になるとされるが、別にそのスキミング能力を身につけること自体が文献を大量に課す目的なのではなく、数多くの文献から特定の論文がなぜアサインされ、アサインされた論文間の関係性を把握した上で全体の議論を掴むことが目的なのかもしれないと今は考えている。結果的にそうした全体の流れをつかむ力は論文を書く際のliterature reviewに通じるのだろう。

そういうわけで、人口学の文献購読セミナーについては前回よりもかなり負担なくこなすことができたので、その点はコースワークを通じて得ることのできた収穫なのではないかと考えている。もう一つの文献購読セミナーは政治学部の質的調査法でこれは色々と別の難しさがあったのだが、その点については後述する。

人口学の方法論、形式人口学については先学期が基礎、今学期が応用となっていて、先生も違う人になった。指導教員いわく、本学の応用形式人口学は人口学部を持つ他の大学(バークリーなど)のプログラムと競える水準にあると言われ、期待半分、ついていけるのか不安半分の気持ちで受講した。指定された教科書は形式人口学の世界では定番中の定番とも言えるペンシルバニア大学のPreston教授らが書いたDemographyという本で、基本的にはこの本に準拠して授業が進んでいった。

この本については、日本にいた時からその評判を聞いていたので、以前勉強会で読み通したことがあったのだが、その当時は何をいっているのかよくわからないところばかりだった。もちろん、今学期授業を受けてみてもまだわからないところはあるのだが、講師の先生の解説もあり理解度は非常に深まった。特に形式人口学にはいくつかの人口モデルがあるのだが、stable populationに関するモデルのコアな部分を掴めたのは非常に大きな経験だった。また、人口予測のモデルについても学んだのだが、このモデルの応用例で、私が自分の研究で取り組みたかった人口学的な観点から社会階層・社会移動を分析するモデルを扱ってくれたのは非常にありがたかった。

この授業の特徴は、ほぼ毎週のように課題が出るのだが、(1)統計ソフトウェアのRのggplotと呼ばれるvisualizationのツールを使って(2)課題をできるだけ可視化して提出することが推奨された。もちろん、最初はエクセルを使って死亡率を計算して、といった風にできるのだが、人口予測のシミュレーションなどに入り出すと統計ソフトを使用する必要が出てくる。この授業ではRのプログラミングなどは教えてくれなかったので、毎回課題に取り組むときはみんなで協力して知恵を振り絞った。興味深いことに必要に駆られると人は学び始めるもので、私はRと並んで社会科学ではよく使用されるstataを研究では使用しているのだが、この授業でon the jobにRのトレーニングを受けた(というかほぼ自学自習をした)結果、Rの方が時と場合によっては使いやすいと感じるまでになったのは大きな収穫だった。

社会学に限らず、社会科学ではdata visualizationの重要性が指摘されるようになっており、近年これに関する教科書も相次いで出版されている。私も学期中に人口学研究所の支援を受けて参加したアメリカ人口学会では、学会に先立ってdata vizのワークショップが開催されており、これに参加した。この形式人口学の授業は2年おきに開講されているが、今回が初めてRを本格的に導入しdata vizを強調した年だったので、そこまでオーガナイズされてはいなかったがdata vizのエッセンスをつかむことはできたので、今後はこのスキルを伸ばしていきたい。

最後に、今学期の裏テーマである「批判的人口学」について。critical demographyは本学の界隈ではホットなトピックになりつつある。既存の人口学的研究はbroken down by sex and ageというスローガンに代表されるように、性別と年齢に分けた上で死亡率や女性の出生などについてみることが一般的だった。こういった分析ではsexは所与のものとして考えられ、出生は女性が行うもの、としてみなされるわけだが、社会学やジェンダー研究によってその想定が必ずしも適用できるものではなくなってきている。sexual identifyはどの時点でも固定ではなく、変わりうるものであり、同様にrace/ethnicityについても近年の研究では自らのracial identityに揺らぎがある現象(racial fluidity)が注目を集めている。社会学的な観点に立てば、こうした個人の社会的なアイデンティティは社会的に構築される面もあるため、これまでの人口学が扱ってきたようなそれらを所与のものとする仮定は批判の対象となる。

批判的人口学というのは、社会学で重視され、議論されてきたこうした個人のアイデンティティを人口学が所与の変数として扱ってきたことを反省し、sex/gender、race/ethnicity、あるいはそれらのintersection、さらにレイシズムといった集合的な現象をどのように人口学的な分析に組み込むかというもので、文献購読セミナーでは時折議論する機会があった。形式人口学では伝統的な方法に則ったアプローチが紹介されるにとどまったが、講師の先生は今後これまでの人口学が自明としてきた想定を批判的に再検討した上で、新しい方法的アプローチを開発する必要性についてはオープンだった。このテーマについては自分の中でも勉強が不足しているが、今後考えていきたいテーマとして強く印象に残っている。

コースワーク(3):質的調査法
今学期受けたコースワークの振り返りの最後は質的調査法である。今回取った授業は政治学部の大学院セミナーとして開講されているもので、社会学部のそれではなかった。社会学部の授業でも質的調査法と題するものはあるし、他の学部にも存在するが、政治学の授業を選んだのは(1)スケジュール的に取れそうな唯一の授業だった(2)指導教員が院生のメーリングリストでシェアしてくれた、という非常にいい加減な理由なのだが、政治学の質的調査法の方が過程追跡などの歴史的なアプローチを重視していると考えており、自分の関心分野ではこうしたアプローチが取られることもあるので、社会学よりも相性がいいかもしれないと考えた,という理由もある。

とはいえ、そもそもの話から始めれば、質的調査法の授業を取る必要はない。弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は先述のように複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。

典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが、彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり、スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い(と考えられている)。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので、潜在的に量/質によって機会格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルに存在するらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み、質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。

量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。コースワークの編成上、「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった本当に意味が不明な比較をすることがある。以上のような理由と、本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに、「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。

さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、こうした文献にアプローチするのは大変だった。

カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが、それでも自分では読まないような論文ばかりだった。

そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。

ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。

しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対する投かける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性」である。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、先述したように、外的妥当性を重視する人口学者にとっても非常に重要な基準である。

しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallはマンチェスター大学におけるネットワーク研究の中興の祖ともいうべきClyde Mitchellの論文を引用しつつ、二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。

強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量・質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり、その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。

私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるだろう。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。

この論点に関連させると、質的調査法という授業そのものに編成上の難しさがある気も多少している。というのも、この授業では実証主義的なアプローチと解釈主義的なアプローチによる二つの質的調査法の世界がカバーされていて、私からすると量と質の対立は擬似問題であって、メソドロジカルに存在する本質的になり「得る」違いは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観だと考えているからである(「得る」と書いたのは、私の理解では例えば関係主義的な理論はその両者の対立を乗り越えようとする取り組みだと考えており、実際に対立するのかはまだわからないためだ)。

研究
先学期の研究上の振り返りの1文目は「学生としての本分は授業を履修して単位を取ることかもしれないが、実際には博士課程は研究者の養成機関であり、在学中から研究に勤しむことも重要である」だった。この考えに変わりはないが、文献購読のセミナーを一つ追加した今学期は、予習量が明らかに増えたので研究に配分できる時間は少なくなった。とはいえ、様々な「工夫」はしたので平日の時間の大半はコースワークに時間を使っていたが、休日を中心に多少ではあるが、研究時間も確保した。とはいっても、1日に2時間研究できれば大成功で、全く研究できない日も1週間の半分くらいあったのが現実である。
論文を投稿しなくてはいけないのは自明なのだが、どのような論文をどのようにして書くべきなのかについては2点、考えが変わった。1点目は雑誌のランクである。先学期の振り返りを見ると、ひとまず中堅以上を目指しながら、将来的にトップジャーナルに載せられたらいいくらいに考えていたが、あまり悠長なことは言えなくなってきた。様々な事情で、トップジャーナルに載るような論文に全力を注ぐことにインセンティブが与えられているのがアメリカの博士課程プログラムで、私の場合はすでにパブリケーションがあるため、これから書く論文については、基本的にトップジャーナルに載るようなものを優先することになる。逆に言うと、萌芽的には面白いがトップジャーナルには載らなそうな研究には時間が割けなくなる。どうしてこういうメカニズムで世界が動いているのか、私もまだ掴みかねているところはあるが、論文は基本的にトップジャーナルから出していくのであって、出す以上はそのジャーナルに載せられるようなクオリティを目指す必要がある。もちろんトップ誌に載せたからといってその論文が優れているかはわからないので、実際はジャーナルの名前に左右されることなく論文の質を評価できるのが理想なのだが、アメリカの社会学ではジャーナルのランクが質のプロキシとしての役割を担っている(あるいはそう期待されている)ので、合理的に考えるとトップ誌に載せられるような論文を書く努力をすることになる。もしかすると、アメリカの社会学はサブフィールドが多様なので、そういうフラッグシップを頂点とする階層性を前提としないと人事評価がしにくいのかもしれないし、あるいはある人事に対してその公募でとろうとする分野の人が採用をリードするのではなく、多くの分野の人から納得してもらえるような人を採用しなくてはいけないのかもしれない。個人的には後者のような気がしている。例えば、日本の人事では(特に講座制の影響が根強いところであれば)学史の先生を採用しようとなった時にその分野に最も詳しいのは学史の先生たちなので(当たり前だが)、その人たちが最終的にイエスといえば他の教員はそれを支持するのかもしれない。トップジャーナル志向というのは当たり前に聞こえるかもしれないが、奇妙な価値観である。

2点目は自分の研究スタイルというか、日本を対象にすることとの距離感である。先学期の時点では日本研究者としてのアイデンティティを持ちつつ、日本を事例にした研究をすることで既存研究の理論的な空隙を埋めよう、というモチベーションだった気がしている。もちろん、今でも日本をケースにして博論を書きたいと思っているし、それをより広いオーディエンスにアプローチできるような研究にしたいと考えているが、多少出発点が変わった。この点は、人口学の大学院セミナーで議論をリードしてくれた講師の先生の影響が大きい。彼女は毎回の議論において、アサインされた文献が想定している暗黙の仮定が何かを非常に重視している。私がその授業、および彼女の研究に対する姿勢から感じ取ったのは、新しい価値ある研究というのは、既存研究がそうして確かめることなく棚上げにしていた想定を批判的に再検討し、経験的な研究であればそれをデータで示すことなのかなと考えている。もちろん、そういう論理で事例を選んで分析をしていっても、結果的に先学期のように「先行研究の想定は日本では当てはまらないので、日本の事例検討することで理論をアップデートする」という主張と大して変わらない知見になるのかもしれないが、もう少し先行研究をレビューしていく過程で論理的に導ける暗黙の想定に対してクリティカルになってもいいのかなと考えている。常に変化する社会を対象とする社会科学では、そうした想定は一部の社会や時代においては妥当なものとして支持されるのだが、場所や時間が変わると妥当ではなくなる。私がこの発想で最近取り組んでいる研究は二つあり、一つは学歴に関するもの、もう一つは家族形成に関するものである。前者については、教育社会学の研究などでは近年、高等教育の中の異質性が拡大していることに着目する議論がある。日本の例で言えば、日本の四大進学率の上昇に寄与したのは私立大学で、さらに言えば以前は短大や専門学校だったような一般にはそこまで威信が高くない層による学校の設立が大きい。そのため、昔の大卒と今の大卒ではアベレージで見た時に意味する中身が変わってくるのだが、私が専門にする学歴同類婚の分野では大卒層を均質的に扱ってきた。私が最近取り組んでいるプロジェクトでは、そういう想定がもはや妥当ではなく、実際にデータを用いて検証すると威信や選抜度の高いと考えられる大学出身の人の方が、選抜度の低い大学出身の人よりも、自分と同じような学歴の人と結婚しやすいことがわかった。

後者については、アメリカの家族人口学における家族形成、特にユニオン形成に関する先行研究をレビューしていて生じた疑問に基づいている。アメリカでは1970年代以降に結婚率が減少し、その代わりに同棲が増えたのだが、この中で何故結婚する人が減ったのかというretreat from marriageと呼ばれる現象が盛んに議論された。詳細は割愛するが、そこでの議論の中心は人は何故結婚しなくなったのか、であり結婚ではないカテゴリは全て非結婚として残余的に扱われてきた。しかし、結婚しない人の中も多様である。その中で増加傾向にあったのが同棲で、もう一つの先行研究では何故同棲が増えているのかに着目した説明をしている。どちらも重要な研究なのだが、どちらも結婚や同棲以外の減少を残余的に扱っているほか、後者は同棲と結婚を対立的に捉えている。しかし、日本的なコンテクストを踏まえると、同棲はそこまで増えていないし、同棲が結婚に代わる新たなライフスタイルとして定着しているわけでもない。結婚からの減退は高所得国全般で生じているが、結婚率が減少すると同棲が増えるわけではない。したがって、両者は代替的なものではない。代わりに、日本や韓国などでは結婚せずパートナーも持たない人が増えている。私の関心の一つはもともと一つだったのだが、アメリカの人に話してもいまいち理解してくれなかった。それは何故か、今はアメリカの家族人口学ではユニオン形成、あるいはその後の出産・子どもへの教育投資を通じた世代間移動に関心があり、そもそもユニオンを形成しない人は関心の外にあったのではないかと考えている。私が明らかにしたいのは、結婚と同棲が必ずしも代替的な関係にあるわけではなく、ある社会的な文脈では同棲ではなくパートナーを持たないソロの人が増えるのであって、それは多かれ少なかれどの社会でも増えているだろう、というものだ。この研究も、既存研究がパートナーのいない独身者を残余的に扱ってきたことを批判的に再検討しているところから始まり、結果的に日本を事例として選択している。ひいては、そういったソロの人たちはある種のスティグマを付されていると思う。例えば、大都市とは違い中西部のような地方都市では、いっぱしの大人にはパートナーがいるだろうという強い期待があるのを感じるし、さらにいえば独身の人はパーソナリティ上何か問題があるので独身のままではないのか、という偏見がある気もする。それは偏見であり、かつ人口学的・社会学的に考えると今後はますますソロの人が増えるのだから、そういう声なきマイノリティだった層がすでにマイノリティではなくなりつつあることを指摘して、社会的に流布している偏見が偏見であることを明らかにできればいいなと考えている。最後の点については、どういう研究をするのが「役に立つのか」、そもそも「役に立つとは何か」という古くて新しい問題と関係するが、この点についても考えることが多いものの、明確な答えは出ていない。しかしながら、おそらく今よりももっと社会学者はパブリックな議論にコミットしていくべきだし、社会を外から眺めているという想定は捨てる必要はないが、社会の中にいる以上、ある価値を前提にして社会を変えていく役割を担うべきだろうと考えている。


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