May 21, 2019

東京出張:5月21-24日

5月21日
マディソンからシカゴへ出るときの朝も豪雨だったが、今日東京に向かう道も非常に強い雨が降っていた。高速バスを途中で降りてTXと都営を乗り継いで大学に着く頃には疲れ果てて、早速マディソンに帰りたいと思ってしまった。バスの車中で文献を読んで、金曜の報告の用意をする。

午前中は共著の先生とのミーティング。いくつか新しいテーマについても話すことができたのでよかった。目標は6月中旬までに論文を書き上げること。

そのあとは研究室にお世話になった。研究助成の書類を書き上げて提出。それと今学期の振り返りをして、奨学金をもらっている財団に提出できるまでにした。

偶然研究室を卒業した先輩がきてたので、先輩たちと夕食に焼き鳥屋へ行った。メンツ的には2015年に研究室にいた人たち、という感じでしばし懐かしい時間。焼き鳥は意外とアメリカで食べられない(特にホルモンとかカシラとか)ので、とても満足した。

5月22-23日
この2日は主に研究。特に日中大きな予定もなかったので院生室を借りて(一応まだ院生自治会のメンバーではあるので)、昨日のミーティングまとめ、日本時代の指導教員の先生にメール、現在書いている論文のlit reviewのアップデートをした。それと、なぜか某トップジャーナルの査読をすることになり、論文を印刷してざっと読んだ。どういう査読をするのが効率的なのか、よくわからない(そもそも教わっていない)のでまだ手探り状態である。

昼はアメリカの指導教員とまるそでランチだったのだが、ピリ辛坦々そばを気に入ってくれたみたいでよかった。まるそは学外の人が来たら必ず紹介するお気に入りの店。ランチを食べながらなぜか野球の話になり、翌日に東京ドームの試合を見に行くことになってしまった。

午後は書籍部で「出会いと結婚」を購入。あと論文のlit reviewをしている時に気づいた資料「日本の人口 : 戦後50年の軌跡」を経済図書室で借りる。今まで気づいていなかった。こういった市場に出回らない形の書類はアメリカには置いていないので、日本に滞在している時にコピーを取っておけるのは貴重(もちろん、アメリカの大学でも遠隔地の資料をコピーしてくれるサービスはあるけど、事前に一応中身を確認したい)。

これらの作業を終え、夜は上野で火鍋。学部時代の社会学仲間との集まりで、これで多分3回目。私が帰国する機会に開いてもらっているので、このために帰国しているような感じで毎回非常に楽しみにしている。こういう同窓会チックな集まりが楽しくなるっていうのは、年をとったってことだろうか。

木曜日も引き続き院生室で作業。午前中に2時間ほど集中して論文を書き、共著者にシェア。それでだいぶ疲れてしまい。半分ご褒美にねむ瑠に行ってスペシャル和え玉(スープ付き)。これでだいぶ出来上がってしまい、研究する気がなくなってしまう。それでも一応他の論文の分析や、「出会いと結婚」の章を読み進めた。

夜はアメリカの指導教員と日本のプロ野球を観戦するというオツな体験。意外と日本語英語の野球用語は少ないらしく、デッドボールくらいだと言っていた。それ以外にも、日本では抑えをストッパーというが、それはアメリカでもまあ理解はできるらしい(アメリカでは抑えはクローザーである)。

球場で野球を見ながら見るビールは異常に美味しく、普段生ビールを何倍も飲むことはないのだが、今回は3倍も飲んでしまった。エビスが美味しい。生ビールを飲むためだけにまた野球を見に行きたいくらいだ。

5月24日
この日は色々とミーティングが重なる。ホテルをチェックアウトして荷物をまとめ、本郷のスタバで勉強会で読む論文を済ませる。偶然が重なり指導教員が書いたannual reviewだったのだが、その最後にこういう研究がないので今後検討が待たれるという論調で紹介されていたものが、まさしく現在指導教員と私が進めている論文だったので驚いた。このレビューは私の研究関心の多くをカバーしているので(控えめに言って、このレビューで扱われているトピックで私がカバーしていないのはson preferenceとchildlessnessだけだった)、私ももう何回も読んでいたのだが、改めて彼と研究をするようになってこのレビューのありがたさを感じるに至った。

また、一年間人口学の大学院セミナーを受けてきて、その中でアサインされた論文も引用されていた。例えばdevelopmental idealismはアメリカの人口学では非常に重要な概念の一つだが、人口学セミナーを受けなければこの言葉がどういう意味を持っていて、どういうふうな時に引用されるのかがいまいちわからなかっただろうと思う。そういう意味で、勉強会の前からこの論文がアサインされてよかったなと思っていた。

スタバでの作業を終わらせて立教大学へ。某研究会で報告させてもらったのだが、人生で初めて研究によって謝礼をもらったのでこれが自分の「初任給」かもしれない。色々配慮してくださって頭は上がらない。

その後駆け足で本郷に戻る。社会政策系の勉強会で先に挙げた論文が読まれた。いまいちなぜこの論文が社会政策の研究会で指定されたのか最後までよくわからなかったが、色々勉強にはなった。一回に5-8本の論文が指定されて議論するスタイルのセミナーに慣れてしまい、今日の研究会で論文1本に丁寧に1時間かける日本的スタイルは新鮮だった。

双方にメリットデメリットはあり、ケースバイケースで使い分けていいと思う。こういった研究会の場合にはしっかり読むことも重要かもしれないが、大学院教育に関しては、前者の方が理想的だと考えている。なぜなら、前者は大量の文献をアサインすることで「スキミング」する能力を養うことが目的では決してなく、共通のテーマ、論文同士の比較、どの論文も同じ想定をしていて見逃している点などを包括的に議論することが目的だからだ。こういった経験は、その後のlit reviewの際に非常に役立つというのは、前回の学期の振り返りで述べたとおりである。

前者は文献をアサインする側、議論をリードする側の力量が問われる。今振り返ると人口学の大学院セミナーでは、授業をオーガナイズしてくれた先生のおかげで、一年で広範なトピックの文献を効率よくカバーできたと思う。日本的な丁寧なスタイルで同じ量をカバーしようとすると、おそらく三年くらいはかかる。三年もかけて文献を読んでいると、絶対に新しい研究が登場するので一部の文献は古くなってしまう。

ただ、このスタイルはおそらく日本のゼミ教育には馴染まない。まず、日本では一つのゼミに「所属」するというカルチャーで、大学院の期間は基本的に同じ先生のゼミに出ることになる。そうすると、同じ授業をオファーしてもマンネリになるので文献を変える必要があるが、本を一冊指定して輪読するスタイルなら難しくはないだろうが、毎回違うテーマのリーディングリストを作れるほどの暇は研究者にはない。

さらに、数年に一回、コースをオファーしようと思っても、新しくそのテーマのセミナーを受けるほどの院生もいない。そのため、東大でさえも社会学のコースワークは非常にベーシックな文献購読で、理論と方法のセミナーがあるくらいである。例えば本学だと、先に挙げたような人口学の大学院セミナーと同じ900番台の授業にはraceもあるしstratificationもあるしsoc of edもある。来年私はfamilyの大学院セミナーを受講する予定だ。繰り返すが、こういったセミナーを開講するためには最低でも5名程度は受講者が必要なので、それが日本の大学院でできるかというと、院生の数が少なくて関心も多様なので難しいのである。

勉強会を途中で抜けて、その後は指導教員と別の共著者の先輩と一緒にミーティング。5時10分のバスで水戸に帰る。

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