March 15, 2017

JAMS63

落ち込んでいたのに学会に出たら元気が出たというベタな展開でした。

自分一人で研究してたらいつか倒れていたような気がします。僕なんかのような人間でも声かけてくれる人がいるのは本当にありがたいことだと思いました。

さて、JAMS63のメモ。

大林さんのアナソシセミナーは、書評論文書いてあることもあり、おおよそは既出の話でした。個人的に面白かったのは追えてなかったKronebergの研究事例や、ManzoがいうECA(ABM)は因果推論への諦めだという視点。

社会現象には、デリベーション(微分)しやすいものとそうでないものがあるという話です。例えば、どういう属性の個人が仕事を得やすいかみたいな分析の場合、従属変数は人の行為ではないので、比較的単純に回帰分析したりすることができます。これに対しては、結婚しかり、どの相手とマッチングするかといったものが目的変数の場合には、相手も行為者の行為をみて動くわけなので、複雑だし、変数の効果を見ても内生性が出てしまう問題があります。

仮に複数の個人が相互作用しながらある現象が生まれていく、そのプロセスに関心がある場合には、回帰分析的な枠組みではもはや分析ができないため(諦め)、ABMのようなダイナミックなモデルを用いましょうという議論でした。

これが自分にはとても面白く聞こえました。以前書評論文を書いたときに、分析社会学が説明対象とするマクロな社会現象には個人の集積からなるもの(社会階層など)と個人には完全されない集合的なもの(集合行為など)の二つがごっちゃになっているという点を盛り込もうとしたのですが、中途半端になってしまってお蔵入りになった節があります。

元来(と言ってもそこまで歴史はないですが)、アナソシというのは個人の行為と相互作用の連鎖に着目して社会現象を説明しようつするある程度ゆるい枠組みを提供しているわけですが、その個人の相互作用の過程を踏まえて、出てくるのは集合的(collective)なものであって、集積的(aggregate)なものではないのでは?というのが初発の疑問でした。

大林さんのセミナーを聞いて、デリベーションが難しい現象というのは、個人が複雑に絡み合うものであり、反対に容易にできるものは、あまり相互作用はメインの原因にはなってない(地位達成とか)のではないかと。少し対比が明確になってきました。例えば、ヘドストロームも周囲の失業状況が個人の労働市場における行為に影響して、といった話をしているのですが、分析単位として個人の行為とその相互作用をどこまで重くみるかという点は、説明したい現象の性質(集合的or集積的)によるかもしれないというのを考えました。

この点は、翌日の永吉先生のシンポジウムでも似た論点として提起されていたように思いました。

私なりに響いた点だけ要約すると、個人は何かしらの信念(意識)を持ってる(測定できる)し、個人の信念の集積(aggregate)もある(世論調査などで測定できる、ただし調査によって明らかになる平均値は個人にとってはあまり意味ない)。そして個人の集積「ではない」集合的な意識は測定できなさそう(でもある)。という課題を永吉先生は述べられてました。

ちなみに二次会の席では、マクロというときに個人の足しあわせでわかる集積と個人には還元できない集合的な現象があり、まずこれらを峻別した上で、後者は個人の信念に影響するし、逆も然りだろうという話をしました。で、これは構造化かもねとなってもう計量やめようかまでは、言わなかったのですが。

計量やめようか、というよりは、計量に限らないアプローチでどう接近していくかだと思います。確かに観察することは難しいかもしれないですが、現実の似姿としてのモデルと現実のデータを突き合わせることで、現象のプロセス解明に一歩近づけるかもしれない。そういう風に考えると、ABM(ECA)の重要性が出てきます。

どうしても集積的な分布の方が観察しやすいため、議論の俎上に上ることが多いのかもしれません。例えば格差と分断は両方とも現代社会が抱える大きな課題ですが、格差は文字どおり「格の差」なので、究極的には二つ以上の集団の何らかの差があればわかります。例えばデータをランダムでとってきて、正規と非正規の格差がどれだけ変化したのかを時系列で見る、立派な格差研究でしょう。一方で、分断というのは、どうやって定義するかにもよりますが、空間的な要素を含んでいるような気がします。どれくらい分断しているかも重要ですが、なぜ分断するようになったのかを考える際には、空間的な性質を持つ以上、その空間に埋め込まれた個人や制度の複雑なプロセスを解明する必要があります。都市社会学を中心に、フィールドワークを用いた研究が多いのも、分断がこうした性質を持つからかもしれません。

とはいっても、両者は関連しているはずです。ある時点の格差がその後の分断には影響するかもしれませんし、分断が格差生成の一要素となるかもしれません。両者を束ねる概念までは思いつきませんが、おそらく、両者を並行して考えることが求められる現象もまだたくさんあるでしょう。この時、量的データとして観察しやすく、分析もしやすい集積的な側面だけで満足してて良いのでしょうかという話です。もちろん、説明したい現象次第ではありますが、個人的にはアクセスできるデータの制約によって説明したい現象の幅も変わってくるのかもしれないと思います。もともとある材料に制約がある場合、思考の幅も狭くなるだろうと。

みたいな話をぐるぐる考えた3日間でした。やはり、共同研究者がいるので粘ってみようかなと思います。

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