ひと段落ついたので数理の用意を再開しました。ただ、なかなか行きづまり感。
夕ご飯を食べて母から電話がかかってきた。午後にこちらからかけていたのだが、その時は留守だった。
当然というか、祖母の話になる。診断後、平日は叔母、休日は母親が家に行って、買い物などに付き合うようにしているらしい。叔母は水戸から少し離れた笠間に住んでいるが、パート先が水戸で、帰る前に寄ってくれている。母はパートに加え、7歳の子ども(僕からすると弟)がいるので、休日優先。幸い、休日は弟がサッカーやプールに行っているので、その時間を使ってくれている。来年からは、叔母はパートを一時間、母は月の休日を2日ほど増やすと言っていた。
昔の祖母は、早く買い物を済ませて、子どもたちがのんびりしているのを愚痴っていたくらいだが、今では何を買うこともなくスーパーをぶらぶらしてしまうそうだ。買うのはもっぱら菓子パン、牛乳、惣菜。めっきり料理をしなくなったらしい。冷蔵庫に置いてあった卵を叔母が確認したら、賞味期限が12月だったようだ。それでも、診断される前後には近所の僕の実家におひたしとゆで卵を持ってきてくれた。車をぶつけて廃車にしてから足がなくなってしまったのだが、20分はかかる道を一人で来たのだから驚く。これが、症状が進むと徘徊になるのかはよく分からない。母に言わせると、祖母は夜はちゃんと寝るのだからそういうことはないのだろうと。73歳の認知症の高齢者が電車にはねられたというニュースを見て、気になって電話していた。
ずいぶん、時間の感覚、知覚がなくなってしまったようだ。次は7月かいと言いだせば、12月の次は13月だという。最初はただの勘違いかと思うかもしれないが、およそこういう発言が続いて母が心配になり、MRIで検査してもらうことになったのが数週間前だった。
ばあちゃんは認知症と診断されました。
そのメールをもらった時、今まで自分が考えてこなかった、親の介護、祖母の命、そういった言葉が脳裏をよぎった。そしてしばらくして、少しだけ、納得した。
祖母は人付き合いをしなかった。もともと土地に根付くような人ではなかった。戦後、大阪に生まれ、父の仕事の都合で炭鉱で栄えていた夕張に移住。炭鉱の事務所で働く父の給料は悪くなかったようだが、多くの兄弟姉妹を抱え、祖母はすぐ働き始めたのだろう。トラック運転手の祖父と結婚して、ようやく一軒家を購入した次の年、祖父は交通事故で亡くなった。同様のタイミングで、炭鉱が閉鎖に追い込まれる。僕から見れば曽祖父は蒸発したらしいが、稼ぎ手のいなくなった一族は、祖母の親族を含めて一同フェリーに乗って茨城へ。そこから祖母は女手一つ、二人の娘を育てた。水商売もしたらしい。途中から、水戸の有名な旅館とホテルで仲居を始めた。僕が幼い頃まではやっていて、ホテルの方に遊びに行って、何歳か年上の御曹司の坊ちゃんと話したこともある(その後ホテルは2005年ごろに廃業した)。
場所も仕事も転々としていた祖母だったが、仲居時代が一番の「天職」だったのではないかと思う。時代が時代だったので、羽振りの良い政治家の話も聞いたし、仕事の話をする様子は楽しそうだった。化粧も好きだったろうし、相手を気遣う、サービス精神の旺盛な人柄はそういった職業に向いていたのだろうと思う。一方で、私生活では親友と呼べる人は少なかったのではないかと思う。仲居時代にそういった人が一人いて、よく僕も一緒にご飯を食べたが、その人は裕福な家の生まれだったのか、マンション住まいで次第に疎遠になっていた。遺族年金をもらっていた祖母は、子ども二人が巣立ってからは県営団地に住むようになった。まだ少子化という問題がクローズアップされなかった時代、団地にはやんちゃな子どもたちがうじゃうじゃいた(僕はいじめられる側だった)。団地というのはそういうところである。祖母は公園の眼の前に部屋が位置していたこともあり、よく水を出しっぱなしにする子ども達を叱っていた。そういう自分の決めたルールは完徹する人だった。周りは少し迷惑だったかもしれないし、美化するわけでもないが、昔の団地というのはそういうおせっかいをやく人がいて、互助的な機能があったのかもしれない。母もシングルマザーで働いている時間が長かったので、よく祖母には面倒を見てもらった。小学校から帰って、祖母の家でくつろいで、冬は焼き芋屋が通ると胸を踊らせたものだった。
小学校を卒業する時に、母が乳がんになった。当時、僕は義理の父との関係がよくなかった。家に二人きり、それは到底考え難いことだった。僕が選んだのは、祖母との同居だった。その時祖母が仕事をしていたかははっきり覚えていない。仲居はやめていたと思うが、次に始めた清掃の仕事をしていたかどうか、微妙な時期だった。北海道時代の生活の経験から、祖母は(そして母も)極度に結露・湿気を嫌った。そのままにしておくと凍るし、カビてしまうからである。さすがに水戸の気候では朝ベランダの窓を開けようとしたら凍っていたということはないが、それでも湿気をこまめに取り除いていたため、部屋には一切カビがなく、新居同然の綺麗さだった。白いピカピカのテーブルクロスにたくさんの料理を運んで、祖母は育ち盛りの僕を孫として、そして初めて持つ男の子として、可愛がってくれたのではないかと思う。
祖母との共同生活はもう一度だけあった。今度は母が妊娠したのだった。2009年の夏、浪人中だった僕は、車の中で母から妊娠を伝えられた。予定日は翌年の1月。センター試験の直前だった。その頃には父との関係も改善していたが、それでも誰が家事をするのか。受験に集中したい僕は、またもや祖母との短い同居生活を始めた。年明けから住み始めたと思う。時期が時期だったので、少し遠くなった予備校に真冬の中、自転車で通い、センター試験に備えた。得点はいまいちだったが、結果的に東大に合格することができた。センター試験の1週間前に、弟が生まれた。
大学に入ってからは、一時期僕は帰省しなくなった。親と衝突することもあった。一番の原因を振り返って考えると、貧しさと、欲深さがあった。これまで書いてきた履歴から、我が家系がそこまで豊かだったわけではないことがわかる。幼い頃から、僕は自分の家が貧しいことを知っていた。男の人がいないと貧しくなることを知っていた。小学校時代に、夏休み明けに苗字が変わる同級生を見て、自分はああなりたくないと思ったものだった。同族嫌悪に近いものだったのだろう。再婚することになっても、僕は苗字を変えることを拒んだ。再婚した父とも衝突した。なぜうちは貧しいのだろうか。そう考えながら、浪人する時は頭を下げた。
大学に入ってから、その感覚はより鋭いものになっていた。田舎から上京してきた一人暮らしの学生の生活は貧しい。家賃5万5千円の永福町のアパートに住みながら、ギリギリの仕送りをもらって、バイトもした。それでもお金は足りなくなり、母にせびったこともある。帰省は費用を抑えるために高速バス。時間がずれるたびに母に怒られ、僕も応酬した。もっとお金があれば、こんな喧嘩はしないで済むのに。そう思いながら、家族と疎遠になる時期もあった。大学2年から3年にかけては、学生団体の仕事が忙しい(という口実)という理由で、一年間帰省することはなかった。
いつからか帰省をこまめにするようになった。一つは弟の成長を見守りたいことが理由だった。そして最近、年老いてゆく祖母と少しでも一緒にいたいと思っている。祖母が認知症と診断された時、祖母との思い出がよみがえってきた。そして、そうした記憶を押す潰していた自分に気がついた。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。弟に夢中で、祖母に気を向けられなかったのではないか。心のどこかで、早く就職しろと言ったり、ほとんど貯金がないのに僕にお小遣いを渡そうとする、祖母の厄介を疎んでいたのかもしれない。今年会った時には、もうそんなことも言わなくなっていた。祖母自身が、病を患い、衰えていくことを実感しているように見えた。
思い返すと、祖母は第二の母親だった。幼い頃、母は自営業の夫(僕から見れば生みの父)の手伝いで、子育てどころではなかった。必然、幼い僕は祖母に育てられていた。その前後の時期には、家に曽祖母もいたらしいが、同じく認知症(当時は「痴呆」)で施設に送られた。僕の曽祖母の記憶は、施設でのやり取りしかない。その時には、僕のことは一度会ったら忘れていた。そうやって、僕は周りが女だらけの家に育てられた。母と祖母は、その中でも特別な存在なのだろう。だからこそ疎む時期もあったし、今こうやって毎日考えているのだろう。
なかなか答えは見つからないが、僕にできることは、祖母を助ける母と叔母の話を聞いてあげること、そして祖母に寄り添ってあげることだと思う。そうして、長い一時間近くの電話が終わっていった。
No comments:
Post a Comment