March 25, 2016

2次分析研究会報告会を終えて

弟の卒園式に出るため帰省中。そういうわけで今日の学部卒業式はFBで確認。

先日の2次分析研究会報告会では活発な議論がなされたのですが、そこで得た示唆を今後の分析に生かそうと色々と考えているのですが、その一方で、やや言葉にしにくいのですが、どういうスタンスで研究に臨んでいけばいいのだろうかという点で、少し課題が見つかる会でもありました。

伏線としては、最近とある事情で社会学、政治学の方法論(どういう状況でどのような手法=方法を使えばよいかに関する諸研究くらいの意味)の文献を読み漁っているのですが(Goldthorpe 2015; 保城 2015やもっと有斐閣アルマのような基本的な方法論の本とか)、そうした文献では、メインではないにしろ、(経験的)研究に対してどのようなスタンスをとるのがよいかという話がなされています。具体的にいうと、その分析からどのような観察可能な含意(KKV)が導き出されるのか、それは記述的なレベルでの推論もあれば、統計的な連関(踏み込んでいけば因果推論)、もしくはプロセスに焦点を置いた説明、さらに方法とある程度関連する知見の一般的な性格(仮説検証、新しい原因の発見etc)に関して、などです。

僕の雑感では、政治学の方法論では、取り扱う対象は同じでも、ケースの大きさ(Small N vs Large N)によって方法が異なり、結果として導き出されるインプリケーションの特徴にも差異が出るという論調で様々な方法を紹介するように見えます。KKVのような本も、要するにSmall Nの研究で生じるような(代表的にはサンプルのバイアス)問題を、量的な研究と同じような枠組みで考えることで、少しは補正できるよというスタンスで議論が展開されているように見えますし、Small N側の人も、ケース数を増やすことについては(理想的には)賛同しているように見えます。なので、俯瞰するとケース数からある程度方法が分かれているように見えるのですが、本質的にはその方法で何がわかるのか、あるいはわからないのかで議論されている印象です。

社会学において、(英語文献で)こうした量・質が同じような土台に立って議論されているものを私は知らないのですが、日本語文献で(もう少し柔らかい感じで)紹介されているものとして、「社会学研究法 リアリティの捉え方」(今田編, 2000)があります。この文献では、社会学方法論として、大きく「意味探求(解釈学)」「帰納的統計分析」「演繹的数理解析」の三つが挙げられています。

この時点で、「帰納的」統計分析に??となる人もいるかもしれません。私も最初よくわかりませんでした。いや、もちろん言わんとしていることは数理的な手法と比べるとわかるのですが、それこそ2次分析をしている側からすると「いや計量分析でも仮説検証するし」と言いたくなるのですが、そういった主張は佐藤俊樹先生が担当された章で簡潔に「つまらない」とされています。俊樹先生としては、統計的な説明も突き詰めれば「解釈」の一種で、データから導き出される変数間の連関に対して、我々の側で意味を見つけなければ説明は陳腐なものになるだろうというのを、Zeiselのアメリカの女性の婚姻状態とキャンディの消費の例(結婚していないとキャンディを消費しがちになる=未婚女性は甘いものが好き、という関係は年齢を統制すると消える)を用いて説明しています。

基本的に賛同するとともに、統計的説明も解釈の一種かというと少し強すぎな主張かもしれないなと思います。多くの実証研究をやっていると自負する人は、少し奢りかもしれませんが、ある程度演繹的に(仮説設定のレベルで)、変数間の関係については理解がされていると考えるんじゃないでしょうか。僕自身も、社会科学では十分演繹的な説明が占める余地は大きいと考えています。もちろん、設定した仮説では説明しきれないある種の「発見」を事後的に(帰納的に)意味解釈するのが分析の醍醐味だと言われればそうだなと思いますし、この点を強調する人もいるかと思いますが、同時に分析が全てこうした志向性で占められるべきかと言われるとどうかなと思います。既存の先行研究で指摘されてきた通説を新しいデータで再確認することに対して、読む限りでは俊樹先生はそこまでの重点を置かれていないように見受けられましたが、例えば、保城(2015)で紹介されているように、ある命題が複数の分析で確証され続ければ中心極限定理の比喩で、徐々に真理に近づいていくだろうという考えも十分認められるべきだろうと思います。


あまり回答らしいものはないのですが、そういう本を読みながら2次分析研究会という営みを考えると、はて2次分析でどういう研究すればいいのだろうと考えます。

今回はパネルデータを使った分析なので、口上としては「cross sectionでは統制できない個人の観察されない異質性を統制することで」みたいな文句を言えることができるのですが、そうすると、あらゆるcross sectionで行われた研究を固定効果モデルにかけることで(論理的には)論文が書くことができます(雑誌に載るかどうかは別としてDPくらいにはなるでしょう)。要するに「ヤッコウ」批判にも似ているのですが、おそらくそうした観察されない異質性統制のロジック以外の部分での貢献、あるいは異質性を統制することで何が観察可能な含意として導けるのか(それが社会学的にどのような認識利得があるのか)を改めて説明する必要があると思います。果たして、それが2次分析研究会でどれほど共有されているかわかりません。ただ、個人的にそうした前口上がヤッコウ批判に耐えられるのかよくわからないなと思って考えていました。

要するに、研究は統計的な分析以外の部分で総合的に評価されるべきだろうということです。そんなに難しいことではありません。それは、本来変数間の連関で観察できない過程(社会学的な研究の多くでは、個人の行為に対する意味づけの部分など)に対して、概念を揃え(分析枠組み)、概念間の関係性を説明する(理論)ことが必要だと思いますし、その視点がどれだけ既存の研究と差異化できているのかという点でも、研究が評価されることになるでしょう。(かなり脱線しますが、RCTも仮説レベルで観察できない個人の意味づけに関する理論と理解していますし、それが社会学的にクリティカルな部分だからこそ、反対論者も多いのでしょう。調査観察データで操作化できる理論の中では、RCTがかなり有望な位置を占めているのだろうなという感じはありますし、逆に言うとそれ以外で何が対抗理論としてあるのかはよくわかりません(というとラディカルですが)。もちろん、観察データではそうした解釈的な部分はわからないとすることも可能かなと思います、その場合は、はっきり規則性を確認する記述的な研究へ比重を移すべきでしょう。分析社会学の潮流も、中範囲の理論の中で、説明に思い切って舵を取ろうとする運動と理解しています)。


さて、2次分析研究会では一つのデータの元に多様な関心を持つ人が集まっているので、もちろんそれは研究者間のネットワーク構築や新しい視点の提供といった意味で利点はあるのですが、今言ったような分析外でのトータル評価よりも、モデリングのよしあしが議論に上ることも少なくなく、それだけを聞いていると不安になるのですが、やはり自分の本丸の研究関心を大切にしながら、それをパネルデータの分析にマッチさせていくのが穏当なのかなとここ数日考えていました。まあ、当たり前といえば当たり前のことです。来年度も頑張ります。

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