June 21, 2015

昨今の...

 前回の月曜の授業では,昨今の(最近、研究室やゼミで「昨今の」と言っただけでどんな話題かが共有されてしまうくらい、この問題は連日大学関係者を賑わせているのかもしれない)大学改革の中で「役に立つ/立たない」「社会的要請のある/ない」学問分野の今後についての議論が行われた.私自身は,賛成派・反対派の意見を交互に聞く中で,それぞれが自分の分野の知見を持って何かしらの主張をしていることに,どこか専門性が浮遊してしまっている印象を持つ.例えば,人文系のある分野の人が主張する当該分野の「役に立つ」ポイントは,その分野に精通している視点からの意見だ.こういうと聞こえはいいかもしれないが,逆に言えば,自分の所属する専門分野の観点からしか主張をしていない.それは,賛成派・反対派に限らずそうである.所属集団の利害にとらわれず,どれだけの人が俯瞰的な視点で,それぞれの分野に目を行き届かせながら主張をしているのか判断がつかない.私個人としては,この手の問題に関しては,学者の意見,研究者の意見,官僚の意見,政治家の意見,民間出身の人の意見をまんべんなく集めて判断を下す必要があると考えている.現時点で明確な回答はできない.

 一つだけ,授業に対してコメントしておきたい.80年代後半に生命倫理学が日本に導入され,90年代になってそのポストを掲げる大学が増加したという趣旨の話についてである.この例はすなわち,大学のポストの社会的要請に従って変容するというものだと解釈した.生命倫理とは,文字通り生命に関する倫理的な問題について現状を記述し,判断を下す学問であると考えられるが,倫理的な問題が生じるのは,医学や遺伝子工学の発展と社会的な倫理の摩擦が生じているからである.その意味で,倫理的問題の境界の一面は研究の側にあると言える.
 近年,日本でも研究倫理(Research Ethics)の分野が盛んになってきた印象を受ける.とりわけ,医学系の分野ではIRB制度が知られる. これはInstitutional Review Boardの略で,人を対象とする研究について,その事前審査を義務づける制度であり,日本では倫理審査委員会に相当する.日本でも,医学系の研究科についてはこの制度はすでに定着しており,人を対象とする社会科学に関しても,次第に制度が浸透している.このように考えると,生命倫理学が普及したように,今度は昨今の「社会的な要請」のもと,研究倫理の分野が殿大学でも必要となるかもしれない.一つのケースとして,研究倫理委員会に焦点を当て,研究倫理が普及して行った過程について確認することは無駄ではないだろう.
 IRBは世界医師会が1966年に制定したヘルシンキ宣言と深い関わりにある.第二次世界大戦後,ナチスドイツ内でおこなわれた人体実験に関与した罪に問われた23人の被告人がニュルンベルク裁判で裁かれた.この際の判決文の中に「ニュルンベルク綱領」が盛り込まれた.これは,人を対象にした実験を行う際に守らねばならない10の原則を示したものである.この綱領の理念が,ヘルシンキ宣言に継承されることになる.
 同年2月,米国連邦政府の公衆衛生局は,研究計画における事前審査の必要性について初めて言及する.この前後から,医学研究における倫理性が議論され,1971年に当時の保健教育福祉省の助成を受ける研究に対して,研究計画の事前審査が課されることになる.(同年夏,方針策定委員会に初めて社会科学領域の研究者が参加したが,当時の社会科学系の学術団体は,事前審査の導入には否定的だったとされる.)
 非医学分野にもIRBが導入されるべきという議論が盛り上がった背景には,Humphreys (1970)が行ったティールーム・トレード研究の存在が大きい.この研究では,調査者であるHumphreys自身が見張り役を装いながら,公衆トイレでの男性同性愛者の性行為を観察し,男性を尾行し個人情報を得て,インタビューまで実施した.Humphreysには同性愛者に対する偏見を取り除くという意図があったとされているが,研究目的を伝えない詐欺行為 (deception)などの非倫理性が問題となる.1979年のベルモント・レポートを経て,1981年に連邦規則(コモン・ルール)に被験者保護の原則が関係省庁で採択されることになる.これをもってIRB制度の制定過程は一応の帰結をみたとされる.
 近年のアメリカでは,IRB制度は生命科学モデルに依っており,社会科学研究に対しては必ずしも合致しない点があることが指摘されている.例えば,口述史研究が行うインタビュー調査に関しては,以下のような点がShorpes (2007)によって指摘されている.Shorpesによれば,IRBは対象者の心理的苦痛を緩和するために機微に触れるような質問をしないよう求めたり,インタビュー終了後にカウンセリングを紹介することを求める.しかし,口述史の会話は,語り手と聞き手の信頼関係に基づいてセンシティブな語りがなされることが重要であり,関係性の構築が必要だとされる.また,IRBでは対象者のプライバシーを守ることが必要とされるが,口述史は語り手の特徴を知ってこそ分析が可能になるのであり,情報の匿名性は研究の障害となる可能性がある.近年では,医学主導で形成されSchrag (2010)によって倫理帝国主義(Ethical Imperialism)と呼ばれるIRBの権力性に対する,社会科学者によるクレイム申し立てが行われ,徐々に米国でのIRB制度も改善に向けた動きが見られている.
 こうしたアメリカにおける研究倫理をめぐるコンフリクトの状況が,日本の研究者に広く共有されているとは言いがたいと思われる.そもそも,研究倫理の概念がいち早く輸入されていた日本の医学分野においてさえ,アメリカの研究倫理の展開が正しく理解されていたと主張することは難しい.この受容には,以下のような特徴があった.まず,日本の医学分野では「倫理委員会」が1980年代から組織されるようになるが,これは大学が自主的に始めたものであり,IRBと同一視できるものではない性格を持つ.また,かつての日本は医薬品開発で欧米に遅れを取っており,開発の初期段階は欧米に依存していた.このため,医学分野では臨床試験を治療の一環として見なす傾向が強く,厳しい倫理が課される「実験」であるという考えが普及しなかった.インフォームド・コンセントは,治療・実験(研究)双方の文脈で用いられるが,前者においては自己決定権が重視される一方,後者は人を対象とする研究において,社会の利益のために個々の被験者がリスクを負う状況に対する,政府規制による被験者の保護という性格が強い.しかしながら,日本では70年代に登場した治療におけるインフォームド・コンセントのみ受容されており,「研究のIC」は見過ごされる時期が長かった(田代 2011).
 これとは別に,武藤(2014)は文科省など行政が策定する研究倫理指針が疫学や医療分野には遠い社会学分野には及んでいないことを指摘する.日本の研究倫理方針には,審査方法,何を審査するべきか,採決のルールなどのIRBの質を示す事柄は各機関や学会の判断に委ねられている現状に,武藤は警鐘を鳴らす.
 私事になるが,私が所属する人文社会系研究科にも倫理審査委員会は設置されているが,その存在を知らない院生も多い.そもそもの問題として,倫理審査委員会がどのような役割・機能を持っているのか,それを学会の倫理綱領と変わらないものと考えている可能性も含め,人を対象にした研究を行う科学者である私たちは,どれだけ知る機会を与えられているだろうか.日本でIRB制度に対する社会科学者側からのクレイム申し立てが見られないのは,この制度に対する情報不足が原因としてあるのかもしれない.
 この事例から読み取れることは,少なくとも二点ある,第一に,「社会的要請」から必要性が主張された研究倫理の正当性をめぐるコンフリクトが異なる分野に存在する.その上で先行する生命科学分野のレジームに対抗する社会科学という図式が存在する.すなわち,コンフリクトに関係するアクターには権力の多寡が存在する.第二に,同じ研究倫理という言葉を持ってしても,国を跨いだときに異なった受容のされ方をする.各国の文脈が利害という形で代表され,同じ概念という一般性の中に多様性が生じる.
 恐らく,昨今の大学改革の議論に対しても同じことが言えるのではないだろうか.即ち,異なる分野間で力の優劣があり,「役に立つ」が指す意味内容は多義的であり得る.意味が偶有的に決まるからこそ,コンフリクトの中でどの分野が優勢で,どの分野が劣勢なのかを見極める必要がある.そして,多勢に流れることなく,無勢に肩入れすることもなく,状況を客観的に見つめ,議論の中で,何が鼓舞され,何が覆い隠されているかを特定する必要があるのではないだろうか.賛成か反対かを主張するのは,その後でもよいのかもしれない.

参考文献

Humphreys, Laud. 1970.  Tearoom Trade: Impersonal Sex in Public Places, Duckworth.
武藤香織. 2014. 「社会科学とIRB制度米国での経験から何を学ぶべきか. 『社会学研究』93号.
Schrag, Z. M. 2010.  Ethical Imperialism: Institutional Review Boards and the Social Sciences, 1965-2009. JHU Press.
Shorpes, Linda. 2007. “Negotiating Institutional Review Boards.”  American Historical Association Perspectives Online 45:3. available at https://www.historians.org/publications-and-directories/perspectives-on-history/march-2007/institutional-review-boards.
田代志門, 2011,「研究倫理とは何か」,勁草書房.



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