June 14, 2015

多文化共生という言葉について

「多文化共生」と名前のつくプログラムに関わりはじめてから2ヶ月。それまでは、なんとなく耳にはしつつも積極的には学んでこなかったトピックについて、考える機会を与えられている。

周りの環境についていくつか注意しなくてはならないところがある。まず、これは、国主導のプロジェクトであるという点だ。それぞれの大学が個性ある提案をしているが、大枠は「多文化共生」と決まっており、どのプログラムも、この言葉を時折反省しながら、自分たちの計画を軌道修正して行く必要がある。今回の大阪出張も、大きく言えばその一つに数えられるだろう。実際、学術振興会の担当者も来ていたらしく、今回のイベントに対して、何らかの意図を持って、議論の行方を見守っていたのだろうと思う。

次に、プログラムの教員と学生は、いくつかの点に対して批判的でありながら実践的でなくてはいけない。このプログラムは「有用な人材」を生み出すことを主眼においているので、ひょっとすると後者だけでいいのかもしれない。しかし、特に我々のプログラムを主導しているのが駒場であることを考えると、多文化共生やグローバル人材といった概念には、非常にクリティカルになる必要がある。例えば、多文化共生という概念はいつから使われるようになったのか、欧米のmulti-culturalismとの相違はあるのか、この概念によって何が代表され,何が削ぎ落とされているのか。教員達も盛んに実践や分野の横断を訴えているが、大学院で学問をやっている以上、国家的な政策からは自律的ななくてはいけない。特に駒場の人文系の先生はこの点について非常に意識的になっているとは思うが、あまり口には出さないかもしれない。やはり、実践志向を少し強く打ち出しすぎなきもする。現場に行くのも大切だが、個人的には、そうした政治的な意図を含んだ概念の使用には意識的でいたい。

政策的な文脈では、「多文化」共生という言葉は、カバーする対象をかなりの部分絞っている。具体的には、異なるエスニシティ間の共生という意味で用いられることが多い。このイベントでも、特に大阪大学などはその色を濃く出していた。多文化をMulti-culturalと捉えるのならば、欧米の多文化主義との関係が連想されるし、この想定は自然だと思われる。

ただし、—これが今回の議論でかろうじて得た収穫の一つだが—アカデミックには多文化共生の概念を拡大することをいとわなくてもいいのではないだろうか。これが今回のイベントで得た一つの結論である。
実際には、先週の月曜の概論でジェンダーのアンバランスさも多文化ではない事例として先生が数えていたり、それ以外の場面でも、科学技術と社会の接点や、都市と地方の格差についてなどを私の大学のプログラムはカバーしていることからも、どうやらcultureの多様性から導きだされるのは、エスニシティだけではないことが、少なくとも実践的なレベルでは確認される。それでは、概念的に多文化共生をエスニシティ以外に広める余地はあるのだろうか。

ここで、私たちのグループの一人の参加者が出した「アイデンティティ」という概念が重要になってくるように思われる。ここでは、アイデンティティは個人の持つ意味の帰属先ではなく、ある集団として認識可能な集合的なアイデンティティを指す。仮に、社会を異なる価値観や利害を共有した複数の集団から成り立つとし、かつ集団間で資源の多寡や権力の階層性が確認される場合、集団間で何かしらの対立が生じる可能性がある。それは、どちらが正当なものかを争う形になるかもしれないし、片方がもう片方の価値観を蹂躙する場合かもしれない。集団を具体的な民族や国家、それ以外の集団として考えると、歴史的にこのような対立の例には事欠かないだろう。

ここで、集団が成立する契機は集合的なアイデンティティに見出す。識別可能性をどこに求めるかに議論はあるだろうが、少なくとも性的マイノリティやある理念を共有する政策集団等は、ひとつのグループとして考えることができるだろう。
先ほどの参加者は多文化社会における「アイデンティティの政治」の重要性を指摘したのだが、仮にこのような理論から入る場合、文化をグループ単位に代表されるような有形無形の規範や実践と捉えれば、多文化社会に含まれるのはエスニシティに限らなくなる。例えば、科学と社会の接点については、科学的合理性を信奉する科学者集団と、それ以外の社会的合理性を重視する市民社会の側という対比が可能になるし、都市や地方、男性と女性に関しても、こうした集合的なアイデンティティを基礎とした文化の多様性を措定することは可能だ。

これが、多文化共生の「多文化」の部分をエスニシティ以外に拡張しても差し支えないのではないかと考える由縁である。分析的に有用な概念であれば、政策的に用いられているのとは異なる意味での使用は妥当性を持つ。現代の日本には以上にあげたような課題が山積しており、これを多文化共生という枠組みで考える,という提案については議論されても良いかもしれない。私たちはデファクトで多文化共生の中にエスニシティ以外の例も含めているが、理論的には以下のような道筋が考えられる。



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