June 1, 2015

6月1日

最近、角部屋の隣人が夜遅くまでスカイプで友人と話していて、眠ることが出来ない。今日も、起きたのは10時過ぎだった。エリオットの原稿と6限の予習をして、学校へ、今回のIHSの課題文献の著者であるCurranは、実は四年前に高ゼミのレポートで引用していることを思い出す.久しぶりの再開だった。当時の記憶を懐かしみながら、吉祥寺駅近くのパン屋でカレーパンと塩パンを一つずつ購入して、本郷へ。ついてから、まず文学部に書類を提出し、次に郵便局にGESISの支払いへ。八月の予定について、段々と埋めつつある。というか、八月はコーディングの期間以外、ほとんど日本にいないことになりそう。

それを済ませていたら、いつの間にか講演会の時間になり、エリオットの話を聞きに二大教室へ。先生が、South Australia大のキャップを被っているのが可愛かった。議論は、posthuman時代における、技術とアイデンティティの関係について、特に後者に力点を置いたものだった。個人的には、彼の趣旨、すなわち新しいbio-technologyや人工知能が登場する時代において、技術ばかりではなく、アイデンティティの変容についても注目する必要があること、さらに、そうした時代の前後におけるアイデンティティの差異について意識的になること、これはそうなのだろうと思うが、彼の分析には、グローバルに進行するposthumanの側面が強調されていて、それを管理するような政治権力についての言及がないように思われた。また、技術をあまりにも受動的に捉えているような気がした。議論において、技術というのは人間の手によって選びとられて、それによって人間のアイデンティティに影響が生じる、という論理で用いられていたように思われる。ただ、その後のQ&Aセッションを聞くと、そうでもない感じはした。質問の中では、間主観性の問題をどうするのか、精神分析の位置づけ、制度のダイナミズムとの位相の違い、それとakgw先生のposthumanの多様性や無意識の関係などは議論に即したものだったと思う。他の質問は、よく分からなかった。やはり、日本にいてもできるだけ英語に触れておく必要はあるように思う。一朝一夕には身に付かない。A先生は、日頃から努力されているのだなという印象を受けた。尊敬する。先生の方が発言してて、この研究室らしいなと思った。

こうした、他の国大学からの研究者を招いて議論するという懇話会の趣旨にはとても賛同する。学生たちも、英語力や世界的な議論のトレンド等、色々考えるところがあったのではないだろうか。これが年に一度ではなく、ひと月に一度になるだけで、学生側の意識も少し筒外向きに変わって行く気がする。こうした試みを、どんどん続けていって欲しい。

終了後、ArcGISのインストールが終わらないまま、駒場へ。PBSの議論。昔この手の話に触れていたので、知識の整理といった感じだった。今回は、公共放送と市民社会の関係についてが主だったので、市民社会論の中における公共放送の役割という点については詳しくなく、概念的な説明は理解に助かった。国によって、公共放送のあり方が異なるというのは,余り気にしてこなかったので勉強になる。授業で、先生が「○○先生(指導教官)のところの打越さんね」と言われ、やはりこういう場面でもそうした肩書きが使われてしまうのだなと思った。深く考えすぎなのかもしれないが、先生の名誉に傷を付けるような真似だけはしてはならないと襟を正してしまうような.ドキッとした機にさせられた。

最近、会いたい人に会えない、話したい人と話せないというのが続き、日々の人付き合いが仕事上、研究上のものが多くなり、本当に心の底から話したい、という人になかなかめぐりにくくなっているような気がする。それだけ、少し残念に思う日だった。

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