Wellman, B. 1979. “The Community Question: the Intimate Networks of East Yorkers.” American journal of sociology 1201–31.
都市化がコミュニティにどのような影響を与えるかは、社会学の古典的な問題の一つだった。古くはドイツの社会学者テンニースが近代化のプロセスをコミュニティの共同体的な秩序が支配するゲマインシャフトから都市化が進んだ個人主義的なゲゼルシャフトへの移行という形で描いた。都市化が、コミュニティの統合を破壊するのではないかという危惧に動かされた研究は、20世紀になってシカゴ学派の一連の都市社会学的な研究を生み、社会学の中心的な探求課題の一つになった。
このように、都市化という社会構造の変化がコミュニティにおける一次的な紐帯に与える影響についての研究をBally WellmanはCommunity Questionと呼ぶ。彼は、既存の調査が様々な問題関心からこの問題に取り組んできたことを評価しつつも、そこには上記の問題関心に加えて、コミュニティ内部における連帯soridarityが維持される条件に関する関心と一次的な紐帯の位置づけをローカルな地域と結びつける関心が混ざっていたという。Wellmanによれば、このような議論の前提がおかれたために、都市における紐帯は地域単位の連帯に回収されることになった。結果として、個人の移動の増加や空間的な分布の広がりは地域単位の連帯を崩壊させるという意味で、コミュニティの衰退が主張されていた。
WellmanはCommunity Questionに対して提出されてきた答えを三つに整理しているが、上記のような結論はCommunity Lostと呼ばれるもので、いわゆる崩壊論である。逆にコミュニティは存続しているという議論はCommunity Savedと呼ばれる。これら二つは上記の地域に回収される紐帯の前提を持っていたため同じ次元にあるが、最後にWellman自身がFisherらと同じ立場に立つとして紹介するのが、Community Liberatedである。この主張は前の二つを取り合わせたものに近く、一次的な紐帯の重要性は変わらず残るものの、それは地域に縛り付けられたものではなく、凝集的でもないという。この主張における命題の概要は、ゲマインシャフトの時代のような一次的紐帯はコミュニティに根付いたものではなく、居住地や職場、親族集団はそれぞれ分離して存在するようになり、高い移動率は既存の紐帯に変わって新しい紐帯をつくる。これは交通手段の発達によって促進され、都市化が進み多様性が担保された都市では、そのような新しい紐帯をつくる可能性が増大するというものだ。
Wellmanはこの命題を検証するために、トロントのイーストヨークと呼ばれる都市においてパーソナルネットワークの調査を行った。検証すべき課題は、一次的な紐帯は現代都市においてどれだけ重要なのか、それはどの程度友人関係ではなく親類関係によって占められているのか。またネットワークはどれだけ均質的で凝集的か、さらに個人間のソーシャルサポートを得る際の構造的な条件は何かといったものだ。
調査の結果、一次的な紐帯(近隣や親類)は職場や友人に比べて親密な紐帯と思われているが、近隣関係は紐帯の源泉を独占している訳ではなく、あくまで様々な紐帯の一つに過ぎないことが分かった。これはCommunity Lostを否定しつつ、Community Savedを一部支持するものである。また、サポートは地域的な条件に縛られている訳ではなく、それは個人間の関係によって発生しており、Wellmanの調査はCommunity Liberatedを全面的に支持するものだった。
Wellmanのイーストヨーク調査の結果は1979年に報告されたが、その28年後、彼の命題が他の社会にも通じるかを検討するために、Social Network誌上で国際比較を目的にした特集が行われた。ここでは、フランス、ドイツ、そしてイランの事例を紹介する。
Grossetti, M. 2007. “Are French Networks Different?.” Social networks 29(3):391–404.
フランスはトゥールーズ地域を対象に2001年に調査が行われている。この論文ではWellman ではなくFisherによるカルフォルニア調査に枠組みを依拠していることが最初に述べられ、まずFisherの研究が紹介され、今回の調査との若干の枠組みの違いが述べられる。サンプリングは都市度と階級を考慮して5つの地区が選ばれた。他にも質問の際にフルネームを尋ねなかったり、対象者を男性にするよう調整することもしないことなど、Fisherの調査とは若干の違いがある。さらに、Fisherの調査では上位8人の名前しか記録しなかったが今回の調査では全てを対象にしているため、今回の調査の方が名前の挙がった人物の数は多かった。これはエラーである一方で有益になったとしている。しかし、分析の際にはFisherと同じ方法で上位8人まで切り詰めている。そうしてもなお今回の調査の方が平均の人物数がFisherのそれよりも2人弱多くなっているが、この点については違いとせず、調査設計上の違いがもたらした誤差としている。この見解は、名前の数と回答者の社会経済的地位の相関関係が同じであること、学歴が高ければ名前の数も増えること、数が増えるとその中に占める親族の割合が減ること、高学歴者は親族の名前を上げる確率が高いことなど、両方の調査で同じ傾向が見られたことによっても支持されているという。また、年齢や男女などのHomophilyも確認されている。
このように、基本的に分析結果は(誤差を方法的な違いに帰していいのかという問題は議論されていないが)カルフォルニア調査と変わらなかったことに対しては、三つの解釈が提示されている。一つ目は、同じ方法をとったからというものだが、個人的にこれは解釈に値しないと思う。二つ目はトゥールーズの人々はカルフォルニアの人々と生活様式が似ているという、調査から検証しようのないぶっ飛んだ解釈が提示されている(トゥールーズの都市部には70年代からマクドナルドが進出してなどの下りは笑えてしまう、70年にやってたら違う結果になっていただろうという反実仮想の話をされても困る)。三つ目は産業化した社会では違いなどはなく同じような構造をしているという、こちらも検証不可能なものが挙げられている。よくこれで投稿できたと半ばあきれてしまった。
Hennig, M. 2007. “Re-Evaluating the Community Question From a German Perspective.” Social networks 29(3):375–90.
ドイツはベルリン、ハンブルク、シュトゥットガルトの三都市を対象に2003年に調査が行われている。先行研究の検討の箇所では、ドイツらしく、Community Lostのところにベックの危険社会の議論(家族は近代社会における敗者である、など)が引用されている。また、シカゴ学派からFisherに至るまでの研究はCommunity Questionに答えるためにWellmanの三分類のどれかを主張するだけだったのに対して、Wellman自身は三つの考えが互いに共存しあうものという折衷的な立場を取っているとする(そして筆者もこの考えに従っている)。調査はベックなどが主張した家族の孤立化を検証するものとなっている。また調査対象は子どものいる家庭に限定されている。調査の特徴的な点としては、家族の孤立化を分析対象とするためにWeberのOikosモデルを利用し、その結果、実際の9割程度の親類関係(直系二等親以内)を捕捉できているとする。
この調査ではWellmanの問題意識を引き継ぎ、サンプルをクラスター分析からLostタイプ、Savedタイプ、Liberatedタイプの三つに分けている。その上で、Wellmanとの調査の比較が行われるが、それに比べるとこの調査は家族を名前に挙げる傾向が強かったために、multiplexとなる(その意味でLostでもLiberatedでもない)サンプルが多かったことを報告している。この結果と照らし合わせると、Wellmanの調査ではLostが少なく、Liberatedが多かったようだ。クラスター分析からはLostタイプが全体の4割強を占める結果になったが、実際にはこのネットワークは親類の割合が少ない一方で、ソーシャルサポートが充実しているなど、実際にはLostと断定しづらいことが主張される。結論としては、三タイプが質的に違う形で存在しているというよりかは、それぞれの左派系公的なものであることが述べられ、Wellmanの結論とはやや違うニュアンスが示されている。
Bastani, S. 2007. “Family Comes First: Men‘s and Women’s Personal Networks in Tehran.” Social networks 29(3):357–74.
イランはテヘランを対象として調査が行われている。唯一の非西欧の社会からのデータということで、筆者もイラン社会の特異性を冒頭で強調している。特に、男女の別が強調される社会にあって、女性は家庭にこもることが社会規範になっていることやいまだにkinshipが社会組織の基礎になっているということが中心が調査に何かしらの影響を及ぼすと述べられる。
分析結果は確かに家族がネットワークの中心に位置することを裏付けるものであったが、親戚は名前にはあがってこなかった一方でimmidiate family(子どもや親や兄弟)などのつながりとして多く回答される傾向にあったという。また、ネットワークの同質性を検討してみると、ネットワークが様々な年齢や性別、教育や職業によって構成されており、同質性が低いことが分かった。これは、家族による紐帯がネットワークの中心にあるということの裏返しでもあると述べられている。この研究では、家族内のメンバーが増えることで回答者の全体のネットワークも拡大することが述べられており、イラン社会においてはなお家族が重要であることを示していると言える。これは政治や経済単位としての家族がまだ持続しているからでもあるが、北米社会との比較では、地理的移動の差も指摘している。ただし、この調査はテヘランの中産階級の結婚している家庭を対象に行われたものであり、これと同じ条件で北米社会と比較すると同様の傾向が見られるため、イラン社会の文化的特異性を強調することは危険だと論じている。
Borgatti, S. P., A. Mehra, D. J. Brass, and G. Labianca. 2009. “Network Analysis in the Social Sciences.” Science 323(5916):892–95.
Nature誌に掲載されたネットワーク分析についてのごく短い論文だが、社会科学におけるネットワーク分析を自然科学者に解説するという体裁で書き進められている。
まず1932年にアメリカの社会心理学者であるMorenoによって社会ネットワーク分析の起源ともいうべき研究がなされたのち、40年から50年代になってグラフ理論が導入されたこと、MITのグループネットワークラボによる、異なるつながりの構造が情報伝達の違いに与える影響についての研究、さらにKochenらによるのちにsmall worldと呼ばれる現象についての研究、Ficherらのコミュニティ研究、人類学者によるネットワークに重点を置いた調査、最後にグラノベッターの研究のインパクトが紹介される。その後、80年代になるとINSNAの設立やUCINETの開発が研究を促進させたことが概観される。
次に、ネットワーク分析の理論と問題関心が述べられる。そこでは、社会科学におけるネットワーク分析の多くが物理化学のそれと異なり、ネットワーク上における位置が個人にとってどのような影響を与えるかという点に主な関心が払われてきたことが紹介される。次にネットワーク分析における理論的なメカニズムが述べられる。それは抽象的に言うと、情報や資源がネットワーク上の個人から個人へと伝播することで説明されるという。具体的にはadaption(同じ環境に身を置くことで似た考えをもつようになること)、binging(ノード間の結合の仕方によって新たな性格を持つ構成体が生まれること、structual holesなど)、exclusion(競争的な環境下で、関係を利用することで第三者を排除すること)が紹介される。さらに将来的な展望として、ネットワークが可視下されることでギデンズのような二重の解釈学のような行動を個人がすることについての研究が紹介される。
最後に、自然科学的な見方では、人に尋ねるよりもネットワークを直接観察する方が好ましいとされるが、社会科学は客観的な指標が可能な場合でも、現実の世界を観察するよりも、人々の認識を尋ねる方が行動を予測するのには適していると考えると述べられている。(この辺りは、自然科学から見ればサーヴェイ調査は対象者の主観に依存していると批判され、社会科学者もそれを人々の認識を聞くという点で主観的と見なしているのが面白い。客観性の基準は複数あるのだろう。)