November 6, 2013

水曜+論文のレビュー

今日は質的研究法(チュートリアル)→日本語の授業→ソシャネセミナー

リーディング明けの質的研究法のチュートリアルでは、三週連続で小さな課題が全員に課されている。今回は参与観察についての回だったので、事前に指定された条件のもと、参与観察し、フィールドノートをとり、その後にまとめたダイアリーをつけることが課題だった。

指定されたのは午前8時から午後5時のバス停。15分の参与観察が宿題だった。

僕は寮に一番近いバス停から一つ離れた午前8時過ぎのバス停を選んだ。単に知り合いに会うのが面倒くさい、というか、それだと課題にならない、また寮の近くのバス停だと学生が大半で多様性に欠けると考えたからだった。

無意識に大学に向かうバスが通る停留所を選んだが、仮に同じバス停の違う方向を選んでいたら、学生以外の人がきたかもしれない。また、夕方に行っていたら、大学(市内)行きのバスに乗る人はどういう人がいたのだろうか。

僕はほとんど人にしか注目してなかったのだが、チュートリアルで先生に「もっと状況の描写から入ってもいいかもね」という趣旨のコメントをもらった。確かに、なぜ人にしか目がいかなかったのだろう。そりゃ、バス停だから人に注目するのは当たり前のような気もするが、周りの風景を観察するのも構わない。恐らく、自分がいつも通る道を選んだので、その辺りに関しては注意を払わなかったのだと思う。

15分間、冷たい石のベンチに座ってノートを取る、バスに乗り込んだのは8人くらいで、全員学生に見える若者だった。逆にバスから降りる人は2人だけ、一人は労働者っぽい服装をした30代くらいの人、もう一人はスカーフをした女性と彼女の(と思われる)子ども。当たり前だが、乗る人降りる人で特徴は全然違う。年齢、性別、エスニシティ云々。

水曜のチュートリアルは正直言って退屈だ。チューターの先生の教え方は下手ではないけど、教科書的すぎる嫌いがある。授業で習ったことの復習がメインで,それを生徒が答えられるような誘導尋問をたまにしたりする。ただ、面白い説明をするときもあるし、なにより授業外で話していて楽しいので好きな先生ではある。

生徒の方が問題で、5人の少人数の割にモチベーションが低い。2人がイギリス人、1人が中国からの交換留学生、2人が日本人で、僕と都内某私立大の人。アジア系が半分以上で、英語ができる訳ではないので、2人のイギリス人ばかり話すかと思ったが、期待は裏切られる。

まず、彼らは出席しない。

2人とも、5回のチュートリアルで2回ずつ欠席している。ちなみに、男性の方は「先週休んだのは調子が悪かったからだ」と前回も今日も弁明した、前回は風邪で今回は腹痛らしい。

休むのは仕方ないとして、文献も読んでこないのでまた驚く。今回は女性の方は読んできたが、男性の方が読んでこなかった、たった10ページそこらの短い論文なのに。ちなみにこの男性は授業も腹痛で休んだらしい。体調が回復するのを祈っている(いやみではない)。

最初はモチベーションの低さに驚いたが、段々どの国の大学の学生もこんなもんだろうなくらいに納得してきた。5人のチュートリアルだから、誰が文献を読んでないかなんてすぐに分かるが、東大のゼミもそんなもんだろうと思う。別に厳格になる必要もないし、学生はそれくらいが普通と考えた方がいいだろう。

5人中、課題をやってきたのは僕と中国人の2人だけだった。中国人の方は、バス停じゃなく自分の好きな場所を選んできてた。まあ、そんなもんだろう。授業も文献もパスした男性が一番発言していた(大半は先生の説明に対して条件反射的に聞く感じで、彼はやはり授業に出た方がいいと思う)のも、そんなもんだろう。繰り返すとモチベーションは皆低いが、そんなもんだ。


そうはいっても、先の先生の指摘は有り難いし、文献は面白いので、面白いと発言して帰るくらいでチュートリアルは満足しようという結論になっている。


1時半からの日本語の授業では、とうとう動詞の活用を教えてしまった。使っている日本語の教科書では、「行く」「書く」のような五段活用の動詞をu-verbsと言っている。また、「見る」のような上一段、「食べる」のような下一段は会わせてru-verbsと言っている。上一段と下一段は変化の仕方の規則性は同じなので一緒にしてもいいと思うが、いかんせん活用を教えない。出てきたら、覚えろという感じの書き方。例えば「行きます」の場合は、ますが動詞なので行くは連用形に変化させる。だけど、教科書ではますがつくと-iに帰るとしか書いてない。一対一で覚えろということだ。
会話が例文として載っているので「〜ます」「〜ません」が多用されるが、同じ否定の形として「書かない」「食べない」がある。生徒に説明するときは「ない」の時はu-verbs-aに、ru-verbs-i-eになると説明していたが、否定表現の時は未然形になると説明した方が後々のためになると思い、授業の直前に棚にあった新明快国語辞典の活用表をコピーして配布した。その他「する」「くる」の特殊活用も教えて今日は終了、生徒は少し難しそうな顔をしていたが、丁寧にノートを取ってくれた。なによりこっちの方が効率的だと思うので、覚えてくれると願っている。

最後のソシャネ、発表については省略するが、今日は嬉しい出会いがあった。東アジア系の女性がいたので声をかけてみたら、中国人だった。こっちの社会学部の修士一年という。学部は中国と言ったので、大学を聞いてみると精華大学だった。なんでも、本人は当初国内の大学院に進学するつもりだったが、マンチェスター大学が中国の市場変化についての社会学的研究プログラムの学生を募集していたので、試しに応募してみたところ受かったのでこちらにきたという。確かに、英語も僕にとっては懐かしい中国人訛りがあって、そこまで流暢ではなかったが、試しに受けて通るんなら自分も出してみたいものだ。なにより、精華の出身ならすぐ英語は上達するだろうし(セミナーを録音していたので、家でまた聞いて勉強するんだろう)、頭もめちゃくちゃいいんだろう。

こっちの中国人の正規学部生と話すと、中国の一流大学には入れないので、海外の大学で箔を付ける、と(明言はしないが)ほのめかす人が多い。こっちが北京大生とのプログラムで5回程中国に行ったと言うと、「北京大生と自分は違うよ」みたいな反応がくる。彼らにとって北京大生は雲の上の存在なのかもしれない。交換留学の学生も、聞いたことの無いような大学ばかりで、就職で有利になるように、とか、英語が学部の授業では勉強できないから、みたいな理由が多そう。というか、なぜ来たのか聞いてみるとそういう反応がくる。もちろん理系に関してはこっちの工学部や医学部の方が優秀とも言えるだろうから、一概には言えないと思うが、文系に関しては、そういう事情なのだろう。なので、精華大学のような一流校の人とあえるのはそれだけで驚きだった。

片言の中国語と北京に5回言ったというと彼女は驚いて、すぐ仲良くなった。Ph.Dまで考えているようなので、長い付き合いになると嬉しい。


そんなところで。

今日のチュートリアルで読んだ文献です。面白かったので記憶をたよりに時々見返して書きました。

Li, J. (2008) Ethical Challenges in Participant Observation: a Reflection on Ethnographic Fieldwork, The Qualitative Report 13(1), 111-115.


この論文ではカナダの女性ギャンブラーが集うカジノにフィールドワークをした著者の方法論に関する反省が述べられている。ギャンブル自体が相当にインフォーマルな上に、女性がギャンブルにはまることは社会規範としては男性よりも厳しい視線がなげかけられるため、これは相当にセンシティブな問題になる。
はじめ、執筆者は、Covertと表現される、カジノに一ギャンブラーとして参与しながら女性ギャンブラーたちを観察する。彼女たちは若い執筆者の将来を案じて「ギャンブルは依存性が高いからやめた方がいい」と勧める。そのような配慮を半ば裏切る形で、実は調査で来ている、話を聞かせてくれないかと尋ねると、彼女たちは二度と執筆者と話さない。
この「裏切り」(倫理的ジレンマ)に対して心理的負担を感じた執筆者は、CovertからOvert、最初から調査の目的を明らかにして参与する道を選ぶ。しかし、カジノへのバスの中で調査協力の依頼のアナウンスををしたところ、あるギャンブラーが「例え院ビューに応じても、私たちはプライベートが公になることをためらい嘘をつくだろう」と諭した。ギャンブルをする自分に負い目を感じている人たちにとって、その話をするのは心理的に負担が大きいのだ。
この論文の面白いところは、センシティブな問題に対して、調査者・被調査者ともに心理的負担を抱えていることを指摘している点だ。もちろん、負担の様相は異なる。前者は、インフォーマルな問題に対してとる適切な方法は何かと考える中で悩む。後者はプライベートについて語ることに負い目を感じている。
このように、両者にとって負担の大きい問題に対して、執筆者はどのような方法をとることを選んだのだろうか?最終的に、執筆者はギャンブラーと交わらずに参与するという道を選ぶ。これには以下のような利点があった。まず、執筆者自身の心理的負担を取り除くことができた。次に、女性ギャンブラーとしてインサイダーとして参与しながらも、あくまで他のギャンブラーの行動をアウトサイダーとして観察するのに十分な心理的余裕を得たのだった。
この論文の理論的含意は何だろうか。まず、この事例からエスノグラフィのための方法にも一長一短あることが分かる。次に、方法論は調査の過程で柔軟に変える必要があることが示唆されている。

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