February 2, 2021

土日を使って私に向けられた罵詈雑言を全部見て考えた話

土日を利用して(私には)罵詈雑言に見えた(私に向けられた)ツィートを読んだり、アメリカに留学してる日本の友達と話したり、clubhouseのセッションを聞いたりして、いくつか思ったことをメモしておきます。

1. 一部の研究者による無理解な発言があったとして、それをもとに分野全体が腐敗しているかのような発言の背後にある、個人から集団への昇華の仕方、それがどういったメカニズムで可能になっているのか。一見すると、ある国籍の人が犯罪をしたら、その国籍を持つ人全体を排斥する現象と似ています。

2. 事実と規範が分離できていないという批判が散見され、フォークロア・セオリーとして鋭いなと思いました。価値中立の話が度々議論されるように、社会科学の研究というのは事実と規範を区別することが難しいラインをあえて研究することがあります。それに気づかれてるのです、価値中立という言葉を使わなくとも。

これは類推ですが、エビデンスベーストを重視する流れが強まることは個人的に歓迎していますが、それがともすると、規範を述べようとする研究は事実を歪曲しようとしている、というバッシングにつながるのかもしれません。

3. 他の国ではあまり叩かれないよね?という話の中で(少なくともアメリカでは)学位を取るまでのトレーニングがしっかりしているので、そこでセレクションはできているのではないかという点がありました。

かつて査読論文を書かなくても教授になれた分野でも、今では査読論文があっても就職できないくらい市場は厳しいですし、昔よりも体系的なトレーニングはできつつあります。結果的に専門外のことには立ち入らない知的態度はつきやすいのかもしれせん。これに世代差はあるでしょう。そういう意味で、アカデミアの中のアイデンティティと、一般向けに書きたい話を名前で分けた見田宗介=真木悠介は賢明だったのかもしれません。

4. 炎上しないためにはどうすればいいか。 →ツイッターを止める。 

5. ツイッターは有効活用しつつ炎上しないためにはどうすればいいか。 →鍵垢、無理解なツィートは全て無視。

6. 鍵垢にしたくないけどツイッターは続けたい→オットセイを落っとせいwみたいなツィートはしない。

以上、名前を言ってはいけないあの学問へのリフレクションでした。

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