June 30, 2019

一時帰国の際に辛かった経験

1. 英語で論文を書く、というときに

英語で論文を書くというときに、想定する読者が抜けている研究の話を聞くのが、今回の一時帰国ではじめに思い出される辛かった経験。どの言語で書くかより、誰を読者として想定して書くかが掲載には大事だと考えているので。

某業界ではとりあえず英語で書く、みたいな雰囲気を感じ、関わらないようにしようと思った。もちろん、普段から日本語をベースに研究していて、追加の作業で英語で論文を書こうとすると、そのスイッチは難しいと思う。私も、まだアメリカの読者を想定して日本の事例を提供する意義を述べる際には四苦八苦する。ただ、四苦八苦していても、一定の読者層を想定した上で苦労しているので、それは、そもそもどのような読者に読んでもらうかを想定しないのとは質的な違いがある。

例えば、日本語で論文を書いている場合には、読者層は日本の社会学者、ということになるので、日本語で研究している人には、文頭をいきなり「我が国では」と初めても何が事例なのかを理解してもらえるくらい、コンテクストが共有されている。理論的なインプリケーションも、私の専門分野では基本的に欧米の理論が日本でも当てはまるかをテストして、当てはまらなかった場合には日本の特殊性に言及している。ここで、理論の修正を求めるという大きなレバレッジには向かず、こうした議論は日本社会を理解するために必要な理論の構築といった文脈で議論される。

これが、アメリカの読者を想定した論文だと、書き方が変わってくる。論文が掲載されるか、されないかの最も大きな分かれ道は、その論文が提供する知見がどれだけ他の先行研究に対してインパクトを持つかである。インパクトの与え方はいくつかあるが、そもそも参照した理論が重要な前提を見逃しており、普遍的に当てはまるものではない、といった類いのものや、新しい理論を示唆することも評価は高いだろう。日本などの非西欧社会を事例とする時には、日本に特徴的なコンテクストで検証するのが非常に適した仮説を検討することで、他の社会にも適用可能なインプリケーションを提供するアプローチなどがある。いずれにしても、知見がもたらす示唆はその事例以上への広がりを持つことが重要になる。これは、非アメリカの事例を検討する際に特に当てはまるといって良いだろう。

こういった読者層によって論文の書き方を変える、という話は、全くといっていいほど、フォーマルな教育では提供されない類いの知識である。その理由の一つとして、基本的に博士課程教育が行われる国で参照されているマーケットは一つであり、日本では日本語のマーケットで、アメリカではアメリカを中心とする英語圏のマーケットであるという、当たり前といえば当たり前ともいえる点があげられるだろう。要するに、日本語で論文を書くことがnormとされている環境では、アメリカのジャーナルに論文が載るためのトレーニングをするインセンティブがないのだ。アメリカで日本語の論文を載せるトレーニングが行われないのと同じである。

もしかすると、韓国や香港なのではアメリカのマーケットに依拠した教育が行われているのかもしれない。韓国語でも論文が出版されているのは見るが、日本よりも英語論文が業績としてカウントされるという話はよく聞くし、何より韓国の社会学者の多くがアメリカでトレーニングを受けている。したがって、研究で参照されているマーケットの言語と、その大学が置かれている国の言語は一致しないことがあるかもしれない。気になるのは、そうした日常言語と研究言語が別の国において、マーケットの種類によって論文の書き方を変える術が教授されているかどうかである。例えば、韓国の大学では英語で論文を書くときと韓国語で論文を書くときの手順はどのように教えられているのだろうか。あるいは、韓国では母国語でのジャーナルでも評価基準はアメリカのジャーナルのような一般志向なのかもしれない(であるとすれば韓国語で書く必要はないので、それはない気がする)。

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