June 2, 2019

第71回日本人口学会

6月1-2日の2日間の日程で日本人口学会が香川大学で開催された。今回、トラベルグラントをいただく形で参加することができたので、大変ありがたかった。以下、学会の振り返りである。

興味深かった報告

色々立て込んでいたこともあり、全ての時間にセッションに参加できたわけではないのだが、いくつか面白い報告に立ち会うことができた。地域移動のセッションでは、全国移動調査を用いて、移動距離別にみた移動理由の男女差を見ている研究は興味深かった。大きな仮説があるわけではなかったが、非大都市圏から東京のような大都市圏に移動する場合には、女性は主に進学が理由になると言う。これに対して、県内や同じ圏内の移動であれば、男女差は少ない。メカニズムはわからないが、女性が上京するための正当とされる理由が進学に限られるという示唆は、それ自体として空間的移動におけるジェンダー格差として興味深かった。

2日目の介護のセッションも面白かった。一つ目のデータは医療の発達もあり「一命を取り留める」人が増える中で、今後、介護費用が社会保障費の少なくない部分を占めるようになると予想されることを研究のモチベーションとしており、具体的にはどう言う人が通所および訪問介護を受けやすいのか?という問いだった。通所と訪問をそれぞれ別のアウトカムにしており、規定要因が異なる。分析結果からの示唆として、今後独居世帯が増えると、通所サービスのニーズが増すらしい。なぜならば、訪問サービスで介護が必要な人が一人で住んでいる場合、他の人に助けてもらう必要があって一人ではない世帯よりもコストがかかる。これに対して通所であれば、一度リハビリ施設まで車などで移動すれば問題ない、かららしい。自分で書いてて、まだロジックがわからないが、通所と訪問のニーズがどれだけあるかを考えるのは非常に重要だと思うので、方向性としては好きだった。もう一つの研究は人はどれだけ介護をするようになっているのか?という子世代視点のもので、こちらもアイデアは面白いと思った。弊学の同僚が似たようなことをやっているので、彼女の研究を紹介した。

最後の結婚のセッションで、ライフコースの理想と予想の一致度合いに関するもの、そして非婚化に関する報告は面白かった。前者は社人研の出生動向基本調査で尋ねられている「ライフコース展望」に関するもので、理想は自分が理想とするライフコース、予想は現実的に歩むだろうライフコースである。未婚若年女性に関して、両者が一致しているかどうかの趨勢をログリニアで見ている報告だったが、個人的に面白かったのは周辺度数を統制した上でも「理想は結婚出産後再就労だが、予想は専業主婦」というパターンの頻度が多く見られたというものである。逆、つまり理想は専業主婦だが予想は結婚後再就労というのがよくあるナラティブかと思ったので意外だった(実際、そういうねじれパターンも再就労→専業主婦」というパターンと同様に多く見られる)。どうやら、先行研究において、マニュアル層では賃金が低くとも夫側が保守的な価値観を持っていて、妻の理想は再就労である一方、夫は専業主婦であることを希望することを指摘した先行研究があるという。ただ、この研究にしても意識を持っているのは夫側で、今回は未婚女性が対象であり、かつその未婚女性が結婚相手となるような人と交際しているかも条件づけていないため、この説明では不十分な気がした。

最後の非婚化の報告は、私が最近取り組んでいるnon-partnered singlesの研究のモチベーションに非常に近かったので、とても興味深く聞くことができた。研究の目的は、生涯未婚者が増していく中で、彼らの多様性がないかを検討するというものだった。そのモチベーションと実際にやっている分析が上手く対応しているようには見えなかったが、今後も重要になる問いだと思う。

私は既存研究における家族形成のアウトカムが「結婚」であり、未婚者が「リスクセット」に入る集団である、という想定をしているのが本当に不満で仕方ない。何故ならば、そもそもそういったリスクセットにすら入らないような個人がいるかもしれないからだ。であれば、誰が未婚者なのか、その中に異質性はあるのか、異質性は拡大しているのか、未婚であることをアウトカムにした分析をする必要がある。それがnon-partnered singlesの研究の出発点になっている。

なぜか日本の人口学では「未婚者はほぼ全員結婚したがっているが結婚できていない人たち」という理解が大勢なのだが、私は現在までかなり理解に苦しんでいる。その根拠となっているのは多くの社会調査で聞かれているような結婚意欲の変数なのだが、私はあの手の質問では未婚者のリアリティは捉えられないと考えている。

例えば、私はnon-partnered singlesの一人だが、将来的な結婚に関してはオープンである。しかし、当座研究のキャリアを考えたりすると自分から積極的にパートナーを探すつもりは全くない。そもそも、パートナーがいたとしても結婚する必要があるか、その必要性を疑うことすらある。日本的な文脈ならば、子どもを持ちたいのであれば規範的に結婚することが要請されているが、そういったことは考えていない。

こうした考えを持つ層は少ないにしても一定数いると思うが、結婚意欲の質問でこれは捉えられない。結婚する必要性は感じていないが、結婚を否定しているわけではない、そもそもパートナーシップと結婚とを結びつけないような人にとっては、「いずれ結婚してもいい」とは考えているが、「今すぐしたいわけではない」であり、別に無理にする必要はない。しかし、そういう考えをしている私のような人間も「いずれ結婚するつもり」と答えてしまえば、それはなぜか結婚意欲が高いとされるグループに回され、「結婚したいのにできていない人」に分類されてしまうのである。繰り返すが、結婚したいのにできていない人の中には、「結婚したくないわけではないが必要性を感じないし積極的に結婚しようとも思わない」層がいる。この誤解は滑稽でしかない。

データありきで研究することの危うさ

先述したように、日本では結婚意欲が高いのに結婚している人が少ないギャップを持って「結婚できない人」が増えているとされてきた。本当にそうだろうか?その質問が何を捉えているのか、捉えていないのか、捉えられないような考えを持っている人は近年増えているのか、いないのか?この点について、こういったデータを使っている研究者はどこまで真剣に考えているのだろう。

私が人口学会で感じたのは「データありきで研究すること」への危惧である。この問題は、そのデータを使っていることで、使っている自分としては面白いが、それ以外の人には意義がよくわからない問いを検討することも含む。そうならないために、先行研究から問いを考え、RQとしてソリッドにし、それを検証するにふさわしいデータを見つけ、なければ調査し、お金がないのならさらなるRQを提起してくれるような質的調査をする、というマインドが必要なのはいうまでもないが、もう一つの問題点は既にある調査が真実を捉えていると安易に信じてしまうことである。人口学者はデータがあればなんでも分析したがる集団だが、アメリカでもすでにあるデータがある客観的な事実を反映していると考える傾向にあり、そういった人口学者の考えは批判的な理論を踏まえると問題が含まれる。既存の質問では捉えきれないほどに現実が変わっている場合には、それに合わせて調査の質問を変える必要があるが、昔と同じ調査を継続するために変わっている現実を直視せずに以前の質問をそのまま使っていれば、まるで何も社会は変化していないように見えてしまう。何故そういった危うさについて研究者は自省的になれないのだろうか。私のこの学会で抱いた一つの不満は、データを分析する人がデータに対して抱く一種のナイーブさである。

異論を言わないことの危うさ

私が学会で感じたもう一つの危うさは、自分の意見が相手と違う時にそれを言宇野か、言わないのか、というものである。自分の性格の原因をアメリカの教育に帰するつもりはないが、この1年自分のオリジナルな研究をすることの大切さと、それを個性として尊重してくれるような環境にいたので、アメリカで教育を受けてから初めての日本の学会で少し羽目を外しすぎた感がある。

具体的には、自分は違うように考える場合に、何故違うと考えるかを相手に言ってしまうことが何度かあった。年齢的なものもあるので、そういう時はナアナアで済ませてしまってその場を終わらせるのが合理的なのかもしれない。しかし、私の悪いところは、一度スイッチが入ってしまうと止まらずに話してしまうところで、反省するところである。酒が入ってた席では久しぶりにスイッチが入ってしまったが、昼の研究報告では一言いうだけに済ませた。

ただ、違うと思うことに対しては違うと言うことの大切さ(違うと言わないと同じように考えていると思われてしまうことの危うさ)は日々アメリカで感じるところである。今後日本の学会で報告する時には、どの辺りで距離感をつけるかは考えるところかもしれない。

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