June 4, 2019

「産廃とアートのまち」豊島

日本人口学会の開催前に、巡検企画として瀬戸内海の離島の一つである豊島を訪れた。瀬戸内海の離島というと小豆島を頭に浮かべる人も多いかもしれないが、豊島(豊島区と同じ書き方だが読み方は「てしま」)も非常にユニークな歴史を持っており、最近では瀬戸内国際芸術祭の開催地の一つとして脚光を浴びており、外国人観光客も増えている。

豊島はかつて人口3500人を誇ったが少子化と転出によって人口は減少し、現在では800人、うち半分以上が65歳以上という、いわゆる「限界集落」とされるまちである。芸術祭の影響で最近は移住者が多少増えているというが微々たるもので、この街の明るい将来を予想することは難しい。小豆島が人口3万人であることと比べると、同じ離島の中でも都会と田舎のような対比で語られることもあるという。

そうした人口的に極めて厳しい状況にある豊島は、かつて「産廃のまち」として知られていた。戦時中の疎開で一時豊島に住んでいた松浦という人間が、1975年に廃棄物処理場の設置を香川県に申請,その後知事が77年に認可する。これ以前から松浦の違法行為を知っていた住民たちはこの申請に対して反対運動を起こすが、当時は今ほどゴミ問題に対する理解がなく、焼却処分が主だった日本では、ゴミは燃やすものという意識が一般的だった。住民の反対運動の末、松浦は計画を一部変更することで事業の許可を得る。この計画では、廃棄物は無害のものに限定、さらにミミズ養殖を主な事業とするものだった。しかし、この条件のもと松浦は違法行為をすることになる。全国の業者から車のスクラップなどの粉砕くずを「有価物」として購入(有価物として購入するのであれば違法ではない)、その上で運搬費を相手に請求することで利益を得る。具体的には1トン当たり300円でゴミを「買う」が運搬料に2000円を要求することで1700円の利益を得ていたという。この有価物、当時の法律では有価物でも商品にする費用が高い場合には業者の判断で廃棄することが可能となっており,この解釈を利用して松浦は実質的に有価物とは言えないスクラップを廃棄することにしていた。香川県も100回以上立ち入りをしてこの事態に気付いていたことがのちにわかっているが,当時は香川県の役人も松浦に反対することでどのような仕打ちを受けるかわからないことに恐怖を覚え,これを見過ごしていた。

豊島住民はこれに対して長年運動を起こしていたが、改善はされなかった。ゴミの焼却から出る物質の影響で,住民たちの喘息発生率は際立って高くなっていった。しかし、1990年姫路港から大量のスクラップが豊島に上陸していることに気づいた兵庫県警が松浦を廃棄物処理法違反で逮捕する。この事件がきっかけで流れが変わり、県は謝罪、のちに公害調停が成立し、国と香川県の負担で処理場に埋められたゴミを撤去する作業が開始された。2019年時点ではゴミは既になくなっていたが、まだ地下水が汚染されていることで,この除染作業が行われていた。

こうした負の歴史を豊島は負っており、住民たちは長い期間の運動に従事していた。しかし、この歴史をどのように伝えていけばいいか。半分以上が高齢者となったまちでは歴史を継承する後継者が不足する。これに対して、豊島を「アートのまち」として再び全国の脚光を集める場にした芸術祭を運営するベネッセグループの中では、この処理場跡を買い上げる計画もあるという。確かに、産廃をアートを通じて知ってもらえるならば、この歴史を知る人の数も増えるだろう。これも一つの継承の形なのかもしれない。しかし、このアート活動の中に、現在でも継承者に悩む豊島の人々が関わっていくことは難しいだろう。運動の当事者が関わらない中で運動の歴史をどう継承していくのか、豊島は現在産廃の歴史をめぐる岐路に立たされていると感じた。

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