今学期は政治学の授業を取っているが、文献は方法論と、その方法論をベースにした具体的な論文の二種類に分かれている。具体例は何言ってるのかわからないのが多く、正直つまらないが、方法論の方は勉強になる。最初に驚いたのが、人口学や私が知ってる社会学では外的妥当性というのはサンプリングをした母集団への一般化を指す(ので因果推論は外的妥当性を満たしていないと批判される)が、比較政治では他の国への一般化を指すらしい。
一方で内的妥当性は、1カ国内における因果的言明の妥当性を問うているようだ。したがって、一見すると、人口学の外的妥当性に近い印象を受ける。人口学や社会学でも、複数の社会を比較することはあるけれども、比較を通じて仮説がサポートされたからといって、それが外的妥当性を広げたとは考えられないと思う。理論の適用可能性が広がるとか、比較可能性が担保されるのように考える気がする。そもそも、アメリカ発の理論は他の社会に当てはまるかを志向してない。日本発の理論も同様である。
比較政治は分析の単位が国?なので仕方ない気はするが、個人的には文脈も制度も違う国にある命題が当てはまるかを検討するのは、とても野心的とも言えるけど、見方を変えると文脈を無視した過度な一般化と批判されないのだろうかと思った。
比較政治は以上のような考えらしいが、例えばアメポリの場合には外的・内的妥当性は何を指すのかは気になる。もしかすると、アメポリでは人口学のような母集団(選挙権を持ってる人たち?)への一般化を志向している傾向が強いので計量の分析が多いのだろうか。という質問を考えたが、質的研究法の授業でしてもシラケそうなのでやめておく。比較政治が基本的に国を単位としたケーススタディをする傾向が強くて、計量の側から、君たちの研究の外的妥当性は何なんだい?と言われながら方法論が発展していったのだろうか。なんか、奇妙といえば奇妙である。
社会学で、たとえばn=30のインタビュー調査に対して外的妥当性を満たしてないみたいに単純にいうのは絶対アホだと思うが(そういう批判はあるが)、ある国の事例に関して提示した因果的な主張が他の国にアプライされてないから外的妥当性がないというのも、似たような違和感を覚えた。別に妥当性がなくても、よくないだろうか。まあ、比較政治なので、比較しないとアイデンティティを失うのかもしれない。
あとは、スモールNの研究では決定論的な世界観が持たれている気がするが、それに対して外野あるいは自分たちから確率論的な世界観のロジックを取り込んで行こうとするのは奇妙といえば奇妙。人口学で家族社会学の質的な研究を引用することは多いけど、確率論・決定論的な分断は感じない。それも奇妙といえば奇妙だが、少なくとも計量の側は、調査を設計したり、仮説をたてる時に、質的研究のインプリを生かそうとする。そこでは、質的研究がサンプルを代表しているのではなく、ある種のコンセプトをelucidateしているのだろうと思う。
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