二日目。他のセッションみたりKey note speech聞いたりした感じだと、グローバルに生じた出来事が各ローカルな文脈でどのように受容されたのかをつぶさに見る研究は少なくないなと思った。グローバリゼーションもそうだし、東アジアで異なる言葉でも同じような対象を指している現象だったり。例えば88万ウォン世代と失われた世代の比較みたいな話。その報告はざっくりと理解した限り苅谷先生の意欲格差の議論と似てること言ってて面白かった。
5時半に集合して、パネリストとのディナーから帰宅。緊張しきりだったけど打ち解けられたので明日のセッションがまた一つ楽しみになった。北米の教員採用の最終面接もこんな感じなのかなと思った。チェアの先生は、メールで論文に結構きつめのコメントをもらったけど、実際会ってみると非常に柔和で感じの良い方だった。彼女はエスノグラファーだけど、自分が下手な英語で書いた論文の生存分析、ログリニア、要因分解、全部分かった上でコメントしてくれて色々感嘆してしまった。ほんと頭が柔らかい。どういうトレーニング積むとこんなに柔らかくなるんだろうか。やっぱそこ突っ込まれるよなあというところもあれば、意外にそこ興味あるんだみたいなのもあって、そういうのは楽しい。
論文も普通に面白いと言ってくださって感謝しきりだったのだが、自分のやっている分析にもう少し自信持ってもいいのかなと思った。とは言っても一方で、例えばXie門下の(中国人)学生は自分より何百倍もメソッドに詳しいはずで、そういう人がごまんといる市場に入っていくときには、どうやって生きていこうか考えないといけない。器用貧乏になるというのが一つの手で、量も質もできる研究スタイルが一つ。あるいは対象とする社会の文脈をよく(よくとしか言えないけど)踏まえた分析ができるようになること、あるいはNan Linみたいに新しい理論・概念を見つけだす役割。現実的には、3番目の戦略を伺いつつ2番目に従事するくらいが妥当なのかもしれない(あくまで現実的な話)。もちろん、この研究がしたい、先行研究の流れの中でこれを明らかにしたいというのは前提だけれど。人によって考えは違うだろうけど、自分は割と単純に、若いときには競争の激しいところに身を置くのが実になるかなという安易な発想をしている。高校野球の球児がMLBに行きたいくらいのもん。まあ指導教官が大事とか、資料があるとかないとか、本人のやる気があればどこでも同じとかあるけど、自分は(研究でも)機会構造やネットワークの方が大事だなと思うタイプなのかもしれない。ということを、この手の国際なんたらの機会になるたび思う。
余談、ディナーで、中国語のguanxiとsocial capitalは何が違うんだろうねという話になり、guanxiが使われるのはどういう時かと聞いてみると、「仕事を探すとき(ビジネスを起こすとき)」と「よい医者を探すとき」の二つだと言われて、後者は中国らしいなと思った。関係guanxiというのは職探しの時によく聞くので、そうだとするとsocial capitalの道具的な側面に近いのかなという意図で質問した。話を聞く感じ、関係は特定の人にくっつくのがsocial capitalと違うらしい。なんとなくだけど、関係には権力が付随しているのかもしれないと思った。
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