March 30, 2014

再開(文化的寛容性&社会移動)

Atkinson, W. (2011) The Context and Genesis of Musical Tastes: Omnivorousness Debunked, Bourdieu Buttressed', Poetics, 39, (pp. 169-186)

 この論文では、音楽消費のomnivore thesisについて批判的な検討を試みた後で質的調査から新たな知見を導きだしている。ブルデューの理論の中でも、音楽は必要性からはなれ、支配者は難解なそれをtasteとして表現するが、それを理解するためのdispositionを持たない被支配者にとってはそうした難解なものではなく単調でポピュラーなものが好まれる。しかし、こうした階級と文化消費が一致するhomologyの主張に対してはPetersonを中心にomnivore thesisが唱えられている。このような主張はベックらの個人化理論との関係も語られるが、AtkinsonはあくまでOmnivoreとクラスの間に関係があると見出している。その一方で、Omnivore thesisに対してもその定義や知見を巡って批判が集まっている。Atkinsonはこうした批判に加えて(量的調査の)Omnivore thesisがgenerative principles of tasteについて何も語っていないことを批判する。インタビュー回答者は確かにomnivoreと解釈できる発言をするが、dominanantの多くはクラシックやオペラを好んで聴き、楽器の演奏経験を持つ。それは反省的・合理的に考えているのではなく、子どもの時の教育や親の影響などを通じて普通に、もしくは単に習っておいた方がよいという感覚で得られていると述べられている。しかし、dominateは、特に高齢の対象者は、20世紀のロック音楽も好んで聴いている。これは若い時のノスタルジア、すなわち当時のポジティブな思い出として解釈されているが、筆者はこうした単なる好みという次元を超えて、彼らの選好をクラシック対ポピュラーという対立ではなく詩的で意味のあるジャンルとそうでないものという二項対立で捉える。そうすることで、彼らのクラシックとロックの二つの選好はよりcultivatedなものとしてdominantには理解されているとする(この他、親のクラシック志向への対抗意識としてロックを聴くようになったという例が報告されている)。こうした高齢の対象者がロックに持つ感情と似たものを若い回答者はcomtenporaryな音楽に対して抱いていることが報告される。この意味で、彼らにとって音楽は仕事や雇用などの必要性から離れたものであるとする。その一方で、dominatedは商業的に成功した音楽を身体的な本能を刺激するようなエネルギッシュなものとして考えているが、クラシックを好むことはなく、筆者は審美性から疎外されているとする。そして、dominatedの中でもクラシックを聴くような人は審美的なものではなく、あくまでポピュラーな形で表現されているクラシックを好む。筆者はこのような人をcultural goodwill(アクセス可能な正統文化へのtaste)を持つと論じる。そして、このcultural goodwillは上昇移動を果たした人にも見られることを指摘する(それは、彼らの現在の社会空間がdominatedからdominantへと移行したからである、そしてこれは親の戦略的な教育が大きいという)。

Savage, Mike, et al. (2013) "A new model of social class? Findings from the BBC’s Great British Class Survey Experiment." Sociology 47 2: 219-250.

この論文の著者たちが理論的・経験的に対抗しているのはゴールドソープ率いるナッフィールドの階層研究者であることは疑い得ない。問題関心に入る前の現状認識に関して、両者は隔たりがあるように思われる。まず、富や収入の格差の拡大について前者はこれを認めているが、後者はそれをはっきりとは認めていない。次に、前者はブルデューの研究に刺激を受け経済的な資本だけではなく、社会的文化的な資本の相互作用を見ていくべきと考えているが、後者は経済資本を中心にした分析をメインに考えている。彼らはブルデューの理論に基づいた調査から、伝統的な中産階級(サービス階級)と労働者階級以外に、5つの異なる階級を発見したと主張する。筆者らは自らの研究が階級論における第三段階に位置すると考えている。第二段階に当たるのがGordthorpeらで、彼らは個人の雇用における位置(もしくは雇用関係)に着目したスキーマを作成した。雇用者、被雇用者、そして自営業者のうち前二者は雇用関係を結んでいると考えられる。さらに、その雇用関係の中で、労働契約とサービス契約(管理・専門)を区別して分類を作成した。この研究は国際比較には適していたが、5つの批判が集まっていたという。第一に雇用関係に着目した演繹的なアプローチから、文化的社会的な活動を見逃してきたこと、第二に全国規模のmoderateなサンプリングをした結果、エリートの存在を見逃していたこと、第三に職業ではなく収入を見た方が社会移動を測るのに適切だという経済学者からの批判、第四に雇用関係というシンプルな基準ではそれが持つシンボリックな意味やスティグマを見逃すというフェミニストからの批判、第五にゴールドソープのスキーマが国際比較に絶えられるだけの妥当性を持たないというものがある。筆者らは、ブルデューの理論を用いた階級分析の方が、資本の多次元性を考慮にいれば複雑な考察が可能と主張する。social capitalはposition generator、cultural capitalは27の文化的な活動をマルチ対応分析にかけてhighbrow-lobrow及び文化への参加頻度の二軸にプロットする。economic capitalには家庭収入の他、家の値段そして家庭の貯蓄を採用した。潜在クラスの分析の結果、Elite, Established middle class, Technical middle class, New affluent workers, Traditional workign class, Emergent service workers, そしてprocariatの7つの階級を提示した。


Bryson, B. (1996) Anything But Heavy Metal, American Sociological Review 61(5), 884-99.

この論文では、ブルデューとPetersonの文化的排除、寛容の議論を下敷きに、文化と社会的排除の関係について考察している。文化消費が社会的地位の一つを構成することは多くの社会学者が認めてきた。ブルデューの理論からは文化的な知識はエリートの環境に適応するための文化資本として考えられる。それはエリートとのネットワークを構成するなどを通じてその人物に経済的な利益をもたらすと考えられるからだ。筆者は、こうした文化消費を通じた地位への接近を排除する論理を二つ示す。一つがsocial exclusionで、これは文化消費の違いが実際の社会関係における排除を生む場合である。もう一つがsymbolic exclusionで個人のインタラクションに影響する本人の主観的なプロセスを指している。具体的には特定の文化消費に対する態度である。ブルデューにとっては両者は互酬的であり、高い地位にいる人物ほど文化的に排他的になると考えられる。

その一方で、教育程度の上昇が文化的な寛容性、すなわちomnivoreを増加させるという知見がある。一見二つの考えは対立するように思われるが、政治的態度に対する近年の研究を踏まえると、寛容性を持つものは表面的には賛同しているだけであり、具体的な事例に関しては排他性を示すことが示唆されており、筆者は教育程度の高い人は低い人が好むジャンルに対する嫌悪をかくしているという仮説を提示する。以上から、筆者は地位の高い人の排他性、教育程度が高い人の寛容性、人種差別のスコアが高い人は有色人種が好む音楽を嫌う、そしてパターン化された寛容性(ほとんど嫌いなジャンルを持たない人でも教育程度の低い人の好む音楽は嫌う、教育程度の低い人はあらゆる音楽ジャンルについて詳しくないとは応えない)
という仮説が示され、分析の結果、ブルデューによる最初の仮説は棄却されたが、それ以外は支持された。特に、文化的に寛容な人でもその中から最初に消えるのはラテン音楽やジャズなどエスニックマイノリティに好まれる音楽であり、その人の中で嫌われるのがラップやヘビーメタルなど教育程度の低い人が聴く音楽であることが分かった。理論的にも面白く再読したい。

Bryson, B. (1997) What about the Univores? Poetics 25, 141-56.

この論文ではOmnivore univore thesisの中で示されている教育程度の低いものはtasteとgroup identityの関係が強いという仮説を検証している。ロジスティクス回帰分析の結果、クラシックとオペラ以外のジャンルに関してこの仮説が当てはまることが分かった。例えば、教育程度の低いものの中では、ヒスパニックと非白人がブルーグラス、カントリ、そしてイージーリスニングを嫌う傾向にある。人種の他、性別、地域、宗教、そして年齢と教育程度の交互作用が求められているが、appendixを見る限り交互作用が有意でないものでも確率に差があればグラフ化しており、恣意性を感じざるを得ない。

 この論文では、ソーシャルキャピタル(ネットワークの効果)と文化参加の関係について、特に夫婦関係に焦点を当てて検討をしている。筆者は三つの仮説を設定する。一つ目が芸術参加に対するパターンはmarital selectionに影響する。二つ目が芸術参加はネットワークの影響を受ける。また、配偶者の教育レベルと芸術への社会化の度合いが本人の文化参加に影響を与える。三つ目が芸術参加は主に妻によって決定され、夫はきっかけを与える(妻の教育レベルと芸術への社会化の度合いが高い夫は配偶者が参加する場合に限って自分も参加する。)分析の結果、配偶者の参加は配偶者の社会経済的な背景(教育達成と芸術に関する社会化)は本人の文化参加に影響し、これは配偶者の文化参加を統制しても残る(つまり、本人一人で芸術参加する確率も高める)。また、本人の文化参加に対して、妻が夫から受ける影響よりも、夫が妻から受ける影響がより強いことが分かった。

Peterson, R. (1992) Understanding Audience Segmentation: from elite and mass to omnivore and univore, Poetics 21, 243-58.

階級形成の象徴的な形式としての文化資本論を論じたブルデューや有閑階級の文化消費を論じたウェブレンなどによれば、文化消費は社会的地位ごとに分断されているという主張がなされる。しかし、筆者がアメリカの分析したところ、地位の高い職業につく人ほど高級文化だけではなく大衆文化も好む傾向にあり、その一方で地位の低い職業の人ほど文化的活動をせず一つの非エリート文化を消費することが分かった。


Goldthorpe, J. H., and A. McKnight. 2006. “The Economic Basis of Social Class.”

 この論文では、はじめにGordthorpeによる階級理論(雇用関係、とくに被雇用者における管理の難しさと人材の希少性による分類)が紹介される。次に、この理論に基づいて作成された階級群が経済的な安全性security(失業に対するリスク)と安定性stability(収入の内訳)に関してそれぞれ差を見せることを論じる。これらはSavegeやBrownが主張したサービス関係のもつ特異性の衰退という主張を退けるとされている。この他、階級別の年齢ごとの収入予測を男女に分けて示しており、サービス階級の賃金の高さ、賃金カーブの動き方の特徴が他の階級と異なることが分かる。

Goldthorpe, J., and M. Jackson. 2008. “‘Education-Based Meritocracy: the Barriers to Its Realization.” Social class: How does it work 93–117.

 この論文では、Education Based Meritcracy、すなわち教育を手段として自分のメリットにもとづく社会移動の実現がイギリス社会で見られるかを検討している。これは逆に言えば、本人の出身階級に左右されず個人が自分の能力によって社会移動を達成することを指している。分析の結果、階級間によるメリットの差が残っており、二時点間の比較から、こうした第一次効果だけではなく、階級間によってアスピレーションが異なるという第二次効果も示唆されている。また、高い学歴であれば出身階級の影響は見られないが、低い学歴の場合、達成に与える影響は階級間によって異なること、またそもそも時代を経るにつれて教育の持つ役割が大きくなったとは言えないとする。このように、筆者は現代社会においてEBMはまだ登場していないことを主張する。

Heath, A., and N. Britten. 1984. “Women's Jobs Do Make a Difference: a Reply to Goldthorpe.” Political Theory 18(4):475–90.

 この論文では、ゴールドソープの階級図式においてはノンマニュアルと分類されるsales workとoffice workの違いを指摘することで、女性のノンマニュアル/マニュアルの区別が意味を持たないことを主張している。例えば、時間給では女性のsalesはofficeよりもむしろマニュアル労働者に近くなっている。年金に至ってはsalesへの年金は女性ではマニュアル労働の職業のそれよりも低い値となっている。学歴もGordthorpeの分類ではともにSEG6に分類されるsalesとofficeでは男性ではほとんど違いがないものの、女性では20%以上の開きがある。両者の分けて職業遍歴を確認しても互いに行き来がないことが分かった。

Li, Y. 2002. “Falling Off the Ladder? Professional and Managerial Career Trajectories and Unemployment Experiences.” European Sociological Review 18(3):253–70.

 この論文では、専門職と管理職をめぐるゴールドソープの雇用理論とサーベージのアセット理論の対立を踏まえて、両者のどちらが実証データとあっているかを検討している。ゴールドソープは雇用関係にほとんど違いがないとする両者は連続的に捉えた。その一方で、サベージは前者が資格という文化資本、後者が組織内における資本という異なるアセットを持っているという。そのため、両者には質的な違いがあり、文化資本を持つ前者の方が雇用の安定性を持つという。男女に分けた初職から30年後の職業までのtrajectoryのデータを用いた検討の結果、男性に関しては両者は長きに渡って雇用の安定性を持ち、失業率も低く、雇用理論の方が説得力を持つことが分かった。女性に関しては、年を経るごとに両者の割合が減り、より下の階級の職業に就く人が増えるが、これは両者の理論では説明できないとする。


Saunders, P. 1997. “Social Mobility in Britain: an Empirical Evaluation of Two Competing Explanations.” Political Theory 31(2):261–88.

 この論文では、階級間による地位達成の違いを説明する理論として、階級ごとに社会的なadvantageとdisadvantageが異なるというSAD理論と、社会がメリトクラシーによって秩序づけられていると考えた上で、学習能力(IQ)とアスピレーションへの意欲effortの二つが階級間で異なるというメリトクラシー理論の二つを紹介する。ゴールドソープらを前者とした筆者は社会調査データを用いて、出身階級よりも本人の学力や意欲が上昇移動や再生産、初職の地位の高さを大きく予想することが示されている。(odds比の批判しdisparity ratioの有効性を説く箇所は再読) その一方で、このサンダースの分析を批判したGordthorpeソープの論文(Breen, R., and J. H. Goldthorpe. 1999. “Class Inequality and Meritocracy: a Critique of Saunders and an Alternative Analysis1.” British Journal of Sociology 50(1):1–27.)では、出身階級が低い子どもほど高い出身の子どもより多くのメリットが必要になることが指摘されている。この論文では、サンダースを三つの方法論的な部分(絶対移動と相対移動、Disparity ratio と Odds ratioの違い、ロジスティック回帰とcausal path analysysの批判)から批判しているが、この箇所は再読。

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