May 30, 2022

ラディカル社会調査思想

 教習の方はS字カーブに四苦八苦しているが、運転自体は楽しい。

空き時間を利用して、関西にいる研究者の友人や先生方と会っている。なかなか東京にいるだけでは会うことが難しく、コロナがあって数年間会っていない人もちらほらだった(忙しい学期中にも関わらず、お時間とってくださった方々、この場で御礼申し上げます)。

今日も教習が終わってから、一人の先生とお茶しに梅田まで向かっていった。

その先生を一言で形容すると「変」な人である。

変と言っても、性格が奇妙とか、そういうのではなく、研究に対して一癖も二癖もある考えをしていて、なかなか教科書通りな答えに納得しない人である。そして自分でモノを考えている。アメリカのように大きなリタラチャーにいい意味で思考を支配されることもなく、日本のように属人主義的な考え方(〜〜先生がこう言ってるから)にも与しない。その人なりの社会調査の哲学を持っている方で、学会でお会いした時からとてもユニークな人だと思っていた。

4年を経て久々に再会しても、そのユニークさは変わっていなかった。

その先生は、ラディカル社会調査思想ともいうべき、調査に対する非主流な考えをずっと持っていた。一つ目が「パネル調査は必要ない」という思想である。やばい。

ざっくりいうとパネル調査では、人々はその時々の気分に左右された回答をするし、アトリションがある割にお金がかかる。それよりももっとコスパがよい調査手法があるだ。Y先生は、一時点で懐古式の質問をすればいいと考えている。

この考え方に、色々と賛否はあるだろう。高齢者については死亡バイアスがあるだろうし、何より問題になりそうなのは、懐古バイアスである。人は昔起こったことを忘れるし、現状を踏まえて合理化した回答をしがちだ。

正確に昔のことを覚えているかは、正直わからないという。しかし、少なくとも嘘はつけないような調査設計をすることで、こうしたバイアスには部分的に対処しているという。

「嘘のつけない調査設計」とは、いったいどういうものだろうか。この辺りが、やっぱりY先生、一癖あるな〜と思ったところもである。

要するに、一つの質問で嘘をつくと、他の質問でも嘘をつかなくてはいけない設計にしている。そうすることで、調査者はどこで嘘をついているかわかるし、回答者も嘘をつき続ける方が大変なので正直に答えた方がいいと考えるようになるらしい。もっとも、無回答も可能な設計になっているので、答えてくれる人はセレクティブな集団になっているかもしれない。

一度嘘をついたら、他でも嘘をつかないといけなくなる、というのは人の実際の人生がどういうものかを踏まえた、絶妙なトリックだと思った。こうした点を活かすには、それぞれの質問が独立しているように設計するのではなく、相互に関連するような設計をするべきなのだ。ちなみに、そんなテクニックは、社会調査の教科書には、一切載っていない。その先生の経験に裏打ちされた、職人芸なのである。

Y先生のラディカル社会調査思想その②は、「全国無作為抽出の調査はいらない」である。これも、やばい。まあ正確にはパネル調査も、無作為調査も必要なのだが、それよりももっとやるべき調査がある、という考えだと思う。

なぜ全国無作為抽出はいらないのか。端的にいうと、メカニズムがわからないからである。特に社会学者が興味を持つようなアウトカムは、友人関係(ネットワーク)やどういう学校・地域にいるか(コンテクスト)、そういったマクロ(社会全体)とミクロ(個人)の間にある、メゾな要因が重要になる。無作為抽出だと、by designで調査対象者はお互い全く繋がりがない人になるので、そんな調査ではメカニズムがわかりにくい、というものだ。なお、この考え自体は珍しいものではなく、例として分析社会学的なアプローチはそう考える傾向が強いと思う。現実的な落とし所としては、Add Healthのような注目するコンテクスト(この場合は学校)単位で抽出するような全国調査だろう。

そうした文脈で、自分が考えている学校調査の話もした。この夏に12校ほどの高校を訪れてインタビュー調査をしたいと考えているが、将来的には協力的な学校や教育委員会とコラボして、学校全員を対象にしたパネル調査をしたいと考えている。ピア効果を見たいのが、目的の一つである。相変わらず、Y先生も無作為でなくてもいいと考えていて、少し懐かしくもあり、同志ここにありという気持ちにもなった。

ソーシャルメディアをやっている人でもなく、お互い4年間近況を知らせてなかったので、久しぶりに「今いったい何をしてるんですか」を素朴に聞けた。個人的にはとても楽しい時間だった。

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