January 20, 2021

不要不急東京

大きな声では言えませんが、東京に3日ほど滞在していました。一時帰国前は12月に日帰りで来ようかなと考えていたのですが、コロナの状況が改善する兆しはなかったので、諦めていました。同居している家族に高齢の祖母がいるのがいちばんの理由でしたが、東京から戻ることを避けてしまえばいいのではないかと考え直し、出国直前に数日東京に滞在し、その足でアメリカに行くことにしました。3日間にした理由は、実家にいるときに感染していないと仮定して、仮に東京に来て1日目に感染しても、感染してから発症するまで5日程度、感染可能期間は発症2日前からが多いという情報を目にしたので、3日間であれば飛行機に乗るまでは人に迷惑をかけないのではないかという判断です。アメリカに戻ってからは、また10日間の隔離が待っています。

それと会う人は1日あたり1人と決め、計3人と、個別に会いました。お茶をするときは飲むとき以外マスクをして、いわゆる「会食」は1人だけにしました。ちなみに、アメリカで見ている限りでは、食事中は普通にマスクを外します。話すときにいちいちマスクをつけるマナーは、どこ起源なのでしょうか。

今会う必要があるのか、と聞かれたら、そりゃないですよと答えるほかありません。大学時代の友人との雑談なんて、不要不急の最たるもので、zoomでやれよって思われるかもしれません。自分も、会う前から、そして会った後も、なぜzoomではダメなのか、考えていました。普段zoomで人と雑談するときと、何かが違うことは感じるのですが、それがリアルかどうかの違いなのか、会う人の違いなのか、もっと違う要素なのか、わかりません。1対1で話すくらい自分にとっては大切な友人なのですが、不思議とzoomで話そうとは思いつきません。もしかすると、何を話すかは重要ではなくて(雑談なので)会うこと自体に価値があるのかもしれません。でも1対1だからこそ話せることを話して、別にそれ目的ではなくても、話した後に、確実に少しだけ景色が違って見えます。

そんなことを考えながら、今日1日は誰とも合わず、ずっと歩いていました。歩きながら考えたこと。彼らは大学時代の僕のものの見方、価値観に決定的な影響を与えた人であることに疑いはなく、その影響は今でも残っています。彼らがいなければ違った人生を歩んでいたかもしれないし、同じ人生だったとしても、見ているものに対して異なる評価をしていた気がします。

そういう意味で、今の自分を形成した人に会うことで、今の自分の自我と、過去の自分のそれをつなぎ合わせようとしている、そういう動機があるのではないかと思います。直感的に、彼らと会わなければ、今の自分が昔の自分から離れていってしまうのではないかと思うのです。そうした過去とのつながりを想起するためには、zoomではダメで、実際に会うしかないのだと思います。昔も会って話していたからです、そうしなければ、連続性を担保できません。逆に言えば、最初からリアルであったことのない人には、リアルで会いたいと思う欲求は沸きにくいでしょう。書きながら、かなり自分本位の行動だと気づきました。

この1年間、日本に帰らず、アメリカにいても大半の人との話はオンラインになり、自分の人格形成に決定的な影響を与えた大学時代の友人たちと話す機会がほとんどありませんでした。そういう状況で、今自分が何をしているかは分かっても、過去の自分から見て今の自分は何をやっているのか、それは楽しいことなのか、振り返る機会が限りなく失われていきました。過去の自分と対話することはできませんが、過去の自分の周りにいた人たちと会うことで、比較のためのレファレンスを得ているといえばいいのでしょうか。今の自分の状況を昔の友人に話す、それは必然的に、彼らが知っていた過去の自分の情報から出発して、現在の自分に、情報をアップデートしていく過程です。その過程を経ることで、自分自身が多くの気づきを得るのだと思います。

話が戻って、じゃあそれが不要不急なのか、多分そうでしょう、今やらなくてはいけない理由はありません。でもそうしていたら、いつ話せばいいのでしょうか。次いつ帰国できるかわからない状況で、自分なりに今がベストではないがベターだと思ったのかもしれません。まだわからないのは、それがリアルじゃなければいけないのか、です(先ほどリアルじゃないとダメだと、と言いましたがわからなくなります)。直感的に、オンラインで会うことは1対1で話すという条件を満たさないのではないかと思いますが、もう少し考えます。

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