学期も前半が終わり進級試験も無事パスできたので、週末の1日を使いヌヨォークに日帰り旅行をしてきた。旅行といっても、1時間ちょっとで行ける距離にあるところなので、そんな大それたものではないわけだが、とにもかくにもロックダウン以降(その前から数えれば2月に東大同窓会の行事でヌヨォークに行って以降)プリンストン の外から一歩も出ていなかったので、NJ transitの電車に乗るだけでもちょっとした冒険気分だった。
本当に久しぶりの外出だったので、全てが改めて新鮮に感じられ、その度にこのパンデミックの影響の大きさを感じさせられる。アメリカで最初にハードヒットを食らったのがヌヨォークだったのを覚えている人も多いだろう。BLMで大きなうねりが生まれ、もしかしたら一部暴徒化した人たちによる店舗の破壊の動画を見た人もいるかもしれない、私もその一人だった。久しぶりに降り立ったヌヨォークは、人がマスクをするようになった以外は、一見するといつもの街並みのままで、この8ヶ月間メディアを通じてしか見てこなかった「あのヌヨォーク」との落差を感じた。
プリンストン を出るときは気持ち肌寒かったが、気温が上がると踏んでシャツにセーターで出発した。ところがヌヨォークはビル風が強い上にビルに隠れて太陽の光が入らない通りが多いため、だいぶ寒く感じた。最初の予定まで時間があったので、その足でMujiに行き、ブルゾン(と靴下、ランドリーで多数紛失したため…)を買った。ほぼ全ての通行人がマスクを着用していて、そこはプリンストン と同じだが、何せすれ違う人の多さが比べ物にならない。その数はプリンストンで8ヶ月すれ違ってきた人よりも多かった気さえする。あちらこちらで工事が行われ、マリファナのきつい匂いに複数回巻き込まれ、時々訳のわからないことを叫んでいる人を見るのも、全てヌヨォークに来たことを教えてくれる。
お昼に大学時代の友人と蕎麦でランチを取るのが最初の予定だった。この旅行、特に目的らしい目的もなく(というより、ヌヨォークは目的を持ってわざわざ計画を立てる距離でもない)、とりあえずこの1年会ってなかった友人に会いたくなり、予定を合わせてもらった。コロナ前はこうやって、東京なりヌヨォークなりに行って昔の友人とお茶をするなんてことは当たり前にあったわけだが、その「普通」が8ヶ月ぶりに戻ってきた。プリンストン ではなかなか食べることができない蕎麦を友人が選んでくれたのは嬉しかった。日本に帰ればこれくらいの蕎麦を食べることは難しくないわけだけど、その「普通」の味にも、ずいぶん長い間待たされたものだ。
大学時代の友人と話すと、いつも大学時代の感覚にすぐ戻ることができる。今日あった友人とは、リアルであったのはいつか覚えていないくらい会っていなかったのだが、あまりそういった時間の長さは感じなかった。今はツイッターやzoomもあるので、会っていなくても近況を確認できるのが、それを助けてくれるのかもしれない。
最近あいつはどうしてるとか、これからどうするのかとか、そういう他愛もない話のするのだが、そうしたただの近況確認が、zoomのような一見便利なツールでは生まれにくく、時間を合わせて実際に会わないと出てこないものなのは、とても興味深い。逆説的かもしれないが、この類の話は、わざわざzoomをするまでのものではないのだが、しかしながら(だからこそ?)わざわざ会わないと出てこないらしい。
こういう目的のない他愛もない話が、時に気分転換になり、最近近況を見てなかった友人の存在を思い出させてくれることもあり、全く別の文脈で自分が疑問に思っていたことを喚起させてくれたり、実は生活のかけがえのない一部を構成していることに気づかされる。
途中で友人とは別れて、そのあとはMoMAでJudd展を見に行った。プリンストンの本屋で開催中の回顧展のカタログを見る機会があり、シンプルなデザインの中にも強いメッセージを感じて、しばらく気になっていた。前回MoMAに行こうとしたときは改修中だったので、念願の訪問になった。
本人は否定しているらしいが、Juddはミニマリストの走りとされている。おそらくミニマリストの考えとは違うところで彼はデザインをしていた気がするが、結果的に出てくるデザインは、確かに類似性は見つかるだろう。以下はいくつかあるStuckシリーズの作品の初期のもの。ただの金属製のボックスが縦に並んで壁から出ているだけではないかと思ってしまうが、解説を読むとJuddはこのボックスの間隔も詳細に決めていたらしい。つまりボックス同士の距離もデザインの一部といえるのだ。このボックスの距離感の演出は物理的には壁を通じて可能になるもので、その意味では壁、あるいはこの空間自体もデザインの一つの要素になっている。本人がどう考えていたのかはわからないが、そういう含意があるのかなと思った。絵画のように中で閉じて世界を表現するのではなく、空間とつながることによって世界を拡張した世界を表現しているのかなと思った。別にこの作品だけがそういう性格を持っているのではなく、デザインとは本来、世界と地続きにあるものだというメッセージもあるのかもしれない。
次に展覧会の広報にも最初に載る代表作。画面に入りきらないほどの長さだが、この位置から(実はどの位置からでも同じなのだが)、各列が5色に濃淡を交えた計10色あるように見えた。しかけ(なのかわからないが)としては、各ボックスは内側にくり抜いてできていて、それぞれの縁が飛び出している。そのため上から光が当たることによって影ができる仕組みになっている。広報で出てくる写真では、ここまで綺麗に半々に濃淡がわかれているわけではないのだが、もしかしたら今回の展示は意図的に半々に見えるように光の角度を調整しているのかもしれない。これも、私たちが通常考えるような作品が単位なのではなく、光の角度も踏まえた空間全体がデザインである、というメッセージなのかなと思った。
5時ごろになって会場を後にする。そろそろ帰ろうかと思ってPenn Stationに向かって歩き出したら、途中で紀伊國屋を偶然見つけた。今回行こうとも思っていなかったのだが、日本の小説でも買おうかと思って多少並んで中に入った。
ヌヨォークに紀伊國屋があることは知らなかった。私がアメリカで初めて入った(そしてこれまでは唯一の)紀伊國屋はサンフランシスコの日系人街にある店舗で、かなり大きかったのを覚えている。今回と同じように、前回も別に入ろうと思って入ったわけではなく、偶然見かけたので何気なく入ってみたのだった。しかし、一度入ると、そこは完全に外とは別世界、「日本の書店」になる。私には、書店はどの施設よりも、依拠する社会の様相を色濃く出しているような気がしている。日本語の本が陳列されているのは当たり前といえば当たり前なのだが、単に言語が違うだけではなく、扱っている内容も英語とは大きく異なる。ある雑誌は主婦向けの弁当のレシピを扱い、ある雑誌は北欧テイストの住居空間の作り方を紹介している。そうやって表紙を見るだけで、いい部分、嫌な部分ひっくるめて、日本のユニークさが喚起されて自分に向かってくる。
書店というのはいろんなジャンルの本を置いている。私は料理や家具にはあまり興味はなく、大体奥にある学術書や小説、新書のコーナーに行くわけだが、そこに至るまでにお目当てではない雑誌も否応なく、目に入ってしまう。その一つ一つが、自分にとっては日本の文化や流行を色濃く反映していて、日本にいた時の感覚がフラッシュバックしてくる。そういう意味で、紀伊國屋がアメリカで一番「日本」を感じさせ、擬似的に一時帰国したような気分にさせる施設といってしまうのは、やや大袈裟だろうか。
しばらく滞在して、Penn Stationから電車に乗り、午後8時半に帰宅した。半日程度の簡単な日帰り旅行だったが、喧騒に包まれ、マリファナの匂いがきついヌヨォークの空気は、あの大都会が私が8ヶ月過ごしてきた、五感を全く刺激させない完全な静けさとは真逆に位置していることを、懐かしく思い出させてくれた。
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