February 15, 2020

東大とプリンストンの比較社会学

休日読書。先日、佐藤先生と夕食をご一緒する機会があり、そこでこの本を紹介していただいたので(友人に借りて)読んでみました。佐藤先生の本所属は東大の東洋文化研究所ですが、執筆時点の2017年で4年間なので、2013年から現在までプリンストン大学の公共政策学部でも客員教授として教鞭をとられています。そういった経緯で、二つの大学で教育・研究をする機会を得た佐藤先生が、東大とプリンストンという日米のエリート校の比較を行っています(本のタイトルは「米国トップ校」「アイビーリーグ」という文字がちらつきますが、比較しているのはあくまでプリンストンがメインです)。



つい半年前まで、プリンストンというのは私からは非常に距離のある、おそらく一生ご縁のない大学だと思っていたのですが、不思議なもので指導教員の移籍に伴い金魚のフンがごとく入学し、一学期を過ごしてしまった私は、この本を読みながら何度「わかるー、それな」と心の中でうなずいてしまったかわかりません。自分もいつの間にか、プリンストンを内側の視点で見るようになっていました。最近の東大とプリンストンの両方に身を置いたことのある人はかなり限られる気がするのですが、もしそういう背景をお持ちの方がいれば必読の本としてお勧めしたいと思います。

さて、この本ではタイトルのように東大とプリンストンを比べていますが、スタイルとしては「東大を批判的に見る」というよりも、「東大に代表される日本の研究大学を批判的にみる一方で、アメリカの研究大学を礼賛する言説」を批判的に見ることから出発しています。さらに、単なる統計の比較などにとどまらず(とはいっても、先生の持ってくるデータは興味深いものが多く勉強になりましたが)、東大からプリンストンに留学してきた学生や、プリンストンの入試担当者、実に多くの人にインタビューをしています。佐藤先生は人類学のバックグランドがあるからか、現場に行く取材力がすごいです。さらに、単なる大学の比較にとどまらず、なぜ東大ないしプリンストンが特定の入試制度や授業システムを行なっているかについて、その社会経済的な背景や歴史的な起源まで言及しており、表紙から想像する以上にアカデミックな文献も引用されています。そのため、一種の比較社会学にも読めました。日本の新書文化は、識者が社会学エッセンスのある読み物を出版できる土壌を作っている気がしますね。

米国のトップ大学を礼賛する言説としては、世界大学ランキングから始まり、試験一辺倒ではなく「多様な」人材を採用している入試制度、少人数授業で議論を重視する文化、などがあげられています。本書では、これらの点を各章で批判的に検討しています。例えば、東大の一発勝負の入試制度は均質的な学生を生むことに寄与しているのではないか、これに対して米国の大学では多様な尺度から人物評価を行なっていて、学生の多様性があるのではないか、という主張は、皆さんもよく耳にするかもしれません。これに対して、この本では「多様な入試制度が意図せず均質的な学生を生んでしまう」という意図せざる結果が生じていると論じています(先生自身は意図せざる結果とはいっていませんが、多様な学生を採用するつもりが実は均質的な学生を採用しているというのは、まさに意図せざる結果の好事例でしょう。具体的には、多様な評価基準を持つアメリカの入試制度といえども(1)内申点が最も重要であり、トップ校を目指す生徒は成績では差がつかないので課外活動で差をつけようとする、(2)学力、課外活動、その他音楽やスポーツなど全てにおいて突出することはできないため結果的にwell-balancedな人物像が理想とされる、(3)これに加えて自分が育った背景や不利なバックグラウンドを強調する、異常の要素が組み合わさって、トップ校に出願する学生のエッセイのストーリーはおおよそ5パターン程度に収斂してしまう、という点が指摘されています。

多様性を謳う制度が想像よりも均質的な人間を採用してしまうのは、そこまで驚きではなく理解できる話なのですが(何を多様とするかが社会的に構築されるため)、この本では入試制度だけでなく、入学したらしたで、学生たちは成績を気にして周りの評価に従順になってしまう「優秀なる羊たち」が多い点も指摘しています。これに対して、日本の入試の多くは試験さえできればどんなに内申点が悪くてもトップ大学に入学できるので、むしろ東大の方が個性的な人が多いという筆者の主張には、納得するところもあります。さらにこうした人物評価を重視する入試制度はこの100年ほどで定着した制度で、それは試験成績が優秀なユダヤ人を排除するためであったとする社会学者のからベルの研究を引用しています。私も、プリンストンの方が留学生や女性が多く、そうした人口学的な特徴は東大よりも「多様」だと思うのですが、実際にこうした多様性は大学を運営する人たちにとって望ましい「多様性」だと思うことは少なくありません(トップ校におけるアジア系学生の差別などを念頭に)。

また、日本の大学よりもアメリカの方が授業で少人数教育が実施されて質が高い、といった言説もありますが(これについては、研究大学ではないリベラルアーツカレッジについては、当てはまると思います)、研究重視のトップ大学では、優秀な研究者の引き抜きの条件の一つに教育負担の軽減をあげており、次第に教授の教育負担が減り、代わりに講師や大学院生の教育が増えているため、むしろ東大の方が教育の質は高いのではないかと主張しています。これについても首肯するところがあり、特に学部教育については、東大をはじめとする日本の大学の「ゼミ」制度は、もっと誇っていいと思います。学期開始・終了時の飲み会やゼミ合宿というのは、ある意味では教授と学生の間に擬制的な親子関係を生じさせる機能があり、結果として教授は学生を自分の子ども(あるいは親戚の子ども)くらいに扱うことはままありますが、それは教員と学部生の距離を縮めることになり、研究に集中して学部教育がおろそかになりがちなトップ校の教員とは対照的です。もちろん、そういった人間臭い関係を好まない人も多くいるので、ゼミ制度は一長一短だとは思いますが、アメリカの方が教員と学生の関係はドライな傾向があります。

以上の教育の質という点は、学部教育については賛同しますが、大学院教育や研究者の労働環境については私は東大よりもウィスコンシンやプリンストンの方が何枚も上手だと思っていることは、付け加えておきます(本書のカバーする範囲外になるため省略)。

以上の点は東大が「勝っている」点なわけですが、その一方でこの本では多くのコマ数を履修する東大の方がプリンストンよりも一つの授業にかける時間が少なく、学習効率が良いとはいえないこと、授業の多さは教員の教育負担にもなっていること、また日本の研究者は事務・教育負担が多く、特に若手研究者の研究時間を奪っていることなど、プリンストンの方が「勝っている」点も多く指摘しています。しかし、全体の主張としては「批判されてるほど日本(東大)の教育は悪くない」というものです(この主張には賛同しますが、繰り返すように研究環境はプリンストンの圧勝です)。

個人的に第4章の「やがて哀しきグローバル化」は非常に面白いと思いました(お分かりのように、このタイトルは村上春樹のプリンストン滞在記をもじっています)。「哀しき」の部分が意味するところの一つは、日本ではほぼ「英語化」に等しいグローバル化が進む中で、少なくない若者がアメリカの大学を目指すようになっている一方、アメリカ、特にプリンストンに代表されるエリート校では、その居心地の良さも手伝ってなかなか学生が海外に出ようとしない。研究者もアメリカのことに関心がある人が大半で、グローバル化と言いつつ、一方的な流れに止まっていることをさしていると考えられる点でしょう。この本では、グローバル化の意味するところが、実際には日本の大学がアメリカの大学の真似をするままでは、日本の大学が持っていたよう多様性が失われてしまうのではないかという危惧を表明しています。世界ランキングを始め、背景の異なる大学や学門を一元的な尺度で測ってしまうと、結果的にその階層で下位に置かれる大学が上位の退学の模倣になってしまう可能性もあるかもしれません。

ただ、学生個人の視点で考えた時、グローバル化の流れでアメリカの大学に進学することは「アリ」だと思います。きちんとアメリカの文化に馴染んだ上で、日本で学んだ経験を生かしてアメリカの大学に進学することは、先ほどの「優秀な羊たち」が多い実は均質的なアメリカのトップ校では個性を発揮できるだろうし、本人も新しい視点を身につけられるでしょう。哀しむべきは、同様の動きが(少なくとも学部教育などにおいて)アメリカの大学で生じていないことかもしれません。例えば、プリンストンの学部生から数人と言わず、毎年20人、30人の学生が東大に1年間留学するようになる、それが他の大学でも広まるようになれば、東大の学生も新しい視点を得られる機会が増えるし、プリンストンの学生にとってもプリンストンに4年間いるよりも得がたい経験ができると思うですが、惜しむらくはそれが生じているとは言い難い点です。東大はプリンストンがグローバル化戦略を始めて最初に協定を結んだ大学の一つなので、このパートナーシップを生かして、学生・研究者の交流が一層強くなることを願うばかりです。


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