そうした弊学部の歴史について、ファカルティに長くいたMiddletonさんがまとめた本が、非常に勉強になりました。
1958年に落ち目の社会学部の改革に専念したSewellさんは、政府から資金をとってこれる研究志向の強い若手を、Harvard、Berkeley、Chicago、Michiganの既知の教授の紹介で連れてくる戦略をとりました。例えば、著者(Middleton)が1967年にMichiganに行ってOtis D. Duncanと話した時、彼の学生で活きのよいのが4人いて、という話を聞いて、その4人全員を1968年から70年の間にマディソンに連れてきたっていうのだから驚きます。なお、その4人とはSweet, Hauser, Bumpass, Feathermanと、今ではみなさんビックネームの方ばかりです。Preston(1978, 未読)によると、(アメリカの)人口学研究には4つの伝統があり、順にPrinceton, Chicago-Berkeley, Penn-Brown, そしてMichigan-Wisconsinとなるらしく、その中でMichigan-Wisconsinは社会経済的なCompositionを強調するということで、人口学の幅を広げることに寄与したと考えられます。学派まではいかないと思いますが、伝統的にMichigan-Wisconsinのネットワークは強かったんですね。
一方で、こうした戦略は多くの利益をもたらしたが、old boy networkを通じた雇用はマイノリティの排除に繋がった側面もあるということで、昔の社会学部には白人男性が多かったようです。
Sewellさんは1946年、農村社会学部と社会学部のjoint appointmentでOklahoma A&MからUW-Madisonに移籍することになるのですが、その前に実質的な海軍の関連機関で統計解析の仕事についており、その関係で第二次大戦の敗戦から僅か10日しか経っていない東京に向かい、2000人以上の市民に対して、空襲の経験についてインタビューした調査に関わっていたという経験を知り、驚きました。ちなみに分析の結果は、計画的な大空襲は市民の士気を低めるよりも、ますますアメリカへの敵対心を高めることにつながったと報告書に書いているそうで、彼の意外な業績の一つかもしれません。
こうした学部の歴史以外についても、与太話も結構あり、以下の話などは面白かったです。
・Paul Allison(1976年卒)は、本当はColumbiaに行ってMertonの指導を受けたかったらしいのですが落ちて仕方なくUW-Madisonに来て、仮面浪人して翌年Columbiaに受かったはいいが今度はstipendが安くてNYで生活できないので蹴った。
・マルクス主義階級論のEric Wright先生、BerkeleyでPhDとった後マディソンに来たはいいものの、1987年にBerkeleyのvisiting profになってテニュアのオファーをもらってしまう。社会学部は当然retention packageを出すが、Wright先生はサラリーには何も言わず、批判社会学の基盤を維持するよう要請した。結果的に、講師のポジション1つ分を数年前にできた社会的正義に関する研究センターへの資金に充てることで、Wright先生はMadsionに残ることになった。彼がきた理由もユニークで、1970年代に新左翼社会学に関心を持った院生たちが、Wright先生がBerkeleyを卒業後すぐ雇うようファカルティに要請したらしいです。ちなみに、Wright先生をUW-Madisonが雇うよう要請したと思われる院生の一人がGøsta Esping-Andersen。なんと、一度も会ったことないのに新マルクス主義階級論の雑誌Kapitalistateに共著で論文書いてしまったということです。
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