March 15, 2018

第65回日本数理社会学会に参加して

3月13-15日で成蹊大学で開催された日本数理社会学会に参加してきました。12日にアメリカから帰国して、13日は報告の用意をしていたので、13日のワンステップアップセミナーには出ずに14日から参加。

今回は口頭報告一つ、ポスター報告一つ、それと開催校シンポジウムの討論者を務めました。口頭は、国勢調査の公開データを用いた性別職域分離の数理に関する報告、ポスターは再現性ポリシーに関するものでした。両報告について、先生方から貴重なコメントをいただけましたので、論文に反映できればと思います。

ポスターについては、比較的、ベテランの先生から多くコメントをいただけたのが印象的でした。言い換えると、普段話しているような院生の方は、あまりきてくれませんでいた。もしかすると、雑誌の査読・編集や、日頃の教育の場面で分析結果の再現性について考える機会が多いのかもしれません。

ポスター報告でいただいたコメントから、さらに考えなくてはいけない、あるいは強調しなくてはいけないなと思ったこととして、以下の点が挙げられると思いました。

まず、再現性ポリシーの要点は、分析結果が再現される可能性を担保するということです。AJSの編集長を長く務め、再現性ポリシーに反対する社会学者のAndrew Abbottは、再現性ポリシーが査読者の負担を増やすことにつながると批判します。しかし、他の分野では、掲載が決まった論文のデータとコードを公開し、再現するのは論文に関心のある一般研究者というモデルがあり、そのモデルでは全ての論文が再現性チェックをされるわけではありません。ただし、再現される可能性には晒されている点は、どの論文も共通です。Abbottらは「誰がチェックをするのか」に関して批判をするわけですが、「いつかチェックされるかもしれない」ことの方が重要であると強調できれば、再現性ポリシーに対する反論も少なくなるような気がしました。

次に、社会学において再現性ポリシーが発展しない可能性として、質的研究が多いからではないかという指摘をいただきました。もちろん、この点自体は経験的に検証できるものではありません。しかし、このコメントを受けて、政治学や経済学のシステムの丸輸入ではなく、質的研究も少なくない社会学なりの再現性ポリシーを構想する必要性を感じました。

最後が、既存のデータアーカイブとの関係です。dataverseには必ずしも調査に用いた質問紙までレポジトリに格納する必要はありませんが(論文の結果が再現できるかが問題なので)、広く分析結果の再現性を考える際に、他のデータで結果が再現できない場合、その理由の一つに調査で用いた質問の聞き方が異なる可能性もあります。こういった調査の具体的な点については、readmeファイルに書くこともできると思いますが、データのアーカイブ自体はICPSRなどが今度もになっていくことが必要だろうと考えました。また、dataverseにもharvested ICPSRのようにICPSRに保存されているデータのリンクもあるので、両者の協働関係についても、論文中で書く必要を感じました。

続いて、分析社会学について。シンポジウムに参加して、あるいは懇親会でいただいた質問を踏まえて、以下のようなことを考えました。

私は変数社会学批判から分析社会学に関心を持ったクチなので、正直、分析社会学とは何か(=合理的選択と何が違うのか)という話にあまり価値を置いていません。シンポジウムなどで「何が違うのか」という質問をいただいたことにより、定義論争よりは、ツールとしての側面に、分析社会学の良さがあると改めて思いました。ツールというのは、具体的には理論と実証の関係について一連の手続きを提供している点です。

これを踏まえて、分析社会学をかじっておくと、どのようなメリットがあるのか。認識的なメリットとしては、分析社会学的な視点(に賛同するかは別として)を知っておけば、一見すると似たような計量分析をしている論文も、どういったメカニズムを想定しつつ分析をしているかに関して、多少のグラデーションがあるように見えてきます。具体的には、変数間の関連を説明する何らかのメカニズムを(複数)考えながら検証しようとしているというものと、説明変数AはアウトカムBに何らかの影響はあるだろうと考えるのとでは、理論的なベースの厚さが異なります。さしあたりの利得は、こういう点にあると思いました。

もう一つの利得は、計量分析から得られたパラメータをもとに生成的なモデルをたててメカニズムを検証するという手続きを提供している点にあると思いますが、これはまだ自分ができていない点です。ひとまずの課題として、人口学研究におけるABMについて勉強したいと思います。

2日間、学会を十分楽しめました。JAMSの良さは、修士の頃から積極的に報告することをよしとする寛容さになると思います。今回も、東京だけではなく大阪や仙台から多くの院生が参加しており、彼らから刺激を受けることも多かったです。今後も、JAMSにコミットしていければと思いました。最後に、大会実行委員長の渡邉大輔先生をはじめ、大会の運営に携われた全ての方に感謝申し上げます。

---
以下は、追記で分析社会学シンポジウムにおいて私が述べたコメントの要旨(メモ)です。

3人の先生方の発表資料をいただきながらコメントを考えました。今回は、瀧川先生の報告から出発して、他のお二人の先生の報告にも開く形で、コメントさせていただきたいと思います。
瀧川先生の報告は「因果推論と分析社会学は協働することができる」という趣旨だったと思います。その主張の根拠となる先生が提示された「連続モデル」という考え方は、私には非常に興味深かったです。というのも、私はどちらかというと「分離モデル」に近い考えに立っていたからでした。
しかしながら、報告を聞いた上でも、なお私は「分離モデル」の立場に立つべきだろうと考えます。因果推論の実践と分析社会学的な考えの間は断絶があるためです。
この断絶について理解するために、「STUVAの仮定」を紹介させていただきたいと思います。この仮定とは、要するに、因果推論をする際に必要な処置(treatment)の効果が時間的な条件や、空間的に独立であることです。言い換えると、処置を受ける人の分布や過程に関わらずに、処置の効果が一定であるというものです。この仮定が満たされるものとして、よく頭痛薬の例が用いられます。Aさんが頭痛薬を処置として服用すれば、アウトカムとして症状の改善が期待できますが、これはBさんが頭痛薬を飲むか飲まないかに関わらないと考えられます。
社会科学において関心を持たれる処置効果の場合、この仮定が満たされないことがあります。例として、飯田先生の報告で説明があった、物質Xの使用を制限する制度の効果について考えてみましょう。飯田先生のご報告では、制度の効果のメカニズムを考える際に、「多くの人が使用を控えているために自分の控えたほうがいいのではないか」という信念形成の側面が指摘されました。したがって、個人の周囲でどれぐらいの人が使用を控えているかによって、制度の効果は異なってくると考えられます。
さて、因果推論においては、STUVAの仮定が守られることが重要なのですが、私の主張は、この仮定を置かないところに分析社会学の特徴があるというものです。STUVAの仮定とは、言い換えると、いつ、どこでも、誰が処置を受けても、処置の効果が一定であることといえるでしょう。しかしながら、永吉先生の報告にもあったように、分析社会学の主眼はあくまで「実際に起こった現象を説明する」ことにあります。そのため、STUVAの仮定のような社会文化的なコンテクストのない議論と、分析社会学の想定には、距離があると考えられます。
以上の議論を踏まえると、分析社会学における「理論」の役割は、実際に生じた現象の説明をする際の手がかりを与えるものであると考えられます。そのため、飯田先生の報告で言及された理論と予測の関係ですが、現象の説明を重視する分析社会学にとって、理論は予測の正確さで評価されるものではないと考えています。
瀧川先生のご報告は、因果推論との比較で、結果的に改めて分析社会学の特徴を浮き彫りにするものでした。他のお二人の先生方の報告も、分析社会学的な考えに立った時の、「説明」や「理論」の役割に関する指摘でした。以上が、報告を受けた上での私のコメントになります。
---

衝撃のSAGEどらやき(おいしかったです)

No comments:

Post a Comment