May 17, 2015

IHS第二回のレポート(5/11)




 授業ではまず,組織,経営研究の潮流について紹介があった.生産的行為の拡大の中にいる企業は,グローバル化する中の市場において文化の多様性があるとは認めたがらないのだろうか.この話を聞いた時,トマス・フリードマンの「フラット化する世界」(原題:The World is Flat)を思い出した.この本の中でフリードマンは多くの事例を引用しながら,グローバル化の進行とともに企業や個人の間に全く新しいコミュニケーションが生まれ,これまで組織の中にあったヒエラルキーがフラット化し,市場そのものが空間的,時間的制約を失い均質的なものになっていくことを例証している.確かに,情報技術の発展や自由貿易の拡大によって,市場における効率性を追求する余地が広がっていくとすれば,組織における文化の多様性もフラットなものになっていくか,もしくは生産性に悪影響を及ぼさないといった知見が求められるようになっていくかもしれない.
 こうした「多様性の収斂」とも言うべき現象が,学問の世界にも起こっていることが次に指摘された.1990年代以降のアメリカでは地域研究が衰退したと言及される.批判の理由は開発途上の未開社会に対する強い関心や社会主義という未知の領域の消失といった点などが言及されたが,そうした「供給」側からの説明だけではなく,地域研究にはない社会科学や人文学のディシプリンさえあれば,現地事情に強い人は必要なくなるという「需要」側の批判もあるだろう.この批判は,企業経営においてグローバル化の結果として多様性を考慮する必要がなくなるという議論とパラレルに映る.
 こうした文化の収斂論や,文化の違いはあったとしても違いは重要ではないとする議論の背景には,以下のような経営学的な発想がある.つまり,いいモノであれば売れる,モノが売れれば企業経営は成り立つ,という主張である.ここでも,商品さえよければどこでも売れるという議論は,ディシプリンさえあれば多様性を考慮しなくとも分析はできるという地域研究軽視の主張と重なってみえる.この授業では,企業のグローバル化と学問のグローバル化は,多様性の収斂という点では似ているのではないかという印象を持った.
 授業では,こうした議論に対して,「製品を買う人は同じ価値観を持ってモノを買っているのだろうか?」という視点が提供される.その上で,どのように文化を測定すればいいのかは,そもそも文化は多様性のあるものなのかどうかという点を含めて方法論的な議論になるとされ,課題文献に基づいた討論に入った.
 多文化を測れるのかという議論には,二つの論点がある.まず文化や価値観を測ることが出来るかというトピック自体に関するものである.もう一つが,測定法にその妥当性を問う議論である.議論は後者の方が多かった,つまり,文化を測ることが出来るかどうかではなく,測定手法一般の問題について議論された.社会学を専門として,日々社会調査に基づいたデータを使って分析をしている私にとっては,受講生の調査法へのコメントが興味深かった.

 まず,自分が何度か調査された経験があるという受講生から,「調査された経験があり,企業等で,こういう質問で分かるのは,自分が知らない自分像が出てこない,結果的にはウソを言うこともある」という否定的な評価が出てきた.私は,この発言を,調査を通じて回答者が提出するのは既に用意されているもので,それは時として虚偽にもなりうると解釈した.社会的な規範を踏まえて回答をすることは,社会調査法では社会的望ましさ(Social Desirability)の問題として議論される.社会的に望ましい答えが既に用意されており,調査ではそれが答えられているだけだとする事実自体は否定できないが,調査を行う場合はこれをわきまえつつ,質問方法を工夫するしかない.質問の仕方によって答えが変わるというコメントについても,方策は同様である.
 度々指摘されたものが,数値で表れたものを受け止めると,ステロタイプにもつながる,というものだった.解釈があやういのに,調査結果を与えてしまうと,数値には説得力があり,結果としてある主張のバックアップになってしまうというものである.これが受け取る側の問題であって,調査自体への批判ではないというのは議論でも挙がっていたとおりである.しかし,同時に私は,この種の批判は,一般向けの調査を想定しているのではないかと考えた.社会学の専門家が参加している社会調査では,学問的にもう少し精緻な議論がされているのではないだろうか.同時に,授業では言及されていなかったが,事実に対する誤差という意味での精度の問題はあっても,少なくともそうした調査は,我々の認識の構築にとって必要であると考える.例えば,性的マイノリティがどれだけいるのかという数値は確かに一人歩きすることもあるかもしれない.しかし,だからといって調査をする必要がないのかというと,そうではないだろう.
 次に,文献で用いられた調査が多国籍企業の事例をとっており,これが国民文化として代表しているとは言えないのではないか,とするものがあった.これは,相対的に少なかった文化を測ることへの問題点である.これについて,私は他の様々な条件を統制しており,分析結果が他の職業階層についても言えるかどうかは,別の調査との比較を行えばよいと考えた.この調査のポイントは,IBMを国民性に置き換えるのは,IBM社員という同じ条件を有しているのにもかかわらず,国家によって差があるという点である.
 以上のような議論は大変興味深く,授業ではあえて発言することはなかったが,その一方で自分の中で社会調査が他分野の人から見てどのように思われ得るのかについて考察することができ,得るものは多かった.


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