6日
午前中は勉強、その後新宿で人と会う、終了後、本郷へ。明日あると思ってた一限のためにレジュメ作って印刷しようとしていたのだが、休講らしい。1週間前にしては上々のレジュメを作り上げてしまった。日付が変わる直前に、帰宅して、疲れたので即就寝。
7日
2限から。基本的にあまり発言しようとは思っていないのだが、ついのつもりで発した一言が尾を引いて、随分と発言してしまう。要するに、Zetterbergのとっている逆時計回りアプローチ(経験的証拠の積み重ねから理論的な命題を導くもの)は、基本的に命題群の経験的な一般化で、そこには、八宝菜論文でいうような、思いつきの要素がない。盛山がthe more the more型研究を批判している際に指摘する、積み上げ主義のポイントはそこであって、かならずしもthe more the more型言明を否定している訳ではない(実際、彼の挙げた例もthe more the more型言明を含んでいるので、不十分だが、理論を構成する個別の言明の一つとしてはそうした命題は必要なのである)。対して、彼はある公理論から下位仮説を導きだす演繹的なアプローチにも言及している(174-)。これは具体的にいうと、仮に公理論A, Bがあったときに、AとBの組み合わせからaが生まれてくるような、そうした発想である。複数の調査結果をまとめあげ、簡潔に要約する点を持って、Zetterbergは「第一の意義」としており、理論志向の調査者(右回りアプローチ、演繹的な命題を思いつき、それを検証する)にとっても、この公理論と下位仮説の組み合わせは、理論から演繹されるような「仮説の中から幾つかを選んで証明するだけでよい」(177)という理由から利点があるという。
しかし、Zetterbergはこうした公理論のメリットは最も重要なものとはみなしていない。彼曰く、理論化の最大のメリットは、「理論によってたくさんの別々な調査結果が互いに支持しあい理論に対して最大の信憑性をもたらすように調査を整理統合することが出来ることにある」(178)からだ。これをひとまず、経験的一般化志向と呼んでも、差し支えはないだろう。つまり、Zetterbergは、既にある命題をまとめあげるものとしての理論化を評価しているのであって、それに較べれば、右回りの演繹アプローチにおける理論化の役割には消極的である。なぜならば、社会学において「使用概念が普通の言葉によって定義されており,日常語に対する演繹法の規則が用いられる限り,余り精密とはいえないからである」(178)ためだ。「日常語に対する演繹法の規則」が何を意味しているのかは議論になったが、ここでは、社会学の使用する概念は、日常語からの借用語であり、その言葉から演繹的に何か命題を定義することは危険だと解釈したい。
このように読むと、なぜZetterbergが経験的な研究から出発するアプローチにおける理論化をより評価していたかが分かる。彼にとっては、演繹的な命題から仮説を導くタイプの研究には、日常語から定義せざるを得ないという弱点があるのだ。
ここで重要なのは、彼の社会学の使用概念は日常語であるという前提である。この前提を彼が強く保持していたとするならば、盛山が積み上げ主義への批判で対案として提出していたような、経験的言明の積み重ねのプロセスで研究者の思いつきによる演繹的な命題を組み込ませる方法を、なぜZetterbergがとらなかったかが見えてくる。彼はあくまでも、使用概念のファジーさを危惧しており、あらかじめ経験的に確かめられた命題から理論化を行うアプローチに、より信頼を置いていたのではないだろうか。
この手の議論は、堂々巡りになるのも、承知しているつもりだし、個人的には安易に昨日と演繹を対立させながら何か論じるのも気が引けるが、今日の議論で上がった、「日常語に対する演繹法の規則」への疑問や、レジュメのコメントにあったthe more the more型言明の位置づけなどを、Zetterbergと盛山の主張を接合するためには、こうした考えは無駄ではないだろう。ただ、喋りすぎたのは反省している。
最後に、先生としては、これをクーンの前に読ませるというところに主眼があったのかもしれない。クーン以前の科学観に基づいた方法論の本という趣旨でこの本を選んだのではないだろうか、後半でそう感じた。
ゼミが終了後に面談、昼休み、先輩等と雑談をしながら昼食を済ませ、三限。終了後、書類を提出し、本郷の方の自転車も後輪がパンクしたので、キリン商会で修理。個人経営とはいえ、1400円は少し高いかもしれない。その後は、三友館で勉強、院生室に移って論文等印刷。帰宅して、事務作業。火鍋会の企画等。
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