日々卒論の方向性が変わっていくのが辛い。ひとまず、大体70年代以降の家族変動と近年の格差・不平等の拡大の議論を絡めて(後者については、それが広がっているかどうかの検討も含めて、できれば)、配偶者選択に着目して分析、みたいな感じにしようかと考えている。私の昔から(と言っても二年くらいだけど)のスタンスは、家族内部の要因に着目した階層論をやっていく、というところだったので、巡り巡ってまた戻ってきたらしい。最近思うのですが、日本みたいにほとんど学歴でしか同類婚が起こらない社会は他の社会に比べて原因を推論しやすいとも言えるし,同時に同じくらいやりにくいとも言える。前者は、アメリカの人種や宗教、イギリスの階級みたいな変数が無いので、大体変化の要因を教育に持っていくことができる(逆に、バラエティがない)。後者は、学歴は戦後の高学歴化によって学歴の意味も分布も世代によって大きく異なるので、これを踏まえないといけない点にある。つまり、昔の大卒と今の大卒は、社会的なステータスも随分違うでしょう,という話。
留学するまでは自分がどういうアプローチか、全体の中で位置づけることができなかったが、今思うと、それはバリバリのquantitativeでrational choiceの立場だった(なお、両者の関係についてはGoldthorpeのOn Sociology参照)。だがしかし、マンチェスターでネットワーク分析とクロスリーに出会ってから、前者に対してはqualitativeからの、後者にはindividualism批判からの問題意識を持つようになった。できるだけ、この煮え切らない思いを維持したまま、かつ論文にはその煮え切らなさを上手く昇華する形で、進んでいきたいのだが(バランスがいいと言えばAnnette Lareauみたいなのが理想だが、形にならない事例は数えきれないほどある)。そうやって、他にも日々、制度は大事だ,規範は大事だと右往左往しているのですが、なんとか早めに書き上げたいものです。
P.S. 最近以下のようなことを考えている。職縁結婚の衰退みたいなの「だけ」が「仮に」なかったとしたら、恐らく現在ほど未婚化は進んでいなかったと推測できる(もちろん、職縁の衰退は労働市場の変化とも関係しているので、それはバブル不況が無かったらというたらればまで含むため、現実には起こりえないだろう)。つまり、経済不況は起こるものの、出会いの機会の減少は訪れない。この状況下で結婚するカップルが生まれたとして、配偶者選択のパターンや結果はどのようになるのだろうかと考えてみると、アメリカのように学歴に基づく格差が拡大したのではないかと推測する。日本では、機会構造の変化によって強制的に結婚市場から排除された人が多かったことによって、高学歴カップルと非高学歴カップルの間の格差の拡大が実は少なくすんだのではないかと。もし、未婚率が80年代と変わらなかった場合、子を持つ世帯間の格差はもっと広がっていたかもしれない。つまり、配偶者選択や家族の不平等を考える時に、未婚者の存在をどのように捉えるかということなのだと思います。
以下論文二つ
McLanahan, S. 2004. “Diverging Destinies: How Children Are Faring Under the Second Demographic Transition.” Demography 41(4):607–27.
この論文では、アメリカにおける第二次人口転換以後の家族変動が資源の二極化を生み、様々な格差を拡大させることになっていると主張する。筆者は独立変数として女性の学歴を採用し、これをLow, Middle, Highの三つに分類している.学歴ごとの平均結婚年齢、雇用率、シングルマザーの割合、諸今後10年間の離婚確率、父親の育児参加、世帯収入をプロットしており、そこから70年代以降学歴間の格差が増大していることが指摘される。例えば、平均結婚年齢は高学歴の女性ほど遅くなるが、例学歴の人とのギャップがこの40年で拡大している(ちなみに、平均結婚年齢は高いほど離婚しにくく,子育てにも積極的になる傾向があることから格差の指標として用いられている)。シングルマザーについても、1970年ではhigh educationの人では10%、low educationの人では20%強だったものが1990年代になる頃には前者が変わらず10%なのに対して、後者では45%にも上っている。このように学歴の高い女性の間では子どもにとっての資源は維持ないし増大し,学歴の低い女性の子どもにとっては不利に拡大している。筆者はこうしたトレンドの変化の要因としてフェミニズムの考えの浸透、出生コントロール技術の発展、労働市場の機会の変化、そして福祉政策の変化をあげている。そして、こうした格差の拡大に対して政府は手を打つべきであることを主張している。
Frank, D. J., A. Hironaka, and E. Schofer. 2000. “The Nation-State and the Natural Environment Over the Twentieth Century.” American sociological review 96–116.
この論文では国民国家内における環境保護政策の進展の背景として、従来語られてきたような各国の国内要因ではなく、グローバルな要因を提示している。筆者らは国立公園の数や各国における環境省や環境保護法の設立が戦後になって急速に増加していることを指摘する。従来、これらの増加の要因は国内原因、例えば環境汚染への注目などによって説明されてきた。しかし、制度学派のMeyerの考えを受け継ぐ筆者らは、先進国を中心に見られるこのトレンドの変化に対して、各国がグローバルな環境保護のレジームに吸収されていったという仮説を提示する。
Our argument begins from the premise that blueprints for the nation-state are drawn in
world society (Meyer, Boli, et al.1997).This means that rule-like definitions establishing what the nation-state is, what it can do, and how it can relate to other entities are organized and established globally. This has always been true to some extent, but it has become increasingly so with the proliferation of international organizations, treaties, and other forms of globalization (Anderson 1991; Robertson 1992; Ruggie 1993; Smith, Chatfield, and Pagnucco 1997)…. These blueprints include the growing number of action plans produced by international environmental governmental and nongovernmental organizations, the in- creasing variety of recommendations made by international policy experts, and the expanding set of guidelines issued by natural scientists (Caldwell1990;McCormick 1989). The proliferation of protective blueprints by no means eradicates destructive ones, many of which are associated with global capitalism (O'Connor 1998; Schnaiberg and Gould 1994). Nevertheless, an elaborate and consequential global environmental regime has emerged (Levy, Keohane, and Haas 1993; Zurn 1998). (以上本文より引用 p.100)
その上で、筆者らは独立変数として国内における環境保護のグローバルな制度下(国連の環境保護業務につくスタッフ数等)、環境保護系を除いた国際期間等への加盟、国内における環境団体・自然科学団体の数を用いる。従属変数には国定公園の数、国際環境保護団体の会合の数、環境保護系の国際機関への加盟、環境評価法の制定、環境省の設置を用いる。人口と鉄鋼産業を統制変数とした上で、筆者らはこうしたグローバル社会への国民国家の編入過程が環境保護政策の導入に影響したことを指摘する。
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