May 17, 2014

The Quantitative Analysis of Large-Scale Data Sets and Rational Action Theory: For a Sociological Alliance(On Sociology 第6章)

 彼が扱わない手法の検討をした前半とうってかわり、On Sociology vol1の後半は計量分析及び合理的選択理論の擁護をしている。特に、後者が社会学の問いを明らかにするために有効なツールになることが主張されている。これらを読んで感じたことを先に書いておくと、Gordthorpeは予想以上に計量分析と合理的選択理論の可能性について消極的であることに驚いた。特に、計量分析が往々にして変数主義に陥ってしまう点、及び合理的選択理論で全てが説明できると考えていない点は、自身の手法の限界について反省的になっていると思われる。それでも、これらの方法は彼にとって有効な道具なのだ。

 まず、第6章の前半ではThe Quantitative Analysis of Large-Scale Data Sets(QDA, 大規模データの計量分析)が明らかにしようとしている問いへの答え方として、個人レベルに見せかけて実は変数間の関係を記述することでそれを説明しようとしているという点が批判される。この批判はAbbottのような計量分析を用いない社会学者だけでなく、ColemanやBoudonといった「内側」の人間からもされる。

Likewise, Boudon (1987: 61-62), taking the particular example of quantitative studies of social mobility and status attainment, has maintained that in these studies ‘the units of analysis are not individual but variables’. The influence of one variable to another — for example, of education on status attainment — is presented in some quantified form and then, typically, finding of this kind ‘will be considered final results’. In other words, no efforts is made to show how the statisticcal relations between variables derive from their ‘real’ causes, that is, the actions of individuals. (119)

 つまり、学歴と職業達成の間に統計的に見て有為な関係が示唆されたとしても、それはStatistical Inferenceの域でそう推定されるだけであり、実際にどのようなメカニズムで両者が関係しているのかはブラックボックスのままである。両者の因果関係について個人レベルの因果関係を踏まえて説明をすることはCausal Inferenceと考えられるが、QDAができるのは因果を説明するための事実を提供することであり、理論的でよりsubstantiveなargumentが必要だというのだ。そして、Gordthorpeによれば、合理的選択理論(RAT)が現在提出されている唯一の理論的なツールだという。

RAT represents the only theoretical approach now on offer that has serious explanatory potential, at least at a macrosocial level. (124) (斜体は引用者による)

 さらに、これに加えてRATがQDAにとってsiutableな理由が2つある。まずQDAのような大規模な社会調査では対象に対する「厚い記述」ができない。質問事項は制約される。しかし、RATは心理学的な認知や・現象学的な主体の意味などを必要としない(前者に関しては、必要にする場合もあると思われる)。RATの関心は、個人にとっての利益の計算から、ミクロとマクロをつなげることにあるからだ。次に、QDAにおける行為の記述(action narratives)は記述的(descriptive)にも説明的にもそれ単独ですべてを説明するべきではない。これは、計量分析の特徴は他の変数を統制した上である変数の影響力を測ることができる点にあり、決定論的な説明をとらないということを指していると思われる。そして、RATはマクロで見た時にサンプルに共通の規則性が見出すのに向いており、この点からも相性がいいとされる。


 次に、両者の「同盟」がRAT側にも利益をもたらすことが主張される。RATの弱点として、その非現実性が指摘されてきた。これに対し、Gordthorpeは個人が完全に情報を把握している場合がないことも時として非合理な行動に出ることも認める。その上で、両者を組み合わせることによってRAT側も反論に応答しやすくなるとする。

 主張には2つの前提がある。まず、合理性は個人レベルよりも集合レベルで見た時によく観察できるという点、次に、仮に集合レベルの行動が、全体的な規則性と個人間の小グループ間の差異の2つによるとする。このとき、例えグループ間で要因が異なろうとも、全体的な規則性が、それが例え弱くとも、観察できれば、それは集合レベルの行動にとって決定的であるという。従って、RATがQADによって確率的な規則性を認められれば、集合レベルの合理的行動の傾向を指摘できる。

 しかし、近年RATに対しては別の批判が向けられている。すなわち、RATは理論の発展に関心を向ける一方で、経験的な研究への応用に乏しい点である。この区別は抽象的な理論構築のためにRATを用いるか、それとも経験的な研究における因果関係の同定に用いるかの区別である。そして、GordthorpeはこのRAT内における抽象化志向と経験的研究への応用という対立において、後者の側に立つ。抽象的な理論は経験的な知見による反証が不可能だからだ(hic Rhodus, hic salta!)。そして、RATの抽象化傾向を止め(とまではいわないが)、その本来の価値を取り戻すためにもQDAとの同盟が必要とする。

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