このエッセイでは、Gordthorpeのエスノグラフィーに対する考え方が紹介されている。主張としては、エスノグラフィーもあくまで量的調査のpositivismを受け入れ、社会的プロセスの因果関係に対して検証可能な仮説生成を提供するべきだというものだ。エスノグラフィーの存在意義を否定してはいないが、それはあくまで量的な調査によって検証されなくてはならないとする点で、彼はポパーの反証主義的な立場に立っている。
まず、冒頭で、Gordthorpeは批判的合理主義の立場に立つことを表明する。
The argument that i wish to advance begins with the claim that the methods of inquiry that are used across the natural and the social sciences alike are informed by what might be referred to as a common logic of inference - a logic of relating evidence and argument. The application of this logic presupposes that a world exists independently of our ideas about it, and that, in engaging in scientific enquiry, we aim to obtain information, that extend beyond the data at hand, whether in a descriptive or an explanatory mode. (63)
Recognition of the logic of inference serves rather to ensure that, in the application of any particular method, as explicit an understanding as possible exists of the grounds on which inferences are made and conclusions may be subject to rational criticism. (64)
Gordthorpeはまず、近代国家黎明期における社会調査の発達の歴史を振り返る。フランス社会の労働者階級の生活を描いた Le Playの代表作 Les Ouvriers européens (1855)において、彼は社会ごと及び職業ごとに分類して57のモノグラフを完成させた。GordthorpeによればLa Play及び彼の支持者が依拠していたのは統計学の父と呼ばれるQueteletの「平均人」(l'homme moyen:社会で正規分布の中心に位置し平均的測定値を示す)のアイデアだったという。当時確率論は十分に発展していたから、人口統計から人間の身体的な特徴も自然現象と同じ正規分布に従うことを彼は明らかにした。そして、彼は分布の多様性を「誤差」として捉え、平均値に対して個々人の人間には決して還元することのできないイデア的な性格を与えた。この考えを敷衍すると、たった一個の事例でもそれが平均人に還元されない社会的な要因を持つという点で一般的な意義を持つことになる。
しかし、Queteletの「平均人」のアイデアはその後支持されなくなっていった。かわりにGaltonの統計学が支持を集めるようになってきた。Galtonの功績は、算術平均ではなく誤差や偏差に注目をした。彼の思想的な部分については割愛するが、両者の考えの違いを分かりやすい例で表すとすると格差の議論が当てはまるだろう(東大後期2006年の試験問題を参照)。Queteletのような「平均人」のアイデアからすると、いくら格差が拡大(サンプルの誤差が拡大)したところで、平均が変わらなければ多様性の変化には注目が向けられない。その一方で、偏差に関心を持ったGaltonからすれば、格差の拡大は社会の多様性が変化していることを捉える重要な指標となる。多様性への注目は、必然的に代表性のあるサンプリングの発達を促した。そして、エスノグラフィーにはそのような進歩はなかったとする。
以上のような歴史の変遷を概観した上で、Gordthorpeはエスノグラフィーにおける対象内の差異と対象間の差異の2つに関して、議論をしている。まず、対象内の差異についてGordthorpeは代表性を欠く以上、エスノグラフィーは対象内の差異について以下のような問題を抱えるという。
Since anything approaching total coverage will rarely be feasible, just who should be observed and questioned and, in turn, have their patterns of meaningful action and their understanding of the life-world of the locale recorded and, ultimately, analysed?
この、対象となるコミュニティや組織において、誰に注目するかについてはエスノグラフィーは満足のいく回答を今出せていないと批判する。例えば、統計的なサンプル抽出に基づく推論以外の方法を提起する考え、つまり質的分析のverisimilitude(真実らしさ)は読者の側に委ねられているという主張は主観的であり代表性を満たすものではない。さらに、Strauss and Corbinの理論的サンプリングについても理論が観察を支配するのみで、非代表的なサンプルからのバイアスは避けられないとする。
対象間の差異についても、エスノグラフィーの研究者たちは読み手の認識と調和していることを一般化の条件としてあげるという見方が紹介され,これも先ほどと同様の批判を受ける。次に、エスノグラフィーの対象間の一般化に対して、統計的な推論(statistical inference)とは異なる因果的な推論(causal inference)をすることでこれを克服しようとする考えに対しては、エスノグラファーがが結局は事実と離れた理論から考えて十分かどうかという基準でしかそれを判断できないと批判される。
最後に、Gordthorpeはエスノグラフィーがもつ一方で量的調査では削られてしまう分析対象のコンテクスト性について考察する。質的研究者の研究は対象における要因間の社会的プロセスが実際にどのように生じているかを明らかにする。しかし、GordthorpeはこれもHedstromらのCausal Mechanismの研究の一つに過ぎないと論じる。その上で、彼はエスノグラフィーは経験的なテストに耐えられる仮説を提供することで量的調査の補助として役に立つとする。すなわち、読み手の解釈や理論的な飽和といったデータそのものに重きを置けない視点を拒否した上で、Mixed Methodsのように質的調査を量的調査のサポートとして使う可能性を提起している。つまり、社会的プロセスの仮説生成のための一つとしてならば、エスノグラフィーは役に立つというのだ。
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