最近、社会学における結婚の趨勢の議論に関心を持つようになった。結婚、ないし配偶者選択というと、個人の選択の余地が大きいように思われる。どうしてそれが社会学的に面白いのか。
まず、社会学は配偶者同士のパターンに着目する。後で述べるように、配偶者の選択に対してはネットワーク分析におけるホモフィリーの理論が当てはまる。つまり、似た者同士が結合しあうのだ。男女というヘテロなものを除くと、同じ学歴、職業、年齢、趣味、人種などカップル同士の社会的な属性は似通っていることが多い。趣味などは結婚後に似るのかもしれないが、それ以外は結婚の以前に決まっているものであるから、何らかのメカニズムによって似た者同士が結合するものと考えられる。同質的なものとの結婚はホモガミーと言われている。
特に、学歴や職業が似ているもの同士が結婚するというのは、社会学的にみて非常に大切だ。社会学の主要な関心は各社会の近代化の影響に向けられている。具体的には、近代化によって、社会がどれだけ個人の業績によって秩序づけられるようになったのか(メリトクラシー)は社会学の大きな関心の一つである。逆に言えば、社会がどれだけ個人の努力によっては説明できないのかという点も社会学が明らかに使用としてきた。これを抽象的な言葉で表すと、社会が開放的か閉鎖的なのか、ということになる。開放的な社会では不平等が少なく、個人は生まれによって左右されず本人の努力によって評価される。閉鎖的な社会では、例えば親の出身などによって個人の将来が決まってしまう。学歴は、それ自体として近代に置ける業績中心の秩序を表現しているが、これは教育が個人の人生に大きな影響を与えるということでもある。学歴が同じもの同士が結婚しあうというのは、世代間の不平等を考えると、閉鎖的な社会に向かっていると考えられるのだ。これは、親子の職業がどれほどの連関を持っているかという社会異動の議論とかなり似ている。まとめると、ホモガミーは社会の開放性を検討する際に重要な指標となり得るのだ。
選択という側面に重きを置けば、同時に、結婚は経済学的な合理的選択理論の中でも議論されている。そこでは、どのような配偶者を選ぶのが自分の便益になるかを個人が合理的に考え選択するというモデルが採用される。例えば、高学歴化が進み、大卒の女性の未婚化が進んだ場合、男女の性分業が強い社会においては、これは女性にとっては人的資本を無駄にして家庭に入ることをリスクとして考えた結果として解釈される。
しかし、結婚はすぐれて社会的な制度である。社会学的に考えると、結婚は個人の合理的な選択に回収されない側面を持つとされる。例えば、日本で未婚化が進んだ解釈の一つとして、女性の高学歴化よりも、それまでの日本社会で盛んだった見合いや職場での出会いを通じた結婚が少なくなっているという議論がある。そこでは、欧米のような結婚を個人の選択によるものとするイデオロギーの影響で、そうした集団主義的な結婚のシステムが崩壊したという指摘が重要だ。このように、一口に配偶者選択と言っても、経済学と社会学では随分考えが違ってくる。
最後に、配偶者の選択が社会的な構造に制約されると考えるのであれば、結婚相手を見つける際に、彼らのネットワークがどのような効果を持っているかを検討することは重要だ。話を始めに戻すと、同じ社会的な属性を持つもの同士が結婚しやすいという議論には多くの蓄積がある。そして、このホモガミーの理論は、ネットワーク分析におけるホモフィリーの一つとして考えられる。そうだとすれば、ネットワーク分析でホモフィリーについて提出された知見が応用できるはずだ。
このように、結婚はマクロな社会の開放性の議論としても、個人と社会的な選択メカニズムの議論としても、ネットワークとの関連からも分析できる、非常に魅力的なテーマでもある。ここでは述べなかったが、結婚が出生と結びつく時に、これは人口学的なフレームワークでも解釈できる。ホモガミーの議論と同時に、女性が自分より地位の高い男性と結婚するという上昇婚はアジアを中心によく見られる現象で、実はこのメカニズムはよく分かっていないと思われる。このように考えると、結婚を社会学的に考えるのは、それなりの意義があるだろう。配偶者選択に関する社会学の議論枠組みは社会階層論とダブることが多いが、結婚に特徴的なのは、配偶者を選択する時にネットワーク的な特性が作用するという点にあると思われる。
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