浦和レッズの件の横断幕のことを考えてたら、似たような事例で議論を呼ぶケースを思い出した。大相撲だ。大相撲では、土俵に女性が入ることは許されていない。扇元大臣が賜杯を授与しようとした時に、女性が入れないということがニュースになったと思う。なぜ、横断幕が問題になって、大相撲のケースはならないかと考えると、まず伝統という理由を挙げる人が多いかもしれない。少なくない人や、特に社会学者とかは、伝統という理由を持って何かを排斥することに反対するような気がするけど、僕は、場合によってはそういう文化的な理由を持って人を区別することはナシではないと思う。それに該当する理由はいくつかある。
一つは合理性。何が合理的かというときには、複数の解釈が可能だと思う(なので、何が合理的かも部分的には社会的に決まっていると思う)けれど、例えば、未成年に喫煙や飲酒を禁止するのは、どこに境界を設ければいいかは置いておくとしても、発育上の理由から合理的とみなされると思う。大相撲のケースは、僕には合理的には思えないけど、相撲協会やファンの人からすると合理的に見えるかもしれない。実は、合理的といった時には、上記の伝統や文化といった理由や下記の理由を複数用いながら判断している場合が多いのではないかと思う。僕であれば、性別という帰属的なものを用いて人を区別することは合理的だとは考えないけど、賛成する人は上記の伝統といった側面からそう考えるのだろうと思う。まあ、合理的と言っても、多くは社会的に共有された解釈を応用したもので、AだからBといったときの関係はspriousな場合が多いと思う。
もう一つは区別がascriptive(帰属的)なものではないこと。生まれながら備えた性質(性別、人種、出身国)を持って人を区別することは基本的には許されない。一方で、人生の間に獲得した資格や職業を持って人を区別することは、許される場合が多い。多くが部分的に上記の合理的な理由を持っている気がする(医者じゃないと診察できないのは、道徳だったり、文化だったりではなく、患者の安全や同業者の利益の保護といった側面から合理的と判断されるだろう)。ただ、飲酒や喫煙の事例のように、境界線を引く時には集団的に共有された合理性とは別の次元で、明文化されたルールや法的に決まっていることも必要だろう。とはいっても、たとえ非合理的な理由でも、慣習上そうなっている場合もある。大相撲の場合は、性別という帰属的なものから区別をしているので、この条件は満たしていない。もちろん、なぜ性別やエスニシティで人を差別してはいけないかと聞かれて、例え歴史的な理由を用いるにしても、説明としてはそれらで差別をしてはいけないというトートロジーになるのは避けられない。と考えていくと、実は一番基本的なように思える人々の帰属性から区別をすることは、トートロジーでも問答無用で妥当なものとして受入れるという共通の理解が成り立っていない場合、議論は噛み合ないのではないかと思う。浦和の件も、横断幕を揚げたのは「そういうつもりじゃなかった」という釈明をする人は、「そういうつもり」がいけないことだと分かっていながらそう弁明できるのだ。それは、そうしたメッセージが問答無用で駄目だという考えが共有されていない(と言い訳できる)からだろう。
伝統、合理性、帰属性以外に、僕が大切だと思う理由は、そうした区別がなされている場所がパブリックな場所なのか、プライベートな場所なのかというものだ。例えば、アダルトビデオ店に入店できるのが18歳以上(たぶん)なのは、もちろん青少年云々もあるだろうけど(もちのもちで、青少年の健康的な発達のためにそういう店が必要というのも、ロジックとしてはありだろう、賛同はされないだろうけど)、基本的には、そういう店はプライベートな空間なので、その区別は空間を所有する人が決めていい(アダルトビデオ店は法や条例でそう決まっているから、たとえとしてはよくないか)。料理店で、ある程度修行を積んだ人しかお客に振る舞える料理をすることができないのも、合理的な理由以外に、料理店が店主やオーナーによって管理されているプライベートな空間だからと考えることもできる。パブリックと思われる空間、例えば公園だったり大学だったり広場だったり、そういう空間では、基本的に人々を区別して、一部の人を排除するようなことはあってはいけないと思われる。「公衆」トイレはどうかというと、同じ昨日が区分された人同士に配分されているので、問題にはならないと思う。もちろん、パブリックとは何かという議論も、色々な意見があると思うので一つのまとめるのは難しそうだけど、一つにはパブリックな場では、様々なバックグラウンドな人がそれを理由に区別されることなく場に参入できているという条件があるだろう。もちろん、大相撲を生で見るには小額ではないお金を払わなきゃいけないので、それはクローズドな空間かもしれないけれど、僕たちは(安くはない受信料を払えば)、大相撲を生中継で見られるし、結果はニュースとして日本のメディアで報じられるし、多くの人が知る可能性が大いにある。そういう意味では、十分パブリックな場所だと思う。
僕は、伝統や合理性、帰属性よりも、その空間がパブリックかプライベートかの区分が、こうした差別の問題を考える時には先行するのではないかと思う。プライベートな空間で人を区別することがアリかナシかは議論があると思うけど、基本的に、パブリックな空間では、人を区別してはいけない(何故かといわれると、パブリックな空間なので、というトートロジーに陥ることに、今、気がついた)はずだ。そして、大相撲は十分パブリックな空間だし、それはJリーグの試合と比較しても遜色ないはずなので、やはり女性を土俵に上がらせないというのは、やめた方がいいと思う。もちろん、伝統も大切だとは思うけど、パブリックな場で人を排斥しているというのは、合理性や伝統に回収されないシンボリックな意味があるはずだ。
トートロジーのように思えるけれど、パブリックな場には象徴的な意味が付されると考えると、うまくいくかもしれない。公的な場で人を排除することは、それをすることが政党なものだという、伝統という文脈からはなれて、女性を排斥するという意味に結びつくから、と考えるのは、どうだろうか、自分でも、半分納得くらいだけど。
最後に、横断幕と大相撲では、排除の際の記号的な意味の有無が違いになるだろう。横断幕は、歴史的に蓄積されてきた差別のメッセージが記号的に共有されている。大相撲の場合には、他の文脈と結びつくような、記号的な部分がないので、議論にならないのかもしれない。とはいえ、僕は公的な空間でそうした区別をするのは、よくないだろうと思う。
No comments:
Post a Comment