社会学では、ある社会(日本とする)を理解するために理論を使うアプローチと、理論を前に進めるために日本を使うというアプローチがある。
この二つのアプローチを、論文を書く時、自分は分けて考える。基本的に英文査読誌に書くときは、後者のアプローチをとる。端的に言ってしまえば、アメリカの社会学のオーディエンスの95%は日本に興味がないと思った方がよい。そういう人にも、自分の研究が面白い・意義があると思ってもらえ、ひいてはそういう人たちがコントロールしている雑誌に掲載されるためには、論文が社会学一般に、あるいはフィールド誌であれば、特定の連字符社会学に対して、どのような理論的意義を持つかを議論する必要がある。
これに対して、前者のアプローチは、いわゆる日本社会論と呼ばれるものに近い。それをアメリカやヨーロッパの研究者をベースにした英文査読誌に書くのは、容易ではない。ゲームが必ずしもフェアではないのは、アメリカにいる社会学者でアメリカを研究対象としている人は、アメリカ社会を念頭に置いた問いを立て、それをアメリカ社会のデータで検証し、結果を議論するだけでも、十分トップジャーナルに掲載することができる。要するに、アメリカの社会学者は、アメリカ社会論で論文を書いても、社会学一般で評価される。これに対して、非アメリカの事例は、理論的意義へのバーが高いと思った方が良い。そのため、後者のアプローチを取らざるを得ない。
言い換えれば、前者のアプローチを動機とした研究ができるためには、アカデミア内で当該社会に対する関心が広く共有されている必要がある。その点、日本社会論はマーケットがそれなりに成立している稀有な事例かもしれない。というのも、日本の社会学は、日本語で雑誌、書籍を書くだけでもちゃんと業績として評価される。それは、英文ジャーナルランキングに基づいてテニュアが審査されるような、中国や韓国のアカデミアを見ていると、幸せなことなのではないかと、思う。
これは、一般的には日本のガラパゴス化の一種であると言っていいと思う。日本の社会学は、日本語という言語による縛りがあることに加えて、日本の大学院で研究者を再生産できており、業績評価のシステムも日本独自である。そのため、日本社会論的なアプローチだけで研究をしていても、特にペナルティはない。
二つの考えに優劣はないし、理想としては両方のアプローチを統合できるに越したことはない。ただし、アメリカのアカデミアは、トップジャーナルになればなるほど、素材をどうパッケージング(フレーミング)するかが重要になる。定義はどうであれ、国際的に活躍したいと考えるような人が増えている若手の研究者層では、徐々に後者のアプローチを取る人が増えるような気がしている。
そういう意味で、前者中心の考えが支配的なシニアと世代差を感じた1日だった。
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