今日から、4泊5日の日程で神戸・福岡旅行。12時発の東海道新幹線に乗り、まずは新大阪へ。研究会で一緒の先輩と初めて会う。スタバで3時間ほど雑談。6時からアニメージュ展のはずだったが、チケットを忘れたので、仕方なく?2度目のドライブマイカーをテアトル梅田で見る。
前回よりも集中して見ることができた。気がする。ストーリーを半分頭に入れていたので、一つ一つのセリフに集中できたこともあるかもしれない。この映画は、物語によせた伏線があけすけに回収されるわけではなく、ボディーブローのようにじわじわくる。ワーニャ伯父さんのこのセリフは、主人公のこの心情と関係している、この表現は誰を指している、既に成立している物語と映画で語られる物語が劇中劇を通じて交錯する、一見すると難解なプロット、2度見ることで消化不良感は多少なくなった気がする。
自粛期間中(というか今でも)、なぜ人は対面で会わなくてはいけないのか、理由なく話すことになんの意味があるのか、多くの人が考えさせられた(そして、考えるたび、これといった答えが出ず窮する)。本作がこの問題に答えを提示してくれるわけではないが、観衆は会話を通じて意図せず(あるいは一方は意図していたのかもしれないが)2人の人生が交錯し、それが新しい概念に昇華することで、一方ないし双方のこれからの人生が変化する様を見せられる(そして、それは頻繁に車中で行われる、車が映画の主要舞台になっている)。すでにあるメディア(今回はワーニャ伯父さん)はコミュニケーションによって生じた人間のダイナミズムを助けるための触媒であり、触媒として意味を持つためには、人間の意図が必要であり、そしてまた意図を持った行為が必要になる。濱口監督の今回の作品は、言葉の力(それはつまり脚本の力でもある)を見せつけるものであり、具体的には人は言葉のやりとりを通じて新しい自分を獲得し、無から有へ、絶望から希望へと人生のステージを一歩ずつ進んでいく。その過程には、再び辛く、我慢しなくてはいけないことがあるかもしれない、しかし生きている以上、人間はその営みを止めることはできないのだ、監督の脚本はそう語りかけてくるようだった。対面で会う必要がある理由への回答にするとすれば、人は言葉のやりとりを通じて、予期せぬ自分を見つけ、自分の新たな可能性に気づくからと言えるかもしれない。
映画を見終わった後、三宮に移動。ここで2泊する。
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