January 14, 2020

「ハード・アカデミズムの時代」再読

再読して気づいたのだが、高山先生が「ハード・アカデミズムの時代」で予想した未来の日本は2020年だった。あの本では、新聞には高校ごとの東大合格者数が載らなくなり、日本の国立大学は半分になり、欧米の大学の予備校になる、と予想した訳だが、現実はそこまで変化していない、しかし確実に変化している。


これらは「最悪のシナリオ」に基づいた予測らしいので、外れるのは織り込み済み、といったところかもしれない。しかし、変化の程度は違っても方向性は予測した通りで、これを20年以上前に書いたのは驚く。予測のズレは、グローバル化の中で変化するとされた制度が、コアな部分では残ってるからだろうか。例えば雇用関係一つとっても、確かに非正規雇用は増えたが、正規雇用は減ってない。日本的雇用のコアな部分は縮小しつつ維持されているというのが、ひとまずの共通理解だろう。制度は意外としぶといのだ。

さて、この本では、これまで蓄積されてきた先行研究に基づき、創造力のある一部の研究者によってなされる研究志向の学術活動を「ハード・アカデミズム」と名付ける一方、教育や啓蒙活動といった新しい知の産出に直接携わらない活動を「ソフト・アカデミズム」と名付け、今後の日本の大学は研究重視のハード・アカデミズム型大学と、教育重視のソフト・アカデミズム型大学に分かれていくと予想している。ハード・アカデミズム型大学では、創造力のある研究を奨励するために、徹底的な業績主義が取り入れられるようになり、優秀な研究者をめぐって海外の大学と競争を繰り広げる必要が出てくると予測する。

確かに、高山先生が予想したように、1990年代に比べると、2010年代の大学はより競争原理を取り入れるようになったと言えるだろう。しかし、運営費交付金が毎年1%削減されるようになって、国立大学の多くは疲弊しているのが多くの研究者の印象ではないだろうか。10年前に就職した人はともかく、今の院生は10年後の日本アカデミアが研究志向の研究者にとってよくなることはない数多くの証拠を持っているはずだ。

しかし、私の所属する社会学分野では、まだ日本で博士号を取ろうと考えている人が多い印象があり、これは直感的には理解しにくい部分がある。もちろん、人は様々な理由で移動したり、移動しなかったりするので、残る人もいれば、海外に出る人も出てくるだろう。しかし、全体としてみれば、留学する人が増えてもいいはずなのに、と思うことがある(これから博士号を取ろうとしている世代は移行期間という感じで、今ほど日本のアカデミアの将来については不透明だったので仕方ない部分はある)。

私も、5年くらい前になるだろうか、アメリカへの大学院留学を考えてたときに、指導教員ではない先生から、日本で修士号を取ってないと日本で就職できないと冷やかされたことを、よく覚えている(これはもちろん、親切な助言である)。しかし、今では日本で就職するためだけに日本の修士の2年間を経るほど、日本の就職市場は魅力的ではないように見える。もちろん、日本で修士をやったことで現在の研究関心ができたので、その意味では日本での修士時代は非常に有意義だった。

実際のところ、いま修士課程ぐらいにいるみなさんは、もう気づいているのではないだろうか、日本の未来のアカデミアが、少なくともこれからよくなることはないだろう、ということを。

もし予言の自己成就の理論が当てはまるとすれば、そろそろ始まるフェーズかもしれません。この場合、予言の自己成就は以下のようなプロセスを辿ります。

  1. まず、上記のように、日本のアカデミアが悪くなると、予想込みで思い込む。これは予想であって構わないです。というか個人の不確かな予想がこの理論の核です。
  2. 次に、個人がその信念に基づき行動します。具体的には、アメリカや他の英語圏で博士号を取るとしましょう。
  3. そうすると、日本よりも海外に就職することが現実的かつ魅力的になり、実際に海外の研究機関で就職するようになります。
  4. こういう人々が一定数に達すると、日本に競争力のある研究者がいなくなり、日本のアカデミアが本当に廃れるという帰結が生じる。

ちなみに、このロジックには「日本の学位では海外に就職できない」という大前提がありますが、これは日本の博士号が他の国の博士号に比べて水準が低い研究でも取れる、ことを意味しません。日本の社会学における博士論文の水準は、むしろ他の国の大学が求める水準よりも高いといっていいでしょうが、日本の社会学では英語で論文を書くことへのインセンティブが非常に小さいので英語で論文を書かない傾向が強い上に、あくまでこれら日本で書かれた論文は日本語圏(=日本)の社会学でしか評価されないのです。したがって、日本語で論文を書いている限り、海外で就職するチャンスはほぼありません。

もちろん、こうした予言の自己成就がなくとも、問答無用で日本のアカデミアが廃れていくかもしれません。むしろ、現在の状況を見てても、日本から「流出」する人がいてもいなくても、日本の研究環境が良くなる見通しはないというのが、正直なところではないでしょうか。少なくとも、将来の日本では、今よりは研究重視のポジションは減り、教育重視のポジションが多数になる気がします(正確には、契約上は研究もできるが、時間や資源の制約から、事実上それが無理なポジションが増える)。

ただ一部で研究できるポジションは残るはずです。ある程度業績があれば就職はできると思うので、日本に残るのは間違っているわけではないかもしれません。しかし、研究したい場合は違う可能性も追える選択肢を取っておくべきな気がします。この論理で行くと、本当に海外で就職した方がいいのは、予想込みで日本の研究トラックに就職できるか微妙なカットオフラインの人たち(含む私)な気がしますが、そのあたりの人がどう考えているのかは、予想が難しいです。

多分これが起きれば変わるんじゃないかというのは、人事評価で英語査読付き(+一定の水準を持った雑誌に限る)をメインにすることです。これが実現すれば、ドラスティックに変わります、多分。仮にそうなると、私はこれまで10本の査読付き、ないし招待論文を書いてきましたが、一気に業績が2本に減ることになります。やばいですね。韓国はそういった評価らしいですが。経済学では、すでに英語論文を重視した評価だと思いますが、社会学にはどうでしょうかねえ。翻訳できない何かに対して価値を見出す人は反対すると思います(し、私も、社会学の性格上、その価値は認めますが)。

心理学は文学部の中にあっても完全にノルムが違うし、結構(ポスドクなどで)留学行くみたいなので、経済学モデルよりも心理学モデルの方が、社会学の目指す人材育成かもしれません。ただ心理学が日本で研究してる人でもトップジャーナル載せてる人はそれなりにいるのは、多分研究している内容にあまり国境がないんでしょうけど、社会学というのは、アメリカなら基本アメリカの社会が前提で、日本事例はアメリカ社会を前提とした理論にcontributeしなくては評価されないのに加えて、日本では「日本社会の社会学」が重視されていて、二重の意味で国境をまたぐことが難しいんでしょう。これは、私が日々格闘している分断です。

だいぶ話がそれましたが、「ハード・アカデミズムの時代」の前半部分の先生の留学経験、実際に海外の大学院に入ってみてハッと気づくこともあり、これから(トップ校の博士課程プログラムに)留学しようと考えている人たちには半分脅迫めいた、しかし半分非常に正確な経験を教えてくれる気がします。

例えば、本を読む限り、イェールの歴史学部は同じコーホート間でも結構競争意識が強かった気がしますが、社会学(特にウィスコンシン)では、もう少し学生間の連帯は強い気がします。博士課程の時として冷酷な競争主義は、創造性のある研究を生み出す一つの対価なのかもしれませんが、博士課程がストレスフルなのは周知の事実です(私もストレスがすごいからか、白髪が目に見えて増えましたし、最近はぬいぐるみをよく集めてます)。博士課程の院生のメンタルヘルスは簡単に悪化するので、最近のアメリカの大学ではこうしたことを防ぐための、公式・非公式の様々なメカニズムが導入されている気がします。

PhD life is so stressful that I’ve got this...

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