しばらく、もうずっと論文を書いてました。ここ数日は落ち着いてきて、久々にストレスが少ない日々です。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、日本よりもプリンストンにいるときのほうが研究には集中できます。もちろん、研究するためのインフラがすでにセットされているという側面はありますが、プリンストンにいると、本当に研究しかすることがないので、余計なことに時間が取られて研究ができない、みたいな歯がゆい思いをすることがほとんどありません。自宅からオフィスまで自転車で10分で、本当にスーッといけちゃいます。人がいないんですよね。ノーストレス。
ストレスなく研究に集中できていると言えば、ウィスコンシンにいた時は、冬がとてつもなく寒かったので、冬になると帰宅の時間を早めたり、買い物の回数を減らして一度にまとめて買うようにしたり、色々と生活に自由が効かなくなります。それはそれで冬の醍醐味と見る向きもあるかもしれませんが、プリンストンというか、東海岸の冬は中西部に比べると大したことはなく、今でも自転車で通学できていますし、防寒具をつければ朝にジョギングもできます。季節によって生活スタイルを変える必要がないというのは、個人的にはありがたいです。
今日はプールに入ろうかと思い、日曜ですがオフィスに行きました(ジムと自宅の間にオフィスがあるので)。午後2時から4時間くらい作業して、ジムに向かったのですが、intersession(学期の間)で午後4時には閉まっており、徒労に終わりました。確かに、キャンパスを歩ってても学部生らしき人の姿はチラホラしかみないので、開ける必要もないのかもしれません。明日からの平日は、intersessionといっても午後8時まで開いているみたいなので、再チャレンジしようと思います。
なんの作業をしていたのかというと、ちょっと授業の課題で書いているペーパーで使うデータの使用にIRBが必要だったので、申請書を書いていました。なにぶん(実は)初めての仕事だったので、何を書けばいいか当惑するところもあり、何かテンプレみたいなものがないかと思い、社会学部のイントラネットのページをちまちまみていたのですが、そこに2008年くらいまでの入試のデータもあり、興味本位で資料をのぞいてみました(口外するなとは書いてないので、ここにさらっと書くくらいはいいでしょう)。その頃までの合格率は9%くらいでした。今はもっと競争が激しくなってるのではないかと思ったのですが、学部のホームページには、6%と書いてあるので、確かに難化しているみたいですね。もっとも、競争率の激化はアメリカの博士課程、少なくとも社会学に関してはどこでもそうだと思います。昔よりも、社会学に応募する人が増えたんですね。それにしても、倍率約20倍というのは、運ゲーに近いものを感じます。
ちなみに、時たま日本からアメリカの大学院にいつか留学しようと、というかできればしたいと、思っている人の話を、噂やツイッターで目にしたりするのですが、そこで第一に言及されるのは、やはりというか、英語です。確かに、日本の人がアメリカの博士課程に出願するときに、英語の成績はネックになっているとは思うのですが、そういう言説には「英語ができれば私は受かる資格があるんだ」というニュアンスを感じます(穿ってますかね?)。
間違っていないとは思うのですが、特に社会学に関しては、最近、日本とアメリカにおけるフレーミングというか、依拠する先行研究に大きな違いがあるという点が、意外とおざなりにされているのではないかと感じます。日本の社会学では日本の社会が前提で、アメリカではアメリカの社会が前提になっている、というのは、すでに気付いているというか、私が日々格闘しているところではあるのですが、今回の気づきはもう少しメタなレベルです。
一言で言うと、日本の社会学には、知的な蓄積が大きいところがあるのかもしれません。最初はヨーロッパやアメリカからの理論の輸入をしてましたし、今でも輸入がメインで輸出をしていないと批判を食らうことはあるわけですが、それでも日本の社会学は独自の発展をしている傾向が、他の国の社会学よりも、強いのではないかという気がします。独自の知的蓄積があることは、それ自体としては大切にすべきものだと思うのですが、日本の大学院で受けるトレーニングは、単に日本社会を前提とした社会学ではなく、日本の社会学の知的伝統に根ざしたトレーニングになるので、もしかすると、すんなりアメリカの社会学のフレームワークを受容するのが難しいのではないだろうか?と感じることが増えました。
「いや、私だって英語の文献読んで引用してますよ」、と言う人の声が聞こえてきそうですが、私が言っているのは、何を引用しているかというカバレッジの違いに加えて、どう引用しているかの蓄積が違うというもので、同じ欧米の文献でも、日本とアメリカの社会学ではどのような研究のトレンドが潮流としてあり、その中でどう文献が読まれているかという、暗黙知みたいなものが違う、というものです。
例えば、アメリカの博士課程を終えた人が、研究者を養成するような学部に就職して、そこで自分が受けたトレーニングをそのまま再現すれば、移植はできるのかもしれませんが、そういった機会が皆無とは言わないまでも、日本ではかなり少ないのではないか、それは良くも悪くも、日本でトレーニングを受けた人による教育がドミナントだからなのではないか、という気がします。たかだか教育の違いじゃないかと思われるかもしれませんが、アメリカの博士課程のステートメントを書くときに、やはりコンテクスト的には、アメリカの文献を基にしたものの中で評価されるので、仮にアメリカの大学院への留学を考えている人にとっては、日本で受けたトレーニングがダイレクトに結びつかないという懸念があります。
そういう意味で、日本から出願する人は、英語の不利に加えて、アメリカ的なフレームで教育を受けていない不利の二つがあるかもしれません。これら二重の不利に加えて、最近は中国への関心も高まっていて、東アジアの中での日本への関心は昔に比べると落ちていると考えられるので、三重苦かもしれません。日本の大学院は、日本で学位をとる人を育てるのが主目的でしょうから、別に海外の大学院の予備校になる必要はない訳ですが、一定数海外での学位を取って戻ってくる人を受け入れるのも大切だと思うので、例えばアメリカの大学でテニュアを取っている先生に夏の間に集中講義をしてもらって、アメリカスタイルの大学院セミナーで鍛えてもらう、というのは一つの手かもしれません(すでに、私のアドバイザーはやっている訳ですが)。
単に、英語ができるできないであれば、話は簡単なのかもしれません。しかし、博士課程への競争率が激しくなる状況では、アメリカの社会学のコンテキストを踏まえたステートメントを書けることは、ますます重要になってくるかもしれません。私も、個人的にはアメリカの社会学でもっと日本を研究してくれる人が増えて欲しいと思っているのですが、現実的に越えるべきハードルは多いなと感じています。
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