今学期から弊研究室の開講する社会学概論のTAをしていまして、といっても概論自体ではなく別の日にTAセミナーという(これまた教員が自分の研究を紹介する概論と全く異なり)社会学の古典を読む(読まされる?)ゼミ形式の授業を担当しているのですが、これが意外と楽しいのです。
内定生向けの授業で、50人ちょっとの内定生+αが4つの班に分かれ、各班にTAがついて一緒に文献を読むのですが、目的は主として(1)社会学の古典(デュルケム、ウェーバー)に触れる(2)ゼミ形式の授業に慣れる、に加えて(3)博士課程の学生に教える機会を提供する、の三つなのかなと思います。受講生にとっては、なぜ博士課程の学生と一緒に分厚い古典を読まされなきゃいけないのか、という意に介せない部分もあろう授業なのですが、みなさん真面目で出席してくれます。
僕自身、学部生の時にTAセミナーを経験しているので、実際に教える側になってみると変な気分だったことはいうまでもありません。不思議と面白いのは、役割を与えられると、人間それっぽく話そうとするところです。受講生は先生だと思って自分を見てくるので、教室入った途端「先生-生徒」図式の状況に投げ込まれてしまい、最初は挙動不審になります。それでも、社会学はウェーバーとデュルケムを祖先とする人の集まりくらいにしか定義できないので、、、とか冗談にもならないことを言いながら文献の担当者を決めて、レジュメはおおよそこんな感じでまとめて、報告15分議論15分目安でいきましょう、などと進めて、最後に「ではまた来週」という頃には本人も先生気取りになっているから怖いものです。
最初は新しい古典から読もうということで、巨人二人の前にマートンの「社会理論と社会構造」から2-3章選んで読んだのですが、マートンそんなこと言ってたなあと思い出しながら、学生さんたちも面白いことを指摘してくれます。予言の自己成就は銀行取り付け騒ぎの例で知られますが、マートンは予言の自己成就の章の後半で、アメリカの人種差別の話をこの理論で説明しようとしています。ただ、取り付け騒ぎが発生するという「イベント」と、差別が持続的に維持される「状態」を同じ理論で説明するにはやはり無理があるわけで、学生たちからも後半の箇所については色々と批判がありました。特に内集団/外集団の境界や何が「よろしき」行為なのかを「誰が」決めるのかについてマートンは特に何も言っておらず、社会の外側に立ちながらエレガントな説明をしていることに気づかされます。マートンは様々な社会現象をシンプルな理論で説明しようとする志向性がとびきり強いと思いますが、それが彼の魅力であると同時に、社会の外側に立って物事観察してるのって本当に社会学者なの?という疑問符がつくわけです。
もう一つ、ゼミで読んだのは「社会学理論の経験的調査に対する意義」という章で、事後解釈の問題点や、一般的な社会学的方針など、個人的には現在の経験的な論文においてもマートンの説教はありがたいなというところがツボだったのですが、先の章にも見られるマートンの「中範囲の理論」的な立場が、学生には科学主義的な立場と思われたらしく、社会学にもそういう考えで研究する人って多いんですかという質問が来て、少し立ち止まりました。書店にいくとO澤真幸やハーバーマスの本が並んでいるのですが、彼らのような人たちがグランド・セオリーなのですか?と聞かれ、んー、と考え込んでしまう笑
書店に並んでいるかどうかはともかく、学生さんにとっての「面白い」社会学は見田宗介のまなざしの地獄であったり、いわゆる「常識を疑う」系の本だったりらしく、それはそれとして良いとは思うのですが、そういうイメージを社会学に持たれると、確かにマートンは少し意外に映るのかなと思いました。分析社会学の話も最後にちらっとしたのですが、ほぼ無反応...
とはいえ、何が面白かったかというと、普段の私が当たり前だと思っているマートン観の影で棚上げにされている部分を学生さんたちがきちんと批判的に読んでっきてくれて、それを聞かされて、ゼミでこういう議論するのずいぶん久しぶりだなという感慨を持った点でした。批判的に読む、と言うことは簡単ですが、大学院のゼミにもなると比較的理論的,方法的に近い人同士で固まるので、そういうのをカッコに入れた上で本を読んで議論してみよう、という状況にはもしかするとなりにくいのかなと思いました。
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