Williams, M. (2000) ‘Interpretivism and Generalisation’ Sociology, 34: 209-224.
Interpretivismを「アクターの主観的参照枠組みに従って、彼らの意味と行動についての解釈をする社会学の戦略」と定義した筆者はこの戦略と一般化の関係について検討する。筆者はまず、一般化を志向しないフィールドワーカーの例としてギアツを挙げる。ギアツは厚い記述を通じて、当該社会の儀礼の象徴的意味を明らかにしようとしているが、具体的な事例からより広い社会的文脈における特徴を導きだしている点では、実際のところギアツも一般化を志向していると主張する。
次に筆者は厳格な解釈主義者であるGuba and LincolnやTaylorが主張する一般化は統計的なそれに近いとする。この点から彼らは解釈と一般化が相容れないものと考えている。しかし、彼らのいう一般化は、他にも通じる同じ特徴をあぶり出すというギアツのそれとはその意味が異なるのだ。これが筆者の主張するmoderatum genelizationである。
最後に、筆者はinterpretative researchにおける一般化の限界と可能性について言及する。あらゆる調査には明らかにする問いの対象範囲を決めるサンプリングが必要である。そして、サンプリングが一般化に深く関わることは言うまでもない。問題は、サンプリングは一般化のロジックの違いによって異なるにもかかわらず、解釈を通じた一般化を主張する研究がそれに気づいていないことだという。筆者はAnalytic Inductionと統計的一般化のロジックの違いをサンプリング方法の違いとともに説明する。前者の例として出てくるZnaniechi (1934)のAnalytic Inductionは別のところで述べたFinch and Mason (1993)のそれとはやや異なる。Finch and Mason (1993)では最初に量的調査をすることで仮説的な質問に一定の経験的妥当性を与えてから、量的調査のサンプルにインタビューをするという方式をとっているが、Analytic Inductionはもう少し素朴なものらしい。筆者によれば、Znaniechi (1934)ではある仮説を限られたサンプルで確かめ、仮説と一致しない回答をサンプルから見つけるまでこの作業を続けるという。つまり帰納的に仮説を立証しようとする方法だが、これはある現象が生じる必要条件について明らかにしても、現象が起こらない場合については何も言えない。つまり十分条件を見つけることができないという。これが統計的調査と大きく異なる点だ。
さらに一般化を考える際に、サンプリングにはカテゴリについての問題がつきまとうという。これに関して、筆者は(a)カテゴリの存在論的位置と (b)互いに同義ではないカテゴリの二つから論じている。(a)は要するにカテゴリの種類によって一般化の可能性が制約されるというもので、例えば何かしら物理的なものへの解釈を通じた一般化は、それが共有されていれば一般化へのハードルは低くなるが、文化的(シンボリックなものなどだろうか)な特徴を通じた一般化はこれに比べて調査対象以外に範囲を広げることが難しいというものだ。(b)はアクターの解釈は一つに限られない以上、ある主張の妥当性を比較考量することが蒸す香椎というものだ。
このような事情を反映して、interpretistは経験的な一般化よりも理論的な一般化を志向するという。これに関して、筆者はHammersley(1992)が挙げる三つの理論的推論を紹介する。Hammersleyはこれらいずれもinterpretismには不適切だと考えているようだが、筆者はその中で一つの事例が(ウェーバー的な意味の)理念型的なモデルの例証となるような場合、そこから導きだされた理論は普遍的な主張になることを指摘する。
このように、interpretismにおいては結果の解釈が重要視されるために、対象事例以外に主張を拡大することへの限界もあるが、ある集団や社会の特徴を理論的にモデル化する際には有効な手法だということが述べられている。これがModeratum generalizationである。
Payne, G and M. Williams. 2005. “Generalization in Qualitative Research.” Sociology 39(2):295–314.
本論文では、先の論文の主張に依拠して、より質的調査の実践という視点、特にいかにしてmoderatum generalizationを意識的に生み出すかに重きを置いて議論している。
筆者によれば、社会学における一般化の方法は概して統計的一般化とmoderatum generalizationの二つがあるという(これはやや強引なように思われるが)。そして、後者においては最近になるまで調査の質qualityを高める、つまり調査における主張の妥当性(=内的妥当性)を高めることで、読み手に信頼されること(外的信頼性)が重視されてきたという。しかし、筆者によれば、ここで目指されているものは追随する調査でも同じような結果が出ることであり、それは一般化の第一歩であっても、Williams(2000)が主張したような理論的一般化にはほど遠いという。
次に、筆者はSociology第37巻(volume 37)に掲載された38本の論文を検討することを通じて、近年の質的調査の潮流を把握しようとする。うち14本は経験的なデータを欠いたもので、それらを除外した24本のうち7本は量的調査のデータだったため、質的調査をしている17本の論文を検討材料にしている。それらの特徴を箇条書きにすると以下のようになる。
・厳密な意味での解釈的な手法を採用している論文はない。
・ほぼすべてが複数の質的手法を使用しており、データの数は34、手法は11に上る。
・調査対象の範囲を超えた一般化が可能な理由について議論している論文は皆無だが、全てが何らかの一般化をしており、多くがmoderateなものになっている。
その後、これら調査の中でエビデンスがどのように用いられているか、主張の構造はどうなっているのか、どのようにして調査の知見をmoderateにしているかが述べられる(省略)。
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