December 7, 2013

ノルウェーの養子とアメリカのゲイを事例に見るKinshipの変化と実践

Howell. S. (2004). ‘The Backpackers that Come to Stay: New Challenges to Norwegian Transnational Adoptive Families', in F. Bowie (ed.). Cross-Cultural Approaches to Adoption, London: Routledge.

 この論文でHowellはノルウェーにおける養子を迎える親を事例に、人類学における生物学的なKinshipとSchneiderによってそこから抜き出されたRelatednessの概念について検討している。

 Howellによれば、ノルウェーでは必要な際の中絶が合法化されており、シングルマザーに対する経済的な援助も多い。その代わりに、子どもを持たない親子はスティグマの対象になるという。中絶の合法化はノルウェー人の子を養子に迎えることを困難にさせ、その結果として、多くの子を持たない親が海外に養子を求めるようになったという。

 この論文では、以下の二点が主張されている。第一に、生物学的なKinshipは養子を家族として迎え入れる(KinningとHowellは名付ける)場合においても参照されるモデルになっている。第二に、養子を迎えた親は彼らとの関係を見せかけのものとは考えていない。

 これまで、養子はタブラ・ラサ、つまり養父母に迎えられるときには過去の経験を持たない真っ新な存在として考えられてきたという。しかし近年になって養子が背負うbackpackが認識されているという。このような認識の変化に伴い、養子を迎えるノルウェー人の親は子どもの過去の経験に関心を持つようになっている。

 この認識の変化と密接に結びついているのがnature-nurture、つまり子どもの成長には自然(遺伝)的要因が強いのか、それとも環境要因が強いのかという議論だ。Howellによれば、これまでは生物学的要因と環境的要因は3:7ぐらいに考えられてきた。環境要因の強さは養父母が利用するノルウェー政府運営のエージェントや影響力のある心理学者を通じて、彼らにも知られるようになる。その結果、子どもがノルウェーに着いてからでも十分にアイデンティティを形成できると考えられてきた(それでも養子がノルウェーに来る前の環境要因な注目されなかったという)。しかし、近年の研究成果によって、その比率は逆であることが指摘されたという。その結果、現代の西洋社会では人格やアイデンティティ言説の生物学化が生じている。一部の養父母が適応できなかった養子の例が報告されたのも手伝って、次第に生物学的な要因にも関心が向けられるようになる。

 養父母が養子との関係性Relatednessを構築するKinningとは以下のような過程を指す。Howellは養父母がその他の多くの親子に比べて「普通の家族生活」の再現に熱心だということを指摘する。生物学的な親子の間で当たり前とされているようなことでさえも、養子を迎える親にとっては子どもとのRelatednessを構築する重要な機会になる。Howellはこの過程をKinningと名付けている。Kinningの具体例としては、親にとって養子の「誕生」の場面である空港での出迎えで、彼らは子どもと自分たちの似ている点を探そうとすることなどが指摘されている。

 Kinningの過程で、養子が環境に適応などの問題を抱えることは少なくない。これに対して、生物学化されたアイデンティティ言説と子どもがノルウェーに着く前の環境要因(backback)言説は振り子のように前景化したり、背景に下がったりするこという。例えば、環境要因が重要視された従来では、養子が環境に適応できないのは親に責任にあるとされ、彼らは罪深さを感じていた。しかし、これに対しては「思春期に養子は他の子どもよりアイデンティティ形成上の困難を抱えやすくなる」という生物学化されたアイデンティティ言説の一つが前景化する。これは親の不安を緩和するレトリックになっているが、backpackの存在が認知された近年にあって、親自身はいまだに子どもたちの困難を完全に遺伝的要因には帰さず、ノルウェーに到着する前の環境要因に関心を向けるようになるという。

 このように、子どものbackpackへの関心は、「問題を抱える」養子を持つかどうかに関わらず、養父母を子どものoriginを確かめるためのトリップへと向かわせている。しかし、困難を抱える子どもの養父母とそうでない子どもの養父母とでは、トリップに参加する理由が異なるという。後者の親の場合、トリップはジグソーパズルのピースを埋めるように、親にとっては空白な子どもの経験を彼らの生まれた国や文化、周りの人々を通じて埋め合わせるものだが、前者の親の場合、それは子どもが困難を抱えることになった理由を説明するためのものだという。



Weston, K. (1995). ‘Forever is a Long Time: Romancing the Real in Gay Kinship Ideologies'. In S. J. Yanagisako and C. Delaney (eds.). Naturalizing Power: Essays

 この論文においてWestonはGay Kinshipの実践を事例に、西洋的なKinshipを支持するイデオロギーはどのように生じ、人々は日常のインタラクションの中でこのイデオロギーをどのように実践したのかという点から、Kinshipという概念を再構築しようとする。

 Westonによれば、従来Kinshipとは継続する紐帯ties that enduredと考えられてきたという。そこには、広がりと存続diffuse and enduringが構成要素となっていた。前者は、様々な目的のための情況に対し、親類relativesは交わり合うことが期待されているというものであり、後者は紐帯がそう簡単には壊れず持続するというものだ。前者を簡単に言うと、親類はたとえ報酬がもらえなくとも、Kinshipがあるからという理由で様々な手助けをするということになる。
 
 ここでは、親類とは「あなたのためにいる人」とされるが、非家族的な紐帯を持つ人とそのような関係であっても不思議はない。友人や恋人が、利他的な手助けをしたり、彼らとの関係が壊れないと考えるのはごく自然だろう。

 Westonによれば、これまでの社会科学がKinshipとその他の紐帯を区別する際に用いてきたのは、後者が自発的に成り立つという基準だったという。しかし、この区別は後者の紐帯を自発的なものと定義したために壊れやすいもの、従ってあくまで人工的な見せかけのKinshipだという理解を生んでしまったという(1)。

 これに対して、Schneiderは以下のような批判をした。すなわち、これまでの理解はKinshipを生物学的な血縁に還元するものだった。このような理解が成立したのは、西洋においてKinshipを生物学的なつながりに帰することを可能にした文化的構造があったからであり、それは社会ごとに異なる。Schneiderは、西洋的なKinshipは社会的つながりを生物学的なつながりによって分類しようとしたものにすぎないと論じた。

 しかし、この議論は人類学のこれまでの前提を揺るがしかねない提起をしていた。Schneiderの定義に従えば、どれもKinshipになりうるのであり、それは人類学がこれまで対象としてきた領域をも崩壊させることになるのだ。

 Westonはこの主張に対して一定の評価をしつつも、Schneiderの議論の中にはなぜ西洋社会(ここでは米国)でこのようなイデオロギーが支持されたのかという歴史的な視点が欠けているとする。WenstonはKinshipを支持するイデオロギーはどのように生じ、人々は日常のインタラクションの中でこのイデオロギーをどのように実践したのかという点から、Kinshipを再構築しようとする。

 フィールドワークを試みたサンフランシスコのベイエリアのゲイの事例から、Westonはまず1980年代に登場したgay kinship ideologyについて述べる。そこでは、Kinshipの生物学的血縁への還元が批判されるかわりに、継続したつながりとしてのfrinendshipがkinshipの構成要素となったという。それは以下の事情による。

 ゲイたちは、kin(血縁)のある親類に自分がゲイであることをカミングアウトする過程を経る。これは親類から家族であることを否定される可能性を含む、精神的に負荷のかかるものだ。そのカミングアウトの場面で、彼らは「お前はまだ私の息子だ」「あなたはまだ私の母だ」というような言葉を使う。重要なのは、このフレーズ自体が生物学的なKinshipの限界を示唆しているという点だ。カミングアウトの過程は、血縁さえも変わりうるものであることをゲイに認識させた。このように生物学的なKinshipが強固なものだと考えられなくなると、Kinshipという言葉で表されたゲイ同士の恋人関係も同じく不安定なものになる。そこで、その代わりにfriendshipがenduringを意味する言葉としてkinshipの「中」に入ってきたという。

 ここにきて、gay familyという言葉にはゲイや異性愛者の友人、恋人や元恋人、さらには子どもまで含められるようになったという。これは、gay kinshipはモデルとなるものが無いため、結果的に従来のkinshipの概念に頼ってしまうことから生じた。つまり、彼らにとってもkinとnon-kinを分けるのはDiffuseとEnduringなのだ。

 しかし、これはゲイたちが従来のKinshipを概念をそのまま借りたことを意味する訳ではない。確かに、enduring solidaritiesを志向する点で、gay kinshipは従来の生物学的なkinshipと同じだ。だが、両者の間には大きな違いがある。Schneiderが指摘したような西洋的なKinship概念では、まず先に生物学的紐帯があり、そうである以上Kinshipは持続するものと考えられた。しかし、ゲイたちの論理は逆になっている。つまり、相互に助け合い、継続したつながりがKinshipなのだ。そして、friendshipとして継続した関係を築くことがKinshipを構成するのだ。

(1) これに関して、Westonは米国においてAuthenticityという概念がKinshipに関わらずジェンダーやエスニシティの社会的な議論の際には重要になってきたという。米国に限らず、日本においてもまず真なるものを措定して、現象に対してその基準に見合っているかという点から価値判断をすることは少なくないように思える。

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