人と人の間に違いを見つける.そして,比較する.「どうして違うのか」を考える時に必要なことは,どこが共通で,どこが違うのかをはっきりさせることだ(「どうして同じなのか」を考えるときには,「一見すると違うはずなのに〜」もしくは「本当は違うはずなのに」という条件が必要になってくるので問いの頻度は減る).これは,見せかけの差異が真の差異と類似性によって説明されると考えるのと同じだ.
社会的な差異(収入や地位)を比較するときには,これらが努力によるものなのか,それとも努力では説明できないものなのかが重要になってくる.さらに,努力で還元できないものは,環境と才能の二つに分けられる.基本的に,努力するかかしないかは各人の意志にゆだねられる.そのため,社会的な差異に他者が介入する際には,本人の努力に還元できない部分に注意が(時として同情的に)集まる.介入が可能なのは,努力で還元できない環境のみだ.
さらに,努力,環境,才能の三つには観察できるかどうかという区分も成り立つ.基本的に,観察しやすいものの方が過剰に評価されるはずであるから,これら三つの要因のうち,観察されにくいものは過小に評価される傾向にある(ちなみに,観察可能性は社会によって異なる.アメリカでIQが頻繁に議論に上がるのも,アメリカにおいてはIQは測りやすいものとされるからだと思う.つまりアメリカでは才能が人々の差異を説明する際に過剰に評価される一方,環境要因は過小に評価されていた).
したがって,社会的な差異が問題となるときは,本当に違うのかどうか,努力で還元できるのか,還元できないとすればそれは環境なのか才能なのか,さらにはそれらが観察できるのかどうかが重要になってくる.
双子研究は,類似性に着目したものである.双子研究が重要なのは,真の差異を見つけることはかなり難しいからだ.そのためには,類似性をできる限り高めた比較をすることが次善策として考えられる(統計で帰無仮説を棄却するのと似ている).人々の間の類似性は基本的に本人の努力では説明できないものなので,環境か才能かという議論がしやすいというメリットもある.
単純な比較になるが,日本に比べ,アメリカで双子研究が盛んなのは,本人の努力による成功が美徳とされる一方で,才能による成功も奨励されている裏返しなのかなと思う.「アメリカン・ドリーム」と言いつつ,本人の成功は努力で説明できない部分が大きいというのは衝撃なのだろう(経済格差が肯定されるのは,それが本人の努力で説明できるという信仰があったから)そして,努力で説明できないとなると,才能決定論になってしまう.
日本では学歴競争が激しいが,それは才能ではなく努力によって説明される.また,最近まで経済格差がない平等な国とされてきたので,努力か,環境か,それとも才能かという問題は注目されてこなかった.才能が注目されていないのは,昨今の格差論議が自己責任論か環境決定論かの間で揺れていることから示される.アメリカとは異なり,才能による差異も本人の努力に回収されやすいので,自己責任論は過剰になりやすいのかもしれない.
No comments:
Post a Comment