December 23, 2012

Never Ending Journey, Chidorigafuchi National Cemetery for War Dead


 日本にも無名戦士の墓がある,このことをご存知だろうか.
 「先の大戦」における戦没者の慰霊施設というと,九段下の靖国神社を思い浮かべるかもしれない.もしくは,8月15日の終戦記念日に武道館でおこなわれる全国戦没者追悼式のことを考える人もいるだろう.どちらも,第二次大戦における戦死者を慰霊するための文化としてはなじみのあるものだろう.
 こうした戦没者の追悼に関してよくなされる議論は,靖国神社をめぐる国内,国際的な反発だろう.詳細はここでは論じないが,日本の左派知識人からは宗教的な性格を帯びた靖国神社の代わりに,諸外国に見られるような国立の追悼施設を新たに作ることが主張される.
 実際のところ,国立の戦没者追悼施設は日本に存在する.ついぞ最近まで私は知らなかったのだが,それは単なる無知だったのか,あまりにも靖国神社が報道されるがあまり注目することができなかったのかは分からない.この施設の名前は「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑」という.施設を知ったきっかけは今学期に駒場で開講されている"The Politics of Memory",記憶の政治学という英語の授業だった.日本の戦争の記憶がどのように政治過程にのり,どのように表象され,一般の人にどのように認知されているか,AIKOM生を交えながら講義と議論で進められる授業では,後半に入って日本の戦争記憶施設について,学生がプレゼンをしている.

(ちなみに,しみず氏は集合的記憶の理論的精緻化に向けて黙々とこの授業に参加されております.)

 その中で,私は上記の千鳥ヶ淵を担当することになった.調べた内容を簡単に報告したいと思う.
 千鳥ヶ淵は靖国神社や武道館と同じ九段下の近くに位置している.20分もあれば,全ての施設を歩きで見学できるくらいお互い近くに位置している.管理者は環境省なのだが,設立者は当時の厚生省,今の厚生労働省だ.というのは,この施設に納める遺骨は海外で戦死した,本人の特定ができなかった戦没者で,厚生労働省が主体となってこれらの遺骨を収集する事業を進めているからだ.
 つまり,施設が出来上がる前に遺骨収集事業が始まった訳だが,それはいつからだろうか.千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会という,民間ではあるが墓苑での祭事の主催や広報誌の作成を担っている財団法人がある.この団体のホームページ(http://boen.or.jp/index.htm)によれば,サンフランシスコ平和条約発行の1952年以降,海外での遺骨収集が可能になったことを背景にして,慰霊施設の建設が主張されるようになる.というのも,収集事業を始めてみたはいいものの,名前の特定できない,つまり無名戦士にならざるを得ない遺骨が大量に見つかると予想されたためだ.こうした事情から1953年12月に「無名戦没者の墓」に関する閣議決定がなされる.この閣議決定に関する詳細は首相官邸のホームページで確認できる厚生労働省作成の資料が参考になるだろう.(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo2_1.html)

この他に,奉仕会とは別の民間団体(政治家が混在しているのでどこまで民間化は断言できないが)として「全国戦争犠牲者援護会」と全国の市町村長に募金を呼びかける形で昭和27年(1952)という早い段階から慰霊施設の建設を訴えた「全日本無名戦没者合葬墓建設会」(総裁:吉田首相)などの議論の過程も奉仕会のページでは確認できる.一方で,首相官邸の資料では閣議決定の過程に絞って記述がなされている.後者を参考にすると,1954年から57年にかけて関係省庁を集めた旧厚生省主催の打合会議が開かれたようだ.ここでの決定事項を抜粋すると,以下のようになる.


 主な出席者
  衆議院(自由党、改進党及び日本社会党)
  参議院(自由党、緑風会、日本社会党及び改進党)
  日本遺族会 日本宗教連盟 海外戦没者慰霊委員会
  全国戦争犠牲者援護会 全日本無名戦没者合葬墓建設会
  日本英霊奉賛会 靖国神社 日本建築学会 日本造園学会
  全国知事会 東京都 内閣官房 大蔵省 文部省 建設省 厚生省

 主な合意内容

 「墓」の性格については
I. 遺骨を収納する納骨施設である
II. 収納するのは、遺族に引き渡すことができない遺骨である(全戦没者の象徴として一部の遺骨をまつるとする諸外国の「無名戦士の墓」とは異なる)
とされた。

 場所については、靖国神社境内等様々な意見があったが、現在地(宮内庁宿舎跡地)とされた。

以上からは,特定の宗教に依拠した施設ではないことや,諸外国の無名戦士の墓とは異なる性格を持つ施設であることが分かるだろう.これに前後する形で昭和31年の閣議決定で,建設場所が千鳥ヶ淵に決定されたことは合意内容と矛盾するように思われるが,その点に関して特に記述はない.奉仕会のページの方が政治家や厚生省の発言について細かく抜粋しているので,興味のある方はそちらを確認してほしい.(いつか,きっとしみず氏がまとめてくれるだろう.)
千鳥ヶ淵に建設された墓苑が竣工したのは1959年になる.同時に第一回の拝礼式も執り行われ,天皇皇后両陛下及び内閣総理大臣、各大臣、関係団体等が出席したようだ.第二回の拝礼式は6年後の1965年に行われている.それ以降は,厚生省/厚生労働省が遺族会や政府と協力しながら遺骨収集事業を行い,集められた遺骨がこの墓苑に拝礼式の日に納められる.終戦記念日に重ねられる訳ではなく,毎年5月の末にあるようだ.


それでは,調べてみて興味深かった点について紹介したい.

まず,遺骨が巡る旅路について.東南アジアや硫黄島を中心として遺骨は収集される(ちなみに,海外の戦場で命を落とした軍人軍属は210万人,民間人30万人と合わせると,240万人の日本人が海外で亡くなった.その中で千鳥ヶ淵に慰霊されているのは35万人前後であり,遺骨収集事業が終わる見込みは当分ないだろう.)
遺骨収集団が帰国すると向かうのは千鳥ヶ淵だ.帰国した収集団は戦没者遺骨引き渡し式に参加する.そこで厚生労働省へ遺骨が引き渡されるのだ.注目したいのは,引き渡しは千鳥ヶ淵で行われるが,安置されるのは厚労省内の施設においてなのである.そこで拝礼式まで数年の間遺骨は安置されるのだが,それは恐らく遺骨に何かしらの問題(例えば外国人の遺骨が混じっていた場合など)を考えてのことだろう.それでも,なぜ引き渡し式が千鳥ヶ淵で行われるのだろう.集合的記憶の考えに従えば,その場で儀礼的な実践をすることで戦争の記憶を想起するのだろうが,ここらへんの考察は某S氏に今後に期待する.

次に,なぜ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は「できる限り全ての」遺骨を納めようとしているのだろう.海外の無名戦士(戦没者)の墓は,象徴として一部の遺骨を施設に納めている.ここになんらかの日本的な事情があるとすれば興味深い.




















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