December 23, 2012

孤独なボウリングを読んで


ロバート.D . パットナムの「孤独なボウリング」の序章は以下のような調子で始まる.

「1920年, 女性が投票権を獲得して以来1960年までの間,大統領選挙の参加率は4年ごとに1.6%ずつの割合で上昇していたので,ある指導的な政治学者が後に述べたところでは,単純に直線を延長すれば1976年の米国建国200周年には投票率は70%近くに達し,さらに上昇を続けると期待するのも無理が無いように思われた.」

政治参加に加えて,社会的な信頼も上昇の一途をたどっていったのが60年代だった.

「大半の人は信頼できるという質問に賛成した人の割合は,第二次大戦中,戦後にすでに66%の高さに達していたが,1964年には77%の高みにまで上り詰めた」(12)

この時代は人種差別がなお強く,公共の場は男性で占められてはいたものの,米国人のコミュニティの参加,アイデンティティの共有と互酬性の感覚は最高潮に達していた.

「孤独なボウリング」のタイトルはこうした時代にあって社交の場として栄えたボウリングクラブに参加する人が減ったことを示しているが,この本の主題は反映を続けると思われたアメリカのコミュニティが70年代以降に衰退の一途を辿った背景を探り,解決策を提示することにある.

 筆者が鍵概念として用いるのは「ソーシャルキャピタル」,日本語だと社会関係資本という定訳があるが,最近では言語のまま使われることが多くなったこの言葉は,コミュニティを基盤としたネットワークとそこから生じる互酬性と信頼性の規範を概念化したものだ.世俗的な表現で言えば「つながり」というやつだが,キャピタルという単語から連想されるように,パットナムはソーシャルキャピタルの「正の外部性」に注目している.すなわち,ソーシャルキャピタルを単につながりをたくさん持っているひとは昇進しやすいなどのような個人的な資本に帰するだけではなく,それが規範をもたらすことで集合的な側面を持つことを強調するのだ.具体的にどのような正の外部性をもたらすのかと言えば,効果について論じた17章「教育と児童福祉」18章「安全で生産的な諸地域」19章「経済的繁栄」20章「健康と幸福感」21章「民主主義」といったように,実に多岐に渡るのが分かる.パットナムは信頼は社会の潤滑油というように,信頼や互酬性の規範(互酬性というのは,こなれた表現だとお互いさま意識,お礼に対して返礼をすると行ったような交換関係の規範だ)がそのコミュニティの凝集性cohesionや連帯solidarityを強めることで経済に貢献するといったような話は,何となく分かるだろう.もちろん,経済的な側面だと,失職したときに知り合いから職の紹介があると行ったような,ネットワークが個人に対して発揮する機能もある.ただ,パットナムが強調するのはその集合的な側面だ.例えば,貨幣が流通していることには,鋳造する政府への信頼が無くてはならない.また,コミュニティになんらかの分断(例は良くないかもしれないが,例えば人種間の対立)があれば,その土地の経済は上手く回らないこともあるだろう.そういう風にして,同じようなこと,つまりソーシャルキャピタルがそのコミュニティや組織にあると,組織が回りやすくなったり効率が増すことが強調される.このように,パットナムのソーシャルキャピタル論はかなり公共政策に応用されやすい側面がある.実際,この本は国連にまでソーシャルキャピタルの調査をするインパクトを与えたと言われるし,日本でも翻訳された後になって政府が調査を開始している.特に,今後人口が減少していく社会の途上にある日本にとっては,ソーシャルキャピタルのような「掘り起こしがいのある」概念は政策に上手く利用されることになるだろう.その是非はともかくとして,パットナムが与えた影響はとても大きい.経済以外にも,ソーシャルキャピタルが高い地域は政治参加が盛んだとか(これは逆も然りで,因果関係については厳密に考える必要は無いだろう)人々の幸福感が増すとか,コールマンなんかはソーシャルキャピタルが高い学校は高いパフォーマンスを示すなどといってたりするようだ.

本書は,そうしたパフォーマンスの側面にも注目はしているが,どちらかというとどこから持ってきたんだという大量の統計を駆使して,いかなる軌跡でアメリカのコミュニティが衰退していったかを描いている.この第三部とアメリカ市民社会の変動を描いた第二部を合わせて相当なボリュームを占めているのだが,背景がこれまた議論を呼びかねないものになっている.実際のところはよく分からないのだが,パットナムのこの著書はパフォーマンスや解決策の部分が強調されたのか,背景についてはあまり言及がされていないようだ.第15章「市民参加を殺したものは何か?その総括」というタイトルの章では,それまでの背景要因の分析を総合して,「時間と金銭面のプレッシャー」「郊外化(スプロール化)」「電子的娯楽(テレビ)」「世代変化」である.最初の要因は,共働き家族の増加は彼らのコミュニティ参加を阻んでいるというもの,2番目は通勤時間の増加,さらに郊外化に伴い,家々が孤立したものになるという側面が指摘される.3番目は余暇時間がテレビに奪われたというもの,4番目の世代変化というものは要は市民参加が盛んだった世代がそうでない世代に移り変わったというもので,社会に参加している人自体が入れ替わったという説明になっている.重要なのが,なぜ昔の世代(1950年代に生まれ現在60-70歳代の人々らしい)は市民参加に熱心だったのか.パットナムは強調しないが,それは少なくない部分が「戦争」で説明されてしまいかねないからと思われる.

「われわれの抱える中心的問題を世代的観点から再定式化したことによって浮上した可能性に,国家的統合と愛国心という,1945年に最高潮に達した千字の時代精神が市民的傾向性を強化したというものがある.外的な衝突が内的な凝集性を増加させるというのは,社会学ではありふれた物言いである」

社会学者ウォーナーがある町における戦争の影響を調べた本で述べた以下の言葉を再引用すると「無意識の幸福感は…私心からではなく,今日長身を持って共同の事業に必死で何らかの協力を誰もが行った」かららしい.共通の目的に参加することは仲間意識と幸福感を高めるようだが,それが戦争への協力という文脈で強制的,かつ大規模に行われたことがその後の市民参加を高めたのだとすれば,「どうすればソーシャルキャピタルを高められるか」という問いを提出できなくなってしまう.一番手っ取り早いのは「戦争を起こすこと」だとしたら…

 少年,青年期に身につけた価値観はそう簡単には失われない.戦中から戦後に生まれた世代は戦争によって培われた愛国心と市民意識を引き継いだのだろう.それはまぎれの無い事実だとしても,そうした世代と戦争の記憶を薄れた形でしか知らないこれからの世代の社会的な連帯を比較することは不可能なのではないか,そうした諦め声も聞こえてきそうだ.


 パットナム自身は最終章でソーシャルキャピタルを高めるための10個の政策提言をしているが,その中にはもちろん「戦争を起こそう」とは書いていない.市民に政治参加などを促すような価値観を身につけることがコミュニティの持続や発展につながるのは分かるのだが,価値観に対するアプローチはパターナリスティックな側面を含むことは否定できないだろう.どれだけ正当性を持って政策を実行できるのか,パットナムは全ての政策提言について起源を2010年に求めているが,パットナムの主張はどれだけ通り,そしてアメリカ社会のソーシャルキャピタルの再興につながったのだろうか.






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