火曜に出国したのだから,ちょうど一週間が経過したことになる.
当初のドタバタに関しては前回のブログの通りであるが,それ以降もこまごまと失敗が重なった.
例えば,学生証.一応コペンハーゲン大学神学部短期留学生として籍を置いているので,Student IDがもらえるのだが,本来はInternational Officeに鍵と一緒にもらうことになっていた.鍵は先日,先に到着していた友人に代わりにもらったという話をしたが,さすがに学生証まではもらえなかったため,自分でもらう必要が生じていた.
しかし,どうもやる気が湧かず,というよりもOfficeに行こうとしても予習に手間取って授業ギリギリになってしまい回避したり,先日とうとう行ったはいいものの,まだ完成してないから後日来いといわれた.事務型との相性の悪さは国境を越えるのだろうか.
それ以外にも,予想外の事態に対して特にこれといった解決策も提示せずそのまま受け入れるのだが,その後じわじわと解決しなかったことによる被害を受けるというプロセスは頭の片隅に追いやってしまいたいほどある.もちろん,外部的な条件によって生じたことには自分で解決策も提示しようも無いので(エレベーターが壊れたり,しかもシンドラー社!),しょうがないのだが,なんとか工夫していきたいものである.
それでも,食料や定期など,必要不可欠なものは手に入れたし,部屋自体も快適なので,勉強するには日本より好条件なのではないかと疑ってしまうほどの生活ができているのは,本当に感謝する次第だ.もちろん,ワンルームが与えられてしまったが故に留学生との交流ができないとか,国際交流的な側面に関しては不満が残るのだが(といっても,必要条件ではない.)食料は日本と同じ程度の出費でよりクオリティの高いものが求められるし,周りは静かで空気もきれいだし,ネットが有線だけだったり照明が少ないといった細かい点を除けば,この環境には満足している.到着当初は,大学院をコペンハーゲンにしようかと思ったくらいだ.
こういう稚拙な文章を書いていてもしょうがないので,授業外での活動と今回の短期留学の反省点(すでに!)を述べたい.
授業外での活動(個人編)
授業は月水金の13時から16時と割とゆとり.執筆時点で三回授業を受けたことになるが,それ以外の日は家にこもって勉強している日が多かった.一週間経過してみての反省になるのだが,自分でしようと思った後悔と,他人に勧められてしなかった後悔が多く,我を強くするのも問題だなと感じた.
時間の効率性を考えて,この一週間は一日家でがっつり勉強して,余裕が出たら一日遊ぶという,あくまで一日を単位にした時間の計算をしていたのだが,これはあまりよろしくないということが分かった.考えてみれば,日本にいるときに引きこもっていたときは途中でだれるのがお決まりのパターンなのだが,今回に限れば,課題がすべて英語でかつ哲学的に抽象度の高い文章,かと思えば同時に文学的で非論理的な文章だったりするので,ページ数/h=2〜3という恐ろしい結末を迎えることになる.単なるボキャの問題化と思って単語を調べ直して再読してみても分からない箇所があったりするので,背景知識の問題,文法的な問題が考えられるが,結局文学とはこういうものだと納得(合理化?)するに至った.分かる箇所はなるほどと思って読み進められるのだが,いかんせん飽きるのが早いので,集中力が増す夜にリーディングを消化し,午前と昼は自由な時間に使うのが懸命だと判断するに至った.日本からカントやレヴィナスを持ってきているので,手を付けたい.
家を出るときは,特に観光地などにも行かず,ぶらぶら本屋を巡っている日があった.
大学の目の前にArnold Busckという新刊を扱った緑を基調にした本屋がある.
http://www.arnoldbusck.dk/
置いてある本は一般書から美術書,児童用書籍に学術書まで手広い.というか,基本的にコペンハーゲンの本屋は何専門という色が薄い.裏返すと,一般書籍の店でも哲学書が平気で置いてあるくらいの土地柄だということになるか.
この店はどちらかと言うと一般向けで,学術書は少なく,英語の本は皆無に近かったので早めに退散した.
次に訪問したのが,Paludan Bøgerという古本屋とカフェが一緒になったような店.
http://paludan-cafe.dk/
古本屋が非常に広大なスペースを占めている.すべて回りきることができなかったが,学術書から一般書まで数多く並んでいた.興奮しながら回ったあげく,13冊も購入する羽目になってしまったのだが,東洋人がこんなに本を購入したのが気に入ったのか,店員らしきおっちゃん三人と仲良くなってしまった.
始めから酒が入っていたようで意気揚々とポストカードをくれたり割引をしてくれた.なんでこの国は店員さえも酒を飲みながら仕事ができるんだろうといぶかしむ私をよそに酒を浴びるおっちゃんたち.異国体験とはこのことか.
エピソードとしては二つ.おっちゃんの一人がデンマークからアメリカに渡ったという科学者の話をしてくれた.そのおっちゃんが言うことには,科学者はアメリカに渡った後,核兵器の製造に携わったと.「核兵器があったから日本は戦争に降伏できたんだ」と言わんばかりの話をされて,古典的ナショナリズム体験をしてしまった.別にそういう解釈もありなのではと脇から見れば思っていたが,実際に外国人に言われるとややイラっとして,そうじゃない考えもあるよと押していたような気がする.まあ,古典的と言えば古典的.
もう一つは,その後に,一人のおっちゃんが隣接するカフェに私を連れて行ってくれて,コーヒーをおごってくれた.なんでも18年前にトルコから移民してきたらしく,そのような雰囲気は全く感じさせなかったので驚いた.同じ外国人と言うことで何かしら意識をしたのかもしれないが(憶測に過ぎない),ともかく,優しい目をしたいいおっちゃんだった.彼は店員の数だけのビールを注文して去っていった.
最後に紹介するのは,Academic booksという,境界の近くにあるその名の通り学術書を専門に扱った店.
http://www.academicbooks.dk/
新刊だったので高価だったが,英語の本が多かったのでこちらでも4冊程度購入してしまった.Social welfare とかCommunity Workといった北欧の社会保障関係の本を買ってみた.
この店以外にも言えることなのだが,デンマークの書店は外国語とデンマーク語の書籍を区別して置いたりことが無い.区別することがあっても,英語の小説などのようにある程度数が確保されたジャンルに限られているように感じる.つまり,ある程度は市場に出回っているのだが,わざわざコーナーにするほどにはないので,国民の英語の能力を考えたらわざわざ分別する必要も無いのだろう.海外を見て日本を馬鹿にするみたいなことはしたくないが,大学生と言う立場からすると,日本の書店にも(特に大学の書籍部には!)日本語と英語の本を一緒に並べるくらいの気概を見せてほしい(そもそも,英語の学術書を棚に並べろ!)
ヒッピー地区に留学生といった日もあったのですが,眠いので反省の方に移ります(´・ω・`)
※報告書の体裁をとっているので語尾が違います.
※煮え切らない思いをした日に書いたので,やや誇張して書かれている箇所があります.
一つ目には,渡航前の準備不足が挙げられる.学術面では,専門の勉強に所属する学生団体の運営などに手間取って,ろくにコースについての事前知識を蓄積しないまま渡航してしまったことは悔やんでも悔やみきれない.特に,キルケゴールのテクストを読んでみると分かるのだが,ギリシア神話から始まって,ヘーゲルなどの近代西洋哲学の流れまでを押さえておく必要があるように思われる.これは彼に限らず西洋の哲学的な文章一般に通じることだろうと思うが,何しろ英語なので,一度勉強された方もそうでない方も,大学の授業や図書館の書籍を利用するなどして,西洋思想史の流れを押さえておく方が良いように思われる.欲を言えば,英語の資料を読んだ方が手っ取り早いだろう.反対に,キルケゴール以降に関しては,そこまで知識が要請されなかったように思われる.キルケゴールが実存主義哲学の中でどう位置づけられるかと言う点は割と省略されていた.むしろ,現代哲学との関連ではフーコーやデリダなどのポスト構造主義が登場したが,これは現地の学生の半ば無理矢理な接続だったので,準備して解決するような問題でもない.まとめると,キルケゴールが依拠した西洋思想の流れを押さえておいた方が良いだろうと言うことになる.特に,ソクラテス,ダンテ,あとドイツ観念主義哲学については注意されたい.学術面以外にも,事務作業的な面で反省が残っているのだが,これに関しては第二点にも関わることなので,行を移すことにする.
二つ目には,現地で日本人参加者とのコミュニケーションに苦労する羽目になった.事前に勉強会を企画(企画で終わったのが反省なのだが)するなど,GSPスタッフの方もご配慮もあって,互いに顔を知る程度の中にはなっていた.しかし,いざ現地に来てみると,私を含めた6名いる日本側参加者,特に博士課程留学生を除いた4名いる日本人参加者同士がどのようにコミュニケーションをとるかで迷いがあったように見受けられるし,関係の改善を図れたように感じられる.私の憶測に過ぎない側面はあるのだが,このようなプログラムに参加している日本人は,一個人として参加している意識が強いように思われる.私が運営に携わっているような中国人学生との学生フォーラムでは事情が異なる.彼らは基本的に大学と言うチームの一人としてやってきており,多くの人が情報を同じ国籍の人から得るので,集団意識が強い.
こうした個人か集団かという意識の違いは,実際に英語を使って他国の学生とコミュニケーションする場面で際立っていた.クリアな表現が見つからないが,学生フォーラムの場合は日本人と中国人というカテゴリが対等なものと機能しているので、英語で他国の学生とコミュニケーションをとりながら,他方で細かい情報共有に関しては,それぞれの母国語を使って各国の学生間で共有するような場面が見受けられる一方,今回のようなプログラムは,東京大学というチームで参加している状況ではなかったため,国籍と言うカテゴリは除外され,英語の使用でのみ関係が維持されるという規範が働いていたように思われる.こうした規範は,海外の学生とやり取りする際には問題にならないが,日本人それぞれが,英語を使って海外の学生と交流するために来たと言う意識を少なからず持っている(ように私には見受けられたのだが,)ことが重なって,ある種奇妙な事態が生じた.すなわち,日本人同士でコミュニケーションをすることが難しくなってしまったのだ.外国人が一緒にいる場では,英語の使用が規範として作用するので,普段日本語を使用している人とのやり取りにためらいを感じるようになる.それぞれの部屋に戻った後にしても,国籍や言語のカテゴリを排したコミュニケーションが規範として採用されるので,「わざわざ日本人に聞く必要があるのか」というためらいが生じる.実際,東大の日本国籍保有者で現地で集まった機会はただの一度しかなかった.その場で一人の参加者が言ってくれた一言を鮮明に覚えている.「慣れたら外国人と情報共有するようにするので」先の考察は,この一言から出発しているのだが,私個人としては,いくら慣れようと母国語の優位差は失われないので,定期的に日本人同士で集まってテクストの読会の質問なり,些細な情報共有がなされてしかるべきと思っていたのだが,それができなかったのは,メンバーそれぞれが日本人と言うカテゴリを意識しないように意識していたため,母国語使用者コミュニティの活用を怠ってしまった.解決策としては,事前により仲良くなっておくことで,日本人というカテゴリを使用するまでもなくコミュニケーションがとれる仲になっていればよかったように思われる.結局,「日本人同士だから」という理由以外に紐帯を見つけられない程度の中途半端な関係性に終わってしまったので,活用することもせず,同時にややもすると変な気まずさにつながってしまったのではないかと思われる.
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