December 29, 2021

今年読んで面白かった論文10選

昨年に引き続き、今年も印象に残った論文を10本選びました。論文を選ぶ中で、自分の関心が徐々に社会移動・地位の再生産過程における高等教育の役割、特にメリトクラティックな選抜過程にみられる機会の不平等とその帰結にシフトしているのだなと感じました。この数年、社会ゲノミクスについて集中的に勉強し始めていますが、将来的に遺伝を出身階層の一つとして捉えることで、これまで専門にしていた社会階層論の中に遺伝を位置付けたいと思っています。高等教育の役割を考える際にも、遺伝は出身階層と並んで重要な要因を占めるだろうという確信のもと、研究を進めています。並行して進めている高等教育におけるジェンダー格差についても、上記の関心に連なるものかもしれません。

元来専門としていた同類婚については、指導教員との共著で短い本を書くことができました。この本での成果をもとにしつつ、同類婚の研究についても進めています。研究を進める中で今年出版された論文もフォローしていますが、ここには重要な知見をもたらしていると感じる一方、同類婚以外の分野にもインパクトがあるようなブレークスルー的な研究は少なかった印象です。

というわけで、選んだ10本の論文は社会移動、教育、ゲノム、ジェンダーといったテーマが多いですが、今学期履修した経済社会学と機械学習の授業で出会った興味深い論文にも1本ずつ触れています。


1. Chetty, Raj, John N. Friedman, Emmanuel Saez, Nicholas Turner, and Danny Yagan. 2020. “Income Segregation and Intergenerational Mobility Across Colleges in the United States.” The Quarterly Journal of Economics 135(3):1567–1633. doi: 10.1093/qje/qjaa005.

2. Michelman, Valerie, Joseph Price, and Seth Zimmerman. 2021. “Old Boys’ Clubs and Upward Mobility Among the Educational Elite.” National Bureau of Economic Research Working Paper Series w28583. doi: 10.3386/w28583.

はじめに、教育と社会移動に関して、経済学者による論文を二つ紹介したい。社会階層論ではこの10年ほど、大卒という学歴を得ることには出身階層の不利を打ち消す効果があるのではないか、という論争がある。その論争での主眼は、大学を卒業するかどうかにあるが、並行して経済学で「どの大学が最も出身階層の不利を打ち消すのか」という論点を提示したのが、Chettyらの研究である。

アメリカの複数の行政データをマージしたこの論文では、大学に進学した子どもの所得と、その親の所得の世代間相関が、どの大学を出たかによって異なっているかを検討している。高所得層と低所得層の子どもの所得の違いは29%タイルほどだが、大学効果を統制すると11%タイルまで減少する。このことから、大学は社会移動の機会として重要であることが示唆される。低所得(所得が下位20%)の子どもは学力的にトップ校レベルには届きにくいため、最も所得が高くなる大学に進学するのは高所得の親を持つ子どもになる。そのため、所得による大学進学の格差をなくしても、低所得層の子どもはトップ校には増えない。むしろ、所得による進学格差を是正することで最も恩恵を受けるのは、相対的に学力の高いミドルクラスの子どもであるという。一方で、一定数の低所得層の子どもが在籍し、かつ卒業後の所得の伸びも相対的に大きな、mid-tierの公立大学(CUNYやカリフォルニア州立大学)の存在も指摘されている。

Chettyらの研究は現代のデータを用いた検証を行なっているが、Michelmanらの論文では1920年代のハーバード大生の大学生活とキャリアに関する歴史的なデータを対象とした分析を行なっている。注目する独立変数は、入学時のドーム(寮)アサインメントであり、このランダムで行われる部屋割りによって、高階層の人と一緒の部屋になることが、当人の社会移動に効果を持つかを検討している。

分析の結果、高階層出身者は低階層出身者より成績は低い傾向にあるが、キャンパスクラブに加入する傾向が高い。このクラブ加入は、成績よりもキャリアの成功を予測しており、高階層出身者の成功を一部説明している。あらに、高階層出身者と寮で同部屋だとクラブに加入しやすくなるが、これは高階層出身者に限定されている。つまり、不利な出身階層の人がハーバードというエリート大学に入っても、そこで得られる(キャンパスクラブによる社会的ネットワークや威信という)資源は、高階層出身者に独占されている傾向にある。

1920年代のハーバードには男性しかおらず、人種的にも白人とユダヤ系しかいなかったため、今回の分析結果が一般化できるかは議論の余地があるが、エリート大学で低階層出身者が成功しにくいメカニズムを明らかにしたという意味で、非常に重要な研究だろう。東大も戦前は寮生活だったと思うので、その頃の名簿が手に入れば似たようなことができるかもしれない。日本の文脈を考えると、政官関係、天下りへの影響なども面白そうだ。

今年はこれらの論文以外でも、テキサス州のtop 10% rule(各高校のトップ10%の成績の学生は自動的にテキサス大学に進学できる)に注目し、不利な学校のtop 10%層は政策の恩恵を受ける一方、恩恵を受けない有利な高校の学生がデメリットを受けるわけではなく、こうした政策は教育の格差是正に寄与することを指摘したBlack et al. (2020)や、カリフォルニアにおける類似の事例を扱ったBleemer (2021)の研究も出色であり、引き続き経済学の知見から学ぶことは多い一年だった。

キーワード:教育、社会移動、ピア効果

3. Belsky, Daniel W., Benjamin W. Domingue, Robbee Wedow, Louise Arseneault, Jason D. Boardman, Avshalom Caspi, Dalton Conley, Jason M. Fletcher, Jeremy Freese, Pamela Herd, Terrie E. Moffitt, Richie Poulton, Kamil Sicinski, Jasmin Wertz, and Kathleen Mullan Harris. 2018. “Genetic Analysis of Social-Class Mobility in Five Longitudinal Studies.” Proceedings of the National Academy of Sciences 115(31):E7275–84. doi: 10.1073/pnas.1801238115.

教育年数は遺伝する、そう言われると驚かれるかもしれないが、行動遺伝学の知見に依拠すれば、これは突飛な主張ではない。もっとも古典的な一卵性と二卵性双生児を比較した双子研究からは、データによってばらつきは小さくないものの、双子における教育年数の分散の半分弱は遺伝的違いによって説明されている(Branigan et al. 2013)。ヒトゲノムのほぼ全てをカバーして形質(例:教育年数)を予測するGWAS(Genome wide association study)からも、教育年数を統計的に有意に予測する遺伝子が1000以上見つかっている(Lee et al. 2018)。GWASをもとに作られた教育年数予測スコア(polygenic index, PGI)によれば、教育年数の分散のおよそ13%程度がPGIによって説明されている。教育年数は労働市場におけるアウトカムの予測因子でもあるので、教育を通じて遺伝子が社会経済的な成功と結びついているかもしれない。

ただし、この13%をそのまま「遺伝効果」と考えるのは危険でもある(Lee et al. 2018)。教育年数を予測する遺伝子情報と、親の学歴といった出身階層は相関しているからだ。つまり、例えば遺伝子が教育年数に対して直接的な因果効果を持つだけではなく、親の遺伝子が子どもの教育に資するような養育環境の形成を通じて、子どもの教育年数に影響するかもしれない。あるいは、単に遺伝子と教育年数の関連は、親階層を通じたspuriousなものかもしれない。

遺伝子は本当に教育年数に対して直積的な効果を持つのか。この問いを検証するために、Belskyらの研究は米・英・NZの5つの縦断データを用いて、教育年数PGIが出身階層(学歴/収入/職業)を統制しても地位達成に影響するかを検討している。分析の結果、同じ親のもとに育ったサンプルを対象にしたsibling analysisも含めて、親階層を統制しても教育年数PGIが高いと、職業の社会経済的地位が高く、富も豊かになりやすい。具体的には、PGIが1SD大きくなると、3-4%ileほど親の地位より高くなる。以上の分析結果から、(メカニズムはわからないものの)教育年数を予測する遺伝子は教育年数に因果的な効果を持ち、労働市場における成功、社会移動にとっても重要な要因であることが示唆されている。

キーワード:社会移動、社会ゲノミクス、国際比較

4. Sotoudeh, Ramina, Kathleen Mullan Harris, and Dalton Conley. 2019. “Effects of the Peer Metagenomic Environment on Smoking Behavior.” Proceedings of the National Academy of Sciences 116(33):16302–7. doi: 10.1073/pnas.1806901116.

社会学と遺伝学のコラボという意味では、とても良い好例の論文。喫煙という行動は、複数遺伝子からなる形質であると分かっており、喫煙を予測するようなpolygenic scoreもすでに作成されている。すでに紹介した教育年数を予測する遺伝子スコアに比べれば、喫煙という依存性の高い行動も、ニコチンという化学物質への依存度合いに遺伝的な違いがあるという主張は受け入れやすいかもしれない。実際、たばこ税が上昇する現代で喫煙する人は、昔に比べてますます遺伝的に喫煙しやすい人であることが指摘されており、たばこ税の政策効果は小さくなっている(Domingue et al. 2016)。

同時に、喫煙は極めて社会的な行為でもある。というのも、喫煙するかしないかの最も大きな要因は、周りに喫煙している人がいるかどうかとされるからだ。しかし、こうした「ピア効果」を測定するのは、そこまで簡単ではない。ある特性を持った人(タバコを吸いやすい人)がピアを形成しやすい自己選択の問題があるからだ。

この論文では少し角度を変えて、遺伝的にタバコを吸いやすい人がいるかによって喫煙リスクが異なるかを検討している。遺伝子は個人にランダムに割り当てられるため、ピア効果を測定するのに最適、というわけである。アメリカの中等教育段階の学校にる子どもを追跡した調査を用いた分析から、同じ学年に遺伝的にタバコを吸いやすい人が多いと自分もタバコを吸いやすくなることがわかった。さらに、この効果は特に遺伝的喫煙スコアが極端に高い人(腐ったリンゴ)がいる場合に顕著であることも示唆された。

キーワード:社会ゲノミクス、ピア効果

5. Armstrong, Elizabeth A., and Laura T. Hamilton. 2021. “Classed Pathways to Marriage: Hometown Ties, College Networks, and Life after Graduation.” Journal of Marriage and Family 83(4):1004–19. doi: 10.1111/jomf.12747.

ArmstrongさんとHamiltonさんの二人は、中西部にある某フラッグシップ大学(日本でいうところの地方国立大)に進学した白人女性たちの卒業後の進路が分かれるメカニズムについて検討したPaying for the partyで知られているが、二人はこの大学を卒業した女性たちをさらに追いかけており、その成果として今年2つの論文を出版している(もう1本は、ブルデュー的な視点に立って親子の世代間連鎖のメカニズムを説明するために階級プロジェクト class projectsという概念を提示したAJS論文)。

このJMF論文では、出身階層によって同じ大卒でも大卒と結婚する確率が異なるのはなぜかを検討している。中西部の有名大学を卒業した女性を長期追跡した質的調査から、有利な出身階層の女性は地元の紐帯、社会階層によって分断された大学生活、そして大学後の生活の全てで所得ないし学歴の高い男性と結婚する機会に恵まれていることが示されている。この研究は、高学歴同類婚のチャンスが出身階層によって異なることを論じたMusick et al. (2012)を引用しており、本研究はそのメカニズムを明らかにしたという点が評価ポイント。同類婚の研究は今年はこの論文以外にも、大学第一世代かどうかによって同類婚のチャンスが異なるかを検討したKing (2021)、同類婚を学歴以外の側面(職業・大学専攻)に拡張したSchwartz et al. (2021)Han and Qian (2021)、あるいは米中のデータを用いて所得同類婚の増加と所得格差の増加の関連の大部分が高所得層において生じていることを論じたShen (2021)などが出版されたが、同類婚関連で一つ顕著な業績をあげるとすれば、本論文になるだろう。なお、出身階層によって学歴同類婚のチャンスが異なることを自明としているけど、あくまでアメリカに限った話なので国際比較で似たようなパターンが見られるかは確認してみるといいかもしれない。

キーワード:家族、社会階層、社会移動、同類婚

6. Martin-Caughey, Ananda. 2021. “What’s in an Occupation? Investigating Within-Occupation Variation and Gender Segregation Using Job Titles and Task Descriptions.” American Sociological Review 86(5):960–99.

社会調査における職業分類の決め方は、基本的に回答者に自分の職業を答えてもらって、それをもとにコーダーがすでに存在している職業分類に回答者の職業を当てはめるプロセスを経る(経費などの問題があるときには、プリコードといって、あらかじめ用意された分類のどれに自分の職業が当てはまるかを書いてもらう)。

これは、部分的には回答者の意味理解に沿って職業を分類するアプローチだが、部分的にはコーダーの主観によって成立している。さらに、すでにある職業分類に当てはめるという制約は、分類できない職業を無理やり既存の職業に当てはめてしまう危うさも持っている。それでも、職業分類は国際比較ができるようにアレンジしてあるため、このアプローチは国際比較や時系列比較など、集団の比較にも向いている(社会学において、どれだけ回答者の主観と距離を取るかという点については、岩波書店から出ている筒井先生の「社会学」で詳しく論じらている)。

こうした既存の職業研究に対して、この論文は一つのブレークスルーを与えている。調査の原票を見ると、職業コーディングをする前の回答者の記述がある。例えば、私が自分の職業を聞かれたら恐らく「アメリカの大学で社会学と人口学の博士課程の学生として研究に従事している」くらいに書くだろう。もちろん、こんな職業は分類に存在しないので、コーダーは私の職業を見て「学生」ないしは「人文社会科学系の研究者」と分類する。

こうしたアプローチは「アメリカの大学」や「研究」といった側面を捨象してしまっている。職業内の細かい仕事内容はこれまで注目されてこなかったが、近年の研究によればタスクレベルで見た職業「内」の所得格差が増加しているという指摘もある。以上の問題意識を踏まえ、この論文ではテキスト解析の手法を用いて、こうした原票レベルの記述から似たタスクやタイトル同士の職業を決めている。職業研究における計算社会科学的なアプローチとして非常に面白い。この論文では、まず職業分類に依拠して最も細かい小分類レベルの職業内部で、どれだけタスクやタイトルでみた仕事に差があるかをみている。分析の結果、仕事の類似度は職業間で大きく異なることがわかった。さらに、タスクレベルの職業でみた男女の性別職域分離は(タスクレベルの職業の方が細かいので、定義上そうなるが)従来の職業分類に基づく分離よりも大きく、さらに興味深いことに、従来の分類による分離は減少している一方、近年のタスクレベルの分離は停滞していることが示唆されている。

キーワード:職業、性別職域分離、計算社会科学

7. Mun, Eunmi, and Naomi Kodama. 2021. “Meritocracy at Work?: Merit-Based Reward Systems and Gender Wage Inequality.” Social Forces. doi: 10.1093/sf/soab083.

能力選抜を導入すると、企業における男女の格差は減少すると考えられる。(多くは男性が占める)管理職の恣意的な判断を避けられるためだ。しかし、先行研究によれば企業における能力主義の導入が報酬の男女格差を縮小するかについては、一貫した知見が出ていない。むしろ、それまで存在した性差別的な慣行を維持・隠蔽してしまうことで、能力主義の導入は男女格差を維持ないし増加させる可能性さえ指摘されている(能力主義のパラドックスというらしい)。

既存研究は特定の企業や産業に分析対象が限定されており、外的妥当性に不安があった。これに対して本研究では、日本の就職四季報と賃金基本構造調査をマージして、12年間のべ40万人の被雇用者における報酬の男女格差が、能力主義によって減少するかを検証している。分析の結果、職務給の導入は年収や時間あたり賃金には影響しないが、ボーナスの男女格差を「広げる」ことがわかった。特にこれは若年層に顕著であった一方で、管理職では、職務給の導入は男女格差を縮小することがわかった。分析の結果は概ね、能力主義のパラドックスを支持している。個人的には、パラドックスがなぜ生じるのかがまだよく分からないので、今後メカニズムについて少し調べてみたい。

キーワード:ジェンダー、労働市場、日本

8. Falk, Armin, and Johannes Hermle. 2018. “Relationship of Gender Differences in Preferences to Economic Development and Gender Equality.” Science 362(6412):eaas9899. doi: 10.1126/science.aas9899.

労働市場における男女の格差がなぜ生じるのか。いくつもの仮説が提起されているが、この10年ほど経済学で注目されているのが、男女の競争心やリスク選好の違いである。具体的には、女性に比べて男性の方がリスクに寛容であり、自分の能力に自信があり、野心がある傾向にある(Niederle and Vesterlund 2011)。先程の能力主義の論文とも関連するかもしれないが、雇用者の評価が競争に基づく環境は、男性に多くみられるこうしたリスク選好型の人間に有利になっていることが、男女格差を維持しているのではないかという説が検証されている。

そもそも、なぜ男女で選好が異なるのだろうか?考えつくのは、幼少期から男女によって異なる子育てが実践されている可能性である。もしかすると、親は男の子の方にリスクを負って挑戦することを勧め、女の子にはリスクを取らないことを勧めるのかもしれない。こうした子育ては子どもの性に基づいて育て方を変えるという意味で、偏見に満ちたもののように思える。であれば、ジェンダー平等が進んだ社会ほど、男女によって異なる子育てをする家庭が減り、選好の男女差は小さくなるかもしれない。

そんなふうに考えていた自分に、この論文は非常にシンプルに、結果は全く逆であることを教えてくれた。具体的には、ジェンダー平等な社会ほど、あるいは経済的に発展している国ほど、男女の選好(リスク選好、利他心、信頼、互酬性など)の差が大きくなることを、80近い代表性のある国際比較データ(Global Preference Survey)を用いて明らかにしている。著者らは、物質的あるいは社会的なリソースへのアクセシビリティが男女で平等になればなるほど、男女の違いがよりはっきりするという示唆があると主張している。この男女の違いを、筆者は生得的なものとしてみなしているかは分からないが、いずれにしてもインパクトのある研究で、謎は深まる。

キーワード:ジェンダー、国際比較

9. Sherman, Rachel. 2018. “‘A Very Expensive Ordinary Life’: Consumption, Symbolic Boundaries and Moral Legitimacy among New York Elites1.” Socio-Economic Review 16(2):411–33. doi: 10.1093/ser/mwy011.

ウェブレンの時代には、誇示的消費をする層は有閑階級とされてきたが、現代の誇示的消費はメリトクラティックなエリートに移っていることが指摘されている。

この論文では、NYに住む富裕層50人へのインタビュー調査から、この新しい富裕層の倫理観について検討している。すでに言われているように、多くの富裕層は勤勉に働くことで所得を得ている。興味深いのは、彼らは富裕であることへの倫理的なアンビバレンスを抱えているという点である。具体的には、彼らは自分たちの豊かさに気づいているが、一方で自分の豊かさを指摘されることを嫌い、華美な消費は避け、自分たちはミドルクラスだと主張する傾向にある。こうして自分たちを「悪いお金持ち」と区別しながらミドルクラスと一緒だと主張することで、彼らは象徴的な境界を社会的な境界とずらしている。

高等教育を受けたものが威信・所得の高い職業につけるのは一見するとメリトクラシーが成立しているという意味で「いい」社会のように思えるが、格差が拡大した社会においては富裕を「目指すこと」が推奨される一方で、富裕で「あること」は倫理的なアンビバレンスを生じさせることを鋭く示した論文。

この論文の言っていることを、かなりあっけらかんと言ってしまうと、富裕層のいう「私はミドルクラスですよ」というアピールは一方で彼らの富裕さを隠蔽してしまうことにつながりかねない一方、別に彼らも人を騙そうとしてそんなことを言っているわけではない、というところだろうか。

ちなみに著者のオピニオン記事では、個人の倫理観について議論するのではなく(つまりそうした境界線をずらすアッパーミドルの行為の是非を論じるのではなく)そうした倫理観を可能にさえている社会の制度について議論した方がいいという。納得。

キーワード:社会階層、エリート、文化資本

10. Obermeyer, Ziad, Brian Powers, Christine Vogeli, and Sendhil Mullainathan. 2019. “Dissecting Racial Bias in an Algorithm Used to Manage the Health of Populations.” Science 366:447–53. doi: 10.1126/science.aax2342.

機械学習が政策介入に有効なアプローチになりうると議論され始めて久しい。当時の楽観的な主張では、(教師付き)機械学習によって、最も政策介入が必要な人を特定したり、あるいは個人の持つ人口学的な特徴からどういった介入を受けると政策効果のパフォーマンスが最大化するか、と言った論点が議論されてきた。その一方で、この数年で議論されているのが、機械学習が予測のために依拠するデータが既に社会に存在するデータであり、その限りにおいて社会で存在する差別を投影したモデリングを行っているのではないか、という点である。具体的には、犯罪リスクを予測する際に機械学習を用いると、人種を予測に用いていないのにも関わらず、白人よりも黒人の方が犯罪リスクが高くなってしまうような現象が報告されている。

このように、歴史的な差別が投影されたデータを用いて予測するという限界をどう乗り越えていくかが、近年の機械学習の課題の一つになっているが、本論文はその点について重要な示唆をもたらしている。この論文では、とあるアメリカの大学病院の患者を対象に、アルゴリズムによって予測される疾患リスクスコアと、実際に疾患に罹りやすいか、およびそれが白人と黒人の間で異なるかを検討している。分析の結果、予測モデルによるリスクスコアが同じ白人と黒人を比べると、黒人の方が疾患に罹りやすいことがわかった。この結果は、リスクスコアが高くないという理由で医療が受けられない場合、黒人の方がその不利(実際に病気にかかる)を被りやすくなるという人種格差の存在を示唆している。

なぜ予測モデルの上では同じスコアでも、人種によって予測の結果が異なるのか?その要因を、筆者らはモデリングで用いるアウトカムがすでに人種の格差を内包しているからだとする。具体的には、この研究以外でも頻繁に用いられるスコアは、医療保険の費用をアウトカムとして予測している。この指標は一見すると、どの人種にも中立に働いているように見えるが、実際には黒人の方が医療にアクセスしにくい環境に住んでいることもあり、たとえ疾患リスクが高くても病院には行かず(行けず)、結果として医療コストが小さく見積もられてしまう。

こう論じた上で筆者らは、医療コストと合わせて、実際にいくつ慢性的な疾患を抱えているかをアウトカムとして予測するモデルの方が、人種格差は大きく減ることを示している。予測モデリング自体を変えなくとも、予測するラベル(アウトカム)を変えるだけで、機械学習のデメリットを現実ことができることを論じた画期的な研究。

キーワード:機械学習、健康、人種

December 27, 2021

12月27日

 一応、今日で研究会で一度も会っていなかった人とは全員直接会って話ができたのでよかった。直接会わなくても研究会はできるけど、研究会だと個別に話す時間は作りにくく、その人の研究関心を知っておく方が、後々いいことがあるかもしれない。若手は常勤の先生がいる前での報告は緊張するかもしれない。会ってそれが解決するわけではないと思うけど、少しでも心のハードルは低くしておきたい。

December 26, 2021

12月26日

 今日から、4泊5日の日程で神戸・福岡旅行。12時発の東海道新幹線に乗り、まずは新大阪へ。研究会で一緒の先輩と初めて会う。スタバで3時間ほど雑談。6時からアニメージュ展のはずだったが、チケットを忘れたので、仕方なく?2度目のドライブマイカーをテアトル梅田で見る。

前回よりも集中して見ることができた。気がする。ストーリーを半分頭に入れていたので、一つ一つのセリフに集中できたこともあるかもしれない。この映画は、物語によせた伏線があけすけに回収されるわけではなく、ボディーブローのようにじわじわくる。ワーニャ伯父さんのこのセリフは、主人公のこの心情と関係している、この表現は誰を指している、既に成立している物語と映画で語られる物語が劇中劇を通じて交錯する、一見すると難解なプロット、2度見ることで消化不良感は多少なくなった気がする。

自粛期間中(というか今でも)、なぜ人は対面で会わなくてはいけないのか、理由なく話すことになんの意味があるのか、多くの人が考えさせられた(そして、考えるたび、これといった答えが出ず窮する)。本作がこの問題に答えを提示してくれるわけではないが、観衆は会話を通じて意図せず(あるいは一方は意図していたのかもしれないが)2人の人生が交錯し、それが新しい概念に昇華することで、一方ないし双方のこれからの人生が変化する様を見せられる(そして、それは頻繁に車中で行われる、車が映画の主要舞台になっている)。すでにあるメディア(今回はワーニャ伯父さん)はコミュニケーションによって生じた人間のダイナミズムを助けるための触媒であり、触媒として意味を持つためには、人間の意図が必要であり、そしてまた意図を持った行為が必要になる。濱口監督の今回の作品は、言葉の力(それはつまり脚本の力でもある)を見せつけるものであり、具体的には人は言葉のやりとりを通じて新しい自分を獲得し、無から有へ、絶望から希望へと人生のステージを一歩ずつ進んでいく。その過程には、再び辛く、我慢しなくてはいけないことがあるかもしれない、しかし生きている以上、人間はその営みを止めることはできないのだ、監督の脚本はそう語りかけてくるようだった。対面で会う必要がある理由への回答にするとすれば、人は言葉のやりとりを通じて、予期せぬ自分を見つけ、自分の新たな可能性に気づくからと言えるかもしれない。

映画を見終わった後、三宮に移動。ここで2泊する。

December 3, 2021

アパホテルチャレンジ

 明日の便で日本に帰ります、8月はじめまで日本にいたので、4ヶ月ぶりの帰国と思うと、そこまで久しぶりの感じもしません。それでも、日本の夏よりも冬の方がだいぶ過ごしやすく、季節的にも好きなので、今回の一時帰国は夏以上に楽しみにしています。

つい1週間前は、日本でもプリンストン大学でも感染が落ち着いていたこともあり、前回よりは楽に帰れるかと思っていたのですが、オミクロン株の出現により、この1週間は自分自身、色々混乱することがありました。それに授業の最終週の忙しさが重なり、精神的にもあまり落ち着かない日々でした。

私が住むNJ州はまだ新株が見つかっていないので、新株が発見された地域から渡航した人に対する追加のホテル隔離は逃れられるはずです。とはいっても、NYからプリンストンに来てる人も結構いるわけで、言い出したらキリがありません。そもそも地続きのアメリカを、この州は新株が出たのでアウト、こっちは出てないのでセーフと、州で区切ることに無理があります。

それでも新株をもし持ってたら、と怖くなる気持ちも一方であり、それもあって今週は、普段は週1回でいいPCRを4日連続で受けて、全て陰性であることを確認しての渡航になります。

陰性であることに自信を持っての渡航になりますが、自分にはコントロールできないところもあります。報道によれば、新株にかなりセンシティブになっている日本政府は、もしオミクロン株を持ってる人が機内に一人でもいる場合、同乗者全てを濃厚接触者扱いして、ホテルでの隔離を要請しているようです。

というわけで、もし一人でもオミクロン株の陽性者がいたら「全員アパホテル送り」になります、なんだかこう書くとやばいです。

というわけで今回は、帰国チャレンジというよりアパホテルチャレンジといった方がいいかもしれません。

ちなみに、そのロジックで筋を通すのであれば、隔離対象のNY在住の人が一人でも乗っていたら、その便に乗ってた人も総アパホテル送りになる気もします。しかし、そんなことしてたらホテルのキャパが足りなくなるので、多分ないでしょう。

アパホテルチャレンジ開始まで、残り12時間です。

December 1, 2021

Konkatsu Senryaku - strategy in the Japanese marriage hunting

I got a book that went viral on twitter (among Japanese folks) recently, and finished reading it. I already tweeted a few positive reviews about this book in Japanese, but here I want to be a bit more critical (being critical is much easier in English than Japanese somehow). 

The title of the book is Konkatsu Senryaku (Strategy in marriage hunting), written by a management scholar who ended up diving into Konkatsu by himself. The book is based on the author's own experience in Konkatsu (marriage hunting) experience.

Konkatsu is a term coined by sociologist Masahiro Yamada, who has advocated this idea in response to increasing non-marriage rates, which in turn leads to low fertility in Japan, where marriage and childbearing are (still) tightly connected. One may think Konkatsu is similar to other newly emerged meeting opportunities such as online dating, but this is critically different from them in that Konkatsu emphasizes finding a marriage partner, rather than pursuing more casual dating. The term has made a whole new industry, where singles now do not hesitate anymore to say they are looking for a future partner via Konkatsu. The book is a few of (semi-) academic efforts to investigate how participants experience mate selection processes in the newly formed market. 

One critically important finding in this study is that participants’ experience is highly gendered. This is partly structural, as I discuss below, and partly organizational. For the organizational side, the author made a strong case that the gendered experience is a product of how the Konkatsu market is organized. Specifically, in the market he observed and participated in, male participants are first screened based on their income (and sometimes age). By contrast, Konkatsu agencies do not necessarily require such income criteria for female participants. The author recalled that he was once more confident in finding a partner because of his relatively high earnings (roughly about 10 million yen, which will be a top 10% of income in his age), but he realized that his higher income does not make any difference in the market, because every male participant, who joined the Konkatsu party with the author, are more or less in the same income brackets. Instead, what makes a difference (conditional on their income) is their looks (or age). In the Konkatsu market, appearance and age become currency, instead of income. He himself admits he does not look sexually attractive, and he did not get requests from female participants (he got a few, but the book described how awful the experience with the women was). 

As his experience indicates, money does not really matter for mate selection in the Konkatsu market, because it’s simply used as a screening criterion. Competition starts after the initial screening, which is a source of stress for unattractive male participants, he argues, because Konkatsu agencies he contacted do not share any detailed feedback on why he did not get a request and vaguely suggest what he should do next (like “try to be clean and tidy”).

Regardless of what he experienced, I feel this book did a great job in describing such an organizational source that makes participants’ experience more gendered than we might have expected.

One negative side, though, is that readers may feel the author’s argument is a bit misogynistic. The author, a never-married single guy in his mid-40s who entered the field - out of half-curiosity and half-necessity to find a partner - found that women in the Konkatsu market tend to be more strategic about finding a “right” partner (i.e., those who have higher income, with better looks if possible). 

This is more structural, I would say, as women in Japan have to anticipate that their careers can be interrupted during their life course. However, since the approach he took was auto-ethnography, the author did not pay careful attention to the sources of women’s strategic behaviors. Instead, he mainly discussed how men’s and women’s experiences in the market differ, and how relatively unattractive men, including himself, tend to suffer from exposure to such environments, both in terms of the chance of finding a partner and self-worth. 

I appreciate that he shared his experience in a semi-academic format, which eventually went viral in a country with very low marriage rates and fertility, but I feel that a thick description of women’s reasoning in the market is critically warranted. The asymmetrical experience by gender in such settings may be more or less the same in many societies, but the Japanese marriage market is still highly gendered, with expectation towards men as a breadwinner while women as a secondary earner (with an unequal division of household labor), which suggests that their experience in the marriage hunting market reflects preexisting gender norms and relations in Japan, but the author did not touch on this important context.

November 28, 2021

秋学期12週目

金曜日

とりあえず金土で溜め込んでた仕事の一つを論文にした。帰国前日の定例セミナーで報告する。締切は正義。矛盾するように見える二つの結果を前に悩みながら書いていたが、書きながら両者を統合的に説明できるのではないかと考えついたのが良かった。

土曜日

ERCの大型グラントを取れると8〜10人くらいのチームを組んで3〜5年間で集中的に一つのトピックを研究できそう。最近、博論以外の研究は全て共著で、自分には理系のラボ的な研究スタイルが合ってる気がする(ただしラボはない)ので、ERCのようなグラントが取れる研究者には憧れがある。

自分がやっているような研究テーマは、単著でも共同研究でも、全然いけると思うけど、例えば5人の研究者が別々の大学に所属して似たようなことを研究するより、5人の研究者が同じ大学に集って一緒に研究したほうが効率はいい気がしている。

現在、自分が所属していると思っているグループは(1)指導教員がリードする日本や東アジアの少子化や家族形成の研究グループ、(2)社会ゲノミクスのラボ、(3)日本の高等教育のジェンダー格差(自分が一応リードしている)、あと(4)日本の労働市場のジェンダー格差(3と4はゆるく繋がってる)

November 17, 2021

秋学期11週目

 いよいよ今学期も残り2週間である。

月曜日

よく眠れず、眠気まなこで12時からケース&ディートンのトークに行く。生でこの2人の話が聞けるのは結構幸せなことかもしれない。アメリカの学歴差の話を踏まえて、日本の正規、非正規の格差が、今後健康格差に転化していくかもしれないなどと考える。共著ペーパーを見たり、オフィスアワーをしている間に、18時からファカルティの先生とディナー。政治学の先生で、政治学と社会学をいろいろ比較しながら話をしてくれて勉強になった。帰宅してカレーを作る。

火曜日

ずいぶんよく寝た…11時から授業、12時から人口学研究所のセミナー。経済学部の先生の所得移動の話で、経済学の人がかなりきていた。その後論文へのコメント、明日の授業スライドの作成。オフィスアワー。16時半からデータサイエンス系の新しいプログラムのミーティング。帰宅してミーティングでもらったサラダをおかずに夜ご飯。寝る。寝る。起きてファンディングの申請書を書いたり、授業スライドを作ったり、NYCでのご飯の日程調整。あとちょうど出版された論文の宣伝。

水曜日

10時半からゲノムセミナー。13時半から授業。15時半からまた授業。16時半からハーデンさんのトーク。終了後すぐ機械学習の授業。なぜか先生とホットスポットをめぐって2人でキャンパスを体験する変な体験をした。

木曜日

博論の1章になる論文で、ちょっと大事にしすぎたと言うか、変に気を使って時間をかけすぎた気もするので、ひとまず手を離れて安心。これで他の溜まっている論文にも手がつきそう。今学期はティーチングで研究の時間が思うように取れなかったので、年越しまでの1ヶ月半、精一杯頑張りたい。幸い、デスクリジェクトの経験はほぼない(自分がリードしてる論文は一度もないはず)。投稿先を上手く選択できている or 最低限の質は担保してるのかもしれない。しかしトップジャーナルの壁は厚い。この数年で「そこそこ」の論文を書ける段階から、際立った論文を書けるレベルに脱皮していくのが課題。

November 15, 2021

nycトリップ

 つい2週間前にNYCに行ったばかりだが、最近暇ができたらつい電車に乗って向かっている。

目的はマッサージと、帰国前のお土産購入、それとジーンズが欲しくなったので、買い物。まず駅に到着してCでCanal st.まで行き、naked and famous denimへ。1本購入。カナダのメーカーだが、日本から生地を取り寄せていて、品質がいいらしい。次にnudie jeans。昔1本履いていた。こちらはサステナビリティが売りで(ホームページにいくとジーンズごとにどの国のどの工場で生産しているか、スタッフが現地を訪れたかを書いている、すごい)、今後もっと伸びそう。次にチャイナタウンでマッサージ、今日の人はいまいちだった。お昼をDr. Clarkで食べて、無印で買い物、そのあとMarieBelleでチョコレート、お土産用。地下鉄に乗ってチェルシーマーケットへ。複数のブランドのセール売り場があって、そこで荷物をあづける必要があり、セキュリティの人に名前を告げたところ、日本人ですか?と聞かれる。なんでも、静岡で7年間通訳をしてたらしく、流暢な日本で話しかけられたのでつい話し込んでしまった。Li Lacでまたチョコレートを購入。マーケットを出て、アシックスでスニーカーを購入。帰宅。

November 8, 2021

秋学期10周目

 今学期もいよいよ残り3週間(+感謝祭休み)である。

月曜日

10時過ぎに起きてメール返信。水曜日の授業のレスポンスを作成しているうちにお昼。ご飯を食べながら社会学部のセミナーを聞く。終わって再びレスポンスを書く。2時からオフィスアワー。そのあと謝金関連で電話。3時ごろになり、またレスポンス、校正して提出。続いてサントリーの申請書を提出。それから走って、戻ってきて海藻サラダを作る。50ドル払って23&meのサービスに課金。後輩の映画にクラウドファンディングで支援。メールの返信。そうしているうちに5時半。夜ご飯を食べて、寝る。8時過ぎに起きて、Emmaのトークを聞く。その後、日射のスライド作り。NBER論文を読む。

iMacのお古をリビングに置いたら、若干寝労分離できた気がしてちょっと気分いい。人口学研究所にいるとなぜかiMacがオフィス用に支給され、2年経つと新しいのに変えるのでなぜか貰えてしまう。training grant落ちてるのに、プリンストンからの予算なのだろうか。今学期は機械学習の授業を履修して、アルゴリズムベーストな政策形成の帰結について学んでいる。 アメリカの福祉や警察行政を扱った論文を読んでると、もともとクソな制度に対して最新のツールを導入しても、より効率的にクソが再生産されるだけ、という感想が出てくる。

火曜日

今週は時間が流れるのが遅い気がする。10時ごろから日射のスライドを作り、40分ごろ家を出る。11時から授業。12時からOPRセミナー。終了後、授業内容について考える。日射スライドを引き続き作る。帰宅して走る。うどんを作る。再びスライド。ヴォーゲルメモリアルセミナーにちょっと出て、すぐreadiに出る。シンガポールの教育格差の話。教育水準は高い一方で、格差も大きな社会。終了後、三度スライドを作り、アップロード。授業資料も作る。

アメリカで就職できなさそうだったらイギリスがいいかなと思ってたけど、シンガポールもいいかもしれない。もちろんアメリカの大学には一緒に研究したい人が多いと言うのもあるけど、単にアメリカ以外の国に引っ越すのめんどくさい。日本への直行便がある空港から1時間以内で、アジア系スーパーがあって、自転車で生活できる街がいい。

水曜日

忙しい1日。10時半からbiosocial seminar。12時になってご飯を食べ、授業の用意。1時半から授業、オフィスアワー後、3時半からもう一つ。疲れてnassauに出ていき、アイスシェークを飲む。18時半から機械学習の授業。スコアを振られることのスティグマの可能性や、テクノロジーが政治的に利用される可能性、政治への信頼度、どうやったら信頼できる技術にするかといった話。疲れて帰宅、メールを開くとファカルティディナーのお誘い、テンション上がる。浪人の論文を学会アブストに落として、今日は終了。

木曜日

10時からコーホートチェックイン、近況を伺う。11時から授業。12時過ぎまで伸びて、昼は初めての中華の店に行く。クミンの効いた量が美味しかった。3時半まで授業の用意やゲノムの論文を読み、授業。終わってすぐ帰宅、走って、寝て、シャワーを浴びる。ご飯を食べ、日車のスライドを更新するなどして、8時からミーティング。

金曜日

午前と午後、一つずつ学部のミーティング。なぜこういう事務仕事が増えているのか。夜は日本社会学会に参加。アメリカ来て数年は日本の学会に戻るとちょっとした違和感を覚えることがあったけど、最近はアメリカはアメリカ、日本は日本でそれぞれ別物として捉えることで、いい距離感でいられる気がする。

違和感というのは、例えば日本の学会だと、日本の事例で報告することのなぜをすっ飛ばしても何も問題なくて、自分がアメリカで研究するときに苦労してるのに、なぜすっ飛ばせるんだろうと疑問だった。でも次第に、アメリカもアメリカ事例の場合、何も問われないので、そういうもんかと思うようになった。

もちろん将来的には、ドメスティックな学会でレファレンスにしている当該社会を扱う場合でも、事例選択のなぜに触れるようにして欲しいなと思うし、そういう地道なやりとりが、社会学のボーダーレスな議論に繋がっていくと思っているけど、個人的な問題としては、距離感をおくことで解決した。

自分が見聞きする日米の社会学は、ちょっと理論フレーバーを加えた現代地域研究という意味では、大して変わらないとも言える。それを中範囲の理論という人もいるけど、自分からすると中よりは小範囲に見える。

November 1, 2021

秋学期9週目

 月曜日

最近平日結構ハードモードなこともあって土日はメール返したり、書類を書くくらいしかしてないんだけど、月曜を前に仕事がどさっと残ってると少し暗澹たる気持ちになる。

オフィスで論文を読んでいたら、今年リタイアしたマクラナハン先生の研究室にある本を自由にとっていいと知り、自分の研究に関連する本をもらった。直接関わりはなかったけど、10年早く生まれていたら指導を受けたかった、自分の分野のレジェント的存在。

読んでいた論文というと、今週の機械学習の授業のリーディング。テーマは刑事裁判での判決。プロパブリカがアメリカで最も広く使われているプログラムが、実は人種間の格差を広げると言って話題になってから5年、予測の限界を訴える論文もあれば、人種格差を拡大させないこともできるとする論文もあり、判断が難しい。

今日は10時半からプロセミナーで話し、お昼を食べて細々とした仕事をし、オフィスで機械学習のリーディング、帰宅して走りご飯、数理社会学事典の校正、質問のポスト、およびちまちまとメールの返信と日程調整。

火曜日

気持ち眠い。11時から授業。終了後OPRセミナーに少し参加して、留学生センターの人と面談、正直いい人には思えない。16時過ぎまで文献を読み、帰宅。作業するつもりが、夜に予定が入っていたことを思い出し大学に戻る。ディナーが終わって帰宅、明日のセミナーの用意。

水曜日

寝た時間に比してかなりよく寝た気がする。10時半からラボミーティングで、sibling imputation methodの話を発表した。終わって昼ごはんを食べ、13時半から授業、14時半からオフィスアワー(誰も来なかったので映画雑誌を読んだ)、15時半からまた授業。学生のプレゼンをアサインしたはずが、時間までに提出した人が1人しかおらず苦労した。17時から人口学研究所のソーシャルに参加して、18時半から機械学習の授業。水曜日は相変わらず忙しい。

木曜日

11時から授業、PCAの論文が発表で、面白かった。その後大学施設でワクチン接種。意図せずワクチン三種コンプしてしまいました(アメリカでJJ, 日本でファイザー, アメリカでモデルナ)。遅ればせながらモデルナアームに苦しめられてます。お昼を食べて、少し腕が痛くなるのを感じながら、授業の用意。新しいiMacが導入された。5時過ぎに帰宅、走り、ご飯を食べ、洗濯をし、8時半から先輩とミーティング。本屋で買ったCareer and Familyを読む。

October 28, 2021

今学期の目標

の途中経過

1. 博論第1章(遺伝と学校歴セレクション)の原稿を完成させて、DPとして出す。

 →ドラフトはできている。複数の学会、セミナーで報告。

2. 博論第2章を某ジャーナルに投稿する。

 →もうすぐ投稿予定。

3. 博論第3章プランBのドラフトを書き、指導教員からコメントをもらう。

 →原稿は送付済み。複数の学会、セミナーで報告。

4. 博論第3章プランAについて先行研究を読み、リサーチデザインを考える。

 →始めたばかり

5. Demographic ResearchでR&Rになってた論文の改稿、提出。

 →アクセプトされて、再現性コードも送付済み。

6. Sprngerから出る本の校正を済ませ、出版。

 →出版。書評されるらしい。

7. 慶應大学出版会から出る本の1章の校正を終わらせる。

 →提出、11月中旬発売(長かった...)。

8. 学歴同類婚と所得格差の論文を完成させ投稿

 →コメントが戻ってきたので改稿する、日本社会学会で報告

9. きょうだい構成と結婚タイミングの論文を完成させ投稿

 →もう少し

10. 健康と結婚への移行の論文のドラフトを完成させる

 →共著者の都合で中断、冬休み前までに再開するか?

11. 東大社研課題公募研究会「高校生の進路選択とジェンダー」の運営

 →第5回研究会で報告、第6回研究会は11月。

12. 「理論と方法」の書評

 →書き始めたけど、提出は冬休み。

13. 「数理社会学事典」の項目執筆→

 一つは終了。もう一つは校正待ち。

14. 配偶者選択基準の実験のための予算

 →プロポーザルを提出

15. 某研究助成

 →そろそろ始める。

October 27, 2021

秋学期8週目

 水曜日

今日は10時から2時間研究したあと、昼からランチセミナー、終わってキャンパスに行き、1時半からオフィスアワーを挟み2コマ教える。夕食を食べて論文を読み、6時半から3時間機械学習のセミナー(メソッドではなくメタな話)。帰宅後11時から2時間、日本の研究会に参加、報告。明日から2日間学会。たまに忙しい日が入るけど、食事制限をして、適度に運動して、良質な睡眠を取れば、なんとか乗り切れることに気付きつつある。マッサージを受けた後の今週は特に調子がいい。

研究会後の感想

80歳くらいになって身体的に分析ができなくなってきたら、日本語でアメリカの人口学と社会学の距離の近さに注目した学説の本書きたいなと思った。人口学の視点が広く共有されていることがアメリカの社会学のアメリカらしさだと思うし、人口学が強い理由でもある。自分の知的オリジンを記録に残したい。逆にいうと、手と頭をアクティブに動かすことができる間は、時勢に乗り遅れず経験的な研究をしていきたいなと思う。

木曜日

昨日遅くまで起きていたのを引きづり、気分が悪い。しかし11時から授業。そしてすぐ学会。自分のセッションは3時半からだったが、レコーディングだったので結局特に何も発言しなかった。終了後走って、ご飯を食べながら日本沈没を見て、風呂。

金曜日

割合しっかり寝たので気分はいい。しかし寝過ぎて11時からの予定まで30分。Hさんの映画会に出て、strat seminarに参加、Yさんにガチ研究フィードバックをもらいながら映画会に再び参加。その後IGSSの報告を聞いて、もういいかなと思ったので研究所性の申請書を書く。16時から大学に行って報告を聞く、その後夕食。帰宅後眠かったので記憶を数時間飛ばす。今に至る。再び申請書を書く。明日はアーミッシュのマーケットに行って、日本時代にアシスタントしてた人を知る人とディナー。

October 24, 2021

NYC trip 秋休み

プリンストンでは感謝祭にもならない10月に1週間の秋休みがあり、これを利用して先週ボストン、今日はNYCに行ってきました。

まず肩こりが限界だったので、はじめにチャイナタウンで整体を受けてきました。コロナ禍で身体的距離の近いサービスは嫌煙しがちになり、2年ぶりの整体でしたが、肩の可動域が広がり、自然と上を向くようになり、思考も明瞭になっている気がします。マッサージを受けて体に悪いこともないと思うので、体が資本の研究者(どの職業でも大概そうだと思いますが)を続けるために、定期的に通おうと思いました。ちなみに、以前先輩に勧められて行った、痛過ぎて肩こりが解消すると同時に別の箇所に痛みが出る中国系マッサージ店はコロナ禍で潰れてしまったので、今回行った店は今日が初めてでしたが、店内も清潔で店員さんも丁寧な対応でよかったです。

寿司とラーメン以外の日本食グルメ開拓が趣味になりつつある最近ですが、今日はマッサージ店からほど近いDr. Clarkに行ってきました。アルファベットになると?という感じですが、クラーク博士を冠した北海道レストランの店です。ジンギスカンは二人前以上からだったので、一人でも食べられるラムチョップとイカリゾットを頼みましたが、想像以上でした。なかなかアメリカでジンギスカンが食べられる店はないと思います。全体的にアングラで(井口理似の)店員の対応が素っ気ない雰囲気だったのも逆に好印象だったので、推しレストランになりました。夜の居酒屋利用がメインだと思いますが、昼でも全然いけます。イカリゾットは日本でも食べに行きたいレベルでした。

寄り道が過ぎましたが今日のメインの予定は初のNBA観戦。ホームチームのネッツは敗れはしましたが、デュラントは噂通り傑出した選手なのは素人目にもわかりました。第3クォーターまで接戦だったのに最後に引き離すホーネッツの試合巧者ぶりが印象的でした。夜ご飯は試合会場から少々歩いたところにある日系のラーメン屋さん。アメリカ一風堂で長く商品開発をされた方がコロナ禍が始まる2週間前に始めたというお店です。独創的なラーメンがメニューに並んでおり、時間を忘れて選んでしまいます。ブルックリンまで足を伸ばすには十分な美味しさでした。

この1週間で十分に休んだので、学期末まで残り6週間、研究・ティーチングにこれまで以上に精を出して、日本に一時帰国したいと思います。


October 22, 2021

ネイティブアメリカンとパンデミック

 に関する論文がアクセプトされました。論文一つ一つには出来上がるまでの人間臭いストーリーがありますが、今回の論文はかなり思い出深い論文になりそうです。

論文で示している推定値はすごくシンプルなんですが、それを出すために一つの論文では一番長いコードを書いた気がします。理想のデータがないときには、次善の策としてデータを理想に近づけますが(今回は標準化)、複数のミクロデータを要約するのと合わせ、その作業が結構難儀でした(言葉で説明してると簡単に聞こえますが、かなり難儀です)。

論文では、アメリカで最も不利益を被っていると言っていいネイティブアメリカンに注目して、人種別のコロナ死亡率を州ごとに推定し、他のデータと合わせて州レベルの相関から、何が死亡率を引き上げる要因かを推測しています(州レベルの相関か、と思った人はここで読むのをやめてくださって構いません)。分子と分母に異なるデータを使って年齢・カウンティの間接標準化を行うのですが、このマッチングが意外と面倒くさいです(例えば同じカウンティがあるデータではLaGrandeなのですが、別のデータではLa Grandeになっているのです)。

間接標準化をしたあとも、マイノリティの死亡率(この時点で標準化人口との比)を白人のそれをレファレンスにするかで結果も変わるので若干考える必要がありました。標準化死亡率の信頼区間を出したり、保留地が重要な要因であるとわかってからは別の統計を入手したり、思った以上に大掛かりな論文になりました。

とはいえ、このプロジェクトのミソは、学部生発案のアイデアを(ほぼ私が全て)分析して、シニアの先生がエレガントに論文にするという珍しいコラボレーションです。若干寄り道が過ぎた感があるけど、サブスタンティブも、メソッドも、共同研究の分業についても学ぶことは多く、思い出深い論文になります。

今年出そうな論文はこの論文で全てだと思う。2020年はほぼ何も出版できなかったけど、今年は溜まった分も出て、本1冊、英語論文5本(うち1つはデータベース)、日本語論文3本(うち1つは本の1章)と頑張れた。来年は博論にする3章のうち最低1つでトップジャーナル(3大誌+D)のR&Rをとることが目標。3章全てを3大誌+Dに投稿するとすると、持ち玉は12発で、すでに2発使ってしまったので、残り10発で1つ当てれば、今後数年が結構有利に過ごせると思う(発想がギャンブル)

October 18, 2021

秋休み

週末はボストンとプロビデンスに行き、社会学の友人と会ってきた。

最後に行ったのはコロナ前の秋休みの時期で、実に2年ぶりの再会。気づけば皆博士課程も後半戦に入り、すでにマーケットに出ている人も。彼らとの思い出は土地と繋がっている。ハーバードやブラウンのキャンパスを散歩しながらたわいもない話をする時間が、あと数年経つと愛おしいものになるのだろう。

彼らの成功を祈りつつ、今日のように会えるのはあと何回もないと考えると、少し寂しくもある。

土曜日

朝7時前に起床し、すぐPrintceton Junction駅に自転車で向かう。7時10分発の電車だったと思うが、プリンストンのトレーナーやTシャツを着ている学生が多かったのが印象的だった。1週間の休みに入ることもあり、地元に帰るのだろう。ニューアーク空港に到着すると、学生以外にも多くの人でごった返していた、もしかすると休暇シーズンなのかもしれない。10時発の便でボストンへ。最初の予定まで時間があったので、ボストン美術館に行くことにする。お昼ご飯を近くのつるとんたんで済ませたが、求めていたタイプのうどんではなかった。早く丸亀製麺がNYCにできて欲しい。美術館をささっと済ませて、電車でハーバードスクウェアに向かうはずが、逆の電車に乗ってしまい、挙げ句の果てに疲れていたからか終点まで爆睡してしまい、次の予定に30分ほど遅れることになった。

まず会ったのは、ハーバードの社会学にいる韓国人の友人。彼とは生年月日や研究関心も近く、同じ入学コーホートということもあり、心を通わせていると思っている友人の1人。2年間会っていなかったので、キャッチアップ。時間も経地、興味関心もお互い多少変わっていた。彼は家族の話に焦点をより移し、僕はゲノムの話をやり始めている。ウェビナーで顔を合わせることはあっても、なかなか互いの最近の関心まで話すことはないので、こういう会話をまた始めることができるようになって、日常を取り戻している気がする。

5時半の予定も30分遅れで参加。ハーバードとMITの政治学にいる友人とスペイン料理屋でディナー。タパスとワインを堪能。夜は後輩の家に泊めてもらう。

日曜日

9時過ぎに家を出て、South stationからプロビデンスへ。11時半に到着し、ブラウンにいる社会学の友人たちと韓国料理屋でランチ。こちらも2年ぶりの再会、積もる話を色々する。将来どの国住みたいか、そんな2年前は想像の域で話していたことが、今日はとても具体性を帯びていた。この2年間で、みなパブリケーションを増やしていて、お互い少しずつではあるが前に進んでいることを確認した。キャンパスを少し散歩。偶然日本の人とも知り合う。

3時50分の電車でボストンに戻り、空港にいく。電車にすれば良かったと後悔したが、うまくタイミングがあって、10時半には自宅に戻ることができた。

この休みは平日も旅行しようかと思ったが、溜まりに溜まった仕事があるので、平日は研究に集中しようと思う。日曜はNYCに遊びに行く予定。

October 11, 2021

秋学期7週目

 月曜日:社会学部のコロキウム。7時まで浪人論文の改訂。その間、メール返信(月曜は多い)、native americansのペーパー最終改訂。走って夕食を食べる。その後火曜日のreview sessionの用意。11時から怒涛のメール返信・送信。水曜の授業の質問を投げる。

経済学賞の受賞者に社会学の人でも馴染みがあることは、一面では彼らの業績が分野を超えて広がっていることの証でもある一方、社会学の定量的な分析がますますエコノメの手法に依存してしまっている側面もあるのかなと思う。よく指導教員の指導教員が言うのだけど、彼が80年代にマディソンで博士課程をしてた時、ゲーリー・キングは政治学ではなく社会学の統計の授業を取ってたらしい。当時は社会学の方が政治学よりも統計的な手法は進んでたと。30年で政治学の方が随分発展したと思う。

 火曜日:OPRセミナー。11時から授業。review session用のスライドを作り、腹が減ったのでピザを食べる。その後実験論文のファンディング申請書の執筆、5時からセッション。明日の報告資料を作る(今週は三つも報告があり大変)。終了後帰宅。8時半からreadi。今日の授業で箸遺伝子(successful-use-of-selected-hand-instruments gene, SUSHI)の説明をする時に、sushiって言うけど日本人は寿司を箸じゃなくて手で食べることもあるって冗談のつもりで言ったらドンスベりした、今年一番スベった。

 水曜日:ゲノム論文の報告。かなり建設的なコメントをもらった。時間をとってくれて感謝。1時半から4時半までティーチング、6時半から機械学習の授業。ポリシー系の人がいて、考え方が違うんだなと思った。合間に細々とした仕事をこなして、かなり忙しい。明日、スライドを作らないといけない。

 木曜日:11時からTAしている授業の試験。honor codeがあるので、部屋から出て作業。テストはよくできている気がする。週明けに採点。ささっと昼ごはんを食べて、ジョブトークのリハに参加。ゲノム授業の先生と電話して、早々に帰宅。疲れがひどかったので一眠りして、走る。学内助成の申請書を書き、medarxiv用の原稿を整理。申請書を提出。明日の報告のスライドを作る。そのあとひたすらメール書き。

 金曜日:浪人論文の報告

 土曜日:ボストンへ発つ

 日曜日:プロビデンスへ

October 6, 2021

Harden. Genetic Lottery 感想

パブリック向けにかなり積極的に発言しているHardenさん、この本では社会ゲノミクスを「反優生学」と位置づけ、優生学との関連で社会ゲノミクスの立ち位置を説明している。単に過去の過ちを顧みるだけでなく、今の社会ゲノミクスが過去の優生学と比べ何が同じで、何が違うかを解説しているのもよかった。

ゲノムに対するこれら立場の違いが、本の主題(ゲノムは社会的平等にどういう意味を持つか)にとっては重要になる。最後の章では、社会ゲノミクスが社会的平等を獲得するために不可欠であるとし、優生学への嫌悪感からゲノムを考慮しようとしない社会科学者をgenome blindとまで言っている。ゲノムを見ないことで、社会科学者は何を見落としているのか、この本は一般向けだけではなく、同業者にも重要なメッセージを発しているように思える。

著者も違うため単純に比較はできないが、過去数年に出された社会ゲノミクスの本に比べて、GWASがもたらす科学的な知見をエキサイトメントとして捉える傾向が若干抑えられてる一方、分かったことが社会科学やパブリックなテーマにとって、どういう意味を持つかという点が強調されてて、ちょっとメタな視点が入っているように思えた。

というわけで、こういう本が一般向けに出たことは分野の成熟を示しているようにも感じる。第一線の研究者がパブリックな言説も踏まえて一歩引いて議論しているので、様々な分野の人に読まれると思うし、社会階層論の今後の研究を考える上でも、とても重要な文献だと思う。

プラクティカルには、近接分野の人に対しても社会ゲノミクスの重要性を理解してもらえないと、間口がこれ以上広がらないステージに来てるのかもしれない。実際に教えてて、社会学専攻の学生に「社会学にとってどういう意味があるの?」と聞かれるので、そろそろしっかりとした答えを用意する段階かもしれない。

面白い本だと思ったのですが、突き詰めると彼女の主張としては遺伝も社会階層論でいう親の職業や幼少期の家庭環境といったfixed at birth, 自分では選べないもの(であるからそこで生じる格差は縮めるべき)という話なのかなと思いました。そうすると、概念としては出身階層としてまとめられる気もして、既存の分析枠組みにすっぽり入ってしまう感じもします(それはそれでいいのですが。

Hardenさんがロールズ正義論を持ち出して遺伝的不平等の是正という主張を出しているところは、政治哲学に詳しい人が読むと若干ナイーブな気はします。授業で教えてても感じることですが、遺伝率の高さやそれにもかかわらず環境は大事という話を(Jencksの批判)を紹介しても、学生の意見は結構多様です。社会学部の授業なのでリベラルな人が多いですが、哲学的に功利主義的なバックグラウンドを持っている人は、遺伝的ポテンシャルをどう行使するかに人の責任を見出してて、書評で触れられているノージック的な立ち位置に近い気がします。ゲノムについて一生懸命教えても、結局それ以前に形成されている政治的な態度によってその解釈も変わってしまうところがある気がして、既に存在している政治的な意見の対立の中に遺伝が入ってしまう気がします、そうなると結局またイデオロギー論争が繰り広げられ、社会科学でもまた受け入れられないのでは、そんな気がしています。

October 5, 2021

秋学期6週目

 あっという間に6週目、来週で前半が終わりで秋休みに入る。学期の半分と考えればそんなもんんかと思うが、1年は2学期しかないので、もう4分の1が終わっている。学生からしてみると、1年コロナで休みになったのは本当に気の毒だったろうと思う。

日曜は休みながら少し作業、ダヴィンチコードを見た。月曜日は遅く起きて、まずは博論の1章で人口学系の雑誌に投稿するものを改稿し終え、指導教員に送った。そのあと、難関大学のジェンダーさに関する論文を進める。3時からオフィスアワーが入っていたので、2時半過ぎに出る。オフィスアワーが終わってからしばらく論文を書き、小腹が空いたので外に出てピザを一切れ。そのあと論文を書き続け、帰宅。「天使と悪魔」をみる。

火曜日、先生が病欠で代打の先生がzoomで続けていた授業が、ようやくin personになった。というわけで、11時にキャンパスに行くために久しぶりに午前中に外出。やはりin personの授業の方が学生としては満足度高そう。今日はあまりproductiveにはできず、RAの仕事や明日の授業資料の作成で終わった。

水曜日、今日も化学賞でプリンストンの先生がノーベル賞を受賞、沸き立つプリンストン。授業を二つこなした。いつも通り、一つ目のセクションは静か、二つ目のセクションはちょっと盛り上がりすぎて学生間で論争になってしまった。

木曜日、村上春樹氏もプリンストン関係者だが、残念ながらノーベル賞受賞はならず。11時に授業、12時からミシガン大学の奥山さんのトークに参加。質疑の捌き方が非常に上手だった。2時半から大学へ。論文を書き直す。3時半からプリセプト。3回目になると教え慣れるので、だいぶ自信を持って教えられるようになる。5時半からディナー。社会階層論のセミナーをやっていて、そのゲスト。ウィスコンシンの先生なのだが、彼がサバティカルだった年に私の一年目がぶつかったので、実は会うのは(多分)初めて。中華料理屋で白酒をたくさん飲み、明日が怖い。ポーカーの話、酒の話、パーソナリティの話、中国の話。帰宅して酔いを覚ましながらメールを書く。

金曜日:昨日のディナーでだいぶ寝過ごしたが、10時過ぎにキャンパスに行き、ワークショップ前にメンバーと朝食。その後ワークショップ、GSACのミーティング。解散後真鍋先生のお祝い会。帰宅して麻婆豆腐を作る。眠かったのでそのまま就寝。

土曜日:午前中に郵便局に行く。自分が自分宛に船便で送った荷物に署名が必要らしい、そんな手続きにはしていなかった気がする。いずれにせよ家に不在だったため、荷物を取り損ねたのが水曜日。木曜に電話して翌日に再配送すると言われたが、金曜には何も起こらず。USPSに呆れ流のはこれに始まったことではないが、直接行くことにした。直談判の効果でその日のうちに再配送。その後ついでにファーマーズマーケットに。家に帰ってマーケットで買ったカブでナムルを作った。その後イカゲームをずっと見る。

日曜日:午前中は機械学習の論文を読む。昼ごはんを食べて午後からネイティブアメリカンの論文の校正。その後走って、夜ご飯を食べながら日本沈没を見て、少々ダラダラしながら機械学習の課題のポストや書評。マーケットで買ったオクラを使っておひたしと胡麻和えを作る。

今学期は研究:ティーチング:その他雑務=3:3:4くらい。コースワークが終わればその時間がそのまま研究になるかと思ったら、院生組織の代表、書評、論文査読、学内グループのオーガナイズ、などの雑務が増えて意外と思い通りに使えない。ティーチングから解放される来学期からは、もっと研究したい。

September 29, 2021

秋学期5週目

 火曜日、書店でgenetic lotteryを購入した。早速、3章まで読んでみたけど、双子からGWASまでの流れをユーモアを交えながら、わかりやすく解説している。

水曜日はこれまで同様(前後に同じ建物でティーチングがあるので)東アジア図書館でオフィスアワーを過ごしていた。ここに滞在する利点は、オフィスアワーという誰か来るかもしれないという潜在的な緊張感で普段の仕事に手がつきにくい厄介な時間を、日本語書籍をざっと見る時間に活用できる点にある。そんなこんなで、いつものように日本語の本を見ていたところ、以前少し話した司書の人と話し込み、なぜかわからないけど濱口竜介監督がプリンストンに来た話を聞かされたあと、その人の旦那さんが私が昔アルバイトをしていた先生の友人であることがわかった。こんな偶然があるのかと驚いたが、すぐオフィスアワーの時間に来た学生と話すことになり、今度ゆっくりご飯を食べながら話すことになった。

木曜日は魔女の宅急便がプリンストンの映画館で上映されていたので、見に行った。アメリカは観客の反応が大きいので、家で見たことがある作品でも楽しめる。 キキが魔法を使えなくなり、山小屋のお姉さんに私も絵を描けなくなるよと慰められるシーンで、論文書けてない自分は号泣。

今週は(これを書いているのは翌週だが)、対面のイベントが多すぎたので土日はゆっくり一人で過ごすことにした。


September 27, 2021

留学相談のもどかしさ

 私みたいな人間にも進路相談に来てくれる奇特な人がいて、アメリカの社会学博士云々について質問してくれるのは嬉しい。

一応、来てくれた人の当時の所属などは記録してて(結果的に出願したかどうか気になるので)、先日一つ相談を終えた後に見返したら、今まで相談に来てくれた人は全員男性だった。私自身、東大にいたから後輩も男性が多いのはしょうがないところもあり、さもありなんではあるのだが、周りの日本から留学してる人を見ても、男性が多い。アメリカの博士課程にいるのは男性よりも女性の方が多いので、この傾向は非常に珍しい。お隣の中韓台湾の留学生を見ていると、男女は等しいくらいだと思う。

上の話はそれ自体重要な問題ではあるけれど、今回書くのは違う内容。

進路相談で聞かれたことにそのまま答えればいいのかもしれないが、質問に対する答えは、だいたいケースバイケース、みたいになってしまう。正直、日本から留学する人はケース数が少なすぎて全体的な傾向など語れる気がしない(でも、聞く側としてはyes/noで答えて欲しいんだろうなと思うと、もどかしくもなる)。

典型的な例は、学部からストレートで行けるのか、修士を日本でした方がいいと思うか、という話。

経済学などに比べ日本の社会学修士はコースワークがしっかりしているとは言えず、別にアメリカのコースワークを真似ているわけでもない。従って、そこで良い成績を取ったからアメリカの博士に合格するチャンスが増えるわけではないと思う。一方で、自分自身は日本で修士をやれてよかったと思っている。例えば、私自身日本を対象にした研究をしているので、日本にいる時期に学会や研究会などを通じてネットワークを作れたことなどが挙げられる(もちろん、学部から修士にかけてこういったネットワークを築けたのは自分が東大にいて、指導教員が大きな科研を動かしてたという事情もあるので、これもあくまで一事例に過ぎない)。

学部から直接は理論的には可能だけど、数が少ない。でもこれはそもそも学部から出願する人が少ないからかもしれなくて、受かりにくいのかはよく分からない。

以上まとめると、ケースバイケース。こうした典型的な質問というのは、だいたいいつも聞かれて、上記のような長ったらしい説明をするので、だんだん自分の方も飽きてくるところがある。突き詰めると、「〜〜したら合格に有利/不利」という大学受験と同じようなロジックの質問がくると少し困る。もちろんそういった戦略的な部分は大切だと思うけれど、博士課程も後半になってくると、一番重要なのは、何を研究したいのか、そしてその研究を誰のもとで、どのような環境でしたいのか、これに尽きると思うようになってくる。

そこをまずfixさせた後に出願校を絞ったり、具体的な戦略を考えるという順番がストレートな気がするけれど、関心が定まっていない人は逆から始めたがる傾向があるような気がしている。関心が定まっていない場合には相談に来てほしくないと言っているわけではない。そのステージであれば、もう少し違った質問もできるだろうとは思う。例えば、ウィスコンシンやプリンストンの研究環境はどうなのか、東大と比べてどこがいいか、悪いか、そういう話ならできるし、おそらくそれは進路を考える際には無駄な情報にはならないと思う。残念ながら、そういう質問が来ることはほとんどない。

スコア的にプリンストンやハーバードに入れるチャンスがあっても、そういう人はごまんといるので差異化にはならない(し、私みたいにスコアが全然足りなくても変な理由で来てしまう人もいる、多分)。他の人が真似できないアプリケーションとは、結局自分が大学院で何がしたいか、それがどうして重要で面白いのか、自分がその問題を解けるポテンシャルを持っているかを論理的・説得的に示すことだと思うので、関心が定まっていない人には、本当に表面的な、ケースバイケース的なアドバイスをするほかない。

英語の勉強をしておくに越したことはないけど、あまり焦らず、ひとまず何を研究したいのか、それに時間を費やすことを優先した方が良いのではないかと思う。もちろん、出願前の人にとっては戦略的な部分に目がいってしまうのもわかるので、自分の考えは選抜を終えた人間ができる偉そうなコメントの類かもしれない。

進路相談で表面的なことを言ってお茶を濁すだけでもいいのだが、上記のような本音じみた話をしてしまうと、結果的にdiscourageしてしまうこともあるようで、そこは反省している。そして、反省しているうちに、自分もadmission経験も古くなり意味がなくなるか、あるいはアメリカの研究大学に就職できていれば、そちら視点の感想を垂れ流すようになるかもしれない。

September 26, 2021

何が面白い研究、ではないか。

 自分はアメリカオーディエンス向けに日本事例を面白いと思ってもらえるようなフレーミングで論文書いてるけど、そのフレーミングを必ずしも共有しない(日本の)オーディエンスに報告しても、ピンとこないのは仕方ないかなと思う。日本とアメリカ両方の社会学の人に面白いと思ってもらえる研究がしたい。

その過程で生じうる非本質的なミスコミュニケーションは極力排除すべき。これは自分でなんとかできる部分、できない部分がある。できない例:最低限知っておくべき方法的知識のラインが高くなく、日本のコースワークの多くでクオリティコントロールができていない。古いコーホートほど、個人差が大きい。

その帰結として、アメリカで報告するように報告すると、オーディエンスにとって必要な説明を飛ばしてしまうことがある。本質的な解釈が重要なので、メソッドについて必ずしも詳しくない人にも、それが何を意味しているのか、説明を適宜加えることで、多少ミスは減らせると思う(前回の学会報告の反省)。

ちゃんと理解・解釈してもらった上で、自分の研究が面白くないのであれば、それは一つのフィードバックなので、とてもありがたい。次、面白いと思ってもらえるように頑張る。

September 23, 2021

秋学期4週目

 もうあっという間に学期も3分の1近くが終わろうとしている。ゲノミクスの授業では、幸いオフィスアワー2回とも学生が来てくれて、望外の喜びだった。

一方で、学生からもう少し社会学っぽい話をしてくれないかと言われた。当たり前と言えば当たり前だけど、社会ゲノミクスの授業で行動遺伝学101や分子生物学101みたいな授業をしても学生のニーズは満たせない。一方で、そうした101的な知識がないと、GWASの重要性も分からない。今は遺伝研究の歴史として双子や候補遺伝子を扱ってるので、もう少し我慢して欲しいなと思う。

今日の授業では候補遺伝子は偽陽性ばかりなのでゲノムワイドの時代には厳しくなっています、という話だけでもよかったけど、加えて遺伝子を操作変数に使った因果推論の話をして単一遺伝子も捨てたもんじゃないと言おうとしたところ、10分で要約する力が自分にはなかった。学生もエコノメ取ってれば違ったかもしれない。

今の社会ゲノミクスはいろんな分野の専門家が混じり合ってできてるので、前提知識のハードルが高い気がする。ドラクエ6でいうところの賢者みたいな職業。学部生向けの授業にしていくためには、もう少し敷居を低くしないといけない気がする。

September 18, 2021

秋学期3週目

なんか今週は本当に疲れた、月曜にファカルティとミーティングし、火水木は授業、木金のワークショップで報告とコメント、その他ミーティングや夜にウェビナー、研究。

とはいえ程度の差はあれ必要とされているから忙しいところもあるので、感謝しないといけない

September 8, 2021

秋学期2週目

 昨日は東大でセミナー報告があった、かなりプレリミナリーな分析だったが、それなりに人も来てくれて、コメントももらえたのでよかった。今日コメントを踏まえて分析してみて、説明できないところが多いが、一つ光明が見えた気がする。

午前中はR&Rをもらった論文の修正だった。この論文では自分はsubstantiveには知識がなく、分析で協力しているが、出版されればその道では必ず引用されるものになり気がする。

TAをすることになっている社会ゲノミクスの授業はいくらか混乱があった。まず先生が諸事情で数週間授業ができなくなったため、急遽シニアの先生がピンチヒッターに出ることになった。シラバスも公開が遅れ、その間数人キャンセルが出た(送れなくてもキャンセルしたかもしれないが)。公開されたシラバスを読んでみると、どうやらPLINKを用いてGWASを走らせるらしい(そんなの聞いてない苦笑)。初めて開講される授業だからstructuredされてなくていいかなと思ってとったが、unstructuredすぎて先が若干思いやられる。

ちょうど彼と話をしている時、ふと先生が学生に発表させた方が学生はよく学ぶし、こっちも講義資料を用意して話す必要がなくなるからウィンウィンだと漏らしてた。一理あると思うけど、難関校でしか通じない方法かなと思う。

若い先生ほど張り切って教えようとするけど、手を抜く術を身につけないと研究もできなくなるというニュアンスを感じた、ある種の隠れたカリキュラムかもしれない。

土曜。学会に参加しているような参加していないような変な気分の二日間だった。数理とかならズームでも「学会」感があるんだけど、初めてだと誰に向かって話しているのか見失う時がある。時節柄注目されるテーマなのかタイトルが過激だったからかわからないけど100人近く報告聞きにきてくれたのは予想外だった。自分の経験だったり考えは偏ってるので、n=1でも実感ベースの話をしてくれるとすごく安心するし、自信を持って研究できる。

September 5, 2021

秋学期1週目

 プリンストンでの3年目が始まった。自分は入学年度で数えると3年生だが、ウィスコンシンに1年いてから転学したので、社会学部は自分のことを4年生として扱っている。毎度学期の始まりは自分が何年生なのか、分からなくなる。説明するのがめんどくさいという意味では、自分の出身地を英語で聞かれた時と似ている(茨城と言っても誰も知らないのでnear Tokyoと言っている。出身を聞いてくる人の頭にあるのは東京、大阪、京都、神戸くらいなのだ)。

今学期は博論を進めつつ、主としてティーチング義務を終わらせることが目標になる。社会学部では、博士候補になる頃にはティーチングは終わっているのが通常だが、自分は転学してきた都合で、1年目にティーチングができなかったのがハンデになっている。週2回のレクチャーに加えて、3セクション+オフィスアワーは正直時間が取られるが、自分が勉強したいと思っている社会ゲノミクスの授業にアサインしてもらったので、教えるのが学ぶことへの最短経路と思って覚悟している。

それでも流石に、平日の火水木曜の午前から午後がぽつぽつとティーチングで埋まっていると、なかなかまとまった研究時間がとりにくい。zoomが浸透してしまったので、ウェビナーの数も増え、それだけならマシだが遠隔の人とのミーティングも増えている。共同オフィスでzoom会議に参加するわけにもいかず、音響設備が整っている家を選びがちになり、ずっとオフィスにいることが難しい。

コロナ禍で爆発的に増えたウェビナーの類いも、始めたらやめにくいようで、in personには戻らずに学外の人も参加できるようなウェビナーを続けているところも多い。どうしても参加できると参加したくなってしまうのが人間の性で、情報の取捨選択により意識的になる必要性を感じている。in personの学期を再開しながら、コロナ禍で行っていた東アジアにいる人とのウェビナーにも参加していると、昼も夜も働き詰めになり、バーンアウトしてしまうかもしれない。

本来であれば、査読に落ちた博論の第2章を改稿して再投稿するのが目標だったが、メンターの先生と出していた投稿していた論文が6ヶ月近く経ってようやくR&Rが来て、今週はその作業に6時間ほど使ってしまった。もっとも、一番時間をかけたのは、博論第3章にすることにした選抜的大学における女性の少なさに関する論文で、これが忙しい。徐々に定まってきた論文のフォーカスは間違っていない気がするが、穴だらけでそんなすぐに全て埋まる類いのものではない。そんな状態でフィードバックをもらうと、さらに穴が見つかり(それ自体は感謝している)、一向に終わる見込みがない。直感的にはあと2ヶ月くらいはこの論文をメインに取り組まないと、先が見えてこない気がする。ただ、何かが見える感覚はある。それ以外にも、日本で出版されるコロナ禍に関する本の1章の校正、springerから出る本の校正、奨学金をもらっている財団への報告書、readi seminarのオーガナイズなど、教育・研究業務以外の仕事も盛り沢山で息を休める暇が全くなかった1週間だった。研究の方では、アメリカ人口学会に提出する第一著者の論文が二つ、それ以外の論文が二つある予定。

かろうじて3本ほど映画を見ることができ、少しばかり息抜きになった。

日本は学会シーズンで、今月は数理、家族、教育の三つにエントリーした。自分は英語で論文を書いているけれど、欲を言えば日本の人にも読んでもらいたい。日本の人に読まれない日本研究とはなんぞや、という変な意識もある。彼らにも引用してもらえるように、自分の研究をセールスしに行く必要がある。カセットコンロを売るときに、どういう仕組みでカセットコンロが動いているかを説明する必要はない、ただこのカセットコンロは役に立つことをわかってもらえれば、それでいい。

口で言うのは簡単だが、実際はなかなか難しい。カセットコンロをふだん使わない家庭にセールスに行っているからだ。アメリカのオーディエンス向けに報告する内容をそのまま翻訳するだけでは、日本のオーディエンスに関心を持たれないことがある。これを知的関心が共有されてないと言ってしまうのは簡単だが、自分の仕事は、アメリカのアカデミアで大事にされている研究の一つとして自分の研究を位置付けつつ、その先行研究を広報しながら、日本の研究者にも納得してもらえるような知見を提供すること。これはかなり大変だと、徐々に気づき始めている。

学会によっても毛色は違う。例えば、数理は良くも悪くも理論フリーな世界なので、どんな研究でも食わず嫌いなく、コメントをもらえる。先行研究に根ざしたコメントが来ることは少ないが、その場で思ったことを言ってもいい雰囲気があり、確かにそういう可能性もあるなと気付かされるという意味では、非常に助かっている。

そんな訳で、昨日は数理でポスター報告(深夜2時まであり疲れた)、今日は家族社で報告(報告するたび、いまいち納得してもらっていない雰囲気を感じる、家族社会学者向けのパッケージングは改めて考えないといけないと反省した)。また、月曜には東大の日本研究所のセミナーで報告、来週末には教社で報告、最後に再来週にインディアナ大のワークショップで報告がある。家族社以外は、同じ内容で報告するが、オーディエンスにかぶりがないので、いろんな視点からフィードバックをもらえることができるのは非常に有益。今月は多すぎだけど、それでも今学期は毎月2回くらい報告機会がある。問題は、自分に全てを消化し、反映する能力がないこと。

休日は積極的に人に会うようにしている。コロナ禍で人と話せなくなって、頭が硬くなっているのを時々感じるからだ。平日の忙しさで家でのんびりしたくなる気持ちもあるが、土日のどちらかにはキャッチアップの機会を設けている。今日は、東大からプリンストンに交換留学しにきた学部生、および東アジア学部の関係者とお茶。その後に友人とキャッチアップ。学ぶことは多い。特に普段接しない年齢の違う人からは若い人もシニアの人からも、刺激を受ける。

September 1, 2021

大学進学におけるリスク回避の男女差

サマースクールが終わってから2週間ほど、「難関大学になるほど女性が少なくなるのはなぜか」について改めて考えていました。既存の説明に対する不満は、日本に関してのみ当てはまるアドホックさにあり(例:男子校、もちろんそれ自体は説明として大切ですが、日本特殊すぎるとレバレッジに欠けます)、それが気になって他のコンテクストにも応用できそうな話を考えていました。

経験的にわかることは、端的にいうと日本の大学進学では女性は浪人しづらく(浪人すれば翌年、難関大学に受かるチャンスは増える)、高校1-2年の時に国立大学を志望していても3年時に私立や短大に変えやすく、さらに推薦入試を受けやすい(加えて、もしかすると志望順位をセンター前後で低くしやすいのかもしれませんが、それは今持っているデータからはそもそも観察できず)のですが、問題はそれがなぜ生じるかです。

たしかそんな折に社会心理学の文献を読んでいたら(なぜかは思い出せない)、どうやら女性の方が自分の能力に自信を持たない傾向にあるらしいと指摘されていました。そこで、例えば共通試験で同じ点数でも、女性は自分の点数をネガティブに考えてしまう(C判定を合格率が50%「も」あると考えるのか、50%「しか」ないと考えるのか)のかなと思い、しばらくその線で論文を書いていたところ、サマースクール中にあったスタンフォードの院生から、行動経済学の研究(Niederle and Vesterlund 2011など)を教えてもらい、そこでは女性の方がトーナメント的な環境を好まないとする知見が実験室、および実際の観察データからも支持されていることが指摘されていました。これはつまるところ、勝者と同時に敗者が決まるような競争システムは男性有利に働いていることを示唆しています。

また、女性の方がリスク回避的な傾向があることも、浪人という1年かけて確実に受かるわけではない試験を再受験するリスクをとるより、第一志望ではなものの高い確率で合格する指定校推薦などを選択する要因になっているのかもしれないと考え、その時はこのアイデアを大学入試に応用した研究を見つけられず、期待半分・不安半分で論文を書き進めていました。しかし、ここ数日で教育経済学の雑誌などでアイルランド(Delaney and Devereux 2021)、フランス(Boring and Brown 2021)、トルコ(Saygin 2016)で女性の方が選抜的な大学を志望しにくい(選抜度の低い大学を志望しやすい、つまり滑り止めを受験校に入れやすい)ことが指摘されていていることが分かりました。志望校を複数選べる一方で試験は一発勝負のトルコに至っては、日本のような浪人が存在するようです。女性の方が滑り止めに出願しやすいので、トルコ版浪人にも女性は少なくなります。

というわけで、大学進学における男女の心理的特徴の違いから難関大学の男女差を説明するだけでは、いくら日本の独特なコンテクスト(例:私立に比べて入試機会が限られている国公立大学の存在など)を強調してもトップジャーナルを狙うのは難しいかなと考えています(と同時に、この仮説を考えていたのは自分だけではなかったんだ、という安心感もあります)。現在分析に用いているデータは高校生だけではなく、その親にも答えてもらっているので、今後のポテンシャルな展開としては親子間でリスク回避志向や競争への選好が伝達するメカニズムを分析に組み込むと面白い気がしています。

ちなみに、リスク回避などの心理学的特徴はある程度遺伝し、また親の遺伝していない遺伝子も家庭環境を通じて子どもに伝わることは容易に想像がつくので、今度はリスク回避志向の男女差がなぜ生じるのか、遺伝的・非遺伝的メカニズムを峻別すると面白そうです(完全に別の話)。遺伝的に同じリスク回避志向を持つ傾向にある男女も、おそらく男性の方がそうした遺伝的ポテンシャルを発現しやすい家庭・教育環境に置かれると考えられるのですが、具体的にそれが何なのかを確かめるのは、社会ゲノミクス的には結構面白い気がします。

August 16, 2021

サマースクール2週目

 1週目で疲れ果ててしまい、土日は課題を少し進めるくらいで休養日になった。土曜日は参加者と一緒にbike tripとハイキング、日曜はfarmers' marketに行った。

月曜日。夕食でサマースクールの内容を教科書にしてみては、という話になったが、2年前の資料がもう古いくらい日進月歩で進んでいる分野なので、教科書にしても数年後には間違ったことを書いてるかもしれないのが懸念と言われる。自分のメンターも、2017年に書いた入門書がすでに古くなっていると言っていた。

社会ゲノミクスの科学的にいいところは社会学にも輸入していきたい(プリレジ、多重検定、レプリケーション、コードの共有、プレプリント)。もうすでにそうなりつつあるけど、社会科学でも徐々に自然科学型の大規模コラボレーションが主流になると思う。

教養主義

 脈絡がないが(twitterで大学一年生に古典を読ませるのが批判されているようなので)駒場の教養主義について思い出した。

個人的には東大駒場の教養主義的な雰囲気は好きだった。正確には、田舎から出てきて大学院で研究するという道を知らなかった自分に、アカデミアに行くというルートを意図せず教えてくれた先輩や同期にはすごく感謝してる。彼らと出会わなかったら、そういう世界があると知らないまま卒業していたと思う。

同じクラスだった開成卒の友達に、当時テレビで話題になってたサンデルの話をしてたら「マッキンタイアどう思います?」と言われて目が点になった。早熟といえばそれまでかもしれないけど、中高一貫校出身者は受験にもどことなく余裕があって、高校の時から専門書を読んでる人が少なくなかった。

多少の見栄もあるので、マッキンタイア知らないけど読まねば…と思った。自分がいた駒場はそんな感じで、確かにそこにあった古典で殴る雰囲気は健全ではない気がする。と同時に、理由はわからないけど読まされる経験がなければ、そもそも自分は研究に興味を持たなかったかもしれない。

August 10, 2021

社会ゲノミクスのためのマニフェスト:社会科学にゲノムゲータが必要なのはなぜか?社会科学はゲノミクスに何ができるのか?

 日曜から社会ゲノミクスのサマースクールに参加しているわけですが、色々な分野の人と萌芽的なトピックについて一緒に学んでいく過程は、知的刺激に満ちていて、コロナ禍で凝り固まった頭がほぐれる瞬間に幾度も会うことができています。

まだまだ学んでいるばかりなので、変なことを言っているかもしれませんが、社会(科)学がなぜゲノムデータと真剣に向き合う必要があるか、数日考えたメモを書いておきます。後日書き足すかもしれません。

社会科学にゲノムデータが必要なのはなぜか?

社会科学者の多くは、おそらく「なぜゲノムデータを自分が扱う必要があるのか?」と思うことでしょう。「社会」を研究する側にとって「遺伝」は対極にあるものと言えるかもしれません。こうした懐疑的な見方に対して一つ回答を提示するとすれば、「我々が関心を持つアウトカムも世代間で遺伝するから」という答えがあげられます。ここでの遺伝は、生物学的に決まっているという意味よりも、あるアウトカム(遺伝研究では形質)が親子間で遺伝したり、きょうだい間で遺伝的に相関していることを指します。心理学者のTurkheimerはかつて「すべては遺伝しうる(everything is heritable)」という有名な言葉を残していますが、人間同士の差を決める特徴で、遺伝しないものをあげる方が難しいです。

たとえ社会科学が関心を持つアウトカム、例えば賃金、教育年数、政治的志向、健康などが遺伝すると認めたとしても、なお以下のような反論が想定されます、つまり「それは切片であって独立変数にはならない」。集団間で注目する形質が遺伝するとしても、それ自体は生物学的なメカニズムであって、社会的な要因によって形質を説明する限り、遺伝は関係ないという考えです。これに対しては、二点反論をあげることができます。

一点目としては、遺伝子と社会的環境は相関する点があげられます。例えば、教育年数を予測する遺伝子を持つ子どもの親は実際に教育年数が高く、所得も高い傾向にあります。したがって、仮に遺伝子を統制しない場合、環境要因(親の学歴や所得で見た家庭環境)が形質(教育年数)に与える影響が、因果的なものなのか、それとも遺伝子を考慮すると無視できるくらい小さくなるのかは、経験的に検証する必要があります。親の学歴といった個人レベルの環境要因じゃなければ遺伝子を見なくてもいいのではないか?という批判も考えられますが、個人を超えたレベルの環境(例:近隣の豊かさ)も遺伝子と相関します(教育年数遺伝スコアが高い子どもの親は豊かな近隣に住む傾向にある)。さらに、周りの人間の遺伝子も形質に影響することがあります。アメリカの研究では、高校の学年に遺伝的にタバコを吸いやすい人が多いと、自分もタバコを吸いやすくなるという研究があります(これをメタゲノム効果と呼びます)。

二点目は、遺伝子と環境が組み合わさって形質に影響を与えることがあります(交互作用)。例えば、現在多くの研究が、豊かな親のもとに生まれた場合、教育年数を予測する遺伝スコアが教育年数に与える影響がより強くなるのではないか、という点が検討されています。この仮説は、具体的には教育年数が高くなるような遺伝的特徴を持った子どもに、資源を多く持つ親はより多くを投資するのではないか、という予測を導きます。実際には、上述したように環境と遺伝子は相関するので、交互作用が因果効果なのかを同定するのは難しいところがあります。しかし、仮に環境が遺伝子とは独立に生じる場合、強力な因果推論が可能にあります。例として、ソビエトの崩壊後に、教育年数遺伝子スコアの予測力が増加した(共産主義体制の崩壊はより能力的な選抜を重視するようになったから)、ベトナム戦争に招集された人のうち、喫煙遺伝子スコアが高い人(遺伝的にタバコを吸いやすい人)において顕著に喫煙行動の開始が見られた、などの知見があります。具体的な介入がなくても、教育年数遺伝子スコアの予測力は男性では時間的に変わらないが、女性では近年になるにつれ上昇している(昔は女性が高等教育に進出する機会が構造的に限られていたため)、あるいは近年ほど喫煙遺伝子の予測力は上がっている(たばこ税の導入や禁煙規範が強くなったことで、タバコを吸う人はますます遺伝的に吸いやすい人に集中しているため)など、社会の変化と遺伝子の予測力は密接に関連していることを示す研究が近年、続々と出てきています。

社会学はゲノミクスに何ができるのか?

社会ゲノミクスのアジェンダは基本的に、既存の社会科学的問いの中にゲノムデータを位置付けて、今までの知見をブラッシュアップしていこう、という姿勢を持っています。例えば、本人の遺伝的な特徴が教育年数を予測するのか、それとも家庭環境の方が重要なのか、いわゆる「生まれか育ちか」の論争では、先天的な能力指標としてIQや知能指数が用いられてきた歴史がありますが、これらの指標が測られる頃には、すでに子どもは家庭環境の影響を受けており、純粋な先天的指標にはなり得ません(実際には、既存のゲノムスコアもこの限界を克服できていません)。

一方で、社会ゲノミクスに、社会科学の視点を使ってゲノミクスをアップデートしようとする姿勢は希薄な気がします。ただゲノムデータを輸入するだけでいいのか、少し考えたところ、社会学が貢献できるのは以下のような点なのかもしれないと考えています。

社会学は、究極的には個人の行為と制度的条件のインタラクションを研究する分野です。そこでは、例えば親の教育年数と子どもの教育年数が相関するだけでは不満が残り、なぜそうなるのかを説明することは求められます。例えば、学歴の高い親は、自分の得た地位を選抜制度を通じて合法的に子どもに継承させるために、子どもの教育に投資をするのではないか、という仮説がありますが、この仮説の主体は親である個人です。なぜ学歴の高い親にとって教育投資をすることが合理的なのかを、社会学は説明しようとします(ここでの合理性は経済合理的な選択に限りません)。

こうした個人の行為と制度の相互作用を研究する社会学的な視点をゲノムデータを見る際に持ち込むと、以下のような不満が生じます。現在の遺伝研究では、遺伝的に親子の教育年数が相関するメカニズムを説明できておらず、なぜその関連が生じるのかを説明する必要性を強く感じます。遺伝子と形質が1対1に対応する場合は因果的な説明が可能です。つまり、ある遺伝子を持っているかどうかによって、病気になったり、血液型が変わったりする事例です。しかし、社会科学が関心を持つようなアウトカムの多くは、complex traitsと言われ、単一遺伝子では説明できないものばかりです。こうした形質に注目する以上、生物学的なメカニズムがファジーになるのは仕方がないところがありますが、社会(科)学的な視点を応用すれば、教育年数の遺伝的相関を行為レベルに分解して、そのレベルに該当する遺伝的アウトカムや制度的な条件を手繰り寄せる気がしています。

日本事例がなぜ必要なのか?

残念ながら、社会ゲノミクスのためのデータ整備という観点では、日本は著しく遅れています。以上で述べた複雑な形質を予測するための遺伝スコアは、100万以上ある遺伝子座の情報をまとめた要約統計を作成する都合で、まずスコアを作成するために大規模なサンプルが必要であり、さらに(機械学習でいう学習データにあたる)遺伝スコアを作成したサンプルとは別のサンプルを使って、実際の分析をする必要があります。幸い日本でも、前者のデータは整備されつつありますが、後者に使われる社会調査では遺伝子データがまだ集められていないのが現状です。前者についても、日本ではまだ健康や疾病といったアウトカムに着目した遺伝スコアが構築されているに過ぎないのが現状であり、教育年数などのアウトカムはまだ遺伝スコアすらできていません(アメリカの遺伝スコアを使えばいいのではないかという指摘が考えられますが、実はこれができない事情があります)。

そもそもの問題として、社会ゲノミクスにとって日本事例は必要なのか、という考えもあるでしょう。アメリカ以外にも、レジストリデータが整備されている北欧やイギリスなどでも遺伝子データの整備は進んでいて、わざわざ日本のデータを用いる必要はないのでは?という疑問は最もなところがあります。

これに対しては、日本事例は社会ゲノミクスに対してユニークな貢献ができると確信しています。社会ゲノミクスは、遺伝子の研究ではなく、遺伝と社会の相互作用の研究分野です。特に、先述したように社会(制度)の側が遺伝とは独立に変わる時が、今までわからなかったことがわかるようになる瞬間です。この点で、日本はその他の高所得国に比べて独自の強みがあります。日本は150年という比較的短い歴史の間に、急速な近代化と戦争による体制の変化、近年では急速な少子高齢化といった大きな制度的変化が連続して起こっています。社会学では欧米と比べて東アジアの急速な近代化の帰結を「圧縮された近代」と呼ぶことがあるのですが、この視点は社会ゲノミクスの研究関心に新しい知見をもたらすことができるはずです。

個人の遺伝子は急激な制度変化にどのように反応し、その結果としてどのようなアウトカムが生じるのか。複数の制度変化が同時に生じた場合にはどうなるのか、わかっていないことが実はたくさんある気がしています。以上のような理由から、日本でもゲノムデータが整備されることを強く望みます。

August 8, 2021

社会ゲノミクスサマースクール

 今日から20日まで社会ゲノミクス(sociogenomics)のサマースクールに参加するため、バーモント州にあるStoweというところに来ています。社会ゲノミクスというのは、名前の通り社会科学とゲノミクスの融合分野なのですが、基本的にはゲノムデータを用いて社会科学的な問いに答えていく新しい領域という理解でいいだろうと思います(残念ながら?社会科学的な視点を用いてゲノムの研究をすることはあまり求められていません)。

このサマースクールは、Russell Sage Foundationという財団がサポートしています(なので、参加費などはありません、ホテル代から飛行機代まで、全てカバーされています、その代わり選抜があります)。アメリカは、アイビーリーグなどの私立大学の予算規模が日本の大学の比較にならないところがありますが、この手の(よくわからない)財団が惜しみなく研究に投資をしてくれるのも、日本にはないアメリカのアカデミアの特徴だと思います(日本の財団でも研究助成や奨学金はありますが、サマースクール支援の類いは聞いたことがありません)。このサマースクールのeligibilityはアメリカの大学に通う人に限らないのですが、やはりプリンストンの先生の推薦があって選抜に通ったところもあると思うので、既に属している豊かな研究環境から、また恩恵を受けていることをありがたく思わねばなりません。

講師陣は、この分野をリードしている先生方ばかりで、非常に豪華です(博論コミティにいる先生も講師として来ており、1年半ぶりに再会しました、感動)。受講生の方はパンデミックの影響でビザが降りなかった人がいるようで(ヨーロッパ方面だと思います)、今回 in personで参加するのは従来の6-7割程度まで減っているようです。そのかわり(おかげで?)ホテルの部屋はみな個室をもらえています。この年になると、そろそろホテルの部屋のシェアも辛くなってくるので、ありがたい限り。。

Stoweはスキーリゾートで、おそらく雰囲気としては夏の軽井沢に近い気がします(白状すると軽井沢には行ったことがないので、自分の記憶で例えるとすれば、乗鞍に近い印象)。ちなみに、空港からのシャトルバスで一緒だったアメリカの参加者の人も、バーモントには来たことがなく「ここはほぼカナダ」だと言っていました。アメリカ人が「ほぼカナダ」という時には、若干ブラックユーモアが入っている気がします(「ほぼカナダ(苦笑)」のニュアンス)。ちなみに、バーモントの人口はアメリカの州で49位、つまり全米50州の下から2番目で、ホテルまでのシャトルに乗っている間も、ほとんど人影を見ませんでした。オフシーズンなのでしょう。

パンデミックが始まってから、研究業界では学会やこうしたin personの集まりは潰えてしまったのですが、いよいよ日常が戻りつつあります。人と握手するなんていつぶり!と今日は挙動不審になってしまいました(自分から人と握手する勇気は、まだ自分にはありません、今日は「え、握手するの?笑」みたいな反応になってしまいました)。コロナ禍で失われてしまった初めて会う人とのコミュニケーションを、文字通り体から思い出す1日で、非常に新鮮でした。

とは言っても、個人的にはデルタ株の流行を前に、本当にin person meetingを再開していいのか?と疑問に思わなくもありません。明日から始まる講義の最中はマスクをつけることがマストですが、食事中は当たり前のようにノーマスクなので(この辺り、黙食を推奨する日本的な価値観が入る余地は全くなく、皆さん潔いです)、正直マスクをしている効果はあまりない気がします。全員ワクチンを打ち終えているわけですが、ブレークスルー感染のリスクも分からないところがあり、無事12日間の日程を消化できるか、期待半分、不安半分というところです。とは言いつつ、アメリカでは国内旅行はほぼコロナ前の水準に戻りつつあり、小規模なin person meetingも再開しているでしょうから、変に負い目を感じる必要もないのかもしれません。

日本から帰って来て、アメリカでマスクをしていない人の多さに驚いているのですが、1ヶ月半の一時帰国の間に、不要不急の行動は自分だけではなく人様にも迷惑をかけるので慎むべきだ(マスクをするのも同様の理由)、という日本的な価値観が刷り込まれているのかもしれません。日本的価値観というより、これは公衆衛生的な正義だと思いますが、アカデミアで大切とされるネットワーキングがこの正義に打ち勝とうとしている、そのせめぎ合いを見させられているところかもしれません。

July 17, 2021

頼まれ仕事をどう考えるか

 最近、○善から事典出すのが流行っているのか、院生の私にもいくつか項執筆のオファーが来ました。多くの研究者がいるにもかかわらず、私のようなものに声をかけてくださることに恐縮しつつ、判断に迷うことがあります。

こういったことを公に書くのもアカデミアの慣習的にどうなのか分からないことがありますが、他に判断に迷う人がいればと思い、少し書いておくことにします。

オファーは二つ頂きました。一つは所属する学会関連だったので受けたましたが、もう一つは推薦してくださった先生を含め、事典の編集者と面識がなく、要項を読んでも自分が執筆にベストな人間ではないと思ったのでお断りしました。

この手の依頼原稿をどう対応するか、判断が難しいのは以下のような理由によります。

  • 院生にくる時点で有名な先生には種々の理由で断られてきたのではないかと察するので、断るのも申し訳ない。
  • どれくらい業績になるのかが分からない。多分直接的にそれで仕事を得られるということはない。さらに自分のような日本アカデミアをしばらく考えていない人間には皆無な気がする。しかし同時に「いつか日本に帰った時に」という言葉がチラつき若干迷う。
  • 自分が執筆するにベストだと判断できない場合は断ると書いたが、そのことを編者はあまり気にしていない節がある。要するに、ある程度詳しければ誰が書いてもいいのでは、という態度を感じることがある。
  • そもそもその事典がどういう読者に届くのか分からない。
時間は有限で、まだ自分は自信を持って示せる代表作を出せてるとは思えていません、そういう中で頼まれ仕事をする積極的な理由があまり見出せていません。一方で、つながりは大事だっていうし、色々分からないため、ケースバイケースで判断しています。

真剣に悩む類のものではないのかもしれませんが、安定したポジションを持たない若手にとっては、著名な先生から依頼された仕事を受けないことによって生じるデメリットがあるのではないかと、感じる人も少なくないのではないでしょうか。

ちなみに、同じ頼まれ仕事でも、査読などの依頼は積極的に受けるようにしてます。それは、優れた研究成果を出すために不可欠なプロセスであり、自分もその恩恵を受けているからです。書評は微妙な事例ですが、お世話になっている学会からオファーがあったときは受けました。

自分の研究に資するのか、新しいネットワーク作り、これまでお世話になった人や学会への義理、あるいはアカデミアや一般に対する公共心、時間の制約と合わせてこれらを考えながら判断していくのでしょうが、自分の中で一貫したポリシーを持つことはなかなか容易ではありません。

July 6, 2021

一橋大学

7月5日より一橋大学経済研究所のお世話になっています。研究所の共同研究事業の一環で訪問研究員をさせてもらってます。経済研究所は、今まで政府統計の個票利用ができるところ、くらいの印象しかなかったのですが、外部研究者の招聘に非常に熱心で、研究者間のコラボレーションを大切にしていることがわかってきました。

研究所のホスピタリティも素晴らしいの一言に尽きます。初日は研究所が手配してくださったゲストハウスがある小平キャンパスまでスタッフの方が来てくださり、管理スタッフと一緒に部屋まで案内してくれました。その後、国立キャンパスの研究所に移り、慣れた様子でオフィスや設備の利用、図書館の利用証発行などを済ましてくださり、セットアップに全く困ることなく研究を始めることができました。海外で博士を取った先生が多いからか、向かいにおられる常勤の先生から部屋をノックしてきてくださって挨拶してくださったり、教員の方もビジターにすごくオープンに接してくださる気がします。オフィスも個室をいただけて非常に快適です。

国立キャンパスは非常にこじんまりとしていて、昼に散歩をしたらものの10分程度で西キャンパスを一周できました。生協も、東大に比べると随分小さく感じます。このようなコンパクトさもあり、本部の図書館は研究所から徒歩数分の距離にあり、欲しい本を探そうと思えばすぐ図書館に行って借りることができる手軽さもあります。図書の方は社会科学系の大学ということもあり、種類が少し限られている印象を持ちましたが、日本の大学の中では充実した蔵書数だろうと思います。ちなみに一橋はほぼ対面に戻しているようで、初日に大勢の学生たちを見て驚きました。

同じ東京にある大学ですが、東大に比べると一橋は時間がゆっくり流れているような気がします。集中して研究するには最適の場所で、今回の一時帰国をこのような場所で過ごすことができて、本当に幸運です。既に始めた研究を進めるのはアメリカにいる方が効率的なことも多いのですが、研究のアイデアを思いつくのは、私の場合もっぱら日本にいる時です。やはり日本を対象とした研究をしていると、日々目に入る新聞記事や、街のちょっとした変化、日本の友人や同僚との会話からインスピレーションを得ることが多いのだろうと思います。コロナ禍で実家にいると、なかなかこの思いつきの部分を確保することが難しく、前回の一時帰国では苦労したのですが、今回の滞在は新しい研究を始めるためにも資するだろうと確信しています。



June 20, 2021

東洋経済

のジェンダー特集を読んだ。現代思想や世界ではなく、比較的お堅い経済誌でこの手の話が特集されることは画期的。重要なテーマを満遍なくカバーしているけど、職域の男女分離を考える際、例えば同じ大卒でも、大学の選抜度や専攻が男女で異なり、それがなぜかまで考えることが必要かなと思った。

あと夫婦別姓の話で、両論併記で賛成派だけではなく、反対派の意見を取り上げて、高市早苗から子の氏や家族の絆といった話だけではなく、戸籍制度との兼ね合いについての発言を引用しているのは良かったと思う。

June 16, 2021

東大生の官僚離れは今に始まったことではない

 とある記事を周りの人がたくさん引用していました(私は朝日新聞デジタル契約してないので見れませんが)←友人に頼んでみせてもらいました。

「日本落ちるだけ」官僚選ばぬ東大生 めざす安定の形は

https://www.asahi.com/articles/ASP6G5TL1P67UTIL024.html

官僚と一口に言っても安定性を求めてる人もいれば、若い時から「大きな仕事」を任せてもらえることに魅力を感じる人など様々な気がします。長時間労働への忌避や官僚の社会的評価が不祥事によって下がることで前者が、あるいは政治主導の進展によって後者のタイプが流出してるのだろうと思います。特に財務なんかは後者の流出が多そうです。その点では、官僚の質は相対的に落ちてるかもしれません。

東大生の官僚離れは今に始まったことではありません(朝日記事では2015年から減少が始まったように書いていますが、実際にはそれ以前から東大生の官僚離れと見られる現象は生じています)。入試で文一の合格点が文二を下回る以前に、私が在学してた10年前近くには、すでに法学部の定員割れが起こっており、話題になっていました(=文科一類の人が法学部に進学しなくなった)。もうその頃にはすでに「大きな仕事」志向の人は財務・外務などと外コンを天秤にかけて後者を選び始めてた気がします。

大学時代の友人との会話から感じた個人的な印象に過ぎませんが、官僚とコンサルを比べるタイプの人にとって重要なのは、若い時から大きな仕事を自分の裁量でこなすことで、どれだけ自分が成長できるかにあったように感じます(少し穿った見方かもしれませんが、実際そういう旨の発言を聞いたことがあります)。

そういう志向性の人は昔から一定数いたはずで、彼らが官僚をキャリアとして選ばなくなったのには、政治主導や度重なる不祥事もあるでしょうが、個人的には外資系コンサルなど、競争的な民間企業が昔よりも台頭してることの方が大きいのかなと思います。朝日の記事で最初に引用されている方は、長時間労働への忌避を官僚を選ばなかった理由の一つに挙げておられますが、代わりに選んだ外資系コンサルが働きやすい職場かと言われると、結局のところ日本では、繁忙期に徹夜覚悟で働く必要があるのは官僚もコンサルも変わらない気がします。労働環境のブラックさに引きずられると、外コンが選ばれる他の理由を見逃してしまうのではないでしょうか。

財務省や外務省が典型ですが、若い時から「大きな仕事」−− それは人によって定義が違うでしょうが、国の何千億という予算を動かすであったり、各国の意思決定層と折衝したりとかでしょう−− をこなしたいと考えている人にとっては、年功序列・終身雇用の安定性よりも、各々が定義する自己投資に資する企業があれば、そちらに行くはずなのです。したがって、この記事で触れられているような安定性に価値を置くような人が官僚離れの代表であるような書き振りが必ずしも正しいとは言えないでしょう。同様のテーマを数年前に扱ったNHKの記事が取材したような、仕事を通じた個人の成長を考えて官僚ではなくコンサルを選ぶ人も一定数いるのではないかと思います(安定性だけを考えるのであれば、銀行や東京都、あるいは働きやすいメーカーなどの民間企業に行けばいいと考えると思うのですが)。

官僚を最後までやり遂げようとする人がいる一方で、官僚をキャリアの一つのステップとみなしている人は昔からいるはずです。そういう人が官僚をファーストキャリアとして選ばなくなったことも、東大生の官僚離れの一要因としてはあるでしょう。すでに若干触れましたが、このタイプの人の方が、安定性志向の人よりは優秀な人が多い気がしています。したがって、仮に国の屋台骨の衰退といった懸念を考える時に、より危惧すべきはこの層の流出だろうと思います。

東大に入るまでは、官僚になりたい人というのは公僕志向というか、国の役に立ちたいという気持ちが強い人が多いのかなと思っていた節があります。実際、そういう人は一定数いるのですが、同時にそういうマインドの人ばかりではないんだなと印象に残ったのを覚えています。もちろん「大きな仕事」志向の人と公僕タイプの人は両立します。例えば、財務省を数年勤めた後に退職して、地方自治や国政の道に進む人はこのタイプかもしれません。

まとめると、長時間労働を是正し、職場環境を整備し、給料をあげても、外コンに流れて行った人(流出をより危惧するべき層)は戻ってこない気がします(特に男性は)。クオリティコントロールとしての解決策の一つは(これもすでに起こっていることみたいですが)民間からの出向をもっと増やすことでしょう。外コンにいる人に、このプロジェクトに関わって欲しいので、2年間出向に来てくれませんか、そういうサイクルをもっと増やしていくのです。そのためには、年功序列のローテーション型の雇用から、ジョブ・デスクリプションを明確にした、いわゆるジョブ型雇用を進めることが望まれそうです。日本では評判の悪い、というか誤った理解が進むジョブ型雇用ですが、個人的には官僚のトップ層などはこうした雇用形態をどんどん進めていいのではないかと思います。

リアル帰国チャレンジ

いままでタイトな乗り換えに間に合うかであったり、出発までにパッキングが終わるかを冗談まじりに「帰国チャレンジ」と言ってきたのですが、どうやら今回はリアル帰国チャレンジが待っているようです。

というのも、(ご存知の方も多いと思いますが)2月から検疫法が改正され、日本に帰国する際に必要な手続きが増え、格段に入国が面倒臭くなったからです。書類の不備で到着後3時間で送還された人さえいます。こんな経験もこれからの人生であるか分からないので、帰国までの過程をまとめておきます。

6月16日

私は大学が所有するアパートに住んでいる事情で、週に2回のPCR検査が義務付けられています(通算50回ほど検査を受けました)。ワクチンを打ってからはこの週2回の義務が面倒に感じ始めていたのですが、プリンストン の検査方法は唾液(saliva)で、日本政府が求める方式に合致していました。さらに、検査当日にクリニックの担当者が証明書を発行してくれるという話を先に帰った学部生から聞いていたので、私もその例に従い、事前にアポを取った上で、前日(15日)に提出した検体の結果が分かり次第、メールしました。ものの数時間で政府指定の証明書に必要事項を入力してくれたものが送り返されてきました。

その後、厚労省の常軌を逸したページを見ながら入国に必要なアプリをインストールしたり質問票を記入します。見つけやすいように同じグループに入れておきました。

6月17日

プリンストンにいる日本人院生の人たちと久しぶりに再開して鍋パ。

6月18-19日

午前8時に起床、シャワーを浴びて9時に出発。JFKには11時半ごろ、予定通りの時刻に到着しました。映画会に一瞬参加して、搭乗券をもらいます(ウェブチェックインは済ませていたし、預け荷物もなかったのですが、搭乗券が必要と言われました)。その際、スタッフの人に「3日間の強制隔離、かわいそうですね」とよく分からない同情をされたのですが、NJから来ていることを述べ、やや反論気味に返答してしまいました。

搭乗ゲートに着き、ビールとピザを食べながら、映画「バッドジーニアス」を見ます。タイの受験スキャンダルをもとにした映画でスリリングな要素もあり面白かったです、脚本もよくできています。

搭乗後、映画の続きを見た後に、アメリカにおけるwomen in STEMのドキュメンタリーで話題になっているPicture a Scientistを見ました。人種の部分はアメリカ的なコンテクストがあるかもしれませんが、この手の番組は学部や大学院の最初の授業あるいは学会として見てもらう機会を作るべきかもしれません。Nancy Hopkinsさんの行動力には驚くばかりで、彼女を主人公にした映画が別途作られるべきなのではないかと思ったほどです。

その後しばらく寝て、起きた時には残り6時間ほどで成田に着く頃になっていました。次に見た映画は20th Century Women、ちょうど昨日の鍋パで、70年代フェミニズムの話をしていたのでタイムリーでした。最近気になっている映画製作・配給会社であるA24が配給しています。

続いてイカロスというネットフリックスオリジナルのドキュメンタリー。ロシアの組織的なドーピング不正に関するもので、オリンピックが近づいているいま、改めて見るべき映画かもしれません。この一年パンデミック絡みで有名になってしまったバッハやコーといったぼったくり男爵が出てくるのですが、この人たちの周りに存在している利害関係の闇を考え始めると、オリンピックを素直に楽しめることはできなさそうです。最後にBack to the Futureを見始めましたがが、つまらなくて主人公が1955年に戻ったあたりで終えました。

そうこうしているうちにアメリカ時間の日付が変わります。飛行機は日本時間午後4時半ごろに成田に到着しました。まず乗り換え客が先に降ろされ、その後に成田で降りる人(係員の無線では通称「成田オフ」と呼ばれていました)がまとめて係員に連れらていきます。

飛行機を出た後に、入国ゲートとは阪大側の道に案内され、まず2列になった椅子に座らせられ、30分ほど待機。この間に誓約書などの書類を記入していない人には書くよう指示が出されました。どうやら便ごとに入国者を動かしているようでした。検査もせず無為にも思える時間が続いたので、スタッフの人にこの時間は混み合うのか聞いてみると、アメリカからの飛行機はこの時間がピークで時間がかかりやすいとのこと。アメリカ以外にはカタールからの便も到着していました。

ようやく進むよう案内が聞いて、まず検査証明に不備がないかの確認をされます。その後、唾液による抗原検査が入り、過去14日間の渡航歴、およびアプリをインストールしているかの確認とその説明が入りました。検査以降は割とスムーズでしたが、インストールするアプリとその設定がまどろっこしく、携帯を契約した時のスタッフの長い説明を思い出しました。

すべてが終わり入国審査を終えたのは到着から3時間半ほど経った午後7時になっていました、無駄に長いプロセスでした。これでようやくシャバに出られます。

June 15, 2021

 留学生

日本の大学院にいた当時、留学生に関する話は人づてに聞くくらいだったが、地方の大学院では基本定員割れで、日本人よりも中国人を主とする留学生が多いことも珍しくないらしい。院から日本の留学生はまず研究生になるようで、研究生になりたいのだが指導教員になってくれないかという依頼も多いらしい。

日社から社会学を学べる大学・大学院の情報をホームページに掲載したいので所属先の大学のリンクなどを教えてくれないかという(これ自体はとても良い取組だと思う)依頼が会員への連絡としてきたけれど、これは海外の大学を想定しているのか、いないのかちょっと分からない。

英語ホームページに掲載したいという旨が書いてあるので、多分留学生などを念頭に置いてるだろうからお察しって感じなのかもしれないけど、別に国内の大学とも書いてない。

つまり文脈を読めば日本国内であることは明らかでしょうが、日社の会員が所属する大学が日本以外にあることも踏まえていないことは、自らのドメスティックさへの無自覚を表しているように見える。論文で初っ端から「我が国における」みたいにいっちゃうのと似ている。 

June 10, 2021

怠惰な日々

 ここ数日は一年で一番締め切りがなく、やる気も出ない日々、メールに返信する以外はずっと映画をみたり、小説を読んだりしている。昨日まで数日間、村田沙耶香の地球星人を英語で読んだ。ソシオパス気味の登場人物の行動によって社会の異常な部分が逆につまびらかにさせられるという筋立ては、今日見たナイトクローラーと似ているかもしれない。夜はいつか見ようと思っていたスコセッシのサイレンスを見た。小説の方は大学時代に読んで衝撃を覚えた記憶があるけど、映像にするとまた残酷さが際立つ。自分は信仰がないので評論家の解釈についてはよくわからない。

リラックスするために映画を見るというより、一人でいると人間や社会の生々しい部分が恋しくなってくるのか、最近見た作品はだいたい最後の方に登場人物が理不尽な死を遂げてる…

June 5, 2021

RC28感想

 6月2日から4日までフィンランドでRC28(国際社会学会の社会階層部会)が主催する学会があった。フィンランドは東海岸から7時間ほど進んでおり、2日の午前7時に報告したり、4日の午前5時くらいまで起きていたり、しかもその間に日本のセミナーに参加したり、数日間の間に三つのタイムゾーンの中にいて、少し体調を崩しかけた。

毎度ながら思うことだが、オンラインの学会は楽に参加できる。画面もずっとオフでいい。しかしなんだか学会に参加した気分にはならない。ウェビナーをずっと見続けただけである。新しい人と知り合う機会はほとんどない。早くin personの学会が戻ってきてほしい。

一つだけ感想を書くと、いつの間にかgeneのセッションが増えていて驚いた。数年前まではあっても1つくらいだったと思う、今回は3つ、12-3報告あった。もしかしたら、この間RAがに関心を持ち始めたので、多くなったように錯覚しているのかもしれない。

とはいえ、GWASを使った分析はHRS/Add Healthくらいで、ヨーロッパの参加者が多かったこともあり、報告の半分以上はオランダや北欧のレジスターデータ使ったtwinの分析が多かった印象。分析によっては双子の方が適切なこともあると思うが、将来的にはGWASを使った分析が主流になるだろう。メインセッションの講演でも今後genomeに関連するトピックは増える見込みがあるとする発言もあり、社会学の中でも、階層研究はこのテーマを積極的に受容していく印象をさらに強くした。

May 30, 2021

本が届く、ニュースへのコメント

 東アジア図書館の司書さんに日本関係の本で重要そうな本がなければリクエストしてと言われ、しばらく前にぽんぽん頼んでたのがコロナ禍の影響で配送が遅れつつも到着、なぜか借りるリクエストもしてたみたいで専門と関係ない本も多い。すぐ読まれることはないだろうが、いつか必要とされる時がくるはず


本当に生み控えだけなら翌年以降出生数は多少回復するはず。テレワークの増加など生活様式が質的に変化したりコロナ禍で追ったストレスが回復しないようだと婚姻、出生とも減るかもしれない。個人的には婚前妊娠による出生の減りも大きい気がする。基本的に日本の出生数はコロナ禍がなくても減り続けるトレンドなので、去年と比較するのではなく同じ年の期待出生数との比較をするべきだと思う。


人口学的には生み控え自体は問題ではなく遅延された出生が回復しないことが問題なので、朝日新聞なのだしそのあたり専門家に聞いておけばいいのにと思う例えばアメリカでは恐慌後に減った出生率が回復せず、その理由が色々検討されてる。有力な説は恐慌によってワーキングクラスの雇用が劣化したこと。

May 29, 2021

形式人口学ワークショップ感想

 月曜から金曜までUCバークリーの人口学研究所が主催する形式人口学ワークショップに参加してきた。このご時世なのでもちろんzoomなのだが、そのおかげで例年よりも倍近い参加者を招くことができたようで、アメリカだけではなく、ヨーロッパ、ラテンアメリカからも多くの参加があった。

例年テーマがあるようで、今年はCovid-19の影響を研究する際に、形式人口的な視点がどのように役立つかという関心から、ワークショップが構成されていた。応用するトピックは絞っているが、結局のところオーガナイザーとしては形式人口学の他分野における有用性を訴えるというのが目論みなのだろう。

前半は割とヘビーな形式人口学の数理的な話とその応用、後半は研究者を招いたリサーチトークになった。人口学的な研究における形式人口学の役割について、節々で感じたのは、モデルの重要性である。

データが全て揃っていれば、仮定を置く必要はないが、例えば人種別の死亡率がない場合、ある死亡スケジュールに従うと仮定するであったり、あるいはコロナによって年齢別の死亡率はproportionalに増加するという仮定だったり、そういった仮定に基づいたモデルを作ることで、一つには明晰性が担保され、もう一つにはデータの欠測をモデルで補える。社会科学のデータは不完全であることが多いので、その分モデルに基づいた検証が必要なのかもしれない。

別のところで、ある研究者(Rob Mare)は常にwhat is your underlying model?と聞くことがあったという。この発言をやや大袈裟に解釈すると、社会学者はどういったモデルを念頭に分析しているのか、不明瞭になりがちなことへの批判にも読める。同じ人口学でも、社会人口学、家族人口学と呼ばれる分野は社会学のように「とりあえず何が起こっているのかみてみよう」スタンスの研究が多いので(それはそれで大切なことだと思っているが)、まさに私のような研究者にとって、形式人口学の教えは良い戒めになっているのかもしれない。

もちろん、モデルベーストで考えようというのは形式人口学に限ったことではなく、数量的なデータを用いる研究全般に言える点だとは思うが、人口学的な研究の中でも、形式人口学がこの点についてもっとも意識的なのだろう。

参加者とはブレークアウトルームで少人数のグループを作り、そこで多少自己紹介はできたのだが、やはりzoomだと初めての人と打ち解けるのは結構難しい。はやくin personのミーティングが戻ってきてほしいと改めて思った。

May 26, 2021

学期を終えてからの少しのんびりとした週末、及び5月何があったかのまとめ

5月21日の金曜日、Robert Mareのメモリアルイベントに参加した。私はMareと直接話したことはないが、intellectualには最も影響を受けているアメリカの社会学者といっても過言ではなく、参加してみた。昔どこかに書いたことがあった気がしたが、右も左もわからなかった東大の修士時代、マナー知らずにアメリカの先生にメールした中で、一番丁寧な返事をくれたのを今でも恩に感じている。

その次の週(つまり今週)はUCバークリーが主催する形式人口学のサマースクールに参加している。今回のテーマはCovid-19。最初二日は数学的に割とヘビーな数理人口学の話、今日からはリサーチトークである。参加者と話す機会もあるにはあるのだが、やはり初めての人とズーム上で仲良くなるのは簡単ではなく、早くin personの日々に戻りたいという思いを強くした。

今日は今週のto doだった社会ゲノミクスの学会へのアブスト(というかフルペーパー)を提出し、1年間オーガナイズしてきた「東アジア格差と人口学セミナー」(readi)の最後のセミナーを終えて、幾ばくかの解放感を感じている。セミナーについては、数えたところちょうど20回だった。最初は25人くらいコンスタントに来てたけど、やっぱり飽きが来るのか最後には1桁になることもあり、所属機関が違う人たちにどう興味を持ち続けてもらうのか、考える日々だった。続けることが全てではないので、来年は柔軟に考えている。

学期も終わり、ワクチンも打って、時間的にも精神的にも公衆衛生的にも、外に出て人と会う季節になってきた。日曜日には日本人の先生の主催するランチ会にでて、盛大にgelatoをガレットと読んで恥をかいたり、大学時代の友人とズームで話して「30歳になると自分は何者にもなれないことに気づく」といった臭い話をしたり、プリンストンを離れる人から家具を格安で譲ってもらったり、17年に1度大量発生するという素数ゼミの数に驚いたり、夏休みののんびりとした日々を過ごしている。映画は18本程度みた。

その他5月にあったこととしては、Russell Sageが主催する社会ゲノミクスのサマースクールに合格したという連絡をもらったり、一時帰国時に一橋大学の経済研究所に滞在させてもらうことが決まったり(リアルでお会いしたことのない経済学者の先生方に大変お世話になりました)、研究助成を申請したり、東大社研のデータアーカイブ機関が支援してくれる課題公募研究会のオーガナイズを進めたり、夏以降の予定を進めていた。あるいは、人口学研究所内のセミナーで報告したり、論文を投稿したり(日本語の雑誌の1回目、英文誌にminor revisionの計2回)、査読レポートを出したり、サーベイ実験の調査票を作ったり、日本の学会にアブスト(2つ、これからさらに2つ)を提出したり、アクセプト済みの論文の校正およびOpEd作り、上で書いたゲノム学会へのアブスト提出など、研究面でも最低限の進捗を出している。

6月は初日に博論プロポーザルのディフェンスというビッグイベントが待っており(ちなみに前日5月30日深夜に研究会)、そのすぐ後に学会報告が二つ(RC28日本人口学会)ある。その後少々の自由時間を挟んで、日本に一時帰国、2週間の隔離後7月上旬からは東京は小平に滞在して博論の研究を進める予定になっている。

May 18, 2021

「大学院出願を考えている」の生存者バイアス

ときたま日本の方からアメリカの博士課程進学について相談を受けることがある。ありがたいことだとは思いつつも、博士課程進学にはリスクもあるので、迷っている人の背中を押す気にもなれず、のらりくらりと避けてしまうこともあるのだが、心の中では、日本から進学する人が増えて、日本研究を盛り上げてほしいと思うことは多い。

まだ相談を受け始めて数年なので、確からしい傾向は見えないが、「大学院出願を考えている」とコンタクトしてくる人の多くは、実際には出願に至っていないことに気づいた。いくつか仮説があるだろう。

素直な仮説は、大学院出願は大変だ、という説である。一回あたり馬鹿にならない費用のTOEFLやGREのスコアが伸びずメンタル的にくることもあるだろうし、周りに出願する人が多い環境ではないと孤独な受験勉強は負担が大きい。私も準備をしているとき、特に浪人に等しい一年を過ごしていたとき、この時間を研究に使えないことの機会費用が小さくないことに苛立っていた。どこかで出願さえ見合わないリスキーな投資だと考えれば、相談してきた人のうち多くが出願に至らないのは、理解できる。

素直ではない仮説は、相談に来るグループが何かしら特徴を持っていて、それが出願を阻害しているという説である。考えてみると、そもそも出願を決めている人は、相談にすらこない(例:自分)。相談に来るというのは、出願しようか悩んでいるから相談に来るのかもしれない。もし相談に来る人ほど相談にこない人に比べて出願しにくいということであれば、これは(逆?)生存者バイアスと言ってもいいかもしれない。

これまでの経験上、出願を考えている段階の人の悩みというのは、日本に残る/アメリカに行くことのメリット・デメリット、修士を日本でこなしたほうがいいのか、出願までにどういった準備をするべきか、といった割と分類可能な程度には均質的な気がしており、1対1で相談するにしても話すことは似ている。

そのため、広くリーチアウトする意味でも、留学講演会、みたいな機会があればいいのかもしれない。大きく「アメリカの大学院に進学する」の中に社会学の人がポツンと入ることはあるが、経済学のようにもっと社会学として組織的にやったほうがいいのかもしれない、といっても需要はそこまでない気がする。月に一通くらい来るメールでの相談をもって、潜在的にどれくらい関心がある人がいるのか、予想することは難しい。

May 14, 2021

ブルシットアメリカ社会学

先週の金曜日に、学内の研究会で報告した。テーマは日本の学歴同類婚と所得格差の関係、4年くらい前にスタートして2018年の学会で報告したまでは良かったが、その後私がウィスコンシンでコースワークに忙殺されたり、プリンストン への転学をしたりでなかなか再開する機会を見失っていた。この研究会のおかげで1ヶ月半程度集中して取り組めたのは良かった。

実を言うと、昔はアメリカの大学にいる人の前で、日本の研究発表をするのにためらいがあった。アメリカがベースラインの社会として想定されているアメリカの社会学では、せめて北米+メキシコくらいの事例までじゃないと、Why XX(XXには任意の国が入る)?と言われる。

私は日本研究をしているので、潜在的・顕在的にWhy Japan?問題と常に戦っているわけだが、アメリカの研究をしている人は、Why US?とは言われないので、この質問はブルシットである。しかし最近は「ホワィジャパーン?」と言われても(実際にはそんなダイレクトなブルシット質問をする人はおらず、多くの人は自分がブルシットアメリカ社会学の一員であることを認めつつ、なぜ日本なのか?と聞いてくる、結局ブルシットなのだが)、真っ当なコメントだなと思えるようになり、少しだけメンタルが太くなったかもしれない。

なぜ真っ当なコメントに思えるのだろうか?繰り返すように、Why US?と言われないのは不平等だ。しかし、社会学は多かれ少なかれ、拠点とする社会を前提にした側面は否定できない。日本に帰ればWhy Japan?問題は存在しなくなるのだ。そういう意味では、日本の社会学もアメリカの社会学並みにはブルシットである。

少し回り道をしたが、私の言いたいところはWhy Japan?という質問自体はまともであるし、同様にアメリカの社会を研究しているアメリカの社会学者も、個々の研究でアメリカを事例として選択しているのはなぜか、肝に命じて言及するべきなのだ。Whyと問うことがブルシットなのではなく、Whyを自らに問わない姿勢がブルシットなのだ。

そういったブルシットなアメリカ社会学の恩恵を受けて、自分は毎回、なぜ日本事例を選択することがリサーチクエスチョンに対してcompellingなのか、考える癖がついているので、それ自体は感謝することが多い。以前別のところで話したように、事例選択の適切性について考えるのは、メリットも多いのだ。ただ、そういった議論をすっぽ抜かした論文がトップジャーナルに掲載されているのをみると、やはりアメリカの社会学はブルシットだなという思いを強くする。大学院教育などで、こういった事例選択における不均衡さについてきちんと教え、アメリカの研究においてもなぜ事例選択が適切なのかを考えさせるトレーニングが必要だと思う。

May 10, 2021

知的な女性を否定する人ほど「数学は男性的」と考えるのか?

私の周りで1ヶ月ほど前に話題になっていた「知的な女性を否定する人ほど「数学は男性的」のバイアス」と題された記事の元論文を遅ればせながら読んでみました。

記事:https://www.asahi.com/amp/articles/ASP486263P47ULBJ008.html

元論文:https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/09636625211002375

日英の成年人口(大卒者に限る)をサンプルに、どういった要因が「数学・物理は男性的である」という考えを説明するのか、検討しています。アウトカム(従属変数)には数学・物理がそれぞれ男性に向いているかどうかという順序変数を用いていて、記事で取り上げられている「女性は知的である方がよい」(women should be intellectual)に反対するほど男性に向いていると答える傾向にあったのは、日本の数学においてのみでした。これは記事を読むと触れられてはいるのですが、記事の

「(「女性は知的である方がよい」という)バイアスを持つ人ほど、数学や物理を「男性的」とみなす傾向があり、女子生徒の進路選択に影響を与えている」

という冒頭の一文は、物理についてはnullなのでミスリーディングな気がしました。

ちなみに、数学の方もp値 0.044で、係数の大きさも他の有意な変数に比べると小さい気がします。面白い仮説だなとは思うのですが、数学で関連がある一方、物理で関連がないのはなぜなのか特に議論しておらず、イギリスではどちらもnullであることも踏まえるとfalse positiveなのかなという気もします。

May 2, 2021

アカデミックアイデンティティ

一周回って自分は人口学者ではなくて社会階層の研究者なんだと最近思うようになりました、正確にいうと、アメリカ産の人口学的アプローチを使う階層研究者。

この分野、ニッチといえばニッチなんですけど、一番しっくりくるホームグラウンドという感じ。もちろん、人口学のコースワークは人並みにこなしたので、そちらの方にアイデンティティがないわけではないんですが、やっぱり格差の話にかかわらないと、あまり入ってこなくて、少子化・高齢化の話も耳学問程度になりがち。人口学というのは、自分にとってはあくまでパースペクティブを提供してくれるものです。

例えば少子化の理論、どういう社会で少子化が進むのか、みたいな話はあまり興味はなく、しかし一方で親の学歴によって出生力が違って、それが世代間の格差にどう寄与するのか、みたいな話はすごく食いつきます。人口を単位にして社会階層が再生産されるメカニズムに関心があるんだなと、改めて思いました。

最近いろんなものに手を出してたんですが、4年前に学会発表してほぼ放置だった論文を書き上げつつある中で、自分が一番得意なフォームを思い出した感じがします。目瞑っててもどこに何があるかわかる感じで論文書けるのは、楽しいです。

April 20, 2021

ランキング

 ESLのニュースを少し追っていた。何がビッグクラブなのかに関して客観的指標はなくて周りのクラブとの関係性で決まるんだなと思った。優勝回数で言えばトッテナムがESL入ってるの謎だし、シャルケが入ってるべきと言えるかもしれない(降格したけど)。クラブランキングで見ればミランが入ってるのは変。選手目線で言えばビッグクラブは実質的には「オファーが来たら断れない」チームなのかなと思う、日本野球で言えば巨人。Jリーグは鹿島が一番近いだろうけど、鹿島からのオファー蹴る選手はいそう。大学でも、オファーが来たら断れない場合はあり、序列に基づく分類志向は人類に普遍なのかもしれない。

格差と不平等の国アメリカのMLBにはヤンキースやドジャースといった名門とされる球団はあるけど、ヨーロッパサッカーほど露骨な格差がないのは面白い。ドラフトって制度がどれくらい大事か分かる。

エリートクラブみたいなのは大学でもあって、例えば東大も加盟してるIARUは加盟大学内でサマースクールとかカンファレンスを企画してる。こういう大学間の国際アライアンスが大学にとってどういう利益をもたらしているのかはわからないし、加入の基準もわからない


April 12, 2021

近況(春学期)

今学期のティーチングが(ほぼ)終わり、他の仕事も佳境に入りつつあります。というわけで、気持ち的に余裕が出たので抜けていた3月後半くらいからの近況を少しまとめてみます。

今学期の前半は経済社会学と国際移動の授業を受けていて、とても勉強になった一方、三時間のセミナーを週に二つは少しoverkillでした。後半は授業がなく、ティーチングと研究に集中できたので気持ち的にも多少余裕があったのかなと思います。

ティーチング

ティーチングは火曜に1コマ、水曜に1コマでイントロの社会学を教えていました。いわゆる101です。前半の記録はブログにつけていて、当時はかなり悩みながら取り組んでいたことがわかります。後半は多少力の抜き方がわかってきたというか、自分なりの型みたいなものを見つけられたので、週を追うごとに疲れずにできるようになってきました。

とはいえ一番大きかったのは、生徒がちゃんと授業に参加してくれて、一定の信頼関係が築けたことなのかなと思います。最初は、自分の英語を聞き取ってくれるのか、留学生の自分がアメリカの社会学を教えてて変に思われないのか、そういった不安がありストレスのもとでしたが、徐々になくなっていきました。

ほぼ専門外のトピックが基本なので、毎週教科書やレクチャーを読みながら、自分も勉強になることが多い授業でした。社会学はカバーする範囲が本当に広いなと思います。広いが故にあえて避けることができていたテーマも教えなくてはならなくなり、にっちもさっちもいかなくなり意を決して勉強してみると、意外と面白かったりして、食わず嫌いはよくないなと思いました。多少教えることに対する自信はつきましたが、やはり将来的には自分の専門とする内容を教えたいなと思います。

日曜夜から月曜にかけて授業用意をして、火曜水曜はティーチングを優先、木曜から土曜は研究日、そういう一週間でした。大体、水曜or木曜に半休、日曜に半休といった感じのスケジュールです。

研究(メイン)

今学期のメインの課題は、博論のprospectus(プロポーザル)を提出することでした。学期が始まった当初は、何にするかほとんど考えておらず、授業で忙しかったこともあり、棚に上げていたのが実際でした。ところがある時、今あるペーパーを一つの傘の下にまとめれば、一見異なる二つの論文が一つの博論にまとまることに気づきました。二つとも原稿はできているので、いきなり2/3が大まかには完成状態になり、自分でも驚く事態に。王道の博論の書き方は、文献を読み込んで、一つの大きな問いを立て、それを三つの論文で確かめていく、というのが理想なのかもしれません。しかし自分の場合は、いくつかの関連するテーマを国もデータも異なるデザインで進めているので、自分のような人間にはこういう形の博論もありなのかなと考えています。

博論に対して良い意味で「あきらめ」ることができたのは、博論後にやりたいテーマが見つかり、それは本にしたいと思うようになったこともあります。このテーマは実際に調査したほうがいいので、博論にするには時間がかかりすぎると思い、ポスドクから就職後に進めたいと考えています。

2/3ができつつある博論ですが、残り一章を考えなくてはいけません。それが4月に取り組んでいたことでした。先々週の指導教員との面談で、この博論第3章について相談した時に(いつものように)big pictureを考えようと言われ、毎度のようにびっぐぴくちゃーって何やねんと思いつつ3日考え続け、まあこれかなというのを考えるに至りました。

日本で受けてきた教育だと、論文におけるリサーチクエスチョンが先行研究から論理的に導き出されるものであれば、「問いの大きさ」いかんはあまり重要ではなかった気がします(本を書くタイプの院生は違うのかもしれませんが)。しかしこちらでは、既にあるデータを使った論文を書く場合でも、「問いの大きさ」をかなり重視する傾向にある気がします。同じデータで、似たような分析をしても、どういう文脈に乗せるかで見え方が異なるというのは興味深い現象です。

問題は、big pictureを示せと言われるものの、その示し方は教えてくれないことです。自分で考えなくてはいけません。もしかしたら、先生や研究室によっては、こういうテーマはどう?と教えてくれることもあるのかもしれませんが、私のアドバイザー然り、周りの先生は学生が考えたアイデアに対して非常に役に立つフィードバックはくれますが、それらをまとめて、新しい問いに昇華していく作業は、学生の手に委ねられています。自分で問いとそのオリジナリティを考える過程は孤独で、正直あまり好きではないのですが、逐一人に共有できない試行(思考)の連続がなければ、最初には思いも寄らない問いは生まれてこないのかな、そういう気もします。

そういうわけで、まだ博論最終章については思案中なのですが、ひとまず大枠はできたので安心はしているところです。これを5月にディフェンスするか、秋にするかで悩んでいます。

研究(サイド)

副業的な研究は、いくつか成果として出ています。

(1)まず、7年前(!)にRAとして始めた地熱の論文が、Environmental Politicsに掲載されます。この論文では、結局シンプルに温泉が多い地域では地熱発電の開発が行われにくいことを示したのですが、タイミングよく再生可能エネルギーの話が盛り上がっているので、多少注目してくれる人がいるのかなと期待しています。

(2)次に、依頼論文として書いた性別職域分離と職業スキルに関する論文も採択され、8月に日本数理社会学会が発行する「理論と方法」という雑誌に載ります。一応筆頭著者ですが、私が書いたというよりも、共著者二人の力量あっての論文になっています。(3)及び、原稿自体は昨年末に書いたのですが、数理社会学事典に掲載されるチャプター二つも、編者のコメントを待つ段階のようです。

(4)指導教員と進めてきたCovid-19とwell-beingの男女格差の論文については、JILPTでのワークショップで報告後、本日Princeton Club of Japanでも報告し、いいコメントをもらえました。5月末に原稿を提出し、年内に慶應大学出版会から出される本の一章として収録される予定です。スピンオフで、英語の論文も書くことになりましたが、私は博論に集中したいのでリードオーサーからはおりました。途中から学部生の力も借りて、いいコラボができています。

やや本業よりなテーマだと、(5)Springerから出る学歴同類婚の本は現在査読中です。この本ではトップジャーナルに掲載するのは色々な観点から難しいけど、英語圏のオーディエンスに読まれて欲しいことを書いています。

(6)学歴同類婚と不平等の論文は現在鋭意執筆中です。5月にプリンストンの人口学研究所で報告予定。

(7)専攻の男女分離に関しても二つ書いており、そのうち一つは締め切りが近いので仕上げなくてはいけません。

(8)ゲノムの論文は三本書いていて、うち一本はRRを再投稿、もう一本はASA/RC28で報告(博論の一部になります)、もう一本は他の二つが終わってから取り組むことにしています。

(9)きょうだい順位による同類婚の論文は共著者(アドバイザー)の編集待ち。

(10)Covid-19とネイティブアメリカンのペーパーは現在査読中で、来月のアメリカ人口学会(PAA)で報告予定(私は第二著者)。

(11)日本における婚姻上の地位と健康に関する論文は、こちらもPAAで報告予定(筆頭著者)。今日practice talkがあり、いいアドバイスをもらいました。

(12?)博論後にやりたいテーマは高校生の進路選択が男女で分岐するメカニズム、とくに進学校の学生を対象にした進路調査なのですが、ひとまず既存のデータでわかることを確かめようと思っていたところ、渡りに船で東大社研から良さげなデータが公開されることを知り、使用申請を出しました。及び社研の課題公募研究会に申請書を出し、研究会を組織する予定です。こういった日本の定例研究会には3年ほど参加できなかったので、久々の「日本復帰」になります。面白い結果が出ることを見越して、研究助成、日本の学会での報告などを検討しています。

その他サービス

・最近、査読が月一で入るようになりました。AJS, JMFといった、なぜ私?みたいなジャーナルから依頼が来ることもあり、驚きます。

・指導教員が進めるREADI (Research on East Asian Demography and Inequality)の学生セミナーのオーガナイザーを引き続き担当しています。今学期は定例のセミナーに加えて、先生二人を読んでprofessional developmentセミナーを開催しました。

・インフォーマルですが、学部生の卒論を一本みました。その卒論からインスピレーションを得て博論後の研究テーマを考えたので、感謝しています。

トレーニング

5月にUCバークレーである形式人口学ワークショップにアクセプトされました。尊敬する人口学の先輩たちが揃ってお勧めしているので、すごく楽しみです。

夏にある社会ゲノミクスのサマースクールにも応募中で、こちらは結果待ちです。これとは別に、日本にいる同年代の研究者・院生の人との社会ゲノミクスの勉強会に参加させてもらっていて、毎回勉強になります。

その他

・ワクチンを打ちました。JJです。

・車の免許をとるとる詐欺をしてますが、面倒くさくてまだとってません。やはり、必要に駆られないと動けない人間のようです。

・同じ理由でtax returnもまだ始めてません。

・日本教育社会学会に入会しました。博論後はSoc of Edに舵を切ろうかと画策中で、必然的に入ることになります。

・日本の学会費は全て納めたと思います(日本社会学会、家族社会学会、数理社会学会、日本人口学会、日本教育社会学会)。ASA/PAA/RC28も学会参加と合わせてメンバーシップを更新しました。正直いうと、日本の学会で報告できるチャンスは人口学会を除くと学事歴的に不可能なので、入っている意味が短期的には見出せないのですが、どの学会もお世話になっていたこともあり、そのままずるずる入り続けてしまっています。常勤になると年会費も上がるので、ある程度選別するかもしれません。

March 31, 2021

 旧帝大の中で比べると、東大は一番女性が少ないけど、その少ない女性の学部選択は、相対的に見ると男性と似ていることがわかった。他の大学、例えば名古屋とかは東大よりも女性比率は高いけど、その女性が文系に多く、理系に少ないので、名古屋大の男性とは学部の分布が大きく異なる。

March 27, 2021

#StopAsianHate

プリンストンでも、先日のアトランタでの悲しい事件の犠牲者を弔い、声を上げようと集会が企画されました。アジア系アメリカ人(AA)の政治集会に参加するのは初めてです。一緒に参加した政治的なアクティブな同期の学生も、AAの集会に参加するのは初めてだと言っていました。アメリカだとアジア系は政治的に寡黙な優等生(モデル・マイノリティ)扱いなので、なかなか声をあげにくかったかもしれません。

集会は、最初組織者の教会関係者のスピーチから始まり、犠牲者の名前を読み上げたあと1分間の黙祷、その後アジア系諸団体(プリンストンアジア系学生会など)、アジア系の地方議員、近隣の高校生代表、プリンストン大学の研究者、歴史学者などのスピーチが2時間ほど続きました。最初、果たしてアジア系の集会に人が来るのか、という懸念めいたものがあり、人がいなかったらどうしようと思ったのですが、それは杞憂に終わり、プリンストン の街のサイズを考えると、かなり規模の大きな集会になったように思います。春学期からキャンパスに戻ってきた学部生らしき人の姿もたくさんあり、若い人が多かったです。

このモメンタムを活かして、何かしら変化が起こることを期待したいと思います。大学で言えば、例えばアジア系の歴史に関する授業を増やしたりすることは、一つの案でしょう。ただ、アメリカ高等教育の文脈だと、アジア系はマイノリティと単純に言えない事情もあります。まず基本的には、他のマイノリティに比べると人口よりもシェアはかなり多いです。しかし、分野によってシェアはかなり違います。アジア系はSTEM系に多く在籍していますが、人文系では少なく、なかなか一括りに言えないところがあります。また階層的に見ると、学部生にアジア系は多いけど、シニアになる程、少なくなります。さらに、アジア系内部のエスニシティの多様性、あるいはジェンダーも混ざるとさらに複雑です。アジア系はそれ自体としてかなり多様なのです。

もう一つ気になったのは、ナショナリティです。集会でもアジア系はfastest growing populationだ、というロジックが時折使われています。そう言うことで、アジア系は無視してはいけない人口なんだと、主張するわけです。人口学者としては、こういう人口の政治的利用には敏感になります。

この時には「アジア系」という括り、あるいはAsian and Asian Americansという言葉が使われますが。しかし違う文脈だと、Asianを抜かしてAsian Americans だけ使われることがあります。もちろん、これは複雑な部分を除いた簡潔な表現、としてみることもできますが、厳密には我々は(まだ)アメリカ人ではないので、そのニュアンスは大切な気がしました。そもそもアジア系自体が、メインではない、例外として、他のマイノリティの議論から外されることが多かったからです。はたして、アジア系はどこまでまとまることができるのでしょうか。

March 24, 2021

メモ

労働政策研究報告書 No.208 仕事と子どもの育成をめぐる格差問題 

- 子育て女性の間で雇用の格差、学歴間の経済的格差が拡大 

- 外国にルーツを持つ子どもの肥満率は日本人の子どもの2.7倍 

- その他、母子世帯の貧困解消策など

第2章では指導教員が書いた母学歴でみた子どものウェルビーイングの格差拡大の話があります。翻訳なのでやや分かりづらいところがありますが、アメリカでよく議論される分岐する運命(diverging destinies)のレビューもあり、日本の研究者の方の参考にもなるかと思います

周さんの外国にルーツを持つ子どもの肥満率の話は、母肥満、SES、食生活を投入しても外国ルーツダミーが肥満率に有意に正に関連しているのは興味深い(まだ測定できる変数はあるだろうけど)。個人的にはデータがあれば肥満より出生時の低体重の方が重要なアウトカムかなと思うhttps://jstor.org/stable/2657467?seq=1

March 22, 2021

甲子園

 日本で春の選抜がやっているらしい。甲子園が開催されていると、とたんに日本が懐かしくなる。春も面白いけど、やはり甲子園は夏。エアコンをつけて、部屋で甲子園を見ながらアイスを食べる、そして再放送されるタッチを見る(未来少年コナンだったかもしれない)。母は働いているから夏休みは祖母の家にいることが多かった。

テレビで見ていた甲子園は、高校に入ると学校行事と化した。もちろん母校は甲子園に行けるようなレベルではないのだが、それでも甲子園に行けるのではないかと信じて、全校で応援する。はじめは、なぜ野球だけ全校行事なのか、分からなかったが、次第に「楽しいから」という理由に負けて、その疑問を忘れることになる。最後までなぜ野球だけ応援するのかは、誰も説明できなかった。

野球応援では、普段は制服はないのに「伝統だから」と学ランを着た応援団がいる。これに限らず、夜通し歩いたあと「走る」歩く会や、戦前の軍国主義的歌詞を残す校歌など、母校は伝統の名の元に合理性の入る隙は小さかったように思う。

校歌に関しては定期的に廃止運動が起こる。保守的な高校だったけど、月に1回の全校集会で希望する生徒が全員の前で発言できたのは民主的だった。そこで誰かが校歌廃止を提案する。特に争点となったのは、「列強」や「帝国」などのパワーワードが入る2番だった。でも、いつも維持派が勝つ。まるで現在夫婦別姓の問題で維持派が最終的に活用に。卒業式は保護者も来るからという理由で、軍国主義的な歌詞がある2番は歌わないみたいな折衷案がとられた。これも、旧姓使用を広げる代わりに制度は維持する、という話と、どこか似ている。

March 18, 2021

帰国してみては

 たまに将来日本帰るんですか(ひどい時にはいつ日本帰るんですか、なぜ勝手に帰ると決めるのだ)と聞かれると煙に回してしまうけど、50歳になってからやりたいことの一つは日本でしかできないことだから、それができるとわかったら帰るのかもしれない。ヨーロッパに残り続けようとする日本人サッカー選手のインタビューの下の方に、そろそろ帰ってみては、と帰国を勧める謎のヤフコメを見かけるけど、確かになぜそこまでこだわるんだろうというのは疑問としてはわからなくもない、というか、自分もなぜここまでアメリカに残りたいのかはわからない。けど残りたい。

March 15, 2021

ヌヨォーク日帰り旅行

コロナ禍で2回目の日帰り旅行。考えると、この一年でプリンストンと水戸以外にいたのは、東京の3日間、成田の1日間、そしてNYCの2日間しかありません。

サマータイムに入った関係か、普段と時刻が異なり、日曜であることも重なって始発が9時過ぎで今回は特に時間が限られていました。そのため、事前に以下のような計画を練って出発しました。

09:19 Princeton St -> 10:43 Penn St -> 11:15 Moma -> 12:35 Uniqlo -> 13:25 Wokuni pickup -> 先輩とお茶 -> 16:30 Kinokuniya -> 17:40 Muji -> 19:03 Penn St -> 20:19 Princeton St

お分かりいただけると思いますが、私にとってNYCはリトルトーキョーです。日々プリンストンで日本要素ゼロの日々を送っているので、数ヶ月に一度、帰国気分を味わうために遠出をします。

このように念密に計画を練っていたのですが(地下鉄は感染リスクを考え乗らず、全て徒歩)、Princeton StからPrinceton Junctionまでの電車が遅れ、すんでのところでPenn St行きの電車を逃しました。40分後にくる次の電車に乗ったので、いきなり計画が頓挫する展開。結果的には、Momaにいる時間を短くして、45分ほどの滞在でさっさと済ませることで妥協しました(Momaまではタクった)。

ちなみに電車を待っていたところ、中年にみえる女性に電車の行き先とホームが正しいかを聞かれたのですが、なんでも人生で初めて電車に乗るとのことでした。私には少し考えにくいのですが、アメリカには一度も電車に乗らずに人生を過ごす人もいるのかもしれません。

ソ連時代のプロパガンダ広告、グラフの使い方・スペースの切り取り方が印象的。data viz的にはこれが適切かと言われると微妙かもしれないが、インパクトある学会報告ポスターのアイデアにはなりそう。

昼食はうおくにのチラシ丼を食べました。久しぶりに生魚を食べることができて感動(アメリカの田舎の数少ない欠点の一つ:生魚を食べる機会が本当に少ない)。


紀伊國屋近くの公園で、東大時代のサークルの先輩とお茶。某国際機関に転職されて、充実された生活を送っているようでした。外だと小寒くなってきたので、二人で紀伊國屋に入って途中まで一緒にぶらぶら。個人的には極主夫道が英訳されて棚の一列を占めているのにウケました。ヤクザx主夫はこれはこれで日本的で、意外とアメリカではウケるのかもしれません。ちなみに、日本では今エヴァンゲリオンが公開され大反響だと思いますが、不思議なことにアメリカではエヴァはあまりウケてません。どちらかというとガンダムなどのロボット系のアニメの一ジャンルになっているような雰囲気です。2階の実質アニメイトコーナーには漫画やフィギュアなどが所狭しと並んでいるのですが、エヴァ関係のものは英訳されたカット集など数冊です。


その後いくつか文房具と小説を購入してMujiへ。紀伊國屋の後に来ると、だいぶ安く感じます。ノートなんて、B5サイズは1ドル以下で驚きです。食事・着るもの・文房具は日式がまだまだしっくりきます。細かい食器、掃除用具、靴下など購入して電車まで時間があったので、サンライズマートに行きました。この辺りは日系のお店が集中していて買い物には便利です。食材に関してはプリンストンにも車で10分くらいの距離にある韓国系スーパーでほぼ事足りるのですが、日系スーパーはやはり痒いところに手が届きます(信州味噌、米麹、ネストビールなど)。これでますます日本食が捗ります。最近、キッチンの日本化が顕著です。

常磐線文学?

知人に紹介してもらった若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」を紀伊國屋で買って、早速読んでみました。個人の内面をあれだけ炙り出して、最後の方は現実と区別がつかなくなってくるところ、それが東北弁と標準語の対比もあって力強く出ていて、とても面白かったです。

この本だと本人の主観を表現するときの東北弁と、それを客観的に描写する標準語の対比が非常にうまく組み込まれていて、こんな方言の生かし方もあるのかと勉強になりました。

最近読んだ本だと、柳美里さんの「JR上野駅公園口」も福島出身の主人公が方言を使っていましたが、外の世界とのつながりが重視されてる「JR上野駅公園口」に対して、若竹さんの作品はひたすら内面に焦点が当てられてて、それが本人の主観を表現した東北弁と、客観的描写の標準語の対比を強く感じた理由なのかもしれません。また、若竹さんの小説の東北弁は、福島よりももっと北で、さらに標準語との対比がより際立った気がします。別に対比する必要はないと思いますが、天皇、オリンピック、格差といった大きな背景の中で生きる個人を描いた「JR上野駅公園口」と、ひたすら個人の内面を描いた「おらおらでひとりいぐも」では、読後感が全然違います。

東北文学、あるいは常磐線文学、みたいなジャンルはないと思いますが、両作品に共通する、常磐線に乗って最初に降りた上野駅から上京が始まる場面などは象徴的で、北関東・東北出身者にとっての上野から始まる地方からの離脱、そこから年月が経ち家族と別れると、地縁がない都会では孤独が待っている、といったモチーフは、作品の背景として非常に似ていると感じました。

こんなことを考えるのは、私自身も上野駅から始まる上京の物語を経験した一人だからということもあるのでしょうが、残念ながら常磐線は上野終点ではなくなってしまったので、最近上京される方には、上野駅に着いたときの、海底トンネルにいるような不気味さ、地下から地上に登っていくまでに感じる期待と不安、こうした感情はあまりもたれないかもしれません。

March 2, 2021

大学院進学のパラドックス

友人と話してて、一橋の田中拓道先生のホームページに、「大学院進学のリスク」について書いてあることに気づきました。https://www.soc.hit-u.ac.jp/~takujit/graduate_school.html

なかなか業界全体で大学院進学、特に博士課程進学にリスクがありますよ、とはいえないところもあるので、こうやって研究室を持つ先生が個人として発信してくださるのは、進学を考える人にとっても助けになると思います(田中先生は政治学領域を念頭に書かれていますが、現状は社会学でも多かれ少なかれ同じだと思います)。

このページを見て、先日博士課程に進学しようか考えている人の相談を受けたことを思い出しました。私は今まで進学しようと決めた人の話を聞くことはありましたが、考え中の人の相談は初めてだった気がします。

私は基本的に、進学しようと決めた人には精一杯のアドバイスをしようという立場でいます。一方で、まだ決めかねている人にはメリット・デメリット双方を踏まえて話をしなくてはいけません。昔の自分であれば、アメリカの博士留学にはメリットが大きいと思っていたので、おそらくメリットの方を強調したでしょう。しかし、最近のアメリカの社会学博士課程は、卒業してからの競争が激しくなるばかりなのに、入学するのがますます難しくなってきている雰囲気があります。そういう状況を見て、正直進学したいと決めた人以外には何も言えないのが、現時点での私の考えです。

これと関連して、先日アメリカの院生がつぶやいてて本当にそうだなと思ったのは、「将来やりたいことが博士号がなければできない場合は進学するべきだが、そうじゃない場合は進学せずに目標を実現する方策を考えた方がいい」というものです。文脈としては、アメリカの社会学では(例として)racial justiceやcriminal justiceの実現に貢献したくて博士課程に入ってくる人も多いという事情があります。そして、そういったことはnon-profitの領域に入っても十分できることです。自分のやりたいことが、博士号がなければ、あるいは博士課程でのトレーニングがなければできないことなのか、きちんと考えてから出願すべきなのは、確かにそうだろうと思います。

少し矛盾することを言うようですが、博士課程中に本人のやりたいことは頻繁に変わります。さらに言えば、本人の関心を変えることが博士課程プログラムの肝でもあります。昔、メンターの先生の一人(DGS、大学院プログラムディレクター)が「博士課程に入った学生の研究関心を変えられなかったらそのプログラムは失敗だ」といってたのはよく覚えています。やりたいことが決まっている人が多い一方で、博士課程も教育制度の一つであるわけなので、学生のやりたいことが入る前後で変わらなければ、そのプログラムは学生を教育できたことにならないのです。実際、入学前から関心が変わる人はごまんといますし、理念としてはそうあるべきでしょう。

このように、大学院教育の一応の建前(理想)としては「大枠の関心を決めて入ってくれればよくて、最初の2年で頭の中をシェイクした後にテーマを決めてくれればいいよ」なのですが、にしては入学するまでの基準が厳しくなりすぎてるきらいがあり、なんとなくこれがやりたい、ではとても入学できるものではなくなっているのも事実です。実際、選抜する側も、将来のポテンシャルに加えて、現場でどれくらいその学生がクリティカルにものを考え、それを実証できるかを重視している気がします。

やりたいことが決まってないと進学を勧められないのに、入ってからはやりたいことを変えることが推奨される。この二つの側面を強調しすぎると、なんだかパラドクスが生じているように見えます。実際には、選抜する側は「いいバランス」を求めていて、狭すぎる関心の学生は逆に取りづらいのではないかと思っています。矛盾しているように見えてしまうのは、やはり入学のハードルが高くなっているからなのではないかなと考えていますが、隣の芝は赤く見えるもので、アメリカ国内のエリート大学を出てもプレドクが必須になっているような経済学に比べれば、まだ入るまでに3年、みたいな状況ではありませんが、そういう状況に近づきつつある気がします。