October 16, 2025

ドキュメンタリーとジャーナリズムのあいだ—そして正義と信頼の問題

日本では「話題作」になる機会すらも与えられていないBlack Box Diaries、今回はハーバードのイベントで上映会があり、伊藤詩織さんにも来ていただき、非常に丁寧に、オーディエンスからの質問にも答えてもらいました。

映画については報道で見聞きしている以上の知識は持たずにみましたが、第一の感想としては、この映画が(映像・音声使用許諾のハードルを乗り越えたうえで)日本でも広く公開されることが望まれると思いました。この作品ができた背景には、事件当時の法律が被害者を救えず、世論に訴えるしか選択肢がなかったことがあります。そうした経緯で制作された作品を見る機会を、法制度の影響化にある人たちが持てていないという現状は、望ましいとは言えません。私自身、被害者に寄り添えない警察、政治の問題、世間の不理解、支えてくれる人の温かさ、そして何より伊藤さん自身の正直な気持ち、それらが何度も映像を通じて入ってきて、深く考えさせられました。

もちろん、この作品の日本での上映が難しい原因には、報道されているような映像の無許可使用の問題があります。伊藤さん本人も、質疑応答で最初に釈明されていましたが、部分的な加工はしても映像や音声自体はそのままで作品として残っている以上は、このままでは今後も日本での公開は難しいかもしれません。

質疑応答を聞きながら、ジャーナリズムとドキュメンタリーの違いについて考えさせられました。どちらも「真実」を追求する姿勢は共通していると思います。今回の作品のように、多くのドキュメンタリーがジャーナリストによって制作されてもいます。それでは、ドキュメンタリーはジャーナリズムなのでしょうか?

質疑応答も踏まえると、私は、ジャーナリズムとは(理想としては)両論併記、つまり事実に対する複数のパースペクティブの提示という要素が重要になると思います。一方で、ドキュメンタリーというのは、必ずしも両論併記である必要はなく、映像作品として制作者の「視点」が重要になるのではないかと思います。映像使用の問題を訴えられていた弁護士の方の記者会見では、事実に対する特定の解釈が優先されるような構成の仕方に(も)疑問を呈されたのではないかと理解しました。

私はまだ答えを持っていないのですが、この作品を通じて「何が事実か」以上に、「事実はどのように語られるべきか」を巡って、様々な解釈がありうるということを学びました。

もう一つ考えさせられたのは、正義と信頼の問題です。私は、このドキュメンタリーは「正義」の映画だと思いました。冒頭の公開が望まれると言ったのも、日本社会が野放しにしてきた不正義の問題が、映像というパワフルな媒体を通じて、広く知られるべきだろうと考えるからです。

一方で、この作品における「正義」は、ある意味で「信頼」を犠牲にすることで成り立っている側面もあります。映像利用の問題もそうですし、無許可の録音の問題もそうです。長年信頼関係にあった人が無許可で録音をしていたことがわかり、それが公開されてしまうというのは、8年以上にも渡ってともに正義を実現しようとしてきた人には悲しい事実だったのだろうと思います。本来であれば信頼に成り立ったうえでの正義の実現は可能なはずですが、この作品が制作される過程で、本来両立できる二つが対立する関係になってしまったのは残念なことです。

というわけで、この作品は、色々と思索をめぐらされる、複雑な作品でした。なかなか一口にまとめることはできませんが、多くの人に届いてほしいと思います。

No comments:

Post a Comment