最近、週一の頻度でクライミングに行っています(クライミングとボルダリングは異なります)。
こういう風に言うと、クライミングに「ハマっている」ように解釈されることがあるのですが、特に情熱を持って取り組んでいるわけではなく、友人に誘われて行ってみたら割合楽しくて、肩甲骨の可動域が広がり肩こりがとれ、フィジカル的にそんなにハードではないので自分にもできると思ったからです。本当の楽しみは、毎回クライミングが終わったあとに友人たちと行くインド料理のランチスペシャルだったりします(すごく美味しいし安いので、ケンブリッジ近辺に来られたときには案内します)。
要するに、私にとってクライミングとは、流れに身を任せていたらなんとなく続けていたくらいの趣味にもならない習慣なのですが、この話は仕事に対しても通じて、とかく「好き」とか「夢」とか「理由」を求めなくてもいいわけです(と、私は思います)。
最近、職探しをしていると、カバーレターで毎回「なぜ私じゃないといけないのか」に類するファンシーな言葉を紡いで、雇用主と私は運命の糸でつながっているように書くわけですが、正直に言えば「代わりはいくらでもいるだろうけど、強いて言えば私を雇ってくれるとこういういいことがあるんじゃない?」くらいのレベルで均衡が取られるべきなのは両者とも薄々気づいているわけです。それなのに、自分がいかに特別なのか、雇用者にとって自分じゃいけないのはなぜかを書く時間は、演技であることはわかっていても若干徒労感を覚えます。ただ、これはコミットメントという名の演技であると思えている限りにおいては、お祈り状が届いても(あるいは届かなくても)喪失感はないわけです。本当に運命だと思っていたのにそれが叶わないときのほうが、だめだったのかと、喪失感は大きくなりますから。
研究についても、流れに身を任せた結果として取り組んでいるものがちらほらあります。あまりにあちらこっちらと研究テーマに一貫性がない人は業界からあまり評価されません。言い換えると、研究者の世界では、テーマに一貫性が求められ、その背後には「その研究に情熱を持って取り組んでいるはずだ」「他のテーマではなくこのテーマを選んだのには理由があるはずだ」そういう信念が見え隠れします。
もちろん、自分が運命だと思った研究テーマに出会って、それに情熱をもって突き進んでいる人を見るのは美しいです。でもそれを、すべての人に、すべての研究に求めるのは、少し違うと思います。
私は自分が情熱を持って取り組めるかも、研究テーマを選ぶときには(もちろん)重視していますが、相対的な度合いはケースバイケースです。もう一つの軸には、日本のデータをきちんと社会学や人口学の土俵に乗せて議論したいというモチベーションがあるので、両者を比較して、私がやるべき、コミットする必要があると思ったプロジェクトを選んでいます。もちろん、「情熱」理論を懐疑的に見ていても、社会の流れには逆らえず、優先順位としては「情熱」を持っていると自分が思っているプロジェクトに時間をかけますが。
こうした非情熱ロジックは、言い換えると「ご縁」という考えにつながると思います。この言葉は、進学校の高校生にインタビューしていた時、生徒さんが最終的にどの大学に行くかを考えている中でよく使われる言葉でした。日本の国公立大学入試は実質的に一校しか出願できないので、国公立第一志望の人は、第二志望以下の私立に乖離がみられることが珍しくありません。そうした場合、第二志望以下の大学に行くことは理想的ではないと考える人は多いわけですが、そうしたときに「合格通知をもらった大学に行くのも何かのこ゚縁なので」と語る生徒さんがいました。この「こ゚縁」志向の正体はわからずじまいですが、圧倒的に女性の方が「こ゚縁」という言葉を使います。男性のほうが、大学進学を目的と考えている人が多いからでしょうか。
私自身、大学入試のときは絶対東大に行きたいと思っていましたし、大学院入試のときは絶対ウィスコンシンに行きたいと思っていました。その時の自分には「こ゚縁があったところに世話になる」という考えはほんの少しもなかった気がします。この「絶対〜〜を手に入れたい」という考えは、年を取ると現実的ではないことに気付かされます。競争のあとには競争が待っているので、どこかで「ご縁」志向を導入しないと、何も得られないからです。
「ご縁」志向をもう少し言い換えると、世界には自分の力ではどうにもならないことがある、ある種の不可抗力を認めることだと思います(これを職探しでは「フィット」といったりします)。人間は自分で決められることを過大に見積もる傾向がある気がしますが、実際には、人生で出会う出来事の大半は、不可抗力によるもの、あるいは最初の話で言う「流れに身を任せる」結果として生じているような気がします。
私が研究プロジェクトを選ぶときに「それも何かのこ゚縁なので」と考える場合は、時と条件を踏まえて、私がやるのが適任だと思ったときです。それもある種の不可抗力の中で支えられています。もちろん、手を抜くことはしませんし、限られた時間と資源の中でベストを出せるようにはします。ただ、そこに情熱や理由が相対的に少ない(ようにみえる)ことに懐疑の目を向けられることは、残念ですが存在します。
もうそんなこんなで、常に情熱や理由を求められるところで仕事をしていると、週末に特に情熱も理由もなくできる趣味は、実は最高の贅沢なんじゃないかと思っているこの頃です。
書きながら気づきましたが「こ゚縁」に理由を求めるのも、「自分にはこれじゃなきゃだけ」と考えるのも、両方ある種の運命史観ですね。だんだん、違いがわからなくなってきました。