January 6, 2025

socialization as a colonizing process

 セミナートークで偶然香港に居合わせたところ、ホストの先生に声をかけられて某学会の国際化ワークショップに出席。いわゆる「国際」学会での経験をシェアするもので、最初は学会報告までの準備といった話からスタートしたのですが、どうしてか途中から学会発表云々の話を飛び越えて、なぜ権力関係を孕む共著ばかり書いているのかと問いただされる、スパイシーな経験をしました。

という話は置いておくとして、こういった「国際化」系イベント学会で念頭に置かれるのは、アメリカに基盤を置く学会と、各国のnational associationを束ねるような「世界」学会の二種類があるように思います。

私は個人的に学会はそれぞれ固有の楽しみ方があると思っています。それぞれの学会で、得られるものが微妙に違うので、そのあたりを意識しながら、参加する学会を選ぶことも大切なのではないかと考えています。もちろん、学会の雰囲気は行ってみないとわからないので、最初は味見気分で参加して、合う合わないを考えます。

そして、どうして楽しみ方に多様性が出るか考えると、各学会に固有の文化や規範があるからだと思うのです。例えばASAはセクション活動が盛んなので、ASAという傘の中に小さなミニ学会がたくさんあるイメージです。それぞれのセクションに文化があり、各参加者が複数のセクションに所属し、ネットワーキングをしながら、ASAという巨大な生態系を構成しています。これに対してセクション文化がないPAAには、ASAのような「ムラ社会」感はなく、よくも悪くもさっぱりしていてビジネスライクです。ムラで集まって会合をする時間の代わりに、クオリティの高い発表が並びます。

これに対して、私はいわゆる本物の国際学会、つまり「世界」系学会は、文化が薄いと思います。ISAの定期的な大会も、毎年開かれるものでもないので、参加者もレギュラーの人はどうしても少なくなり、様々なRCの寄せ集めみたいになりがちです。

「濃い」文化を持つ学会のほうが、合わないものも多いですが、合う学会に出会えることも多いです。これは言い換えると、自分にとってフィットの良い学会が、万人に好かれるわけではないということを意味していると思います。

そういう目線で、こういった国際化系イベントを見ると、結局言えるのは薄味の「国際学会出てみましょう」といった話になりがちです。それは極めて表層的なわけです。そして、その結果としてISAの年次イベントに行ったとしても、薄い文化の学会から得られるのは薄い経験になりがちだと思います。

であればもちろん、こういったイベントでも濃い文化の学会が持つ文化や規範について話してもいいわけです。そういったローカルルールを知っておくと、アブストだったりも通しやすくなるかもしれません。しかし、それは固有の話になりすぎるきらいがあるのと、中身について踏み込んでいくと、どうしても人間臭い話になり、それは時として植民地的でもあるわけです。

例えば、ASAについての「実情」を話すと、どうしてもアメリカ中心的な学会運営に触れざるを得なくなります。それを棚上げにして「ASAで口頭報告を通すにはどうすればいいか」という話をしても、薄口にならざるを得ません。ですが、実情を話すとアメリカ社会学会=国際学会というぼんやりとした想定が妄想であることに気づかざるを得ないわけです。

実際のところ、各国のXX社会学会は多かれ少なかれ自国を中心においた社会学が展開されていると思いますが、そういった点についてdebunking mythをしていくと、結局のところ何が「国際学会」なのか、そんなものは一体あるのかという問題にならざるを得ません。もちろん、ISAは「国際」学会ではありますが、ISAには学会をユニークにするような文化が弱いのです。

アメリカ社会学会のノルムを話しすぎると、相手をcolonizationの渦の中に取り込むことになってしまい、ノルムに全く触れないと表層的な「国際学会に行ってみよう」トークになり、中身がなくなると同時に、ある種の嘘を言ってしまうことになります。ASAは極端ですが、ASAと同種の問題はPAAにも当てはまります。そもそも、毎年アメリカとカナダでしか開かれない学会が国際学会であるわけがないのです。

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